2020年4月12日日曜日
ちゃらんぽらんに耐える「能力」
今日(4/12)の朝日新聞の文化文芸欄に帚木蓬制生(精神科医・作家)の言葉が紹介されている。「結論急がず 悩みに耐える」と主見出しにあり、袖に《「ネガティヴ・ケイパビリティ」のススメ》と振っている。
(1)能力(ケイパビリティ)は役立つ才覚や才能を指すが、結論を急がず持ち応える力(ネガティブ・ケイパビリティ)も大切。
(2)人はわかりたいという癖をもつ。わからないことに耐え、悩むことが知性。
(3)周りは、直観で早急な結論を求めず、宙ぶらりんを非難せず、寛容に。
として、「正解のない人生を生き抜く力がネガティブ・ケイパビリティ」と語っている。
「わかりたい」というのは、「わからない/わかっていない」ことを感知しているから。「わかる」というのは「わからないことがなくなる」ことだから、「わかりたい」という欲求は消滅したかたち。とすると、「わかる」ことを能力とみるのに対して、「わかりたい」という持続する探究心をネガティブ・ケイパビリティと呼んでいるのか。でも「わかる」ことがすなわち次の次元の「わからない」に代わると考えると、「わかる」こと自体が「QED(証明終わり)」ではなく、別の次元の「わからない」を拓く性質をもつものでないといけないのではないか。
帚木は人が手早く結論に飛びつく動機として「誰もが意見を表明しなければいけないという強迫観念に駆られているから『わからないこと』がゆるされなくなった」とみている。そしてさらに社会的共感に身を置くために、「自分の意見が正しいと思いたい」ことをあげている。それは「世の中全体で走っている要請」だとしている。だがそれは「適応能力」ではあるが、「知的能力」とは違うのじゃないか。この適応能力と知的能力のズレが、「わかる」と「わかりたい」の間にある決定的な差異だと思う。
適応能力というのは、環境のもたらす事態に身を合わせること。とすると、環境の(パラダイムが)要請していることを察知する才覚のことであって、「わかりたい」という衝動が介在していない。「わかりたい」というのは(自分はわかっていない)ことをベースに立ちあがる外部事象との「かんけい認識への衝動」である。つまりその立ち上がりの過程には、自己省察が(感覚的であれ)挟みこまれている。それがあればこそ、「わかる」と同時に起ちあがる地平から「わからない」ことが見えてくる。その自己省察をくり返して「せかい」の輪郭を描き出す作業を「知的能力」と呼んでいるのではないだろうか。
ところが適応能力は、文字通り「処理や解決」の「才能や才覚」だ。つねに外部の環境に身を合わせはするが、その結果生じている自己の変容には気づく契機をもたない。自己の輪郭をとらえる視線が内包されていない。それをもたないと、ついに「せかい」は外部に屹立しわが身に適応を迫るばかり。ヒトは「処理や解決」をする「才能や才覚」だけを「人間的諸力」として際立たせて推奨し、「人間」を変えていってしまう。
19世紀のイギリスの詩人キーツが提唱したらしい「ネガティブ・ケイパビリティ」は、じつは、近代化が猛烈な勢いで推進されていた時代に必要とされた「人間諸力=能力」に対するアンチ・テーゼであったのであろう。だがそれから1世紀以上も経って、いま再びそれがとりあげられるというのには、「生半可な知識や意味づけを用いて、未解決な問題に拙速に帳尻を合わせない。中(・)ぶらりんの状態を持ち応える力」などとキーツさんの言葉を繰り返すのではなく、もうひとつ介在する(自己省察という)哲学的な現代的意味をつけ加えなければならないのではないか。
「結論急がず 悩みに耐える」というだけでは、「遅れたっていいじゃないか 人間だもの」と色紙に書いておく程度の「警句」にしかならない。これじゃあ、「価値観の似た者同士が交流し、共感することで特定の意見や思想が増幅されるエコーチェンバーという現象も起こる」(上記「2」の人の癖を説明する帚木のことば)のとまるで変わらない。
「知的な力」というのが、今の時代すでに力をもたないことは、トランプさんの例を挙げるまでもなく日本の政治においても例示事象はたくさん見かける。だからこそ、これまで使ってきた「知的な力」というのが、厳密にいうとどういうもので、社会的に通用している「知的能力」とどうずれが生じているのかを見極めて論じなければならないと思う。精神科医というだけでなく作家の看板を掲げるのであれば、教養を披歴するだけでなく実存に裏づけられたことばを提供しなくちゃならないんじゃないか。むろん、取材し、記事にした記者への注文でもある。
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