2020年4月8日水曜日

「緊急事態宣言」にどう適応するか


 政府が「緊急事態宣言」をしたが、これまでの「外出自粛要請」とどう違うのか、いまひとつわからない。関係各都府県の首長に「規制」に乗り出す法的根拠を与えたというのは、わかる。だがその「規制」の中身が「あいまい」なままだから、各地方自治体の首長が発出する「規制」あるいは「要請」をみなければ、なにがどう、私たちの振る舞いに関わって来るか、判断できない。

 
 だがまずなによりも、「緊急事態宣言」が発出される根拠である「感染爆発」が近いという状況は、なんとなく私も感じている。となると、お上から出される「規制」「要請」がどのようなものかは別として、この事態に「わたし」としてはどう振る舞うべきかは(法的な次元は別として)明示できる。
 これまで私は、自分が感染しないようにするには、どう振る舞ったらいいかを行動基準としてきた。だが、「感染経路不明」が多発し、つまり私が出会う人たちが「感染しているかもしれない」と想定して振る舞うとなると、どうするか。密閉・密着・密接の「三蜜」を避けるのはもちろんのこと、公共交通機関を使わない。買い物やご近所の方とのご挨拶の折も、「感染」に気を配る。出入りに際して消毒をする、帰宅したら手を洗うなどを行っていて気づいたのだが、これは、自分が「感染源」だとしたらどう振る舞うかということではないか。
 もし自分が感染源だとして、他人にうつさないためにどうしたらいいかと考えると、外からどのような規制が出されるかどうかにかかわりなく、自己判断ができ、振る舞い方を自分で決めることができる。これまではそう考えてきた。
 
 だが今日からは、その私の振る舞いに、「外部からの規制」「要請」が加わる。法的権限を背景にした「規制」「要請」が、「私の振る舞い」とぶつかるところって、なんだ。これはパノプティコンだなあと思ったところで、一つの記事を目にした。
 一昨日(4/6)の朝日新聞「文化欄」に「なお待たれるフーコー」の企画記事があった。これはフーコーの『性の歴史Ⅳ 肉の告白』がフランスで一昨年刊行され、その日本語訳が今年中に刊行されることになったことを紹介する意図の企画なのであろうが、今一つトピカルな時代批判として取り上げる趣旨が鮮明でない。悪くいうと、フーコーのファンが、待望の遺稿が死後30年ぶりに出来することに胸躍らせているという感触なのだ。パノプティコンも、生-政治も、内在的権力性も、どれをとっても文字通り現代の批判の起点を画するものと思えるのに、そのことにはじかに触れない。つまり、アカデミックな距離をきちんととっている。
 この、フーコーあるいは(この企画を書いた)編集委員・村山正司のフーコー理解と私の感懐が、違うところだ。
 フーコーは「知の考古学」で、「顔をもたぬために書いている。私が誰であったかと訊ねないでくれ」と記しているそうだが、彼は(自分の個体的な感性や感覚、状況から起ちあがりながら)普遍的な人間と社会と(つまり世界)について語ろうとしていることを志していたと思われる。つまり、個々の具体的な事例について云々しているのではなく、時代や状況を超えて、通有する人間と社会(世界)の受け止め方を解明しているという、遠望を忘れまいとしている。それを私は、彼の(世界的な知の中心・フランスという時代的な背景を背負った)矜持であるとともに、忘れまいとしなければ、ついついわが身に引き付けていま置かれている状況に引きずり込まれてしまいかねない「わたし」を感じていたからであろうと推察している。
 そう考えてみて、私はフーコーの「(おそれていた)わたし」にとどまって、普遍的な人間の具体的事例資料として自分を提出したい。そうわが身を見切っている。普遍性を、直に志すほど、知の堆積土壌がない。そういう世界にコミットできる場をもたない。むしろ自分の立ち位置を見切ることによって、辛うじて、自分の言説を紡ぐ土台が設定できていると感じるからである。フーコーとは違った意味で、「かおをもたない」市井の老人である。
 
 さて話がそれた。元に戻そう。首長から提出される「規制」「要請」が「私の判断する振る舞い」とどうズレるか。これがわからない。
 もともと日本には、権力的な「規制」を「要請」として受け止めさせようとする社会的文脈がある。お上の強制することも、下々が受け入れたく思っていることとしてしまう風土がある。その風土に見合った合議システムもかつてはあったわけだが、いまはその残滓の気分だけが「忖度」とか「配慮」と呼んで、残されている。お上が「要請」すれば受け容れるのが当たり前という風潮も、逆にだからこそ、お上が根拠(を明示すること)なく「要請」すれば、反撥して逸脱してしまうというのも、同じ次元の様相である。そうした「あいまいさ」が、なんとなく法的な根拠を与えられた権力によって「規制」「要請」が発動されると、全権を与えられたように働いてしまうのではないか。
 
 たとえば「外出禁止」についても、出歩いていて警察官に「なぜ出歩いているのか」と職務質問を受けたりすると、メンドウではないか。車で山へ行こうと出かけた折に、「何処へ、なぜ、それは不要不急か」などと聞かれるのは、業腹ではないか。にもかかわらず、政府と東京都の「理解」が違っていて、休業したりしなかったりすると、「なぜあの店は開いているのか」と社会的非難にもつながりかねない。つまり内面化した権力性が、自分以外の外へ向かって発動されるのは、社会的なリンチに近い様相を呈する。そのようなメンドウくささをもった社会に暮らしていることを参入して、私たちは「適応」しなくてはならない。
 ここでも、もっとちゃんぽらんな世の中であった方がいいなあと、昔日のことを想い起して、年寄りは慨嘆するほかないのであろうか。それとも、「要請なんでしょ。ダメならダメと規制してよ」と言い放つか。「じゃあ、規制しましょう」っていうのは、もっとごめんだしなあと、思案しているのであります。

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