2020年8月31日月曜日

3年間でボケた割合1/16

 運転免許証の更新のために「認知機能検査」を受けてきた。75歳の時に初めて受け、今回は二度目。16個の絵を憶えて、数字をいじる作業をしたのちにどれだけ覚えているか書きだす。前回は12個しか思い出せず、ヒントをもらって16個全部を思い出すというボケぶり。今回は、それぞれ1個ずつボケがすすみ、11個と15個であった。なるほど、3年で1個。これが早いのか、遅いのかはわからない。いずれにせよ、運転免許には支障がないと「通知書」をもらいはしたが、わが身の壊れ行く度合いが見えてきて、ちょっと身が引き締まる思いがした。

 前回と違うのは、運転実技試験と認知機能検査が切り離されたこと。前回は両方が一緒であった。認知機能検査を受けたのちにすぐ実技検査を受けられるように、自動車学校に私が申し込み、受診日時を受け取って、足を運んだ。今回は、隣の市の警察署。裡から7kmほどある。車では来るなというし、電車に乗るのはちょっと心配であったから、自転車で行くことにした。古い町とあって、道は入り組んでいてわかりにくい。2日前に一度自転車で行ってルートを確かめた。にもかかわらず、今朝も道を間違え、ちょっと通り越して、埼京線の方まで行ってしまった。おや、これはヘンだと気づいて、おおよその方角へ修正してすすみ、途中で人に聞いた。40年配の男の方は、親切にもスマホを出してくるくるとスマホの向きを変えて地図を読み取り、次の信号を左折、セブンイレブンのところを右折、その先の右の方にあると、警察署の場所を教えてくれた。私が、自分のスマホでそれをやればいいのであろうが、長年のデジタル育ち。「ありがとう」とお礼を言って、辿りついた。

 集合時刻には30分も早いよと思っていたが、警察署の入口にはすでに担当者が立ち、案内葉書を提示させ、名簿と照らして通過の番号札を首にかけさせ、中へ招じ入れる。手を消毒し、熱を測る。すでに5人ほどがお喋りしながら、待機している。そういうこともあろうかと、待合室の外の椅子に腰かけて、本を取り出して読む。12人が予定されていたのであろうか。うち二人は欠席。指定された座席で、筆記具と水だけを置いて、時計は仕舞うよう注意を受け、定刻まで待つ。職員は二人。問題の説明や回答の指示をするのが一人、もう一人用紙の配布や回収を手伝うのが一人。

 定刻少し過ぎてから「検査」開始。青色の「(問題)カード」と片面だけに印刷された「(回答)用紙」を受取る。どちらも指示に従って、開ける。

 まず、氏名と生年月日を記入する。

 年月日、曜日、現在の推定時刻を記入する。

 次に、4つの絵を描いた大きなカードを4枚、「覚えてください」と言って一枚ずつ見せる。

 大砲、オルガン、耳、ラジオ、テントウ虫、オートバイ、タケノコ、フライパン、ものさし、ライオン、ペンチ、ベッド、バラ、ブドウ、う~んあと二つ、***、***を忘れてしまった(検査を受けてから8時間以上経つ)。

 そのあと、ランダムに書かれた数字を、指示したものを消していく作業を、三回行う。2個消し、2個消し、3個消す。

 そうしておいて、先ほど覚えた16個を全部書き出す。

 それが終わってから、今度はヒントをみながら書きだす。

 最後に、白紙に時計の数字を入れたのを描き、8時20分に針を描きたす。


 以上であった。どういう配点をしているのか知らないが、点数をつけた「結果通知書」をもらい、これをもって免許証の更新手続きに入る。それも、免許更新日の40日前ころ公安委員会から「案内通知」が来るという。何処其処で、講習を受け、実技講習を受けなさいというのだそうだ。これも3年前と違うから、その都合に合わせなければならない。遠方だといやだなあと思うが、どれだけの人数をどういうふうに更新処理しているかわからないから、文句のつけようもない。

 思えば、ボケの管理までやってくれるというわけだ。社会全体の安全確保のためを思えば、年寄りをそのように扱うのも致し方ないかもしれない。私自身の個人管理としては、3年にひとつボケがすすむとすると、あと何年免許更新が面倒なくできるだろうかと、気にしている。それとも、次の3年の間に、自動運転車が完成域に近づいて、「自動運転車限定」という限定免許が発行されるかもしれないのなら、私のボケ進行の気遣いは無用となる。さあ、どちらが早いか。

2020年8月30日日曜日

イワン・デニーソヴィッチの一日

 朝から冊子の編集をした。「ささらほうさら無冠」第49号。月刊で4年前から出してきたが、今年の3月からコロナウィルスのせいで、「ささらほうさら」の会合が行われない。3カ月休刊した。6月に再開したがすぐに第二波と思われる事態になって、ふたたび休止。7月からは会合があるかどうかにかかわりなく、編集して送っている。その8月号をつくったわけ。

 A4判で16ページ。1ページに400字詰め原稿用紙が5枚入るから、約80枚の小冊子だ。おおよそ今月に書いたものばかりのエッセイを12本。スタイルが決まっているから、もとの原稿を推敲しながら、分量を余白に合わせて調整し、二段組みにして収める。

 そうしてご近所のスーパーへ行ってコピーを取り、折り込んで冊子にする。土曜日とあってスーパーの人出は多い。でもコピー機を使う人は多くはないから、すぐに片づけることができた。マスクをしたまま。誰とも口を利かない。

 それを折りたたんで封筒に入れ、宛先を書きこんで、切手を貼る。消費税が8%から10%になったせいで、1円、2円と送料が上がり、古い切手に加えて、べたべたと貼るのが面倒くさい。今日は日曜日とあって郵便局はお休み。買い置きの端数切手があったのと、16ページの冊子の重さが40gもあって、それだけで送料は10円高くなる。94円。いろいろ取り混ぜて貼り合わせるのも、面白い。

 出来上がりをご近所の四つ角にあるコンビニ前のポストへ放り込みに行く。

 と、ちょうどポストのところへ回収車が来ている。間に合うかな。四つ角の信号の直進が、今ちょうど変わるところで、点滅している。ちょっと急ぎ足で渡りきると、ポストの方へ向かう信号が青に変わる。急ぎ足のままポストのところに行く。郵便車はすでにポストの袋をとりかえて出発するところであった。

 手に持った封書を上にあげる私の姿をみて、郵便車が動きを止める。運転者が窓を開け、腕を差し出し、「ありがとう」と手渡す。「いいですよ」と行って受け取った。

 やあ、よかった。なんだか今日は、運否天賦がいいや。

 まるでイワン・デニーソヴィッチの一日みたいだ。


 もう中身は忘れてしまったが、もう半世紀以上まで、当時のソビエトの強制収容所(ラーゲリ)の暮らしの切片を描いた小説であった。もちろん私はいま、自分が強制収容所に身を置いているとは思ってもいないが、ひょっとしたら、監視カメラや認証装置や社会規範に取り囲まれて、私も一個のイワン・デニーソヴィッチなのかもしれないと、思うでもなくイメージしている。人は皆、生まれ落ちた社会で、イワン・デニーソヴィッチとして成長し、自らの内面に規範の檻を育て、後にそれに苦しむ。その檻が自分の意思で設けられたものだと気づくことによって、さらに苦しむこともある。

 何処からどこをみて、どう生きようとするかによって、苦しみが増すこともあれば、苦しみを知らないで過ごすこともできる。どちらが価値が高いとか低いとかいう話ではない。

 そうしてその切片を切りとってみれば、16ページを埋めるだけの原稿があったこと、印刷機がへそを曲げずに作動したこと、スーパーのコピー機が混んでいなかったこと、端数の切手が買いおいてあったこと、何より郵便局の回収車が待って受け取ってくれたこと、いやそれより駆けつけるわが脚の前の信号機がちょうどうまく点滅し、すぐに変わって四つ角を渡ることができたこと。ああ、俺って、運良く生まれついているんだと、幸運に感謝していること。人生って、そんなものかもしれない。

2020年8月29日土曜日

「悪」は常に外――経験を生かせない壁

 昨日(8/28)は午後ストレッチがあり、そのあと夕方から定例の飲み会。コロナ禍時代の「飲み会」は、どこかのキャンプ場でやろうじゃないかと一人が言い、奥日光の光徳キャンプ場がいいと提案し、いやあそこはいま、やっていないよと私が友人から聞いた話をすると、ならば湯元でもいいじゃないかと言い募り、しかしそのためにテントを手に入れ、寝袋を買うってのは、ないだろうと口を挟むと、そういえば湯元キャンプ場の傍には休暇村湯元があるよ、そこに泊まればいいじゃないと、誰かが追加した。皆、誰からも宛にされない身だから、勝手なことをいってワイワイと気炎を上げた。そういう気炎が、でも、そのまんま実行に移されるから年寄りの戯言は、あなどれない。

 

 今朝起きて新聞をみると、「安倍首相 辞任表明」と大見出し。へえそうかい。逃げ切ったねと思った。記事に目を通すと、逃げ切ったと思った記者もいたようで、最後の方で、こんなふうに書いていた。


《……首相自身や昭恵氏の関与が追求された森友・加計学園問題や「桜を見る会」などの問題が相次ぎ、「権力の私物化」と指摘されたことについて、首相は「私物化したことはない。国家国民のために全力を尽くしてきたつもりだ」と反論した。》


 ふ~ん、そうなんだ。この人は、心底、そういうふうにしか考えられない人なんだと、感じる。

 ところが、意図したわけではあるまいが、その脇に置かれたコラムが、こんな言葉からはじまっていた。


《「悪」はつねに外部にあるなら、経験は何度繰り返しても経験にならない――山本夏彦》


 そうしてこの言葉の引用者、鷲田清一はこう続ける。


《エッセー集「毒言独語」(1971年刊)から。当時の世相について、コラムニストは「非は常にことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろ相場は決まったようだ」と呆れる。罪を犯しても「こんな私に誰がした」と嘯くと。痛い経験を生かすには過程全体の検証が必要なのに、人はついそこから自分を外してしまう。だからいつになっても同じ過ちをくり返す。》


 山本夏彦がこのエッセーを出版した1971年といえば、安倍晋三は17歳。当時の世相をどう吸収したかは知らないが、お坊ちゃん育ちと見える彼の言動をみていると、「非は常にことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろ相場は決まったようだ」と思うことばかりであった。政治家だから表と裏があって、言動にもその鬩ぎあいが現れてくるというのは、裏と表の齟齬を「経験」してきた人物の体現すること。安倍晋三という人は、「こんな私に誰がした」と嘯くことさえしない。コトが身の裡に回帰しない。つねに非は外部にある(とさえ考えていない)から、身の裡を通過することさえしないのだ。トランプさん同様、自分の思ったことを口にする。それがどんなに現実と食い違っていても、(どうしてそれが自分のせいなの?)と不思議に思うばかり。それを私は、「お坊ちゃん育ち」と受け止めていた。だが、そういうふうに考えると、安倍晋三という人ばかりでなく、その時代に育った人たちの共有する社会的エートス(気風)なのかもしれない。

 

 そこへ権力的立場とそれに拝跪する権威主義が加わると、森友や加計学園のようなことが、あるいはそれを隠蔽するために役所の総力を挙げて文書の書き換えをし、しかも口を拭う。隠蔽の貢献者は「出世」をすることで、ますます口をつぐむという構図が出来上がる。そのモンダイの径庭をつぶさに感じているはずなのだが、安倍晋三さんの身の裡にはほんの少しも沁みこまない。「全身全霊を傾けて国家国民のために尽くしたつもり」という、何枚舌があっても恥ずかしくて口にできないことをしゃあしゃあと言えるのは、「非は外部にあり」という基本スタンスが揺るがないからだ。

 

 この新聞記事が絶妙の皮肉な配置をしていたと編集デスクをほめるべきかというと、私はそうは思わない。鷲田清一のコメントをもう少しわが身に引きつけて言い換えると、安倍晋三首相の何年かの在任を「痛い経験」として「生かしていく」ことが要請されているのは、私たち国民であり、日本の政治であり、社会の仕組みなのではないか。つまり安倍晋三さんに「経験を生かせ」と力説しても、もはやそれは意味を持たない。安倍首相の辞任表明を私は「逃げ切った」といった。これ自体が、やめた人を鞭打って辱めるようなことは、やってはいけない。キレイに水に流そうという、古来の知恵が、「経験を活かす」ことを阻んでいる。

 たとえ安倍晋三さんがやめたとしても、森友や加計学園や文書偽造のお役所仕事にケリをつけてはならない。それには、森友や加計学園や文書偽造のモンダイをわが身を通して感知しないといけない。そのうえで、どうしたらそうした事態をくり返さないでやって行けるかと考えてこそ、「経験を活かす」ことができるのだと思う。

 メディアも、これまでのように他人の言葉を借り、自分の都合のいいようにパッチワークをして報道したり、詰問したりするのではなく、わが身を通して、そのモンダイを咀嚼し、わが非として抉り出していくことをしてもらいたいと願う。

2020年8月28日金曜日

散らかる―片づく―片づかない

 山から帰り、山行記録をまとめる。それに写真をつけて、山の会の人たちに送信する。参加した人からの反応や、次のに参加しようとする人からのメールのやりとりが、少しつづく。

 今月初旬に新潟県の巻機山へ行った時に落としたカメラを拾ってくれた方から電話が入っていた。私が瑞牆山へ行っていることをきき、「御礼についてお気遣い無く」とカミサンに伝えてくれた。そうか、ならば、心ばかりのものを贈ろうと地元の和菓子屋に行き、送る手配をする。と同時に、粗品を送りましたと、手紙を書いて投函した。ひとつ片づいた。

 その翌日、拾ってくれた方から電話が入り、「御礼拝領」の言葉と合わせて、彼がカメラを拾った場所や状態、そのルートが崩落して途中で分からなくなっていたこと、彼自身が、至仏山、上州武尊山、巻機山とワンボックスカーに寝泊まりしながら経めぐっていたこと、その後天気が崩れて八海山と苗場山に行けなかったことを話す。話し好きな方のようだ。72歳というから、私の弟と同じ年。団塊の世代のハシリの人だね。元気なものだ。

 

 鹿児島に住む従兄弟から「残暑お見舞い」のハガキが来る。上半分に夜空の写真。「7月21日にやっと撮影できたネオワイズ彗星です」とコメントが添えてある。長く大坂に暮らし、両親の死後、今度は奥さんの親御さんの面倒を見るため鹿児島に移り、そのまま住み着いてしまった。高千穂という長年私も行きたいと願っていた場所なのだが、機会を失している処。百名山でいえば、九州の開聞岳、霧島山、祖母山にまだ上っていないから、いつかは行きたいと仕事をしているときは思っていた。リタイアしてから18年目に入っているのだから、いくらでも行く機会はあったろうに、あれもこれも、あれやこれやをやっているうちに、いつしか遠景に霞んでしまっていた。散乱というか、散らかり放題の私の頭の中みたいだ。

「残暑見舞いへの御礼」をはがきに書き、上半分にみずがきしぜん公園キャンプ場での一枚をモノクロームにして配置し、年賀状以来のお便りを書いた。それだけで私も、ネオワイズ彗星を観たような気分になった。

 

 このところの私の関心が、散らかり放題だ。いや、このところというよりも、昔からそうであった。なにかまとまるときは、そういった機会がどこかからやってくるように降りてくる。ひょっとした気分で取りかかったものが、ちょうど折よく喜寿であったとか、孫の20歳の誕生日を迎える間近であったとか、母親の一周忌であったといったふうに、片づく機会をうかがっていたようにケリがついた。何ごともケセラセラ、なるようになる。為せば成るというのは、取りかかりはじめてからふと、それを為しているということに気づたことを、やめないから言えること。成行まかせで、自分の意思というものが海に浮かぶ木っ端のようにふらりふらりぷかりぷかりと頼りなく、漂うばかりなのだ。

 

 6月から取り組んでいる「山の会8周年の記録」も、すでに原稿は出来上がっているのに、自分でデザインして割り付けして、印刷と製本だけを出版社に頼もうと、ふと思ったのが運の尽き、いいですよと応諾してくれた出版社から、それ以降何の「要請」もないことをいいことに、6年までデザインして、放り出したまんまだ。これは、散乱である。コロナウィルス禍のせいで、それまで定例的に行われてきた山の会の山行が、参加したい人たちの思い付きをまとめたようになって、いわばゲリラ的に行われている。一つひとつは片づくのだが、山の会としては、もうすっかり無秩序化している。それを面白いと思い、散らかり放題なのも、一向に悪いと思わないから、始末に負えない。

 リタイア後の気ままな暮らしってのは、そんなものなのかもしれない。

2020年8月27日木曜日

独裁制を望む「核心的感情」

 2020/8/23に「なぜホンネをさらけ出すのはみっともないのか」を取り上げた。「みっともない」と感じるのは古い道徳規範から来る感覚、今の時代はホンネをさらすのがニンゲンらしいのか、と時代相の変化をみる思いであった。

 イアン・カーショーの『ヒトラー(上)傲慢1889-1936』(白水社、2016年)を読んでいて、平凡なヒトラーが大舞台に担ぎ上げられいく経緯が、本人の言葉と周りの彼を評価する声とで、徐々にかたちを取りながら募っていくのが、手に取るように描かれている。


《私は、大勢の聴衆の前で話をしてみないかと言われた。分かっていたわけではなく、感覚的にはそうではないかと常々思っていたことが、今、確証された。私は、「弁」がたったのだ。――ヒトラー》

《ヒトラー氏は生まれながらの大衆演説家なのだと思う。集会では、その熱情と人を惹きつける語り口のために聴衆は氏に注目し、その意見には同意せずにはいられなくなってしまうのだ。――ある兵士》

《何ということだ。一端のしゃべりだ。彼は使える。――ドイツ労働党指導者》


 まさに人は「人閒」である。ヒトラー自身がユダヤ人に対する憎悪を持つに至るのも、挫折と転落と彼の周囲にあった人と言説とが、「弁」が立つという才能の発見とともに、文字通り彼の内心において核心に近い感情をかたちづくっていく。他人を真似て始まったユダヤ人への憎悪が彼の「せかい」を一挙に集約する役割を果たしたと、後追い的にいえば言える。これは、わが胸に手を当てて考えてみると、同じように思い当たることはいろいろとあった。


 上記引用の「ある兵士」のことばが、ライブのもっている「ちから」をよく表している。「演説に惹きつけられる」のも、「その意見に同意せずにはいられなくなる」のも、聴き手の側にそうしないではいられない「核心的感情」が底流しているからだ。

 そこに目をつけると、ホンネをさらすのが「ニンゲンらしい」と受け止める「核心的感情」にこそ、注目することが必要だ。そうしてなぜ、そうした「核心的感情」が鬱屈しているのか考察して、社会関係や時代の変容が齎している「状況」をとらえることが欠かせないと、トランプの振る舞いをみていて思う。

 

 そうやって考えてみると、果たして「民主主義と自由」がどれほど私たちの「核心的感情」に寄与しているかどうかも、踏み込んで評価しなければならなくなる。むろんこの点で、日本の私たちとアメリカの大衆との間の懸隔も、自律の志も俎上に上げねばならない。さらには、香港の人々の間、あるいは香港と中国本土の人たちとの間の「核心的感情」の懸隔も、とりあげてみなければならない。台湾がそのモデルを提供してもいる。「核心的感情」がもっぱら暮らしの立ちゆきに土台を置いていることも分かる。

 そうして思うのだが、中国政府の独裁的専横を「やむを得ない」と受け容れるのも、13億のひとびとを統治することを前提とすると、あながち否定できない。それは必ずしも、香港の暴力的制圧や、ウィグル族への暴虐をともなう支配を容認するものではないが、だとすると、「統治の視線」ではなく、「自治の視線」を組み込まなければならないのではないか。「自治の視線」を組み込むには、巨大なナショナリティは、持て余してしまう。

 現代の実際の統治は、その両者の視線を組み込んだうえで、バランスをとりながら繰り出されている。だからそのとき、トランプ支持集会の演説に熱狂し、文字通り娯楽のように楽しみ、憂さを晴らすことも、「その意見に同意しないではいられない」回路がいつ知れず流し込まれていくのも、人の性(さが)の為せるワザである。ニンゲンらしいと「惹きつけられる」「核心的感情」が、ホンネを表舞台に迫り上げ、タテマエを誤魔化しとして排斥する流路をつくっている。

 

 独裁的というと、いつもヒトラーをモデルとして考察される。独裁的権限の根拠とか、民衆操作の巧みさを取り上げるが、じつは、「核心的感情」を解放するために、科学も知的理念も近代的社会構成をも排除して、反対し、否定し、排斥しているうちに、あるとき最高権力にいきついてユダヤ人排斥が核となって結晶化が進む。トランプは「#ミー・ファースト」を主軸に据えて、敵をつくりそれを制圧し排除し、宥めたり賺したり脅したり、手持ちのカードを切りながら相手と交渉する。トランプはヒトラーの「弁」同様、「取り引きdealing」の才能に「つねづねそう思っていたこと」に確信を持ち、ほぼそれで人生を送ってきた。ホンネこそが真実という「核心的感情」が芽生え根づいた。そこには、自らが信じること以外はフェイクとして排除し、反対者は敵とみなし、自分好みの人たちに取り囲まれることによって「才能の確信」を再生産してきたのであった。彼に必要なのは、自身の自由であるが、同時に、独裁的権能である。だから習近平と較べてトランプが専制的でないというパーソナルな資質は、ない。近代政治の「民主制」システムが、独裁へ向かう習近平との違いを生み出しているだけである。

 トランプを支持するアメリカの大衆と、習近平の専制を良しとする中国大陸や香港の若干の人々と、そう大した違いがあるわけではない。そう思って観ていると、日本もけっこう危うい時代に向かいつつあるのではないかと、不作為の政府をみて思う。まだ日本は、高度消費社会の余韻を食いつぶしているから露骨化していないが、暮らしそのものが行き立たなくなると一挙に独裁的権力を期待する声が高まる惧れがある。どうしたら、民主と自由の価値を「核心的感情」に組み込むことができるのか。そういうふうに私は、考えている。

2020年8月26日水曜日

絶景のソロキャンプ、瑞牆山

 一昨日(8/24)から一泊で瑞牆山へ行ってきた。野反湖方面へ行こうと考えていたのだが、生憎そちらの好天は1日しかもたない。kwrさんが「みずがきやま自然公園キャンプ場」がいいらしいと調べてくれた。しかもルートは、これまで上ったことのある瑞牆山荘からではなく、自然公園からぐるりと一回りする周回ルートという。北杜市が力を入れて開発し、平成8年頃から周回ルートを策定したらしい。

 もう40年も前になるが、不動沢を俎上して瑞牆山に上ったことがあった。しかしそのときは、ザイルを背負っていたし、下山も岩場を懸垂下降するといういわば訓練のためであった。だから、不動沢を登るルートが一般登山路として開かれているというのは、初耳。彼の提案に乗ることにした。

 

 浦和から車で約3時間。昔風に言うならば前夜泊の山行というわけだが、年寄りの登山としてはゆとりもあって好ましい。テント生活二度目で面白くなってきたkwさん夫妻と現地で合流することにした。瑞牆山荘で合流してキャンプサイトに向かうとしていたのだが、私のnaviが案内するルート上にあるはずの瑞牆山荘が、見当たらない。その頃突然の大雨。ワイパーを早回ししながらすすんでいたから、見過ごしたのだろうか。しぜん公園に着いてしまった。電話をすると、山荘に来ているという。はて一体、どうしたんだろう? そちらに行くよということで、キャンプサイトの草地広場で会うことになった。kwrさん手持ちの地図で見ると、中央高速の須玉ICからくる道が、北杜市に入ってから増冨鉱泉を通る道と川上村へ抜けるルートとに分岐する。その川上村へ抜けるルートがさらにまたもう一度分岐して「みずがきやましぜん公園」に入る。その方が、瑞牆山荘を通るよりも短いらしいと分かった。

 

  北杜市の設営したしぜん公園キャンプ場。中央に管理棟を置き、ロッジやレストランやトイレや農産物などの販売所がもうけられているキャンプ場は、何カ所か水場も設けられ、獣除けの通電ワイアが取り囲む草地が広がる(ロッジやレストランはやっていなかった)。車を止めテントを張るのは自在にというわけ。その中央部の草地広場の外にも草地があって、そちらにも幾張りかテントを張っている。なによりも広い木陰にテントを張って北の方をみあげると、目に入る範囲全部に瑞牆山が広がっている。おりから午後2時の陽ざしを受けて標高2020メートルの峨峨たる岩山が明るく聳え立ち、麓を覆う緑がいかにも夏の日を精一杯吸い込んで輝いている。

 kwさんたちはディレクターズチェアを出して腰を下ろし、私はブルーシートに座って、ビールを空け、ワインを嗜む。おつまみも用意して、一週間ぶりの言葉を交わしながら、このキャンプ場のいごこちのよさをほめそやす。まるでスイスのリゾート地に遊びに来たように気持ちがいい。


  4時過ぎだったろうか、東御市にいるはずのswdさんから電話が入る。

「いまどこですか?」

「みずがきしぜん公園キャンプ場」

「そこのどこですか?」

「えっ? こっちへ来てるの?」

 kwrさんが起ちあがり、陽ざしの中を入口の方へ向かう。

「ああ、みえた。みえました。今行きます」

 なんと、swdさんと彼女の友人が車でやって来た。今日の山行のことは、山の会の人たちにも知らせていた。 swdさんたちは、今朝やってきて、金峰山に登り、9時間の行程をこなして、私たちに合流しようとやって来たという。

 いやあ、いいね。こういう、合流の仕方って。swdさんたちは、立山や蓼科山を経めぐっていたらしい。彼女たちはそれぞれがご自分のテントを積み込んでいる。ソロキャンプってわけだ。

「コロナ時代の山歩きはソロキャンプね」

 と、swdさんは力を入れる。立山の雷鳥沢でもソロキャンプをする女の人たちがずいぶんいたらしい。

「あなたは寿命が70って言っていなかったっけ。いつから元気になったの?」

 と私が話を混ぜ返す。彼女は、母親も叔母も七十のときにすい臓がんになって身罷ったらしい。そこで七十までに日本百名山を登るのだと、私の山行に同行したこともある。彼女は、kwrさんの知り合いの医者を紹介されて診察してもらい、すい臓がんの気配はないとお墨付きをもらった。

「そうなのよね。次のステージがオープンしたの」

 と、今年の70を目前にして開眼したと、意欲いっぱいにソロキャンプをすすめる。

 

 草地広場のテント場には、大きなインディアンテントを張ったり、その脇にタープを張って食事に力を入れたり、薪を焚く鉄製コンロを借りて火を燃やし、調理している人たちもいる。あとから車でやってきて、テーブルや組み立て椅子を出して、いかにもキャンプ生活を楽しむ構えの一群もいる。ファミリーというよりは若い人のグループ十数組。子どもたちはすでに学校が始まっているのか、姿を見せていない。それでもテントの距離は、ポツンポツンと何をしているのかさえ気にならないほど閑散としている。近場に張ったswdさんたちの話し声も聞こえない。

 

 翌朝(8/25)4時少し前に目が覚めた。kwテントは動き始めた。4時に目覚ましが鳴っているのは、swd組のようだ。空には雲がかかっているが、昨夜は雨が落ちなかった。涼しい。標高が1500メートルほどあるから、奥日光の湯元と同じだ。先週の上州穂高の宝台樹キャンプ場よりも3、400メートル高い。寝袋やテントマットは片づけるが、テントは下山してから車に積みこむことにする。一泊二日は張っておいていいからだ。「豆乳のそうめん」にお湯を入れて待つ間に、「安曇野の飲むヨーグルト」とコーヒーを頂戴する。どれもが、はらわたに素直に染み込む。今日はうまく登れそうな気がする。「後から行きます。気にしないでいってください」とswdさんたちは、朝食とおしゃべりを楽しんでいる。ルートも変えるかもしれない、とも。

 ではではと出発。5時15分ころか。舗装林道が分かれる地点に、注意書きがあった。巻機山で見落としていたから注意して読む。

《みずがき林道から不動沢へ向かう橋が崩落しております。たいへん危険ですので、通行を控えていただきますようお願いいたします。山頂を目指す方は、瑞牆山荘登山口をご利用ください》

 なんだ、これは。通行不能ってことか?

「昨日、受付でこのルートのことをきいたら、危ないって言ってなかったよ」とkwrさん。丁寧すぎる敬語といい、いかにもお役所の(言っておいたぜ)という魔よけのお札みたい。行こ行こ、徒歩をすすめた。舗装林道が終わり、「四駆じゃないとムツカシイ」とやはり受付の方にいわれたざれた道をすすむ。先週の武尊山の神社奥の林道よりは、走りやすいと思った。その林道終点には十分すぎるほどのスペースがあるから、車を止めるのには不都合はない。ここまで車を持ち込むと、行程が40分省略される。

 

 でもすぐに沢には入らない。不動沢の左岸に沿って10メートルくらい高いところを詰めていき、沢に降りるところに、しっかりした橋がある。その先には、補修したのであろう、手すりの金具がまだ新しいクサリ。沢は大きな流木が大石の間にとどまり、水の量は多い。水量が多くなると沢床を歩けなくなる。そのために沢岸上の方に大木が橋代わりにおかれ、それがいかにも滑りやすく危うい。雨が多かった今年の6、7月は「通行禁止」もやむを得なかったか。

 沢は瑞牆山の南西側にあるから朝陽はささない。針葉樹林の木間越しに岩山の一角が朝日を受けて明るく輝くのが見えた。5時48分。向こう岸へ渡るように倒れた大木が途中で折れている。これを渡るのはムツカシイなと思ったら、その脇に沢に降り立つ踏み跡があり、沢床を歩く。ちょっとしたルートファインディングだが、結構人が入っているらしく、踏み跡と赤テープをみていくと迷うことはない。沢に沿った橋にのしかかるように老木が倒れ掛かり、それを切りとってルートを歩けるようにしているのがわかる。倒木を乗っ越す処もある。

 

 不動滝に出る。30メートルほどの大岩を水が流れ下る。表面をなめるように流れているところもある。6時38分。出発してから1時間13分。コースタイムは1時間35分だから、少し早いか。見上げると暗い樹林の上の青空に、朝日を受けながら飛ぶジェット機の飛行機雲が二筋の線を引いて横切る。そう言えばここは、新潟から関西方面への飛行ルートになっているのだろうか。キャンプ地にいても、何機もの飛行機雲をみた。明るいシラカバの林を抜けると傾斜が急になる。苔むした大岩の脇を踏み、岩の間から張り出した大木の根を踏みつけて上るようになる。朝の上りは気持ちがいいと、kwrさんは快調だ。途中で先頭を彼に代わる。岩の山だとわかる大岩が迫り出してきて、岩登りも始まる。シャクナゲが多くなる。kwmさんが「花の百名山でしたっけ?」と聞く。わからない。田中澄江がここに求めたとすればシャクナゲだが、シャクナゲの山ってもっと沢山ある。

 途中の木に「ししくい坂 頑張って」と書いてある。上から降りてくる人にはよく見えるが、上ってくるものは振り返らないとわからない。どちらに「頑張って」と声をかけているのだろうか。富士見平の方から登る瑞牆山の岩登りはなかなか面白い醍醐味があった。それに比べたら、こちらは登りやすい傾斜もうまく配分されていて、息切れするようなところがない。

 ところどころに岩の名前を記した青色のトタン板が張り付けてある。それももう色があせ、一部は折れて落ちてしまっている。小川山への分岐があった。こんなところから登る人もいるんだ。

「左王冠岩」と表示があるので振り返ると、木々を巻き付けた鋭鋒が向こうに見える。「弁天岩」「クーラー岩」と、なんにでも名前を付けている風情。青いトタン板はもう古びて昔の名残をとどめるという感じだ。

「***降りるのは違います。***山頂まで引き返してください」と何やら不思議な看板がある。***のところは、たぶん赤かオレンジで書いてあったのであろう。色あせてしまって消えてしまったようだ。そういうルートを間違える人がいたからこその掲示だったのだろう。ということは、山頂が間近ということか。あるいはこれを読む当事者は「もっと上に書いてよ」といったのだろうか。8時9分、山頂手前の分岐に出る。ここで間違えると、目的地に下れないというわけだ。

 

 山頂着。8時15分。出発してからちょうど3時間。コースタイムで歩くのが、普通になった。5人ほどの先着者がいた。不動沢ルートは私たちが最初の登攀者。どうして? 沢沿いの踏み跡で蜘蛛の糸が何度か顔に張り付いたから、それ以前に登った人がいないと思っていた。お茶を沸かし、あるいはコーヒーを豆を挽いて淹れている人もいる。何十人が載っても大丈夫という山頂の広い大岩は陽ざしを受けて360度の見晴らしが利く。小川山、国師ヶ岳、金峰山、富士山も少し雲を被っているが、高さを誇って頭を突き出している。南の櫛形山は雲の上に山頂部がちょっと見えるだけだが、その右の方には、間ノ岳、北岳、鳳凰三山、仙丈岳、甲斐駒ヶ岳と南アルプスが勢ぞろい。

「その向こうのは木曽駒かい?」とkwrさんが訊く。中央アルプスの木曾駒ケ岳や空木岳が遠景に少し霞む。双眼鏡でもあれば、御嶽山や乗鞍岳も見えるかもよという。西をみればこれまたくっきりと、八ヶ岳が編笠山から蓼科山まで屏風のように見晴らせる。すぐ間近には屹立する巨岩を目にすることができる。その向こうの下界は、雲が張り出して雲海にみえる。北西の方には平地から雲が湧きたつ。気温が上がってきているのだ。

 アラフォーの女性が八ヶ岳を背景にカメラのシャッターを切ってくれという。持つと軽い。一眼のミラーレスというやつだ。ほほう、こりゃあすごい。シャッター音まで軽快で上等に聞こえる。

 次から次へと人が上がってくる。上にいた人も挨拶をして下山にかかる。いい天気に、kwrさんは寝そべってしまった。私たちはswdさんたちが来るかと40分も長居をして、下山にかかる。

 

 9時少し前に出発。富士見平へと降る。こちらのルートは2014年10月15日に、山の会で歩いている。日帰り登山。最高齢のoktさんが桃太郎岩から上部の岩場をよじ登り、同じルートを「こんなところ登ったかなあ」と言いながら下ったことが思い出される。今日は、私たちが下山するころから、人が上がってくる。岩場ばで上り下りで場を譲る。上から降りてくる若い人たちにも順番を譲る。彼らはたちまち姿が見えなくなる。瑞牆山が人気の山だということを実感する。

 やはり昨年来の台風や大雨のせいか、崩落が起きている。流れ落ちてきた倒木が谷間に無残な姿をさらす。鎖も新しくつけられていて、6年前よりも容易に下っている気がする。kwrさんもkwmさんも道を譲るとき以外は、休むことなく、順調に下った。1時間10分。コースタイムより10分多いが、交叉するときの待ち時間を考えると、まずまずの時間だ。

 桃太郎岩からは若干の上りが入る。kwrさんは「こいつは草臥れる」と弱音を吐く。上から登って来たグループが「おおっ、年上がいるぞ。ベテランだ」とkwrさんをみて軽口をたたく。「違うよ、ヘテランだよ」と応じる。「ヘタッテルンダヨ」って通じたかな。

 コースタイムより早く富士見平小屋に着く。2組が食事をしている。キャンパーだろうか。明るく、テーブルや椅子が設えられている。小屋に人気はなさそうだ。少し休んでおしゃべりをして、いよいよ最後の下りに入る。10時40分。10分足らずで「みずがき自然公園→」へのルートに入る。上部から水がざあざあと流れ落ちて、側溝へ消えていく。いかにも「みずがき」って感じだなこれは、と思う。広い林道。苔むしてもいる。緩やか、かつ、快適に下り、5分ほどでシャクナゲや樹林の中の道に入り、ここも、ふかふかと落ち葉が積もって歩きやすい。

 kwmさんが紅葉を見つけた。モミジがそこだけ朱くなって際立つ。クリンソウの群落があったのであろう。終わった花が実になりかけている。道の両側はう~んと苔むしていて、まるで築庭された箱庭を散歩しているようにみえる。天鳥川を越える木の橋を渡ると「←草地広場・草地広場→」と反対側に行きかねない標識があって、どっちだろうと戸惑う。いや、左だよ当然、と左へ道をとる。下に道路が見えるよというので、そちらに降りる。まだ少し、キャンプ地には距離がある。照りつける陽ざしは11時半過ぎ。まもなく真昼に近い。日陰を辿って歩くようにするが、道路沿いにはそれほどの樹木がない。ならば、そちらの草地に入ろうと踏み込むと、そこはテント場すぐそばの草地であった。

 11時45分。出発してから6時間半。山頂の40分を除くと、5時間50分。コースタイム通りに歩いたようになる。歩くコースタイムの面目躍如ってところだね。

 

 swdさんたちの車はなかった。登らないで、帰ったのかもしれない。ま、それもいい。ソロキャンプが、コロナ時代の山歩きだとすると、現地集合、現地解散の集合方式で、交通手段はそれぞれに工夫工面する。そういう時代になったのかもしれない。

2020年8月24日月曜日

なぜホンネをさらけ出すのはみっともないのか

 アメリカの大統領トランプは、実に子どもっぽい。自分の気に食わないことはウソかデタラメ。対立する人はクレージーであり、極左暴力主義者であり、秩序の破壊者だ。敵か味方かという政治力学の図式通りに世界ができていて、共和党の集会は壮大なエンターテインメント。主役の自分は、聴衆を喜ばせ、参加者の娯楽となるような出し物を提出して憂さ晴らしをしていただく。もちろんご自分も、存分に憂さを晴らす。率直にホンネをさらけ出して、思い浮かんだことを口にしている。

 

 いささかでも不都合を感じたら、その障害になる「敵」をみつけ、そこへ攻撃を集中する。口を極めて悪罵を投げつけ、相手がビビるとみるや、そこへ抜け目なくつけ込む。いじめっ子の典型であり、その近視眼的な世界は、少しでも歴史的に世の中をみて来たものにとっては、開いた口が塞がらないほどバカげている。でもあまりにバカげているから、まともに相手にしたくなくなる。トランプはますますつけあがる。

 

 不思議なのは、その彼を間違いなく支持する岩盤のような人々の存在である。私はアメリカ人というのをそれほど知っているわけではないから、これまでに読んだ本や観た映画のイメージでかたちづくったアメリカ人大衆を想いうかべているのだが、TVの画像に登場する「集会」の参加者たちの熱狂は、信じられないくらい夢中である。本気なのだと伝わってくる。バカげているというより、文字通りバカだと思うほどだ。

 そう思う人がアメリカにもいるからか、トランプを支持する人が「隠れトランプ」と呼ばれるように、身を隠す。彼を支持すると公言するのはみっともないと感じているのだ。でも隠そうと隠すまいと、彼の振る舞いは日々、電波に載って世界中にばらまかれている。つまり、アメリカ人って、こんなにバカなのだと宣伝している。いや、ただのバカならば、話題にもならない。そのバカが世界随一の軍事力を持ち、経済的な位置を占め、世界中に通用するドル札という紙っ切れをふりまいて、他国と他の人々を右往左往させている。旧来の条約や取り決めを反故にし、文字通り暴力的にも、我が儘ではた迷惑な振る舞いがこの4年間席巻してきた。

 日本のアベサンもよくつきあったと思うが、もともと体質的に二人は似ているから、案外アベサンは苦にしなかったのではなかろうか。

 

 だが私たちは、トランプの振る舞いをみて、なぜみっともないと感じるのか。

 国内向けの言葉をホンネとして披瀝するだけでなく、対外的にもそれを口にして憚らないのは、言葉や論理で相手と交渉するというよりは、とどのつまり腕力が強い方が強いんだよと、思い知らせて相手を屈服させるってことしか、彼の交渉術にはないってことか。そこには、近代が育んできたさまざまな交渉よりも、そのベースに流れる力関係が決定的だということが表面化しただけなのではないか。つまりマキャベリの(騙したりウソをついたり裏切ったりする)文化的な装いすらはぎ取って目的合理的な最短距離を突っ走れという、ポスト近代の手法を先取りしているということなのか。

 つまり私たちの感性は、いまだ近代文化の衣をまとっていて、トランプはそっくりそれをはぎ取って応対していると。エデンの園でリンゴを食べた二人は「裸でいることが恥ずかしくなった」が、今は逆に、「衣装を着ていることが恥ずかしくなった」トランプの前で、衣をまとうという醜態をさらしているのであろうか。

 

 みっともないという感触は、古い道徳観から来る「美意識」なのだろうか。今はホンネをさらして、率直に好意・敵意を剥き出しにして人に対するのが、ニンゲンらしい態度なのだろうか。アベサンをみていて、トランプと同じだと思うのは、この点だ。

 私たち年寄りの持っている(これこそ日本人の多数がもつと思う)古い「美意識」からすると、敵意を剥き出しにして接すると、相手の人も必ず敵意を剥き出しにするようになり、売り言葉に買い言葉というふうに、「かんけい」は対立的になる。いうまでもないが、では逆に、好意をもって(あるいは敵意を隠して)対すると、相手も同じようにしてくれるかというと、必ずしもそうではない。そこが、難しいところ。ジレンマに陥る。でも政治の世界って、「敵―味方かんけい」が本質なのだから、それも仕方がない。だが、国家の首脳が取り仕切る「かんけい」は、ニンゲンの社会にベースを置いている。ニンゲンのかんけいが、基本的に「相見互い」で構成されていることは、近年の脳科学の実験でも証明されていることである。ましてグローバルに「相互依存」の関係が深まっている現代においては、ヒトとヒトとのかんけいの作法と国家と国家の関係の作法とが、それほどにかけ離れているはずがない。

 

 だがまず、自らが「好悪」「善悪」の関係をひとまず棚上げにして、人に対して友好的に接することからはじめなければ、「かんけい」の改善は望めない。じつはトランプも、#ミー・ファーストが結局のところ他者の協力を得られない地平であることに、ぶつかっている。ところがトランプは、驚いた行動に出る。たとえば今日のネットニュースの配信。新型コロナワクチンの製造を大統領選の後、11月以降に送らせようとしていると政府の薬事局を非難したのだ。何という無茶ぶり。ここまでくるとお笑いになる。

 だが、トランプ支持の岩盤は崩れない。これは、たぶん、アメリカという社会の捨て置かれた人々が、ほとんど顧みられる余地をもたないからではなかろうか。トランプはその世界と社会体制の(知的に権威主義的な)欺瞞を突き崩してくれる。そう期待しているのだろうか。

 昔ながらの、ささやかな日常を味わいながら暮らしていた人たちが、経済的な変動に揺さぶられ、適応しようと右往左往するにもかかわらず、如何ともしがたい壁にぶつかる。個々人の責任で生きていくという共和党的世界が、グローバル化に伴う多数の移民の流入によって崩され、古き良き時代が消えていっている。良き時代の再来するを希望する人たちが、そうした魂の声に近い(ホンネの)叫びを脈絡なく繰り返すトランプに、期待を寄せているのだろうか。

 

 つまり、民主党か共和党かという区分けだけでなく、社会の中下層にいる人たちの黙しがたいが、でもどこへぶつけていいかわからない「ふんまん」が噴き出しているのがトランプ現象だとすると、ニンゲン社会がすでに限界を通り越していて、調整不能な段階に来ているのではなかろうか。

 限界を通り越しているから、たとえば「民主主義的自由」な社会体制では「国家」すら保つことができず、中国のような独裁制やロシアのような裏社会的暴力性が横行することで、かろうじて「(国民国家の)社会」の体裁が維持されているのではなかろうか。

 とすると、「みっともない」とかバカげているという美意識の次元ではなく、ホモ・サピエンスの末期症状としてコトを見直してみる必要があるような気がするのである。

2020年8月23日日曜日

みなまではみず

「剣ヶ峰山って登った?」と夕刊をみていたカミサンが聞く。

「うん、のぼったよ。どうして?」

「今年の山だって、ほらっ」と、夕刊の1ページを開いて見せる。

 一面の1/3をつかうほどの大きさに武尊山の山頂からと思われる剣ヶ峰山の「鋭鋒」がど~んと座っている。《激動の2020 不動の2020》の見出し。

 

 そうか。剣ヶ峰山の標高が2020メートルだったかと、4日前に登った上州武尊山と周回ルートの一角にある剣ヶ峰山のことを振り返る。じつは、厳密には上っていない。去年、剣ヶ峰山まで登り、調子の悪くなった人がいて、その先の上州武尊山には行けなかった。今年はそのリベンジで、逆コースを歩いて上州武尊山に登り、剣ヶ峰山へのルートを歩いた。今年の調子は良く、武尊山から剣ヶ峰山へ向かう途中で雲が取れ、夕刊の写真に載っていたような景色が一望できた。剣ヶ峰山のすぐ下に下山の分岐があり、ま、去年上ったんだから今年はいいよねと笑いながら言葉を交わして、下山の道をたどった。

 そうか、「今年の山」か。もしそうと知っていたら、剣ヶ峰山へ足を延ばしたのになあ、といま思う。みなまではみず、ってわけだ。

 

 夕刊の記事は、川場からの積雪期は「さらに登りやすい」と記してある。武尊山側からみると鋭く尖って見えるが、川場からの稜線はなだらかな台地上になっている。「クリスマスごろからリフトも動く」と、さらに登りやすさを強調して誘っている。さてまた、再々リベンジとなるか。

「今年の山」って言葉を最初に意識したのは、1982年の石鎚山。香川県高松生まれの私にとっては、子どものころから耳にしいつかは上りたいと思っていた山だったから、1982年に報道を目にして、気に止めたのだ。でも石鎚山に登ったのは2013年の5月。私の兄二人と一緒に瓶ヶ森から入り山頂にも一泊した。長年の大願成就であった。

 

 週1で山を歩いていると、「今年の山」っていうような「記念登山」はほとんど胸中にない。同じ山を何度も登ることもある。でも夕刊のような記事になってみると、剣ヶ峰山は、上州武尊山の(ルート上の)おまけというよりも、それ自体でなかなか威風堂々とした名山である。ことに、武尊神社から登ると、最後の分岐のところから山頂までの屹立が、岩場もあってなかなか面白い。

 みなまではみずという思いが、ますます名山気分を増してくれる。木下こゆる記者・伊藤新之助カメラマンと同じ週に、同じルートを登ったことで、ちょっと違った感懐を味わったと、よろこんでいる。

2020年8月22日土曜日

#ミー・ファーストと国際協調とパレート最適

 イランに対する非核化圧力を強めようとトランプが言い出した。それに対して英仏独ロ中が、「勝手に(イランの非核化合意から)離脱しておいて、いまさら何を言うか」と同意しない。それはそうだろう。

 トランプのやることを見ていると、まるで国際関係のいろはも知らない素人が、大きな権力を振り回して、駄々をこねているように見える。そして一つ一つ躓くごとに、素人が学ぶように、その世界のことがどのように出てきて来たかを知り、その意味をはじめて体感することになる。つまり、トランプ以前の世界をつくりあげた「関係のネットワーク」の「壁」にぶつかるのだ。

 振り返ってみれば、4年前にトランプが攻撃したのは「戦後国際政治の理念」であった。それがわりと単純に、国際協調の理想に向けて作られていると理解していたのは、ナイーブな日本人であって、じつは、様々な利害とその背景にある力関係が絡み合って、かろうじて日の目を見た到達点であった。日本人がそれに対してナイーブであったのは、第二次大戦の敗戦国であり、ドイツとともに、いまだに国連の「敵国条項」の適用を受けている立場であるからでもある。それ以上に、敗戦後の日本国憲法の「理念」によって、ある種の(欧米民主主義の)モデル的な出立をしたからでもあった。だから私がここで、素人と呼んでいるのは、私を含む日本の庶民であり、トランプを指示する、憤懣を抱えるアメリカの貧相な暮らしを強いられている白人の庶民である。

 トランプは「強いアメリカの再来」を看板に掲げる。その「強いアメリカ」をバックに「#ミー・ファースト」を矛先にして、旧来の知的権威に対して攻撃を仕掛けてきた。ナイーブな私などは、な

 第二次大戦時のアメリカは、民主主義と国際的な協調を看板にして、自国は戦場になることなく漁夫を利を得るようにして経済的にも世界の頂点に立った。反ファシズムや反軍国主義の看板は、アメリカ国民を奮起させるための(日本流にいえば)タテマエだったわけだが、日本占領をしたときの日本国憲法の原案を作製した民政局おの若いリーダーたちは、アメリカにさえない「理想的な憲法」をつくろうと力を注いだと、いつだったかその当事者が語っていたことがあった。私のような戦中生まれ戦後育ちのものには、その「理念」がまっすぐ戦後社会の目標として身に入ってきた。

 そのアメリカのタテマエが、タテマエに過ぎないとわかるのには、そう時間はかからなかった。占領軍の統治が、日本に対する軽蔑的な態度と差別的な意識に満ち、かつ、後に松本清張が描く様な「工作」によって、政治過程の裏表が露出してきたからであった。だが私たちは(ナイーブにも)日本国憲法の理念を理想と受け止めて、思い通りに行かない現実過程を理解してきたのであった。

 トランプの登場は、いわば、アメリカ社会がタテマエを脱ぎ捨て、それまで裏街道で「工作」してきたホンネを剥き出しにしたと受け止めた。だから、トランプの国際協調への攻撃も、視野の狭さを思うことはあっても、この人たちは目前のコトしか関心がないと、理解していた。

 

  そうして、イランの非核合意実施へ向けての制裁を改めて発動しようとなったとき、何を勝手なことをしておいてホザイテいるかと、他の合意諸国から肘鉄をくらわされたというわけだ。面倒なアメリカではあるが、民主主義って、そういうものよと思うから、ほかの国々も、だったらもう一度イランの非核化合意協定に復帰しなさいよと、諭すようにしているのであろう。

 だが、そうしているロシアのプーチン政権は、反政府活動をしている活動家をこっそり始末しようとしている。中国の習近平政権は、香港やウィグル自治区への強圧的な締め付けで、自己保身に懸命だ。ヨーロッパもまた、イギリスの離脱と新型コロナウィルス禍で青息吐息にある。つまりみなさん、イランにかまっている暇がないほど、ミー・ファーストにならざるを得ない状態に置かれている。

 何の力もない日本の、何もできない庶民は、こうして、国際協調が「相身互い」をベースに築かれていて、とりあえず、その点だけはまだ保持されているんだなと、ベンキョウしているってわけ。

 

 ふと思い出したが、田中明彦という国際政治学者が、「相互依存の世界システム」というのを書いて、「パレート最適」という言葉を使っていた(『新しい中世』)。何だったっけ。もう一度本を開いて調べてみたら、こう書いてあった。


《相互依存関係から限界点まで利益を得ようとすれば、片方の利益を増大させたら、もう相手の利益を減少させなければならなくなるような地点に到達するであろう。(それをパレート最適という)》


 相互依存の関係が互いに利益をもたらす最適の地点で、かつて「イランの非核化合意」が締結された。むろんアメリカのバックにはイスラエルもついていたであろう。トランプは、それが弱腰であったとして、限界点を踏み越えて「#ミー・ファースト」を剥き出しにして、合意からの離脱したのだが、それがかえってイランの核開発を許容することになったことに気づいたというわけだ。

 それでもトランプさんが学んでくれればいいが、彼はあまり学習能力は高くなさそうだ。目前のことにしか関心がないと、先々のことは目の前にしてから考えるしかないというのは、私ら庶民の日頃の無様な姿だ。まあ、国際政治までもが、ほとんど私たちの日頃のやりくりと変わらない次元で行われているというのは、岡目八目の庶民が国際政治をベンキョウするいい機会でもある。

 ま、いろいろと教えてくださいな、USAの皆々さま。

2020年8月21日金曜日

幸運の証か

 新潟県の南魚沼警察署から手紙が来た。表書きに「会計課」とあった。カミサンは「何か交通違反したの?」と言いながら私に手渡す。中を開けてみると、「遺失物確認通知書」とある。

 なんと、8月5日に巻機山の割引沢を遡行中に落としたカメラを、どなたかが拾って届けてくれたのだ。みると、届は8/6になっている。拾ったのは5日か6日か。

 でもどうしてカメラが、私のものと分かったのだろう。思い当たったのは、撮った写真だ。巻機山麓キャンプ場にテントを張った際、テント場の雰囲気を記憶にとどめておこうとシャッターを切った。その時、テントの脇に置いた車のナンバーも写っていたに違いない。そうだ、そうに違いない。さっそく、落とした経緯(割引沢の右岸を遡行中、岩場で滑ったときに落とし、沢の激流に落ちてしまったと思い込んでいた)と、それが私のものと判断したSDに残っていた写真の(テントとともに車のナンバーが移り込んでいた)ことを記し、手数を掛けたことへの御礼と連絡をくださったことへの感謝を記し、受取人払いで送ってほしい旨と拾ってくれた方への連絡先を教えてほしいことを書き添え、運転免許証の写しを同封して、南魚沼警察署へ手紙を出した。

 

 たぶん、その手紙が到着した日であろう、南魚沼警察署から電話があったそうだ。

「本人に確認したいことがあるので、**日にまた電話する」

 といったそうだ。

 **日に電話が来た。私の名前、落とした日にち、場所と経緯、あわせて写真に写っていた車の色やナンバー、テントの色と大きさを確認し、「送ります」とやりとりがあった。

 そうして昨日、ゆうパックが届いた。「こわれもの」とシールを貼り、緩衝材でくるんだカメラが入っていた。あわせて、拾ってくれた方の住所とお名前、電話番号を記して、爾後のことを相談してくださいと書いてあった。

 

 千葉県の方。あの日かその翌日に、あの沢を遡行する方がいたこと自体が、幸運であったと思う。カメラが沢に落ちなかったこと、雨が降らなかったであろうこと、いくつもの幸運に恵まれている。さっそく手紙を書いた。

***

前略

 突然にお便りを差し上げる失礼をお許しください。

 この度、巻機山の割引沢で、私の落としたカメラを拾ってくださり、ありがとうございました。今日、南魚沼署から品物を受取り、あなた様が拾ってくださったことを知りました。

 割引沢の右岸の少し高い岩場をトラバース中に足を滑らせて岩にしがみついたときにカメラが落ちたものと思い、てっきり5メートルほど下を流れる割引沢の激流に流されてしまったものと思っておりました。失くしたことに気づいたのは、その先の沢が滝になっている地点に来てからでしたので、あきらめておりました。

 たまたま写真の一枚に、前日巻機山麓キャンプ場で撮影したテントとともに私の車が移り込んでいたため、南魚沼署が調べて私に連絡してくれたもののようです。

 ありがとうございました。5年程使い込んだカメラではありますが、記録用に手軽に映して使っておりました。戻ってきて、ほんとうに喜んでおります。

 重ねて感謝申し上げます。

 ところで、南魚沼署からは、

    「拾ってくださった方には物件の価格5%~20%に相当する額の報労金を請求する権利があります。報労金については、あなたと拾ってくださった方で額を決めることになりますので、相手の方に連絡を取ってください。」

 と、説明がありました。

 あなた様の御意向に沿うように始末したいと思っておりますので、お手数をおかけしますが、ご希望のところをお知らせくださりたくお願い申し上げます。 草々頓首

***


 割引沢遡行のことは、先日(8/6)の本欄「幸運頼りの限界が見えた」に書いた。無事に帰還したことが「幸運」であったと、わが身の限界を感じたことを記している。それに加えて、この落し物の無事の回収。写っている写真は何でもないものだが、つくづく私は運が良いと、思った。

 むろんこの幸運に甘える気は、毛頭ない。いましばらく気持ちを引き締めて山へ行かせてもらおうと、よろこんでいる。

2020年8月20日木曜日

秋の気配の武尊山

 翌朝(8/18)、朝3時45分に目が覚め、ヨーグルトとパンとコーヒーの食事を済ませ、テントをたたむ。荷を車に積みこみ、トイレを済ませてキャンプ場を出発した。5時15分頃。武尊神社の奥の林道に駐車場があったから、そこまで車を入れた。これで往復1時間程度行程を節約できる。

 5時35分歩き始める。昨年は手小屋沢分岐から避難小屋へ向かうルートではなく、まず剣ヶ峰山に向かうルートを上った。今年は分岐から手小屋沢避難沢小屋へ登るルートをとった。ほぼ十年前に私は歩いた道だ。

「ヨツバヒヨドリ・・・アサギマダラの・・・」

 と、後で言葉が交わされている。

「これなあに・・・」

 という声に振り替えると、先週棒の嶺へ行った折に見かけたのと同じ花だ。帰宅後写真をみせて師匠に教えてもらったが、その名前が浮かばない。帰宅してメモをみると「ハグロソウ」とある。カメラに収めた写真をみてもらうと、花のついた葉の背の高さを聞かれる。う~ん、これくらいかなというと、

「ジャコウソウかもしれない。調べてみて」

 と、『山に咲く花』(山と渓谷社)をどんと置いた。しっかりした葉の脇から出ている二輪の花は、たしかにどちらも似たような形をしている。背の高さが違うそうだ。図鑑は、撮る角度が違うから違った花にみえるところもある。わからない。

 紫の花をつけて藪の中に存在感を示す別の花をみせる。

「ソバナ・・・」

「えっ? ツリガネニンジンじゃないの?」

「ツリガネニンジンは一カ所から輪になるように花が出てるでしょ。みてみて」

 と、やはり図鑑の方へ目を向ける。これでだいたい、花の名を聞くのを私はやめる。図鑑をみて自分で調べなさいというわけなのだが、門前の小僧は、そこまでの熱意がない。


 高度が上がる。カラマツがいつしかシラカバに変わり、ブナ林になっている。大きな木がある。根本は何本もの木が大きくなってくっ付いて一つになり、上の方でまた分かれて、2本に分かれる。幹が途中で曲がって大きなこぶができているに見える。

 ツルアジサイとかイワガラミ・・・と、聴いたことのある花の名が交わされる。

「もう、秋ね…」

 とやはり後ろで言葉がする。オオカメノキの葉が色づき、袂にびっしりと赤い実がみのっている。そうかお盆を過ぎた。夏は山が遅く秋は山からという。凝縮した季節の移り変わりを体現して、山も忙しいのだと思いながら、歩一歩をあげていく。

「あっ、カメバヒキオコシ・・・花がついてる」

 とstさんの声。カメの尻尾のような葉っぱだなと思いながら振り返りもしない。いつもは先頭を歩くkwrさんが今日は最後尾に着いた。私に先導役をやれという。コースタイムで歩くのは、なかなかムツカシイ。後ろの気配を気にしながらゆっくり上ってゆく。

 手小屋沢小屋近くの稜線上の分岐に着いた。6時50分、下の分岐から64分。コースタイムは60分だからほぼコースタイムだ。皆さん元気そのもの。ここで気づいたことがあった。じつは十年前に一人で来たとき、ここまでのところに、沢に滑り落ちそうなトラバースが数メートル続いていた記憶があった。だから今回は、ザックに短いザイルを忍ばせてきていた。ところが沢沿いに落ちそうに上るようなところがなかった。ここへきて分かったのは、稜線上の分岐のところで、もう一つ沢から合流する踏み跡がついている。危ういと思っていたルートに代わって、新しいルートが開かれていたのだ。

 稜線は樹林の中を歩く様な気分になるほど、いろんな木々が密生している。その途絶えたあたりから、剣ヶ峰山が姿を見せる。この角度からみると、武尊山の山頂からみるのは、急角度の上りを正面からみているとわかる。

 ホツツジがある。はっきりミヤマホツツジとわかる花もあった。シウリザクラのような、穂のように伸びた花がたくさんついた木があった。なんだろう。あとでリョウブの花を間近に写した写真をみて、図鑑のそれと較べようとみてみたら、何と図鑑のリョウブの花はまるでシウリザクラのそれのように穂状になっているのに気づいた。私のカメラに残った花がリョウブだとみたのは、その幹がまさしくリョウブのそれだったからだ。どういうことか? 間近に見るのと、少し離れてまるごとみるのとでは、印象が全く違うってことだ。花だけを撮ったのではワカンナイネと昔言われたことを思い出した。

 手小屋沢小屋が樹林の合間からチラリとみえる。ルート上に、そちらに下っていく標識が立つ。ルートは木の根を踏むようになる。カニコウモリの花が背を伸ばして楚々としている。

 

  稜線を辿って1時間余で、クサリのついた岩場にぶつかる。小屋そばの分岐で追い越していった単独行の年寄りが上へ登っていく。木の根と岩が絡み合い、その間をクサリが垂れ下がって手がかり足掛かりをつくっている。断続的に、そうした岩場がつづく。30分ほどで、岩場を通過した。シャクナゲが来年向けの蕾をつけている。たくさんのリンドウがまだこれからという風情で、大きな蕾をみせている。

 やがて山頂に着いた。8時57分。稜線の分岐から2時間。私のみたYAMAPの地図ではコースタイムが1時間半だったが、昭文社の地図では2時間だそうだから、やはりコースタイムで歩いているということなのだろう。出発してから3時間20分。無事登頂。皆さん、まだ元気。これでリベンジは成功した。雲がかかって、見晴らしはない。先行した単独行の年寄りが座っている。この方は「この上りと剣ヶ峰山を回る下りとでは、どちらがいいですかね」と、稜線上の分岐で尋ねてきた。剣ヶ峰山を経るルートは下りが難しいとガイドブックにあるそうだ。「私たちは剣ヶ峰山へまわります」とだけ応えて先行してもらった。

 ここで皆さんは、食べ物を口にする。kwrさんはよく食べる。元気そのものだ。そのうち雲が取れてくる。前武尊山の姿が東南にみえる。その向こうに独特のごつごつした山頂を見せるのは燧岳ではないか。南へ目を転ずると、赤城山と奥日光の山々が重なっている。いちばん高いのは日光白根山、山頂が広く大きいのは男体山、皇海山は赤城山と重なってどれだかわからない。これから向かう剣ヶ峰山も稜線上にぐんと突き出ていて、見事だ。そこまでの稜線上のルートがまるで箱庭を覗くようにしっかりと刻まれている。

 

 若い男二人連れが登ってくる。聞くと、武尊神社を6時ころ出たそうだ。いいペースだ。「倍以上の歳だから」とkwrさんがふると、若い人は32歳だという。なんだ、45歳も年上ではないか。いいねえ、若いってのは、と誰かが言う。

 彼らをおいて私たちは出発した。9時10分。霞が掛かったり取れたりと、山の雲は忙しない。だがだんだん雲は取れて見晴らしが利くようになる。標高差200メートルくらいの下りは、平たい板状の石が重なるように置いてあって、歩きにくい。stさんは、これってわざわざどっかから持ってきておいたのだろうかという。まさか、なぜ? と聞くが、答えが見つかるわけではない。急斜面を下った後の稜線歩きは心地よい。後で花の名前を口にしてやりとりしているのは聞こえるが、私はゆっくりと前へ進む。


 あとでkwmさんやysdさんにまとめてもらったら、コゴメグサ、ツルリンドウ、ダイモンジソウ、ツリガネニンジン、カニコウモリ・・・、実の部…オオカメノキ、ナナカマド、ゴゼンタチバナ、ツバメオモト、花の部…ヨツバシオガマ、ホツツジ、アキノキリンソウ、オトギリソウ、ホタルブクロ、ミヤマコゴメグサ、ウスユキソウの仲間と、ずいぶんにぎやかだった。

 半ばまで来て振り返ると武尊山の山頂にまだ、二人の人影が立っているのがみえる。やがて彼らは動いてシルエットが見えなくなったから、彼らも出発したのであろう。歩行速度が速いってことは、山頂などでのんびりする時間がたっぷりあるってことでもある。いい日だもん、のんびりしたいわねと、言葉を交わす。こちらは年寄りだから、マイペースながら、のんびりとは歩いていない。

 剣ヶ峰山への分岐に来る。10時10分、コースタイムどんぴしゃり。先行していた単独行の年寄りが剣ヶ峰山から降りてきて、挨拶を交わしてまた、先行した。剣ヶ峰山は昨年の登頂地点。今回は寄らない。ここからの下りが、岩と大木の根とがつくる段差を、脚を置くところを探り、手でつかむところを探して、岩下り、木下りといった厄介なところ。去年は、このルートを上って、かつ、下った。「よく下ったねえ」と言いながら、今回も下る。

「そういえば去年この辺でホシガラスをみたね」

 と、想い起す。去年は6月。シャクナゲがきれいな頃だった。

 kwrさんが立ち止まって西の方の山を眺めている。谷川岳の位置の倉沢屋町が沢に向かった崖が周囲の緑に包まれた山腹と違って、際立つ。とすると、谷川の手前の稜線は白毛門や朝日岳ですねと、やりとりがつづく。万太郎や平標山は重なり合って分別がつかない。下の方に藤原湖が広がる。首都圏の水瓶ってやつだ。

 

 この下りは少し時間がかかった。それでも2時間ほどで、手小屋沢への分岐に出て、駐車場に着いたのは12時半少し前であった。出発してから6時間55分。休憩をふくめて、ほぼコースタイムで歩き通した。皆さんは、まだ元気。もう一度キャンプ場に戻り、トイレを使わせてもらってから、帰途に就いた。

 高速道は順調。3時半ころに浦和駅に着き、stさんやysdさんを降ろし、3時50分頃家に着いた。起きてから、ほぼ12時間。よく頑張った。この程度は頑張れる、と思った。

2020年8月19日水曜日

テント泊の武尊山

 一昨日(8/17)から一泊で、武尊山に行ってきた。じつは昨年の6/26に武尊山に向かったのだが、途中で一人体調を崩し、剣ヶ峰山から引き返した。今回はそのリベンジ登山というわけ。

 昨年の反省から前夜泊が良かろうと考えた。あいにく今年はコロナウィルスの関係で宿もなかなかムツカシイ。kwmさん夫妻はテント泊なら良かろうと、用具一式を購入した。私も十年ぶりか、テント持参、ほかの二人は宝台樹キャンプ場のバンガローを借りることにした。

 二日間とも天気は良好。

 

 少し早く着いたkwさん夫妻は、林道奥の駐車場まで様子を見てきたという。

「いや、すごい道だよ」と言って、kwrさんは笑った。大丈夫だ。彼の車も私のそれも四輪駆動。荒れた道には強いはず。

 テント場やバンガローの手続きを終わったころに、水上まで電車で来てバスに乗り換えキャンプ場の送迎バスでやって来たstさんがちょうど着いた。全部で5人。2人をバンガローへ案内し、テント場へ行く。

 カラマツの林のなかにちょうど二張りをして、ゆったりしたスペースがある。向こうのシラカバの林の方にも、大型のテントが二張りと、う~んと広いタープを張ってテーブルや椅子を置いた食事場所が設えられている。その間に水場と調理場がある。東の方には、シャワールームと洗濯場とトイレがある。

 バンガローの方にも、同じようにキャンプに必要な水場やトイレが設置してある。


 kwさんたちはテントを出して、グランドシートを敷き、組み立てをしている。何だか初めてのキャンプに来た高校生みたいに楽しそうだ。折り畳みのディレクターズチェアやテーブルまで用意している。車だからね、とkwrさん。この椅子、町内会のくじ引きで当たったの、とkwmさん。

 1,2人用の私のテントの組み立てはバンガロー組が手伝ってくれた。

 椅子とブルーシートに座って、白ワインを出す。kwmさんはアイスボックスにいれてきたビールを出してすゝめてくれる。stさんとysdさんももってきたおつまみを出して、山談義がはじまる。

 こうして5時ころまで過ごし、その後それぞれが用意してきた夕食の準備に取りかかった。

  至ってシンプルなのは、私。山食というのは、カロリーがあり食べやすいこと。その上、軽量で手間が簡単。おいしいとか食欲をそそるとかいうのは、戦後の食糧難の時代に育った私には無縁のもの。山食にはそれが幸いしている。今日はパスタにレトルトのパックをかけて食べた。お腹がいっぱいになった。ティッシュで片づけて寝る態勢に入る。酔っぱらっているから余計なことは考えない。

 涼しかった。寒くもなかった。来るときの外気温は、高速道は37℃まで上がっていた。だが、藤原湖付近は25℃くらいになっていたか。

 後で気が付いたが、このテント場の写真を一枚もとっていない。つまり私にとっては、まったく山歩き以外のことは、オマケなんだと身が反応していると思った。(つづく)

2020年8月17日月曜日

自立の根拠を何処に置くか

 先日(8/13)「些細なことに引っかかる」と、朝日新聞の天声人語氏の国民イメージを俎上に上げた。一昨日(8/15)の社会面の記事に「goto何を信じれば」と題して中央政府と地方政府のコロナウィルス対策に対する態度の違いを取り上げ、「真面目な人が損」と小見出しをつけて、「戸惑いの声」を取り上げている。増山祐史と記者の署名もあるから、この記者の立ち位置が出ているとみて良いのであろう。

 

 この記者も、天声人語氏と同じように、「行っていいのか、だめなのか。どっちなんでしょう」と千葉県の会社員・女性(34)が困っている様子を取り上げる。でも、この記事を読んで私は、何を困るのかと思う。知人と沖縄旅行を予約した。gotoキャンペーンで安くなるから、もっけの幸いというわけだろう。ところが沖縄では感染が拡大し、玉城知事が県独自の緊急事態宣言を出して「慎重に判断していただきたい」と暗に(来沖)自粛を要請する(ような)呼びかけをした。だが、キャンセル料は支払わねばならないことに、困っているというのだ。

 何を困るのだ。来るなといっているわけではない。政府が補助をしないと言っているわけでもない。補助を当てにして予約したのであれば、行けばいいではないか。ひょっとしたらコロナウィルスに感染するかもしれないと心配しているのかもしれない。だったら、どう予防すればいいかを心配するべきであって、キャンセル料を払わなくていいかどうかを気遣うのは、見当違いというものだ。

 感染しないようにするにはどうすればいいですかと、尋ねればいい。

 どこへ? さあ、千葉県保健所か沖縄県当局か厚生労働省か。

 

 東京都からのgoto-は排除しているから、都民が予約していたツアーへのキャンセル料は国が補償するという。それに対して、千葉県の人にはそれが適用されない。そこが不公平だと記事はいいたいようである。

 だがそうか?

 首都圏を一括して「他府県へgoto-しないで」というのなら、上記のケースは「不公平」といえる。だが東京都だけに限っているのだから、別にモンダイは生じない。

 

 つまり、この記事は、行っていいのか悪いのか、きちんと決めてよと、当局者に文句をいっているのである。当局というのが、政府か県知事か、旅をあっせんした旅行社かわからないが、それぞれの当局者は(法的には)適正に運用している。不公正も不都合もない。足並みがそろわないのは、立場が違うことだから、致し方ないではないか。ご自分で行こうとしたのではなかったか。

 増山祐史記者は千葉の会社員・女性に仮託して何を言いたかったのであろうか。為政者の「統一性」がないことを非難したかったのであろうか。あるいは、地方分権が確立されていなくて、沖縄県知事が「来沖禁止」を呼び掛けたいのに、そのような法的手段をとる権限がない。そのことを言いたかったのであろうか(これには一言も触れていないが)。あるいは旅の予約をしたのちに、沖縄県の感染状況が一層悪化している不安を、だれが汲み上げてくれるのかといっているのであろうか。

 

 そもそも千葉の会社員・女性を「まじめな人」と呼ぶわけがわからない。別段私は、彼女が「まじめでない」といいたいのではない。彼女を「まじめな人」と呼ぶことによって(記者は無意識に)バカにしているんじゃないか。旅の予約をした。その後に沖縄の感染が拡大した。でも為政者は、行くな/来るなとは言わない。不安である。自分で決めたことに迷う。バカだなあ、と。(迷うってのは、バカかい? 普通の人に普通にあることじゃないのかい?)

 どうしようと「困っている」ことを、どこかの誰かのせいにしたい。手ごろなところに、中央政府と地方政府の見立ての違い、立ち位置の違い、判断の根拠の違いをみつけたので、そこへ責任を転嫁しようと思った。だが論理的にはこの千葉の会社員・女性の「迷い」を救済する手立てはない。だから記者は、「真面目な人が損」をするという世俗的な俚諺に助けを借りたわけだ。でもこれって、マスメディアがやることかい? しかもこの記事を掲載する全国紙も、記者と同じ感性を持っているとみてよいであろう。

 

 コロナウィルス禍が提起しているモンダイの一つに、中央と地方の権力分立と財源の移譲があると、私はかねてよりとりあげてきた。だが明治維新以来、長きにわたって中央政府依存を続けてきた精華が、「まじめな人」なのだ。もちろんそういう臣民・国民をつくるのに、このマスメディアも協力してきたわけであるから、この記者も「責任を感じている」のかもしれませんね。

 ふふふ。でももし政府が、彼女のキャンセル料を補償するといったら、このマスメディアはそれに噛みつくであろう。筋が通らないからだ。

 つまりこのモンダイを解く鍵は、千葉の会社員・女性の自律/自立精神である。お上があなたの行動を決めてくれるわけではなく、ああしろこうしろと指図してくれるわけでもない。ことごとく自分で決める自由を保障しているのが、この国の政体だということである。

 

 そのスタンスを私は、悪く思っていない。自律せよ、自立せよ。国からも自律せよと、一律にいうわけにはいかないから、せめて依存しないで済む暮らし方を(ご自分で)探りなさい。

 長い教師仕事をしている間、私が青年期の若い人たちに呼び掛けてきた「テーマ」は、この一言であったと、振り返って思う。もちろん学校や教師や親や友人仲間から自律するってことは、「依存」が大勢の中にあっては異端扱いされるかもしれない。だが私のような戦中生まれ戦後育ちが「押し付けられた憲法」下で身につけてきた精神的な生活習慣は「自律」であった。

 修身斉家治国平天下という儒教のひとつながりにみている世界を、身と家と国と天下と全部、一つひとつ分節化して切り離し、それぞれにいかにするか、どう受け止めるか、どう突き放すかと思案する。そうして、わが身のおかれている立ち位置を勘案したうえで、それを結節点にして総合し(そのときどきのとりあえずの)、対応をする。それを自律/自立することだと思い成して過ごしてきた。

 

 若い青年たちからさんざん虚仮にされて私が学んだことは、私は(世界においては)一個のただの人であるという認識であった。教師という仕事は、高い教壇あってはじめて成立していると思った。ただの人である私が、教師面をして何を教えることができるかと考えたとき、教えることは何もなく、若い人が何か(ひょっとしたら学ぶことがあるかと思うきっかけ)を、場面に応じて提示することが教師の役割だと感じたのであった。だから、若い生徒たちが違和感を感じるようなことをつねに口にする。

 その起点は、「ただの人である私」が身につけてきた人類史的文化の総体だと居直ると同時に、じつは私自身が人類史的文化の総体を身に備えていないのではないかという自己批判的な視線。その双方であった。

「わたし」が人類だ。「わたし」が人間だ。「わたし」が日本人だ。「わたし」が一個の人だと、わが身を(場に応じて)生徒の前に突き出す。それが生徒の内面にスパークすることもあればしないこともあった。あるいは、それが(生徒ばかりか教師のあいだで)物議を醸すこともあれば、物議をかもした当の人とではなく、それを傍目にみていた人との間の精神的な裂け目が垣間見えたこともあった。

 そして、こう思う。教育というのは、文化の継承だ。だがそれが、言葉でなされると思うところが偏頗なのだ。心と体と精神と魂のすべてが総じて伝わっている。つまり暮らしの場を共にすることによって提出される「かんけい」の実存が伝えられているのだ。

 伝えようと思うことが逆向きに伝わるというのは、わが胸に手を当てて親父との相剋を想い起せばすぐにわかる。しかも年を重ねるにつれて、伝わったことも姿を変える。そうか、そういうことだったのかと、親父の33回忌になって思い当たることもある。それと同様に、何十年も経って、あのときのあの教師のあの言葉や振る舞いは、そういう意味であったのかと、ふと思い当たる。そのようなことを思い起こさせてくれるのを奇縁というのかと、仏教用語に思いを広げることもあった。

 

 そのことごとくが、いま思うと、私の自律の根拠であった。自律が私の生涯のテーマになったのも、親世代の起した戦争と敗戦が奇縁であったともいえる。あれで親父は社会と国家を分けて考えるようになったのではないか。そんな話はしたことがないが、親父の八百屋やスーパーマーケットの主人としての戦後の立ち居振る舞いをみていると、そう感じる。その親父の思いをいつ知らず受け継いできた「わたし」の身に沁みついたあれやこれの文化も、たぶん、何らかの形で子どもたちに受け継がれていく。その中心テーマが「自律/自立」であることも、すでに受け渡されているに違いない。

 マスメディアが、まだ「依存性」を前提に記事を書いているかと思うと、日本社会の「自律/自立」は、まだ先が遠い。そんなことを、考えた8月15日であった。

2020年8月16日日曜日

じかに目を見つめ合う「かんけい」

 山際寿一『「サル化」する人間社会』(集英社、2014年)を読んだ。ゴリラ研究者である著者が、ゴリラを鏡にして、わが身を映すように書き記したエッセイ。ゴリラの群れを観察する必須の通過点、ゴリラに受け容れられるようにコミュニケーションをとる方法が、餌付けならぬ「人づけ」。ゴリラの群れに身を置いて彼らの所作・振舞いをつぶさに観察することで、この群れがつくっている「かんけい」を解き明かしてゆく。京大の霊長類研究所が行ってきた方法を受け継いできている。その方法は、類人猿を研究するグローバル・スタンダードにもなって、研究を牽引している。

 じつはこの本、同じ団地に住む方からのお奨めで、カミサンが手に取った。その流れで私は読んだ。この方が山際寿一のどこに感銘を受けて「面白かったので」とすすめてくれたのか、まだ聞いていないが、団地の茶話会などで話を交わすうちのカミサンの、何かに共感するところを感じているせいかもしれない。ひょっとすると、2年前、私と一緒に団地管理組合の理事を務めたことで、「団地コミュニティの社会学的考察」に通じる、私の何かを感じているかもしれない。そのそこはかとない「感触」は、ご近所さんとしてはありがたい存在だと、常々思っている。ぼんやりと感じているので、いいのだ。

 

 『「サル化」する人間社会』の一番のポイントは、霊長類はアナログが本質ってことだ。人類に限らず、ゴリラもチンパンジーも、コミュニケーションというのは、じかに触れるもので交わされなくてはならないという一言に尽きる。

 ゴリラは目をのぞき込むように見つめ合って、共感性を自らの内部に湧き立たせていく、という。(今の)人は直に目を合わすことを避ける。それは山際寿一によれば、たぶんに近代的な「サル化」した人間社会の、もたらしたものだという。ゴリラと違ってサルは目を合わすのを避ける。それは「ガンをつける」「がんをとばす」という喧嘩の作法に含まれる挑発行為。つまり、「かんけい」に優劣を持ち込み、その決着をつけるのが、その目のうごきだ。「目をのぞき込む」のは、優劣を含まない「かんけい」において、有効に作用するコミュニケーション手段だというわけである。

 わかるだろうか。群れのボスゴリラに対しても、目をのぞき込むようにする子どもゴリラは、じつは優劣とかを感じていない。彼らの群れに、そのような「かんけい」がない、という。

 これを知って私は、中動態という言葉を想いうかべた。原初の頃のことばには、じつは優劣や高低、勝敗という価値的な意味は含まれていなかった。それが時代がすすむにつれて、ひとの「かんけい」に価値的な善悪や良否が含まれてくるようになり、モノゴトを価値的に見るものの見方が伴ってくるようになった。

 つまりヒトの文化は、ゴリラ時代から現代にいたるにつれて、つねに力関係を身にまとう「かんけい」に終始するようになり、いまやその出発点をかたちづくっていた「家族」ですら、解体して個々人単独の思いが先行するようになり、その結果、「サル化」していっていると山際寿一はみている。

 

 デジタル化の時代に生きている人たちには、なかなかわかりにくいかもしれないが、ヒトとヒトとの「かんけい」は、間接的になってきた。電話もそう、ファクシミリもそう、電子メールもそうだし、インターネット社会というのも、文字通り間接的な「かんけい」である。こうすることで、上下関係や避けがたい優劣関係を、文句の付け所のない必然的なシステムと観念させている。それに適応しようとするヒトの習性が、ますます人間を変質させてきている。そう山際寿一は、みてとっている。

 読み終わって以下のような「お礼状」を書いた。

                                          ***

 面白い本を紹介してくださり、ありがとうございました。まずカミサンが読み、その後に私も読ませていただきました。近年の私の関心事と重なり、いかにもゴリラ研究者らしい山際寿一の軽妙な語り口に引き込まれました。

 近年の私の関心事というのを「テーマ」にすると、次のようになりましょうか。

(1)「家族」「家庭」がどう変わって来たか。

(2)文化をどう受け継いできているか。

(3)人間とはなにか。「わたし」とは何か。

(4)「平成」という時代が浮き彫りにした戦後75年。


  (1)と(2)の関心が進化生物学とかかわってきます。また、生命進化の現在である(3)は、戦中生まれ戦後育ちの私が、どう文化を受け継ぎ、どのように変遷してきたかを問うことに向かい、とどのつまり、デジタル時代の進展やAIの進化によって、時代と人間が大きく変わってきてしまったことから目が離せなくなっています。そうして、現下の新型コロナウィルス禍です。

 振り返ってみると、私(たち)の生きてきた時代というのは「特異な時代だったのではないか」という感触です。その視点から山際寿一の『「サル化」する人間社会』を眺望すると、私の関心の原点を一望するような気分でした。

 山際寿一のメッセージの要点を、私は次のように受け取り、好感を持っています。


「霊長類の起点は、共感性と共存性にある。その社会関係をつなぐコミュニケーションは、直に目をのぞき込み、見つめ合うようなアナログ的なものである」


 あなたが山際寿一のどんなところを面白いと感じご興味をもたれたのか、ぜひ一度お聞きしたいと思います。ありがとうございました。

2020年8月15日土曜日

期待するなってことよ

 先日(8/10)「科学的知見と現実的実効性の間」と題して、TVで耳にした「コロナウィルスに効くワクチンなんてできませんよ」ということについて、これ、どういうこと? と准専門家に尋ねた。この方、薬学の専門家ではなく、現役時代に薬を扱う業界に身を置いていた方。ご近所の友人である。

  以下のような返事を頂戴した。


***  MGSさんからの返信(2020/8/15)

 相変わらず生真面目に悩んでますね! 私なんぞは右の耳から左へ、中間にフィルターなしなので、何の悩みもありません。難しいお話で、回答などできる訳ありませんが、私なりの理解??をまとめてみます。


 まず第一番目に、「コロナウイルスに効くワクチンなんてできない」という発言の背景が分かりませんね。第二番目に、ワクチンの事を聞く相手を間違えています(笑)

 と言いつつ、「ワクチン開発について」

 

1.細菌やウイルスに対する、それぞれにメカニズム(作用機序)の異なるワクチンが多数存在します。

2.同じウイルスに対してであっても、研究チーム毎に異なったメカニズムのワクチンになる。メーカーが違えば作用機序が異なる。

3.ワクチンとして人体に投入する「抗原」としてウイルスのパーツの何を選択するかで違ってくる(例:ウイルス本体を弱毒化、DNA、DNAの構成要素であるRNA、ウイルスの突起部分のタンパクなど)

4.病原体は何れも「生き物」なので、環境や薬物に暴露することで生理機能を変化させて生き残ろうとする(進化又は変異)。つまり薬は効かなくなる。

5.感染症の薬の開発は、常に病原体の変化(変異)のスピードとの競争です。

6.太陽のコロナに似た形状からコロナウイルスと云われるそうで、その正体はあの突起ですね。

7.コロナは先ず、その突起を使って動物の細胞に侵入する。次に宿主のDNAを乗っ取って自らのコピーを増やしてゆく。

8.ワクチンは感染の各段階でウイルスの使うパーツ(抗原)を事前に免疫系に投入して学習(抗体産生)させる。

9.開発段階でどのパーツを抗原として選択するかで各社のワクチンの寿命が異なると思われる。年末か来春には供給が始まるので一息つけるだけであって、変異したニューバージョンのウイルスへのワクチン開発は永遠に続く。マーケットはだんだん小さくなる。

10.もし、抗体のできにくい人がいても、ワクチンが普及して社会全体で集団免疫の状態(長い年月を要するが)になれば、結果としてその人も感染リスクは下がる。

11.地上から撲滅されたと云われる「天然痘」のワクチンは極めて強い免疫を発現すると云われたし、その上に変異の遅いパーツを選択したという幸運に恵まれたのかも知れない。

12.100%が無いのは自明であるが、「コロナに効くワクチンはできない」とはウイルスは変異し続ける事を言っているのか?

 

 因みに、「臨床試験について」


1.ワクチン(抗原)を投与すると抗体(免疫タンパク)が産生し、その量が多く、長期間維持されるほど有効だといえるが、必ず必ず個人差がある。

2.インフルエンザワクチンでもガッチリ効く人もいれば、罹患するが軽症の人、罹患して酷い目にあう人、死亡する人、様々だが上記1.の違いが大きい。

3.通常、臨床試験での「有効率」というエビデンスを基に医薬品としての承認が判断(安全性は当然)される。旧来の薬より有効率が低ければ原則、承認されないが、今回は新薬なので、多少甘い(滅茶苦茶甘いかも?)。

4.体内産生した抗体の量や保持期間の測定、投与量の設定などは初期段階の試験で、臨床試験の第1相、第2相の段階。ここで第3相以降の可能性を判断する。ロシアを含めて先行する5社ほどはこの段階だと個人的に思っている。

5.真っ新の健康人にワクチン投与し、感染者の中に放り出し、有効性と安全性を判断する最終段階はこれから始まる。ここからは人道的に問題の大きい試験だし、コロナを制圧したといわれる中国や一部のアジアの国ではもはや患者が少ないので、試験が進まない。だからブラジルとか特定の国でやることになる。

6.特に安全性に関しては年単位の時間を要する。プーチンは明らかにフライングだが、別の意図があるのだろう。選挙目前のトランプを揺さぶっているのか(笑)。


 福島の時もそうでしたが、専門家というのは業界用語をひけらかして満足しているばかり。マスコミを含めて、迷える子羊を安心させるまで手を尽くさない! また、レイムダック状態の安倍政権は経済界の声しか聞いてなく、責任をすべて国民に押し付けて逃げ回る。腹立たしく暑苦しく息苦しい夏が続きます(笑)。

 思いつくままに書きましたが、私などには到底及ばないお話でした。 笑ってやって下さい。  MGS 


*** 差し上げた返信。

MGSさま

 ご丁寧な返信、ありがとうございました。おおよそのイメージは、つかめました。ワクチンにそれほど大きな期待を寄せるってことが、今の段階では無理だよと教えていただいたようです。

 でも、政府もすっかり「自己判断で」という態度をとっていますので、年相応の自己防衛をしなくてはなりませんね。ワクチンなんて、遠い未来に期待しないで、日々人混みを避けて、野や山へ出かけるしかありません。

 渡哲也が私と同い年です。こちらは、まだ生きている幸運を言祝いで、何時でも彼岸へ渡る心もちだけは持っていようと考えています。

 お互い、(と言ってもあなたはまだ若いのですが)頑張りましょう。

2020年8月14日金曜日

うっかり出歩いてしまった

 昨日(8/13)、師匠のお誘いもあって東松山の武蔵丘陵森林公園へ足を運んだ。森林公園は師匠のホームグラウンドみたいなもの。私は7/19に所用があって行ったのだが、こんなに歩きどころがあるとは思わなかったので、面白いと思っていた。

 ひとつ誤算があった。一般道を通らずに、高速道を行った。一般道よりも30分ほど早く辿りつける。近頃は運転に神経を使わなくて済む高速道を走るのに好感を持っている。ところが、お盆休みに入ったことを忘れていた。9時過ぎというのに、早々と関越道の下り線は三好SA辺りから込み始め、なんと高坂SAまで渋滞であった。東松山ICで降りて目的地に着くまで、結局一般道を走ったときと同じ時間を要してしまった。若い人たちは、お盆でもなんでも、休みとなると、どっと繰り出す。田舎へ帰る人もいるだろうから、地元の年寄りがその中に割り込むことなんか、やめてほしいと言われるよね。ふだんならそう考えて、引きこもっているのだが、木曜日なんだからと軽く考えていたのが間違いのもとであった。

 

 ところが森林公園は7月のときよりも空いている。到着したころの気温は35℃。前日の大雨のせいもあってか、森はしっとりと湿っぽい。それでも緑の木陰が涼しく感じられる。舗装路を歩かず、給料の中央部を南北に貫く谷間を辿る。ほとんど人に出会わない。師匠はときどき立ち止まって、木や草の名前を教えてくれるが、右から左へと私の中を抜けていく。教えてくれた木や草の写真は(間に合わせの)カメラに収めるが、後でみると焦点があっていない。ピンボケの何十枚をみながら、まるで私の頭の中みたいと思った。霞がかかったようにボーっとしている。

 ただ私は、こういう森の気配の中に身を置いているだけで、うれしくなっている。汗ばむ身に虫が寄ってくるのをときどき帽子で払いながら、気温も5℃くらい低くなっているんじゃないかと思って、涼しいと感じている。

 向こうの茂みの中に三脚をつけたカメラが置いてある。んん? とよく見るとそこから5メートルほど離れたところに男が一人腕組みをして立っている。何を待っているんだろう。何をみているんだろう。師匠は蜘蛛や蝶、蜻蛉にも目を止め、これは巣をつくらない蜘蛛でね…と説明してくれる。あるいは、立体的な蜘蛛の巣というか、明らかに三次元を意識した蜘蛛の巣をつくるのもいる。これも、ふ~んと聴いてはいるが、名前が頭に残らない。収めた写真も、蜘蛛や蜘蛛の巣の背景の草木の葉がくっきりと映っていて、前景がぼやけている。

 

 前方上部に吊橋が現れた。そうだ、ここを渡ると「何とか広場」に出るのだったかと思い出して、吊橋の根方の方へ向きを変える。中学生らしい、ジャージ姿の男の子たちが別の通路から現れ、お喋りしながら吊橋を渡っていった。その向こうにあったのは「運動広場」であった。子どもたちが喜びそうなトランポリン様の遊具がある。7月のときは日曜日だったせいで、はしゃぐ声が響いていた。今日は、ポツン・・・ポツンと姿が見えるだけ。静かであった。

  中央レストラン近くの木陰でお昼にする。中学生がやってくる。小さな子ども連れの家族が立ち寄る。ニイニイゼミの声が落ちてくる。

「記念広場」に出る。前回来たときにもここを通ったが、「何の記念?」とさえ思わなかった。石垣が組まれ「お城でもあったのかしら」と師匠が行ったので、おや、なに? と埋め込まれた石碑を読んだ。「明治百年を記念して・・・昭和42年から7年余の歳月を費やして建設省が整備した」と、得意満面の「建設省」の顔が浮かぶ。そうか、50年前の大事業ってわけだ。「国立武蔵丘陵森林公園」と名を冠するのに、「建設省」がせせり出てくるってところが、昭和中期らしい匂いがする。

 そこから北西ゾーンに入る。水の流れる「渓流広場」も、コロナ対策のため「水遊び禁止」となっていて、子どもたちの姿も見えない。暑い陽ざしが照りつけている。

 

 「植物園」へ行き、その途中から泥沼の森へ下っていく。溜まり損ねた水の沼が広がる。回り込んで「←西口」へ向かう。二組だけ、ペアと水遊びをしてきたばかりの家族連れと出逢った。森は深い。カナカナゼミの声が加わる。ほんとうに静かな散歩道だ。大きく回り込んで西口近くから南口へ進路をとる。ここは舗装路。園内のバスがやってくる。3人乗っていて、なぜかホッとする。誰も乗らないと、運転手が無力感に襲われるんじゃないかと、脈絡なく思った。

 7月に歩いた野草コースに入る。師匠はここが気に入ったみたいだった。秋の七草の走りをみて、サラシナショウマとかツリガネニンジンやフシグロセンノウの、暑さ負けして終わりそうな気配をみた。

 

 こうして約4時間ほどを公園内で過ごし、駐車場に戻った。民営駐車場のお年寄りが「よく頑張ったねえ」と私の顔を見て褒める。ふと、「明治百年記念」ということを思い出して「いいところですね。50年も前なんですね、できたのは」と挨拶をすると、「いえね、ここの土地を購入するのが大変でしてね。なにしろクニのやることだから安い。当時は高度成長期で、土地が値上がりするって言われていたからね。」と昔話をする。ついでに「土地代で95%事業費は片づいた。あとは整備って言っても、たいしたことをしたわけじゃなくてね」と、辛らつだ。元気にして、またお出でと分かれた。

 

 高速に懲りたから一般道を浦和へ戻ってきた。ところが、浦和に入るころにピカピカド~ンと雷が響く。烈しい雨が降り注ぐ。車には落ちないって平然と走っていたが、そのうち、水溜りに入り込んだら大変と気遣うようになった。低いところで、対抗車が大きく水を跳ね上げて、視界を遮る。速度を落として、危険地帯を通過するように進む。傘を持ってきていないことに気づいたのは、家に着くころ。このところ、遊ぶとなるとそのことだけ。買い物となると、やはりそれだけ。一つことしか頭に入らなくなった。夕立が来るから傘を持っていくとかいうのは、フクザツすぎて適応できなくなっているのかもしれない。

 うっかり出歩くのもそう。肝に銘じなくちゃあ。

2020年8月13日木曜日

些細なことに引っかかる

 今朝(8/13)の朝日新聞の「天声人語」を読んでいて、ひとつ、ひっかかった。


《▼先日、全国知事会は帰省を控えるよう呼びかけた。ところが担当大臣は、「一律の自粛要請はしない」と逆を言う。これではだれもが迷うばかりである▼……》


 どうして「迷う」の? 全国知事会は、知事の立場で考えている。政府は政府の立場で考えている。それが一致しないからと言って、非難することはない。むしろ、その違いがどういう立ち位置の違いから生じているかをモンダイにするなら、わかる。「だれもが迷うばかり」という「だれも」って誰のこと? どうして迷うの?

 天声人語氏は、国民は知事や政府のいうことと同じ立ち位置に立てと言っているんだろうか。彼らが、国民のお盆の過ごし方について、モデルを提示し、国民はそれを受けて自分の行動の決定をするのが当然と考えているのだろう。でも、そうかい?

 

 国民は中央政府や地方政府に頼りっきりということが前提になっている。ほんとかい? それとも、そういう社会が、このメディアの(当然とする)前提なのだろうか。むしろ朝日新聞などは、個人の自律を(当然の)前提として、記事を書いているのではないか。にもかかわらず、このように平然と、国民が政府に頼りっきりということを当然としてしまう「愚」を、天声人語氏は犯している。


 些細なことに引っかかっていると思うかもしれない。だが、この些細なことが、メディアや政府や地方自治のスタイルに影響しているのだ。メディアは、全国一律の処方箋が出せない状況であることを知らないわけではないだろう。

 むしろ、全国一律の処方箋が出せないことを前提に、中央政府は地方各政府に権限と財源を移譲する法律を、早く制定すべきなのだ。中央と地方の立ち位置を早くから定めて地方分権を実現しようという話は、もう、20年も前から湧き起ってきていた。その推進が、コロナウィルスという急場になって迫られているのだから、準備できていないわけではあるまい。たぶん今の中央政府には、その発想がないのだ。知事会に、ないわけではないが、何しろ財政的な首根っこを中央政府に抑えられているから、言いたいことが言えない。ひたすら、「お願いする」姿勢を保つ以外になす術がないのだ。

 

 今朝は(炎暑の中)朝から出かけていた。帰ってくるときには、突然の大雨と雷で、浦和地区を走るのはたいへんであった。ハンドルを取りながら、暑い日の夕立はあたりまえなのに、どうして傘を持って出なかったろうとうかつさを悔やんだ。そんなことと同じかもしれない。身体はいつも、身に染みていることを当然として反応するのだ。天声人語氏も、案外、日ごろはそういう目をもって国民をみているのかもしれない。

2020年8月12日水曜日

賑わいの沢歩き

 昨日(8/11)の炎暑の中、棒ノ折山に行った。奥武蔵の有間湖近くのさわらびの湯に車を止め、白谷沢を目指す。山の緑が鮮やかに感じられるほどくっきりしている。熱い陽ざしを浴びて歩き始めたのは、8時ころ。ダムの堰堤が止めてできた有間湖の水量は少なくはない。7月に降り続いた雨が雨こまれているのであろう。湖岸の空き地に何台もの車が止まっている。沢だけを登って往復する人たちは、ここに車を止めておくこともできるそうだ。ただ、それほど空きが多くはない。

 白谷沢橋を渡ると、センニンソウが白い花をつけている。つる植物だと帰宅してから教わった。その脇を通ってすぐに、山中に踏み込む。標識は「棒の嶺」と山頂のことを記している。

 

 口唇様の花をつけたしっかりした細い葉が目についた。あとで聞いてみるとハグロソウではないかという。「山に咲く花」(山と渓谷社)で引いてみると、「山地の木陰に咲く多年草」とある。花期は9~10月とあったが、近年の暑さで早まっていても不思議ではない。

 白谷沢の流れを日取り下にみながら、足場のしっかりしている杉林に囲まれた登山道を緩やかに登っていく。やがて沢沿いに出る。前に小学一年生くらいの子ども連れの父子が慣れた気配で、沢を歩いている。二人とも軽装。父親は沢歩きになれた様子だ。若い人も、中高年も、後から来て追い越してゆく。先頭のkwrさんはいつものペースだから、コースタイムでのぼっている。だが、後から来る人たちは、ペースが速い。若い人はそのペースで登るのだろうが、中高年は、途中で休んでいて、私たちが先行する。結局、山頂には私たちが先に着く様な調子であった。つまり、山歩きになれていない人たちに見える。でも、涼しい沢歩きのせいか、ずいぶんたくさんの人が入山している。

 そうか、昨日が「山の日」だった。岩茸石から先は、別のルートから登ってきた人たちが合流して、登山者数がもっと増えた。棒の嶺の山頂を目指す。

「ここで待っている」と、途中のゴンジリ(権次入)峠で同行者に声をかけている女性グループもある。コースが変化に富み、人気の山なのだ。

 ゴンジリ峠から山頂まではほんの20分ほどの急登。樹林の間を歩くから、陽ざしを受けない。東屋が建つ山頂は、しかし、強い陽ざしを受けて、皆さん日陰の木立に隠れている。マスクを着けたままの親子4人連れもいて、たいへんだなあと思う。私たちもほかの方々も、マスクはしていない。北の有間湖を挟んで有間山や蕨山から河又(さわらびの湯)へ下る稜線が一望できる。名栗の観音様も緑の木々の間に顔をみせている。

 一休みするが、まだ11時とあって、昼にはしない。20分ほどの休憩を取り、下山にかかる。「やっぱり下山は早くなる」とkwrさんは調子がいい。急斜面は、木の根を踏んであちこちに踏み跡が広がっている。登ってくる人が絶えないが、煩わしくない。若い人が一人、追い越して下って行った。

 再び岩茸石まで下り、そこから河又への稜線沿いのルートをたどる。その途中で麓の正午のチャイムが聞こえてきて、「そろそろお昼にしようか」とシートを敷いて座る。風が通って涼しい。このルートに入ってからは、一人も行き交う人がいない。登山者の多いルートと静かなルートに分かれているみたいだ。

  この先の稜線歩きは、落葉広葉樹の林とよく手入れのされたスギの林を辿る。傾斜もそれほど急ではなく、よく踏まれていて歩きやすい。やがて車のエンジン音が聞こえるようになり、標高差も150メートルほどか。ときどき木々の間から河又の建物が見える。子どもたちのはしゃぐ声が聞こえるようになると、河原が見える。名栗川の河原がこんなに広いとは思わなかった。たくさんの親子が水に浸かって遊んでいる。こちらは汗が噴き出すようになった。

 下界に降りた。河又の入口の橋が見える。こちらはショートカットして、さわらびの湯の駐車場への舗装路を上る。これが急にきつい傾斜に思えて、脚が重くなる。到着。13時7分。歩き始めてから5時間8分。コースタイムで5時間10分のところを、山頂やお昼でそれぞれ20分の休憩を取りながら、ほぼコースタイムで歩いている。やっぱり喜寿高齢者としては元気といわねばならない。ありがたいことだ。

2020年8月11日火曜日

発狂するしかない


《日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で理事会を開き、外食時の居眠り写真がネット上に拡散した田子ノ浦親方(元幕内・隆の鶴)をけん責の懲戒処分とした。協会よると、同親方は不要不急の外出自粛が求められていた7月17日、東京・台東区の飲食店で友人と会食》

 

 とTVが取り上げている。「面白おかしく取り上げている」のなら、それはそれでいいのだが、TVのコメントの方向は、「やっぱり自粛が求められていましたから」と、行儀よく知なさいねと舵を切る。おいおい、いつからTVは道徳家のメディアになっちゃったんだい? 


 場所中に親方というのがどれほどのプレッシャーを受けるのか知らないが、ま、いろいろあるであろう。不要不急というが、外で食事をするのや友人と会うのがそうであるかそうでないかは、誰が仕切るんだい? 要するに関係者に要望していることなんでしょ。それを逸脱するやつがいたって、しょうがないんじゃないか。褒めることではないが、「泥酔して寝ていた」っていうのなら、何がモンダイなの? 無様なカッコウをさらすなと言いたいのかもしれないが、相撲取りって、そんなに道徳的にエライのかい? モハンでなくちゃならないって、誰が、いつ、そういっているんだい? 

泥酔する親方もいるよ、キャバクラへ行く関取もいるよっていうのは、イケナイのかい? 相撲取りってそんなにリッパでなくてもいいんじゃないかな。そもそも、遊びじゃないか。いや昔は神事であったって「そもそも論」を繰り出す人もいるであろうが、今の日本相撲協会が宗教団体であるとは聞いたことがない。また、神に捧げる体技であるというのなら、その昔、裸踊りをして暗闇の世界に陽ざしを呼び寄せたことを想い起せば、人の世界の道徳的な振る舞いの模範になれなんて、ケッ、ってもんだね。


 いや今は、俗世界の話に戻そう。田子ノ浦親方の振る舞いに、どうして日本相撲協会が「処分」をもって乗り出すのか。これじゃあ、相撲取りってのは、日本相撲協会のまるごと抱え込まれたドレイみたいなものじゃないか。関取にせよ、親方にせよ、その個人のプライバシーってものがあるんじゃないか。日本相撲協会のやり方をみると、ひとたび相撲の世界に入ったら、興行主・相撲協会の雇われ人になってしまうのかい? 芸人みたいに、不倫をしたって叩かれるのもいれば、公然と二号さんを囲っていても、誰も後ろ指をささない大御所だっている。それって、何処で線引きしてんだよ。


 いやそもそも、家の外で泥酔したってのが公の処分の対象になるってのは、人のプライバシーという個人世界がなくなっちゃったってことだよね。SNSに乗って広がっちゃったんだよっていうんなら、勝手のそれを広げた連中へ「非難」の矛先をむければいい。プライバシーを勝手に「公開するなよ」って。日本相撲協会は、むしろそうやって自らの参加の連中を守ってやる組織じゃないのかい? 

「情報が公開されるんだから、その段階でプライバシーはないんだよ」って理屈が付けられないわけではない。となると、SNSだとかいうのも自ら「(情報を)公開」してんだから、それがどう「非難」を浴びたり、誹謗中傷されたりしても、全部受け容れるべきってことにはならないか。世の中に誹謗中傷して留飲を下げるやつがいるってことは、当たり前くらいあたりまえの話だ。人を謗ることに快感を覚える人がいるってことも、周りをみれば数多入ることもすぐわかる。TV番組に出るとか、名を売るエンタメに顔をさらすってのは、それ自体が「公」になるってことだとすると、それが口撃や攻撃を受けるのは、世の習い。そういう時代になっちゃってるんだね。とすると、誹謗中傷を受けたくなければ、そういう「公」に世界に顔を出さないようにするしかない。私は、それが、賢いとは思わないがね。


 悪いやつがいるのは歓迎することではないが、コロナウィルス同様、共存するしかない。できるだけ場を分けて立ち位置を定めて、出くわさないように暮らす。君子危うきに近寄らずってわけだ。

 だが、世の中が「情報社会」っていうか、なんでもかでも「公開」されてしまうと、「わたし」のプライバシーもへったくれもなくなる。「わたし」自体が、世間様にお見せするようなヒトではない。むしろ(道徳的にいえば)害毒に近いことが内面にふつふつと湧き起ってくることがある。お恥ずかしいが、それが事実だから、しょうがない。

 つまり「わたし」は、情報社会では発狂するしか道が残されていない。

 ある日突然、機関銃をぶっ放して無差別殺人に走るかもしれない。ま、この歳になって今、それほどのエネルギーが残っていないから、たぶんそういう振る舞いはしないであろうが、「わたし」が田子ノ浦親方なら、そんなことが起こるかもしれない、と思った。

2020年8月10日月曜日

科学的知見と現実的実効性の間

 昨日(8/9)の何かのTV番組で専門家(医師?)が新型コロナウィルスのワクチンについて「コロナウィルスに効くワクチンなんて、できませんよ」と喋っているのが耳に入った。

 えっ、どういうこと?

 これまでのワクチンできっちりと効いたのは天然痘のワクチンだけだともいう。


 へえ、だとすると、子どもが小さいころに打っていた三種混合とか麻疹の予防接種っていうのは、なんだったのか。どうも百パーセント効くのはできないということのようだ。なんだそうなのか。うん、そうかもしれない。でもそうだよね。実効性が何パーセントかってことは、どのワクチン生産者も言わないし、医者も言わない。

 考えてみるまでもないが、私はワクチンのことを何にも知らない。だから、この専門家が「コロナウィルスに効くワクチンなんて、できない」という言葉が、何を言っているのか理解できないのだ。

 この番組の専門家の言葉は、番組の素人の言葉が「百パーセント効く」ような響きを湛えていたのに対して繰り出されたものかもしれない。あるいは、副作用もあり、ワクチンができたという言葉が持つ魔術的な力=全面解決というトーンを否定しただけのものかもしれない。


 番組の中でのやりとりは、ロシアのワクチンがこの秋には出来上がるというのは信頼できないという話題に移る。ロシアは一切研究過程や論文を公表していない。たぶんにプーチン政権の世論操作というニュアンスだ。

 その言葉が私の胸中で(そうだよなあ)と共感的に響くのは、プーチン政権が批判的なジャーナリストに対して行ってきた「裏社会的暴力の行使」を重ねて考えているからだ。かつてソビエト時代にプーチンがKGBに属して仕事をしていたことも、一つの要素に入っているかもしれない。

 市井の民の情報受容の回路は、日ごろのさまざまな立ち居振る舞いのフィルターで濾過して、総合的に「認識」をする感性をなしているのだ。「ある情報」に関する「エビデンス」というとき、常日頃の信頼性が、その「情報」を受け容れる感性の土台になっている。加えて、政権やメディアや「エビデンス」を発表する当事者が、自らの利益を損なわないように配慮することも知っているから、「いいものができた」と誰かがいったからといって、すぐに飛びつくわけではない。だが藁にもすがりたい情況のときには、飛びつくかもしれないと思う。危ういところに立っている。

 件のTVの専門家は、それに警告を発していたのかもしれない。


 では日本政府が「確保した」とされる、イギリスやアメリカの期待されているワクチンはと、番組の関心は移ってゆく。単なる「予約」にすぎない、ウィルスに効き目のあるワクチンというのはできないのだと繰り返している。「罹患するかもしれない」ともいっている。

 おっ、「罹患する」って?

 まったくの素人である私などの受け止め方でいうと、ワクチンへの期待は、これを打てばコロナウィルスにかからないと思っている。もちろん全面解決するとは思っていない。効き目が2カ月しか持たないという噂も聞いている。今は世界中が手探り状態だと思うから、怪しいのから、ひょっとしたら効き目があるかもしれないというものまで、受け容れたいという心の準備はできている。その真贋を見分ける地点で、「ワクチンなどできない」と言われると、ええっ、この人何を言ってんのと思うのは、当然である。


 副作用などもありうることではあろう。それ以上にウィルスを(ワクチンというかたちで)やわらかく取り入れて身を馴染ませようという処方なのではないか。ワクチンが効くというのは、罹患の体内侵入の速さを和らげて、身に抗体をつくることではないのか。「罹患する/しない」という言葉が、何を境として使われているのか。そう考えてみると、専門家と素人の用いる言葉の違いも、ひとつひとつ明らかにしながら、やり取りをしなければならないのかもしれない。


 素人というのは、モノゴトを知らないと専門家は思っているかもしれない。だが素人の側からいうと、専門家は彼のやっている狭い世界に限定した「エビデンス」で仕事をしているにすぎない。世界の断片なのだ。素人こそがそれら断片を突き合わせ、「せかい」を総合的にとらえている。だからもし新型コロナウィルスに対する処方としてワクチンでもなんでも提示するのなら、断片ばかりを喋ってないで、総合して喋ってもらいたいのだ。もしそれができないのなら、どう限定した断片世界を舞台に喋っているのかを明らかにして、コメントを加えてもらいたいと思う。

 

 自分の、モノゴトを知らないことを棚に上げてこういうふうにいうと、失礼かもしれない。だが私は、私自身がモノゴトを知らない素人とまず断っている。だがいくら知らないと言っても、最終的な判断と振る舞いは総合的に行わないわけにはいかないし、日々そうしている。そういう立場を、ぜひとも汲んで、メディアではコメントをしてもらいたいものだと思う。

2020年8月9日日曜日

縄文という「現代」に思いを馳せる

  荻原浩『二千七百の夏と冬(上)(下)』(双葉社、2014年)を読む。先日キャンプ場にテントを張ってワインを友に読みはじめたのが、この(上)巻。関東北部のダム建設地で発掘された二体の人骨が、取材記者の関心を介在させて、作家の胸中で動き始める。

 2700年前と推定される時代が、縄文末期であり、稲作も発生していたと言われる、後付けでいうならば弥生初期でもあるころの、関東地方の山間と谷間を舞台に、二体の人骨がどうして、このような恰好で発掘されるに至ったか。逆にいうと、どういう情況が2700年前のこの二人に起こったのかに思いを巡らせ、その時の暮らし方、集落や集団の関係の在り様、その接触点での悶着の片づけ方、それへの違和感がどう起ったか、どうか。

 なにがしかの証拠(エビデンス)に基づいて仮説を立てはするが、物語り化するのは慎むというのが考古学者の好ましい態度。それを入口にして、新聞記者は現在地点からのモノゴトの価値を加味して推量を重ね、断片として報道する。

 その記事を読む者の立場はどうであろうか。

 そうか、あのダム建設地のあの場所に堆積していた年月の積み重なりへ、わが想いを誘っているのが、この二体の人骨なのかと考えるのが、いわばもっとも深い受けとめ方といえようか。そう考えて新聞記事の断片を組み込み、あたかも2700年の時空を一挙に飛び越えて、思いを馳せる。それを引き受けたのが、荻原浩という作家であったと、読み終わって感じている。二体の人骨に対する最も好ましい想像力の置き方である。

 

 私たちの現在の暮らしがどう築かれてきたかを考えるのを、具体的に目に見える形で受け継いでいると思える最古の形は伊勢神宮の神官たちの振る舞いと、以前にも記したことがある。だがその初発の、稲作が始まるところとそれ以前との、いわば灰色の何百年間の人の暮らしは、現代の私の暮らしからみると文字通り考古学的な時代としてかっちりと分け隔てられ、原初の時代と謂う化石化した時代区分に収められて動いていない。

  荻原浩はそれを、目前に据え、人物を起ち上げ、その集落の様子を日々の振る舞いを取り混ぜて、動態的にイメージする。すると、森や山や谷や木々を舞台に生きている動物たちとヒトたちの振る舞い、ときに獲物を追う縄文人というだけでなく獲物として追われる立場に立つヒトの身のこなしに、地形をみて天候を読み、木々や動物たちの得手不得手を読み取って対処する知恵が浮かび上がる。知恵が知恵としてだけでなく、人と人との間のかかわりによって作動したり隠匿されたりするという所業もまた、今の時代と変わらず繰り出されただろうことも組み込まれる。

 

 ちょうど山間のキャンプ場のテントに身をおき、木陰に読むのにはうってつけの物語であった。ましてその翌日の山が、「幸運頼りの限界」を知らしめたスリリングな山行になったことも相俟って、荻原浩の叙述が、わがコトのように沁みこんでくる。

 と同時に、ほんとうに遠くへ来たものだと、わが身の手足の延長が、まことに便利至極、力を発揮している幸運の極みと感嘆せざるを得ない。

 読みながら文字通り2700年の時空を飛び越えて、この小説の主人公に共感を覚えながら、しかしどこかで、時空を飛び越えているわけではなく、荻原浩と時代の感覚を共有しているにすぎないことも、承知している。別にそこまで事細かく腑分けしなくてもいいではないかという声と、しかし、そうした違いの感触を忘れてしまっては、単なる夢想の世界に遊ぶだけに終わるよという声を、共に聞いていることを意識しているのでした。

2020年8月8日土曜日

手詰まりの米中関係か

「東アジア共同体評議会/The Council on East Asian Community」のメールマガジン(2020-07-30)を見ていたら、「米軍による南シナ海人工島爆破は合法」という表題のエッセイが目に止まりました。

 えっ、そんな事件があったの? と目を疑ったのです。

 書き手は倉西雅子(政治学者)。アメリカのポンペオ国務長官が行った中国に対する痛烈な批判演説に触れて、「南シナ海域に中国が建設した人工島に対する米軍による爆破も取沙汰されています」とつづけていました。いわゆる専門家筋の想定するありうる事態ということだとわかりました。

 

 中国が主張する南シナ海の領有権については、2016年に常設仲裁裁判所が法的根拠がないと判決を下しています。それに対して中国は知らぬ顔の半兵衛を決め込み、かつて唐の時代から支配領域であったことを盾に実効支配を既成事実化するべく、人工島の建設・拡充、軍事拠点化を次々と進めてきました。それと同時に、東シナ海での尖閣諸島への関与を強め、これはこれで南シナ海の領有権主張と並ぶ日本(および米国)に対する牽制と考えて良いようでした。

 東シナ海では、経済的な関係を背景にしてアセアン諸国の口を封じてきましたが、近年、それら諸国が経済的に力を蓄えてきたこともあってか、ベトナムばかりかフィリピンもマレーシアもインドネシアさえも東シナ海での中国支配の懸念を強め、それに加えて、オーストラリアが強固な態度を鮮明にして中国批判をするようになりました。「自由航行作戦」と称するアメリカ艦艇の通行も、緊張を高めてきました。

 

 倉西雅子は、東シナ海の中国の領有権獲得が、原子力潜水艦の太平洋への自由展開の足場になることを前提に、オーストラリアの過敏な反応を根拠づけ、2016年の常設仲裁裁判所の判決が「強制執行の手続きがない」ことをあげて、中国の無視に対してなす術をもたない国際関係の現状を指摘して、次のように現状を規定しています。


《今日、南シナ海問題をめぐり米中間の緊張が極限まで高まるに至ったのも、2016年における常設仲裁裁判所の判決時にあって、オバマ前大統領、並びに、国際社会が何らの制裁的な措置も採らなかったからなのでしょう……判決後の自由主義国の融和的な対応は、今般の中国の拡張主義を誘引した‘第二のミュンヘンの融和’であったのかもしれません》


 ナチスの拡張政策を許し、結果的には第二次大戦に向かって行った歴史的経験を思い出させようとしています。そうして、たぶんに期待を込めて、米軍の実力行使に触れて、標題のようなエッセイをものしているのです。


《今般、アメリカが軍事力を行使し、判決の強制執行行為として南シナ海一帯から中国を追い出したとしても、それは、国際法上に根拠を有する行為と見なされると筆者は考えております。常設仲裁裁判所の判決の執行と解釈すれば、米軍が中国が建設した人工島、即ち、軍事基地を破壊したとしても、その行為の違法性が問われることはないということです》

 

 世界の警察官としてのアメリカの軍事力に期待して強い態度を肯定しているのですが、それは、中国との全面的な戦争(の可能性)を前提にしなければ、なかなか打ち出すことのできない戦術といえます。その点を倉西雅子は、アメリカの軍事力行使の「正当性」においています。つまり常設仲裁裁判所の判決があるという、国際法的な「規範的正当性」です。

 ところが「国際法的規範の正当性」という、第二次大戦後に国際関係がつくって来た理念は、いまや風前の灯火です。その灯火を消すような動きをしてきたのは、ほかならぬアメリカのトランプ政権。

 就任以来、国際法的に取り決めた諸種の工程をつぎつぎと離脱し、「#ミー・ファースト」を唱えてきていますから、いまさら「国際法的規範の正当性」の皮を被ろうとしても、またご自分の選挙目当てなんでしょと一蹴されるに違いありません。国際法ではありませんが、国際世論を味方につけられるかどうかは、やってみなければわからないキワモノになります。

 じつは「#ミー・ファースト」のトランプさんが推進してきた、国際的な(不都合な)取り決めをことごとく反故にしてしまいたいのは、中国の主張でもあります。中国もご都合主義的に、あるときは戦後国際秩序の既得権に乗っかり、あるときは(中進国や途上国の)欧米強国がつくりあげた既得権益を覆して国際的な新しい秩序をつくると主張する。ときに大国として振る舞い、ときに先進国ではないと身を隠して、ダブルスタンダードでお好みのままに振る舞っています。その総合的な戦略のひとつが、強いものの主張が国際法秩序をつくるという、剥き出しの力の論理です。軍事力の強化に力を入れるのは、国内的な権力闘争も絡むとは言われますが、その如実なアクションといえます。

 つまり、米中ともに、ご自分の都合を公然と優先するあまり、国際関係の行く末に定見を持っているように見えないのです。その両者が、「国際法的規範の正当性」を争うようにして戦端を開けば、全面戦争に行きつく恐れは十分あります。

 

  倉西雅子は、そうならない可能性を二つ上げています。

(1)中国の軍事的準備は最終段階にあるが、まだ出来上がっていない。つまりアメリカにとって、戦端を開くのなら、いまが最後のチャンスかもしれない。

(2)感染症、洪水など国内の災害が激甚化しつつある中国の現状。中国が人民解放軍を抑え、対米戦争を自制する国内向けの口実が充分にある、とみている。


 つまり、中国が南シナ海から「名誉ある撤退」をする状況が、現前にあるとみているのです。

 

‘第二のミュンヘンの融和’と歴史的な事象を思い浮かべると、ヒトラーと習近平を同列に並べてしまう愚を犯す恐れがあります。1930年代後半のドイツと現在の中国とを重ねてしまうことも賢明な判断とは思えません。何しろ中国は、グローバルな商取引によって(すでに)現在の地位を築いているのですから、ナチスドイツが周囲の先進各国から封じ込められていたのとは、状況が違います。

 中国がいま少し、戦後的な国際法的秩序を尊重して振る舞うようにすれば、国際社会(の世論)は、中国の経済的発展を歓迎するでしょうし、世界的な景気の調整にも、協力的に動くでしょう。だがそういう振る舞いをすると、香港のような社会状況が広がり、「アリの一穴」となって中国の共産党支配を着き崩す危険を招く惧れが、ありうる事態となります。

 となると、香港の強圧支配が示すように、目下の中国政府のとる方向は「名誉ある撤退」にはないように思えます。

 

 ナチスドイツと現在の中国の両者が似ているのは、圧倒的な独裁政権であることです。その政権を保持しているのが、国内的な謀略と暴力の支配の貫徹です。その論理のベースには、人民解放軍という共産党の暴力装置が通底しています。つまり、国内諸勢力の中での人民解放軍の優位性こそが、ナチスのSSの暴力と謀略同様、独裁政権を支えているという政治支配の現実です。「名誉ある撤退」を想定する倉西雅子は、「人民の暮らし」にこそ経世済民の通底する理念があると考えておられるに違いありません。だが、「人民の暮らし」を「共産党独裁」よりも優先することは、中国の憲法に(表現された前衛理論に)照らしても、明らかに論理矛盾です。

 そうした現実との論理矛盾は、これまでの中国では、天の命革まるかたちで出来することと考えられてきました。となると、かつてのソビエトのゴルバチョフのように自己解体の道を選択する余地を、中国共産党政府自身は何処に見つけるのでしょうか。その点を、ぜひとも倉西雅子さんにお聞きしたいと思いました。

2020年8月6日木曜日

幸運頼りの限界が見えた


 一昨日(8/4)から越後の巻機山へ行ってきた。梅雨が明けても関東地方を取り囲む山岳地域は、雨の日と曇り・晴れの日が交互につづき、テント泊しての山行には適していない。やっと巻機山辺りの天候を見つけて、足を運んだ。
 午後1時前に現地のテント場に着いた。コロナウィルスのことがあったから、事前に電話を入れた。「来てください。テント場と登山口が離れているので、駐車料金を二重に支払わなくていいように引継ぎの管理人にいっておきますから」と親切であった。実際到着したのが早かったのに、入場料と駐車料1100円だけの一日料金。
 山間の平地を上手に使ったテント場は、調理場があり、水洗トイレもあり、見上げると両側から迫る緑の稜線の中央に割引岳の山頂が鎮座する、沢音が絶えない草地であった。夏の日差しが降り注ぎ、大木が日陰をつくっている。大きなブルーシートを敷き、テントをたて、マットと寝袋を入れ、テント前のブルーシートのあまりに座って、持ってきた赤ワインを空け、読みかけの小説を開き、おつまみのビスケットをお昼代わりにして、ぼんやりと時を過ごす。これだけでここに来た甲斐があったと思った。
 
 2時間ほどたったころ、一台のハリアーがやってきて、20メートルほど離れたところに停まる。70歳ほどのご夫婦。高知ナンバーだ。挨拶を交わす。「いや、私のカミサンの里が梼原でね」と私が応じると、ご亭主は宿毛、連れ合いが高知市、住まいのある高知から鳥海山にいき、帰りにここに来た、明日巻機山へ登るがよ、と言葉がつづく。念願の鳥海山をやっつけてきたという喜びにあふれる声をのせる方言が好ましい。飲み残したワインですがどうぞとすすめると、奥さんも飲めるという。山談義をするうちに、司牡丹が加わり、ビールも入る。1時間半ほどお喋りをしていたら、雷が鳴り、小粒の雨になって、お開きとなった。
 
 夕食に取りかかる。赤飯とレトルトのカレー。お湯を沸かしながら二つのパックを温め、皿に盛りつけて頂戴する。あとで食べ過ぎたと反省する。何しろ、一合の赤飯と二人分のカレーパックを一時に食べたのだ。ふだんの倍を胃袋に収めた。先にお酒で膨れていたところが満杯になり、腸へ送り込むのに、ずいぶんと手間取っていた。ひんやりするほどの気温にはずいぶんと助けられた。
 
 目覚ましより30分も早く目が覚め、朝食の準備をする。ハリアーの人たちは車の中で片づけたようで、「お先に」と言って出ていった。食事を終え、テントをたたみ、車を登山口の駐車場へもっていく。靴を履いて出ようとしたところへ、ハリアーのお二人がどこやらから戻ってきた。トイレにでも行っていたのだろうか。今度はこちらが「お先に」と挨拶をして出発する。駐車場には3台ほどが止まっていた。私の前を一人細身の若い人が早足で歩いて行った。登山口を入ってすぐに、道が二つに分かれる。右が巻機山への一般道、左が沢沿いを上るルート。その沢沿いのルートは、30分ほど上で、二つに分岐する。左が割引沢沿いのルート、右が上流で割引沢に合流するヌクビ沢沿いに上る。私はヌクビ沢沿いを上って一般道を下って来るルートを予定していた。9時間ほどのコース。
 
 ところが沢沿いへのルートは、竹藪を切り拓いて道はつくっているが、水が流れ、人の歩いている気配がない。私の前を行った若い人は、この沢沿いルートの方へ踏み込んだから、私もそのあとを追ったのだが、たちまち姿は見えなくなり、足元は怪しくなってくる。やはり30分ほどで分岐に出た。その標識には「←割引沢・ヌクビ沢 避難導→」とある。避難道というのは、どういうことだろうと思い、ヌクビ沢へ行くのだからと左の道へ踏み込んだ。これが今日の、そもそもの間違い。「避難道」というのが、ヌクビ沢と割引沢の合流点上部につながるルートであり、私の当初の予定なら、そちらに踏み込み、上流の合流点からヌクビ沢沿いの道を上るのであった。つまり私は、割引沢のルートへ入ってしまったのだった。
 
 空は雲がかかり、陽ざしが差さないから、明るいが暑くない上りとなった。沢の石伝いにところどころ赤マークを追って上る。大きな石の上に濡れた踏み跡がついているのは、先行する若い人の足跡なのだろう。このところの雨もあって、水量は多い。沢を渡るところも、流れの水を集めて激流になっている。石伝いの徒渉も、靴を濡らさないわけにはいかない。赤マークが途絶える。上へ向かいながら、徒渉点を探す。向こう岸に笹を払った場所がある。そちらへ徒渉する。沢は水が多く、岩の間も広くなってとても渡れない。笹の踏み跡を探すと、緩やかに川から離れる。
 だいぶ高い地点で、川の右岸の大岩の上にでる。何枚かに分かれた岩が斜めに積み重なり、その切れ目を辿るようにトラバースする。ところどころに苔が生えている。岩の切れ目に草もつき、土も見える。その先には、上部から流れてくる水流が岩の表面を覆うようにサラサラと流れ下っている。滑りやすく危なっかしい。
 もう少し上へ行った方がいいか。先の方へ眼をやると、岩に着いた赤マークが見える。そこへ行くのも、ちょっと上の草付きの傍を辿った方がよさそうだ。そちらへ身を向けて踏み出したところ、つるっと足が滑った。身体が岩に張り付いてずるずると下へ落ちる。なんとか身を持ち応え、少ない岩角の尖りに指をかけて足場を探す。ふう~。おさまった。そろそろと身をたて、乾いた岩の上を探して足を乗せ、ゆっくりと上部へ移動する。そこからトラバースする。大きく広い沢がカーブしている地点の30メートルくらいの高さに来る。その先は標高差50メートルくらいの滝になっていて、とても手がかり足掛かりがあるとは思えない。これは絵になると思い、カメラを取ろうとしたら、入っていない。一緒に入れてあった飲み水のペットボトルはあるのに、カメラがない。さっき体が滑り落ちたときに、カメラは落ちていしまったようだ。たぶん、つるつると岩場を滑り落ちて、激流のなかに落ちてしまったのだろう。ま、わが身が落ちなかっただけ、幸運だったと思わねばならない。
 
 岩場の上は草が付き木々が生えている。大雨で流されたような土がついて、あたかも人の踏み跡のようにみえるが、地図を見る限りでは、沢からそれほど離れてルートがあるとは思えない。一度上に登る。ふと見ると、下の滝横の岩場に赤マークと鎖がついている。ああ、あそこかとそちらへ向かう。滑りやすい岩の裂け目に足を置いて、身を低くしてそろそろともう片方の足を降ろす。こうしていったん沢の下部にまで降り立ち、鎖のついた岩に取り付くが、その先が、途絶えている。とりあえず鎖の上部にまで上ったが、その上は灌木が群生している。でも、これを突破しなければ、ヌクビ沢の出逢いに辿りつけない。
 えい、ままよと、灌木に突入した。灌木の木の幹は、多量の降雪に押し下げられ、下向きについている。身体にじかに突き刺さるように向かってくるから、それをかき分け、その間に身を入れ、幹に足をかけて乗り、身を持ち上げて上の幹をつかむようにして、這い上がる。リョウブの木があった。ハンノキの仲間がびっしりとついている。ツツジやシャクナゲの木々がところどころに混じる。やっとハンノキがなくなり、シャクナゲに変わった。これがまた厄介であった。シャクナゲは体をぜんぶ預けるほど幹が太くはない。ハンノキは腰掛けられた。身を休めるのにはちょうど良かった。シャクナゲは乗ることを拒むかのようにしなり、でも上へ動くのを嫌うように身の前に立ちはだかる。
 
 空が見えてきた。やっと滝の上に出たと思った。シャクナゲは灌木に変わり、ハンノキの仲間もツツジもオオカメノキも名も知らぬ木々がある。沢の方へ近寄ると、前方の沢が見える。そろそろと沢に近づきながら、木を乗り越え、木につかまり、身を下へ降ろしていく。下の沢が見えるが、果たしてそこまで木につかまって行けるかどうかはわからない。木の幹がだんだん細くなる。大きく撓んでずるずると身を降ろすには好都合だが、その先につかまれる木があるかどうかもわからない。ふと身の前に目をとめると、岩が剥き出しになっている。つかまっている木も、岩場の間に根を張っているだけ。私の体重を支えられずに、スポッと抜けてしまうかもしれない。大きく下向きに伸びている木の幹をつかんで、降りようとしたところ、幹が大きく撓み、私の身がずるずると降りていくとつかんでいる手に体重がかかり、今度は手が幹をつかんでいられなくなる。すぐ脇の草をつかむが頼りなく身の支えにはならない。ああ、落ちると思ったとき、ほんの1メートル下が沢であることに気づいた。
 たすかった。ちょっと尻もちをついただけで沢に降り立った。

 沢を少し登ると、赤マークがあった。赤マークは徒渉するようについている。そちらへ行こうとしてかけた石がごろりと転び、水の中に落ちた。すぐに立ち上がり向こう岸に渡ったが、その先に岩が立ちはだかり、すすめない。また渡り返す。そのまま進むと、向こう岸についていたマークの突き当りに、「←割引沢・ヌクビ沢→」と大岩に大書した箇所があった。ここからが一般道との合流点に出るところだ。こうして、ヌクビ沢ルートの、当初予定登山ポイントに着いた。7時20分。当初の予定コースタイム通りならば5時50分頃に通過するところを、1時間半も余計にうろうろとしてしまった。そこから山頂にむかい下山するまでのコースタイムを計算すると、あと7時間.ほどかかる。どうするか、ちょっと思案したが、今日はここまでにして引き返すことにした。
 
 その時の心もちをいま振り返ると、こんな感じになるか。今日は、ラッキーであった。岩場で滑り落ちなかったこともそうだが、沢に降り立つときにつかまった木がしなり、わが身を手が支えきれなくなったときに、ちょうど地面があとわずかであったという幸運が重なった。カメラが犠牲になったとはいえ、道なき道を行く様な山歩きが、そろそろ私の限界点を越えていると教えているようであった。むかし二度ほど来たことのある巻機山が、こんなになっているとは、思いもよらなかった。だがルートが様子を変えていたというよりも、私が変わってしまっているのだ。
 こうも言えようか。これまでは、さまざまな幸運に恵まれて山を歩いてきた。危ないこともないわけで測ったが、大きなダメージを受けることがなかったのは、まさに幸運としか言いようがない。それがあったから、今回の巻機山のルート選定も、上りに一部沢沿いのルートを取り、下山に一般路をとるとした。だが、私自身の力が落ちている。それを今回の沢歩きがわが身に知らしめた。それを肝に銘じただけで、今日の山行は十分と思ったのであった。無事であったからいうのだが、面白かったのは慥かである。
 
 そこから一般路を引き返した。これが一部崩れていて、結構歩きにくい。沢沿い道との分岐から、上りに50分というコースタイムなのに下山に55分もかかってしまった。一カ所足の置き場に困ったところで、滑り落ちて、またいでいた木の幹に腰かけて止まるようにして、滑落を防ぐことができた。さて、どうして身を起し、向こうのルートに渡るか、ゆっくり考えながら左脚を引き寄せ、尻を後ろへずらし、右足を前の幹に乗せて、左手で上の草の根をつかんで身体を山向きに変え、左足を木の幹に乗せて右足を前へ移動した。こうしてどうにか崩落部分をクリアしたが、もし落ちていたら何十メートルかの灌木と草付きを滑り落ちたに違いない。これもラッキーであった。
 こうして沢との分岐に出て振り返ってみると、上りのときに「避難道→」と記してあった地点であった。ここでの間違いが、私の力の限界点を教えることになったのだと思った。
 実はもう一つある。一般道との分岐に来て、振り返ったとき、左の端に看板があるのが目に止まった。そこには「近年の大雨などのため、割引沢、ヌクビ沢のルートは崩落したり、岩が崩れたりして、ルートが消えています。経験者及び、十分な装備をして入山してください」と書いてあった。ここを通過するとき、目の前を歩く若い人の姿に気を取られて、この看板が目に入らなかった。
 
 沢に落ちたこともあって靴ばかりかズボンもしっかり濡れていた。駐車場には20台ほどの車が駐車していた。六日町の温泉で汗を流してから帰宅した。風呂に浸かり、山と私のかかわりの大きな転機に直面しているという感じが、身の裡から湧き起って来た。
 関越道をさかさかと走り、12時半ころには帰着した。お昼をとると、眠くなって運転ができないと思ったから、すきっ腹に水を飲みながらハンドルを取った。スムーズな走りも気持ちが良かった。
 
 そうして今日、大殿筋が痛む。左肘が腫れている。左膝もどこかへぶつけたか、痣ができている。油断すると腰がグキッときそうだ。太ももも張っている。いつもの山歩きならもう少し後に出てくる疲れがもう表れ始めた。そういう特徴をもった山であったと、いま思っている。

2020年8月4日火曜日

人の手触り


 先月のこの欄で「岡田メソッド」(英治出版、2019年)を読んでいると記した。その岡田が雑誌のインタビューに応じている記事を目にした。隔月刊雑誌『サッカー批評』の74号(双葉社、2015年)。
 この中で岡田は、FC今治のオーナーとなって「岡田メソッド」をつくりはじめていることを語っている。私が読んでいた英治出版の本は、いわばその4年後の集大成であったともいえる。ふたつ、気づいたことがある。

2020年8月3日月曜日

社会に受け容れられないのは、誰か?


 コロナウィルスの感染者の拡大が止まらない。ずうっとゼロを続けてきた岩手県にも感染者が出た。ところが、感染者の所属する企業がその事実を公表したところ、非難が殺到しているという。どうしてなのか?
 以前にも「村八分」と題して記したが、岡山県のある小さな工業都市に戻って来た京都の大学卒業生が感染していたことが報道された。すると、その人物を特定するとともに、その学生の実家は周囲からのさまざまな非難を浴びることとなって、ついに引っ越していかざるを得なくなったというのである。そのことを話してくれた友人は「そりゃあ東京とは違うんよ。皆、誰がどこで何をしよるかってすぐわかるし、関心も強いからね」と、付け加えた。だがそれはなぜなのだろうか。

2020年8月2日日曜日

中国文明への憧憬と絶望(1)なぜ中国の古典に心惹かれたのか


 これまでの最後になった1月の36会Seminarで「観ているのと接するのとで違うんだよ」と、中国の文化や人に対する私たち(戦中生まれ戦後育ち)の抱いている感触が取りざたされたことがあった。私は子どものころからいろいろな中華文明に触れてきた。書道や漢字がそうであるし、文章も漢文が多く、学ぶ言葉も和語よりも漢語が多かった。古典と謂われたものも中華文明がベースになっていると思われる気配に満ち満ちていた。そこに西欧文明が重なって近代化に乗り出した日本にとっては、中華文明の延長上にある(異質な)西欧文明とうけとめていたであろうか。いずれにせよ、文明に対する敬意は、同じように感じていたのであった。

2020年8月1日土曜日

今日から八月


 八月になりました。日々の天気をみていると雨続き。とても夏が来たとは思えませんでしたが、今朝の陽ざしを受けると、おおっ、夏だ! と、つい喜びの声が出ます。
 まず、山靴を洗いました。雨の中を歩き、すっかり湿っています。カビも生えてきています。泥を落とし、底の減り具合をチェックして、斜面のグリップに思いを馳せます。
 ウォーキングシューズも中敷きを出して、梅雨場のお疲れを取り払うように洗い落とします。靴底もすっかりすり減って、いやはやご苦労さんでしたねと足下の貢献に(声には出しませんが)いたわりの声をかけています。