2020年4月14日火曜日

自分の実感だけでは「世界」はみえない


 昨日のこの欄の「どこが不条理なのか?」について、身の裡からこんな声が聞こえてきた。「腑に落ちる/落ちない」というのは、自分のみている「せかい」をみている。自分の(感じる)合理性というのを自分が見ている「せかい」にだけ当てはめてみれば、「せかい」は不条理には見えない。昨日の記述でいえば、橋下徹がいう「強制力の発動」は「通底している共感性」をベースにしていると(私は)みているが、その共感性が通底していない人たちもいることが、「近代市民社会」の出立点。つまり、昨日の感懐は、仲間内だけの倫理性を土台にしてるから「不条理はどこに?」という結論に至る、と。
 橋下徹は近代市民社会を前提にしているから、感染爆発を防ごうとするなら強制力の発動をするしかないと考えている。彼が指摘するモンダイのベースは、むろん統治者目線であるが、政府として何をなすべきかを考えている。それに対しておまえさんは、政府に期待していないという。だから政府もまた、おまえさんと同じで「国民はそれぞれに自分の身を守っていきなさいよ。政府は補償はしませんから、自己責任で」といっているわけだ。つまり、いかにもおまえさんの政府らしいではないか。それでいいのか? それは不条理ではないのか?
 
 
 おまえさんの論理でいうと、誰かTVのキャスターがいっていたが、「税金て、国民のお金でしょ。こういうときに使わなくって、何のための税金よ」というのと違って、(税金て国家が盗るものでしょ、奴らが勝手に使っても、それが何か私たちのためになるとは期待しない)といっているようなものじゃないのかね。
 アベさんも、税金を払った人たちのために使うものであって、「緊急事態」に備えて蓄えて置くってのが、昔からの「美しい日本の智恵」じゃないのかね。自己責任だよキミっ、ていうと思うよ。
 いまのご時世、アベさんのようなのは、政府の役割としても不条理だよって言っていいんじゃないか。
 
 そういえば、「東洋経済online2020/04/08号」で真鍋厚って人が、「緊急事態なのに通勤させられる人々が抱く危難 「生物的な限界」を織り込まない社会の弱点」って書いていた。趣旨は、政府の「緊急事態宣言」にともなう措置は、法人はウィルスに感染しないから通勤電車などは規制しないってセンスで、「生物的な限界」を織り込んでいない。これはまるで、第二次大戦中に軍部がとった「兵站補給なし作戦」と同じ。戦地に赴く兵たちの命になんの配慮もしていない。だがヨーロッパの人たちの国家観はすっかり変わって、フーコーがいう「生-政治」、つまり国民の暮らしが成り立つように思索をするのが政府の役割というふうに、変わってきている。日本は戦後75年を経て、しかもその途次にジャパン・アズ・ナンバーワンといわれるような時代を味わってきたのに、相変わらず、昔のまんまというわけかね。それって、不条理じゃないのかね。
 
 う~ん。でもねえ。TVのコメンテータのやりとりを聞いていても、休業補償はできないだの、すると際限がないだの、ちまちまとした話ばかり。そうだ。今日(4/14)多和田葉子が「ベルリン通信」(朝日新聞文化文芸欄)という記事を書いていて、ドイツのメルケルの対応を紹介しているんだね。

 「国の予算が赤字になるのは承知の上で補助金を出すと発表した。……零細企業は雇用者に支払う給料の一部と家賃を肩代わりしてもらえる。フリーの俳優、演奏家、朗読会の謝礼を主な収入源にしている作家などは、蓄えがなくて生活が苦しくなった場合は新s寧すればすぐに9000ユーロの補助金がもらえる、と書かれた田上が組合から来た。わたし自身は補助金をもらう気はないが、文化が大切にされていることを実感するだけで気持ちが明るくなった」
 
 そうなんだよ。安倍さんのリップサービスなんかじゃないんだよ。こういう具体的な「元気づける姿勢」をとっているのが指導者だと思えば、私たちは元気になれる。不安に耐えて我慢もできる。それがなんだ。国民はマスクがあれば安心するっていうのは、バカにしてんじゃないか。そういう指導者の見当違いが、よけい私たちを腐らせてしまう。ま、とはいえ、そのおかげで私の内側には政府を頼りにしない自立心が滾って来るけどね。「せかい」がみえないんじゃあ、これも困ったもんだね。

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