2020年4月23日木曜日

統治のぐらつきに社会の補正という民主主義


 「感染経路不明」が日々の感染者数の半数を超えて、もうずいぶんになる。不審死を調べたら「コロナウィルス感染」による死者だったことが、相次いでわかった。PCR検査を抑えて「発症数」を低減させているのではないか。
 もはやクラスター対策ではなく、社会全体に感染が広がっているとみて全数検査に踏み切るべきではないか。でも専門家会議も政府も、口先ばかりで具体的に「効果」が現れてこない。それでて、「外出自粛」「営業自粛」ばかり。
 結局自治体がそれぞれに判断し、限られた権限しかないから(自粛要請しかできない)と断ることによって、かえって住民の「自粛協力」を得ているという状況が、はっきりしてきた。これって、政府という統治者の、腰の定まらないぐらつきに、社会が「補正」を行っていると言えないか。
 地方自治体も、国家と社会という対比でいえば(仕組みとしては国家の側の期間なのだが)、結局のところ、社会の側に着きつつあると人びとの需要感覚が作用していると思われる。一概に言えないのは、地方自治体のスタンスによって、相変わらず「お上」として(何を根拠に、どう方向を定めて)「対策」をとっているのか(いないのか)わからないということも、だんだんはっきりしつつある。
 今朝のニュースで耳にしたのだが、ラクテンが「抗体検査」のキットを市販提供できるようになったという。また、ニューヨークでは「抗体検査」をすれば、外出して感染しても大丈夫かどうかがわかるということから、「抗体検査」を受けようと人が殺到しているとも報道があった。イギリスでは「ウィルス感染の抗体検査証」を発行して、外出していい人とそうでない人の「免許証」を発行しようという話があるというニュースもあった。これらの動きも、状況とすすむ方向とがわからないことに不安を感じている人々が、企業や医師会などの提供する「機会」を使って統治者の「いい加減さ/あいまいさ」を勝手に「補正」している姿である。

 
 ここには二つの方向への分岐が現れる。
(1)統治者が万全の施策を取れるとは思っていないから、自律的に行動するが、社会の一体性は保っている。
(2)統治者を頼りにする(しかない)から、強い抗議行動に出る。これも社会の一体性を(いまは)保っているが、統治者が動きをみせないときは一体性を破壊する方向へ向かい始める。

 (1)が示しているのは、統治は統治者の権力だけによって保持されているわけではないという事実だ。政府の施策も社会の「補正」と一体になって「共同性」が保持されている。そこに強権力が剥き出しで現れないのは、民主主義社会だからなのだ。ごく簡略化して言うと、エリートはいない。「くに」の施策は、政府も地方自治体も社会も、それぞれの動きがつくるいろいろなモメントが作用し、齟齬し相乗して、総じて「共同的な」まとまりをつくっている。その「まとまり」のベースとなっている一体感が何に拠るのかによって、その臨界点が表面化してきたりする。
 (2)は、統治者を信頼しているわけではない。一人一人の人々はひょっとすると、世界は混沌で、信頼できるのは「一族」だけとか、「仲間」だけ。でも、国家あるいは、「くに」は階級的なシステムという器の中にいて、頼りにできるのはとりあえず「政府」しかない。統治者である「エリート」が庶民の声を聞き届けるかどうかは、自分たちの抗議行動によると考えるひとたちが、「階級的な抗議行動」に出る。その臨界点が浮かび上がるところに(2)の後半部分が位置する。
 ヨーロッパの、ことにフランスの抗議行動が激しく燃えあがるのは、階級的システムを色濃く残してきた民主主義社会の「臨界点」に近づいてきているのかもしれない。いうまでもなくそこに、かつての植民地との関係で移り住んできたアフリカ系の人々が多数いることが関係してもいる。
 
 他方、韓国などは中国やロシア(あるいは北朝鮮)や日本という外敵との相関で、国内政治の施策が左右されてきた。つまり何を考えているかわからない「外敵」の意図を読み、それと対立したり手を組んだりして「くに」の施策を立案する「党派的対立」が常態になって来たから、どちらの党派に所属するかが「くに」の命運を左右する決定的なこととなる。だからたぶん、国内的な枠組みで考えるときと、対外的な関係を考えるときとで、ダブルスタンダードになる。国内的に考えるときには、「外敵」に脅かされてきた「くに」のありようが、一体感のベースをなす。
 だが、対外的な関係を組み込んで考えるときには、「党派的対立」のどちらに付くか、(それは)どの「外敵」につながっているか、そしてどの「外敵」に付くかが、最優先の事項となる。ときにそれは、権力の座から滑り落ちた主導的「党派」を犯罪者として弾劾することになる。たぶんそれは、(どちらかの党派や外敵に味方したという自律性を欠いた)人々の内面の浄化作用として、つまり自らを罰するように厳しく行われる。
 
 中国は、民主主義国ではないが、(2)の仕組みに頼るほかないほど、強権的な独裁政治によって統治されている。「くに」の命運を左右する最高権力は共産党政府と国家企業体の活動なのだが、自分たちの係累である「幇」と幾多の幇のかかわりによって構成される市場社会こそ、一体感のベース。共産党政府・企業が、自分たちの暮らしをそれなりに保っている間は身を寄せるが、そうでなければすぐにでも離脱する。その程度の「一体感」だから、共産党政府はますます、市場経済の活況による生活レベルの向上という幻想と強権力の発動による統治を押し付けるほかない。中国の人々は、ひょっとすると、「わが国は(人々が)ばらばらだから、強い権力が発動される以外にまとまることがない」と思いはじめているのかもしれない。そもそも、あれだけの大きく多様な人口と領土の所帯をひとつの「国民国家」としてまとめるのが無理なのだと考えたら、香港も台湾も、ウィグルもチベットも、とどのつまり漢民族も、もっと楽になるかもしれないが、それは共産党独裁を否定することにつながることになるから、現在の統治者は絶対に認めないであろう。
 
 日本は、いまさら言うまでもなく、(1)にある。ただ、現在統治してる政府がそうであることを自覚してくれれば、俄然、統治権力の分散とか、徴税制度の改編なども、政府の施策も地方自治体の権限も、民間の参入も、もっと自在になるであろうが、中央政府の「エリート」たちが、まるで中国政府のような(統治は国家権力によっておこなわれるべきだという)古い発想しか持てないでいる。
 まことに残念というしかない。だが、新型コロナウィルス禍によって政府と地方自治体と民間企業と人々の振る舞いとが、総合的に「くに」の保持に関わっていることが浮かび上がり、それぞれの団体がそれぞれに力を発揮するしかないと、明らかになりつつある。島国という地勢的な自然国境がベースになった「くに」の観念が、ヨーロッパや東アジアの国々のナショナリティと違った「利点」となっている。
 急ぐことはない。その(わが身の立つ)地平を承知したうえで、グローバルな交通関係とローカルな「暮らし」の関係を、まずは後者の方から自律的に考えていこうではありませんか。

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