2020年4月21日火曜日
季節の移ろいの社会的距離感
「社会的距離(ソシアルディスタンス)」というのが何を意味しているか、よくわからない。「三蜜」を避ける(人との)適度な距離と思っていたから、「外出自粛」といっても、散歩は構わないと考えて、見沼田んぼを歩くようにしていた。だが報道をみると、海や野外で遊ぶ人たちを画面にとらえて、こんなに「外出している」と非難がましい。サーフィンをする人たちがいつもより集まってしまって密集になるというのなら、非難するのもよくわかる。だが、余所へ行って遊ぼうとする人たちを「三蜜」のように扱うのは、違うんじゃないか。それとも私の知らない「感染」の秘密があるのだろうか。
日曜日に見沼田んぼの東縁から西縁へと歩いてみた。お弁当をもって4時間くらいだが、いつもと違うルートをとって、植物観察をするカミサンと一緒だ。いろいろと植物の話を聞く。右から左へ抜けるけれども、懲りないで話してくれる。ヤエザクラが満開を過ぎてもまだ花をつけ、重く垂れ下がっている。オオシマザクラが花のあとに丸いサクランボの幼生が実をつけていて、ソメイヨシノとの違いを見せつけている。毎年見ているのに、これほどじっくりと身を見たことはなかった。
街路樹にもなっているハナミズキが、いよいよこれからという風情。この花はずいぶん早くから開花がはじまった。それなのに、まだこれからというのがなんともたくましい。白ばかりでなく紅いハナミズキの花もあって、ひと際異彩を放つ。ツツジが出番を待ちかねているようだ。
ほんの数日前に見かけたコムクドリはもう姿を見せていない。ツグミがせわしく飛び交い、これから旅立つ準備に取りかかって、集まり始めているのだろうか。ムクドリがペアリングを済ませていて、イヤに目につく。池のカモなども、もう旅立ってしまったのかもしれない。カンムリカイツブリの羽根の色がすっかり変わっている。ヒバリが宙に浮いて鳴きたてる。警戒しているのかメスを呼んでいるのか、わからない。ウグイスの書き声が低くなった。もう子育てに入ったのか。代わってキジが、あちらこちらからキーッツ、キーッツと叫び声をあげる。
氷川女体神社脇のかかし公園にはたくさんの人が出ている。むろん、群れてはいない。小さな子どもと遊ぶ親たち、自転車や二輪の板に乗って身をよじりながら走るボードが人気のようだ。バドミントンやボール遊びもはしゃいでいる。ジョギングに興じる姿は、大人も数では負けない。いかにもランナー風の人、たまさかの愉しみで走り出した人、連れと二人で話しながら追い越してゆく人。
その人たちの着ているものが、明らかに軽くなって、夏模様を呈している。
なんだか、ウィルス禍というよりも、休暇を愉しむ人々だなと思ったとき、ああそうだ、今日は日曜日だったと気づいた。
やはり平日なら、こうはいかないのかもしれない。平日もこうなると、たしかに高度消費社会の恩沢を受けているなあと実感できるのに、と皮肉な事態であることを想い起す。そうかこれは、季節の移ろいの社会的距離感なんだ。
これでウィルス禍さえなければ、「いい世の中になったねえ」と喜んでいられるのに、と思う。
いずれ日本も、ポルトガルのように昔日の栄光をすっかり忘れて、しかしのんびりと東の海の果てにあるジパングとして暮らしていけるといいなあ。 私たちの時代が異形であったのだ、と。
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