2020年4月2日木曜日
新型コロナ世界のもたらす「新しい中世」
新型コロナが広がって世界は委縮している。この事態が長引けば、経済成長率とか事業収入なんてことなど論外。まずは暮らしに必要なものが手に入るかどうかと心配しなければならなくなった。
そうなってみて考えてみると、私たちの今の暮らしがいかに浮足立っているかが、よくわかる。フリーのミュージシャンやアーティスト、エンターテイナーが困っていると聞くと、つい「アリとキリギリス」の話を思い出してしまう。藝術や文化というのは、暮らしの基本にとっては余剰。つまり現代先進国の都会生活をしている私たちは、それ自体が「キリギリス」なのだ。
だが芸術とか文化だけではない。レストランもパブも公共交通機関も、分業的に依存してきた「暮らし」の分野も、干上がりそうだ。それに依存してきた人たちが身を守るために、自前で調理をして衣食住を満たさねばならない。そうなってみると、グローバリズムなんて何処へ行ったかってもんだ。図体が大きくなりすぎたためにほろびたといわれる恐竜のことを思い出す。現代世界はまさに、その恐竜である。
脳科学者や心理学者が、私たちの関われるのは150人といっていたのが実感できるほど、具体的な「せかい」が立ち現れる。近代的自立というのが、じつは分業的社会関係の分厚い衣に包まれていて、そのつぎはぎの衣がはぎとられて、いま原初の「じりつ」がちらりと顔を出してきている。
そうか、敗戦直後の「タケノコ生活」が思い浮かぶ。箪笥から着物を取り出して田舎へ足を運んでいた都会の人びとの顔がかすめる。折りあ重なって暮らしの下層に押し隠されていた原初の層が、混沌の時代にひょいと顔を出したような瞬間だったのだろう。
そういえば国際政治学者の田中明彦が、ポスト近代のあとに「新しい中世」がやってくるといっていなかったか。あれはたしか、ネーションステートが中心的近代世界システムに代わって、主体が多元化し、もっと小さく多様な非国家的主体が活躍するという趣旨であった。ただ田中が想定していたのは、グローバリズム果てに近代的経済成長が成熟と停滞状況に至って、国家の求心力が弱まるという文脈であった。
新型コロナが導き出した目下の混沌は、国家の求心力が試されている最後の段階なのかもしれない。日本の場合についていえば、集約点を見失って空虚に傾きつつある。情報はメディアによって担われ、そこに登場する「専門家」が「専門家会議」の音頭取りを批判しつつ、私たち庶民の耳により近く届いている。また、国家よりも大阪とか東京という都道府県単位の首長の「指揮」が(権限はないが)頼りになる感触をもたらしている。
自ら身を守るとなると、自分が暮らしている地域の「感染の広がり」に関心が傾き、身近な地域の病院はどうなっているだろうと、気を配るのが優先される。つまりマスメディアでさえ、一般的に過ぎると感じられるようになる。
田中明彦が意図していた小さく多様な非国家的主体は、ローカルで細かく具体的な医療や感染情報や小売店舗の商品情報や小中高の開講見通しなど、卑近な事例を提供する小集団となる。全国一括の一般的な情報提供は、いわば卑近な事例の参照事項に過ぎなくなっている。その事実が、国家の求心力に代わる事態の変化を示す予兆かもしれない。
しかし、新型コロナがもたらしている「新しい中世」が指し示す最大の現状への批判は、ホモ・サピエンスの人口が過剰だということかもしれない。となると、人口減少社会日本の「将来像」は、まさにこのコロナウィルス禍を転機として、これまでの社会システムを根底から考え直すようにして描き出されなければならないのではないか。
そういうことを考えさせられている。
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