2020年4月1日水曜日

為政者のありうべきかたち


 新型コロナへの対応は何につけ、はじめてのことだから、政府の首脳もいろいろと知恵を絞らなければならないので、たいへんであろうと思う。だが、「わからない」ことへの対応をしなければならないのなら、「わからない」ということをさらけ出すことが大切なのではないか。
 今の首相は、2/27の「全国小中校一斉休校」を提起したとき、「政治的決断を私がした」ということを示したいがためにか、その「決断」の根拠を明らかにしようとしなかった。そればかりか後に、「専門家の意見を聞かなかった」ことを当然のように言明した。バカだなあと、私は受け止めた。

 
 情報化した大衆社会においては、誰もが「決断」を迫られる場面に立たされる。「自己実現」「自己責任」の時代である。一つひとつの分岐点において「個人的決断」を、YES/NOテストのように迫られている。ことにIT機器の前に立ったときには、それが出来なかったら機器はストップし、後に並ぶ人が「なにやってんだよ。早くしろよ」と文句をいう。だが為政者が「決断」をするときは、なぜそう決断するかの根拠を明治しながら、国民に対して向き合う必要があるのだ。モンダイは、何を根拠に、そのような決断をしたかを、ほかの人たちと共有することだ。自分が専門家の意見を聞かないで「決断」したことを誇るのなら、いつぞやの橋下徹大阪市長のように、「学者は一般論で云々するが、具体的な実態を知らない」と専門家への批判を口にして、自らの「根拠」を示すくらいのことはするべきである。
 
 いまの時代は、専門家の信頼すら揺らいでいる。庶民は、結局のところ、自分の聞きたいことしか聞こうとしないのだが、選民たる為政者は、己の振る舞いを通して国民に薫陶を垂れるようにしてはじめて、エリートたりえているのだ。それには、「決断」の根拠をかたちづくっている専門家の意見を聞き、それをどう読み解いて「決断」に至ったかがつねにさらされて問われていることを自覚しなくてはならない。今の宰相には、それが、まったくわかっていない。エリートたるリーダーは、「果敢に決断する」とか、「万難を排して決意する」とか、中身のないことを前提に振る舞って通用したのは、情報化社会になる以前、国を切り回すエリートたちはきっと私たちの知らない「情報」を手に入れているにちがいないと、信じられていた時代だ。
 今はほとんどのことがネットを通じて明らかになっている。庶民は、ありとある「情報」の何を、どう読み取り、(その為政者が)いかに判断しているかを知ることによって、「信頼」したり、バカにしたりしているのだ。そういう意味では、今の宰相は古い時代のエリート観念から一歩も出ていない。つまり自分の姿が見えていないのではないか。
 
 そうだから、批判的意見は、嫌いなのだ。よいしょしてくれるものしか傍に置きたくない。気に入らぬものは排除して、かつての超大国の大統領の如く、気に食わない情報はすべて「フェイク」呼ばわりする。そういう人が宰相の位置にいると、かつて最強のシンクタンクといわれたエリートも、腐ってくるしかない。小さな器を慮っていると、嘘を重ねてそれを正当化するために下僚をいじめ、それが明らかになってもテンとして恥じないヒトになってしまう。そういうエリートを大量に排出してきたから、いまさら「決意」だけのリップサービスだけであっても驚きはしないが、「国民」としての絆も紐帯もなくなっていることに気づく。かつてそこはかとなく抱懐していた「ふるさと」の温もりも、すっかり空っぽの抜殻になってしまった。
 
  去年の今日、「無明」と題して、以下のようなことを記している。日本のエリートは、ほんとうにもういなくなったのか。

《井筒俊彦の『意識の形而上学』(中公文庫、2001年。初出1993年)を読んでいて「無明」について次のように触れているところがあって、想い出すことがあった。
《一見、「真如」とは正反対の、いわゆる「無明(むみょう)」(=妄念)的事態も、存在論的には「真如」そのものにほかならないのだ。》
 もう5、6年前になる。私がコーディネートしているseminarで、(そのころ)僧侶の修業をしていた女の方、Kさんに講師を務めていただいた。義母がなくなり、その葬儀の折に触れた浄土真宗の僧侶の話を聞いて弟子入りし、仏教修業をはじめたというその方が講師となって、「私の仏道修行」というお題でお話ししてもらった。その席上のやりとりが般若心経にいいおよび、私が「わけのわからない混沌の世界」という意味合いで「無明」という言葉を遣ったら、「それは(意味合いが)違う」と返され、では、どういう意味合い? と訊ねたら、どういったものか言いよどんで、そのままになってしまったことがあった。仏教世界ではどういう使い方をしているのだろうと、ずうっと気になっていた。それに対する回答を井筒のことばに見つけたと思った。
 もしそのときKさんが、井筒のように「無明=妄念」と応えていたら、どこに足場を置いて「妄念」というのかと、やりとりはつづいたと、いま思う。妄念というのを正しくない思念とKさんが考えているようであったからだ。では、井筒は、どうみているか。
 《いわゆる「無明(むみょう)」(=妄念)的事態も、存在論的には「真如」そのものにほかならない》ということは、「無明=妄念」をも「真如」の一つとみている。般若心経に謂う「無明もなければ、無明が尽きることもない」。そう言えるのは井筒が、次の一節に謂う如く、「真如(一切の存在の普遍的な姿)」を動態的にとらえているからだ。
《「真如」は第一義的には、無限宇宙に充満する存在エネルギー、存在発発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。》
つまり「普遍的な姿」という想定事態をも、本源的には「無」とみてとり、非顕現とする「空」と観ている。つまり私が「わたし」の視線で見た「わからない混沌の世界」も、存在論的には「真如」そのものにほかならない。そういう、価値的にみる善悪を超越した動的な「普遍性」や「真実」こそが、二項対立的な欧米的価値意識をも吸収して提示される一元論=汎神論ではないか。
 そうやって考えてみると、井筒俊彦の試みていることは、唯一神とか汎神論といって対立的にやり合ってきた世界宗教の論点を、その根源において統一的にとらえ返そうとする、壮大な哲学的挑戦ではないかと思えてくる。そうして、仏教の教説がある意味では、宗教的ではなく、ことばによって解き明かし、遠近法的消失点にある「無」や「空」を(「わかり得ない世界」という)視点において、あらゆることごとの存在をとらえようとする、超越的言説になるのではないかと思った。妄念という無明的事態という個別性をも、存在論的には「真如」にほかならないとみる見方こそ、「絶対矛盾的自己同一」と呼ばれた現実存在の動的自己意識なのである。》
 
  居なくなったと言わざるを得ない。

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