2020年4月10日金曜日
末弟の七回忌
末弟のJがなくなって昨日(4/9)で6年、七回忌ということになります。今年は、やはり同じ年に亡くなった母と長兄の七回忌を一緒にやろうということになっていますから、特に何かをするわけではありませんが、ときの経つのは早いものだと、改めて感じています。
Jも、まさか6年経って、世の中にこんなこと(新型コロナ禍)が起こっているとは思いもしなかったでしょうね。「外出禁止」ともなると、神田猿楽町の事務所に閉じこもって、家にも帰らず仕事一筋に邁進しているかもしれません。あるいは、彼お得意のアウトドアの時節が来たと、テントを担いで四万十川にでも出かけているでしょうか。学校が閉鎖されて行き場のなくなった子どもたちが感染を心配することなく過ごせる場を設けようと画策しているかもしれません。たいへんに困難な状況に陥っても、いつでも前向きであったJの気分が、甦って来るようです。
気になるのは、私の中のJはすでに彼岸の人になってしまっていることです。彼の持っていた(かもしれない)事業に対する無念の思い(執着)などは、今は(私の胸中に)甦ることがありません。モノゴトに対する彼の前向きのスタンス、父権主義的な(親分肌の)周囲に対する気遣い、外に対したときの、身内に対する端境のない頼る態度も、どこか「甘え」のようにも感じられ、(末っ子なんだから)と受け容れるような趣になっています。Jの実存から匂いや棘が取り払われて、すっかり人柄の良さばかりが印象深く心裡に残されているような佇まいになっているのです。
そうか、仏になったのか。彼岸の人になったというだけでなく、善き人の姿を取って遍くわが胸中に存在するようになり、いまだ混沌のなかに右往左往するわが身を黙って見つめる。そういう視線を、彼岸から送ってきているのかもしれない。黙っているのは、ただ単に言葉が発せられないからではなく、(あなたをみていますよ)(でもあなたはあなたお好きなように、どうぞ)と、ともにいる存在感を湛えているだけなのです。でもそれって、例えばお四国さん巡りをするお遍路さんの「同行二人」と同じ、いつでも空海さんが一緒してますからというような気配ですね。いや、生きている人に対してだって、そのように振る舞えたら一番いいのではないかと、まだ此岸にいる私も、ときどきはそう思っているところです。
歳をとって、人に対して何ごとかを言ったりする立場がなくなっていますから、緩やかにわが身の裡の外へ向けた干渉も希薄になっていますが、これって、ひょっとすると緩やかに「仏」になりつつあるってことでしょうか。もしそうなら、此岸と彼岸はきっちりと分かたれているわけではなく、境界部分は濃い霧がかかっているように見極めがつきませんが、案外(次元の違う)向こうに広がる天地なのかもしれないと、思ったりします。
まだ存命の私の兄弟に対しても、つづけてこう呼びかけて締めくくりました。
7月には(ほかの仏様ともども)お会いできると思いますが、「兄弟平均寿命達成」には、まだ早くて七年ほど、遅ければ14年ほどもあります。御身大切に、コロナ禍に負けずにお過ごしください。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿