2020年8月28日金曜日

散らかる―片づく―片づかない

 山から帰り、山行記録をまとめる。それに写真をつけて、山の会の人たちに送信する。参加した人からの反応や、次のに参加しようとする人からのメールのやりとりが、少しつづく。

 今月初旬に新潟県の巻機山へ行った時に落としたカメラを拾ってくれた方から電話が入っていた。私が瑞牆山へ行っていることをきき、「御礼についてお気遣い無く」とカミサンに伝えてくれた。そうか、ならば、心ばかりのものを贈ろうと地元の和菓子屋に行き、送る手配をする。と同時に、粗品を送りましたと、手紙を書いて投函した。ひとつ片づいた。

 その翌日、拾ってくれた方から電話が入り、「御礼拝領」の言葉と合わせて、彼がカメラを拾った場所や状態、そのルートが崩落して途中で分からなくなっていたこと、彼自身が、至仏山、上州武尊山、巻機山とワンボックスカーに寝泊まりしながら経めぐっていたこと、その後天気が崩れて八海山と苗場山に行けなかったことを話す。話し好きな方のようだ。72歳というから、私の弟と同じ年。団塊の世代のハシリの人だね。元気なものだ。

 

 鹿児島に住む従兄弟から「残暑お見舞い」のハガキが来る。上半分に夜空の写真。「7月21日にやっと撮影できたネオワイズ彗星です」とコメントが添えてある。長く大坂に暮らし、両親の死後、今度は奥さんの親御さんの面倒を見るため鹿児島に移り、そのまま住み着いてしまった。高千穂という長年私も行きたいと願っていた場所なのだが、機会を失している処。百名山でいえば、九州の開聞岳、霧島山、祖母山にまだ上っていないから、いつかは行きたいと仕事をしているときは思っていた。リタイアしてから18年目に入っているのだから、いくらでも行く機会はあったろうに、あれもこれも、あれやこれやをやっているうちに、いつしか遠景に霞んでしまっていた。散乱というか、散らかり放題の私の頭の中みたいだ。

「残暑見舞いへの御礼」をはがきに書き、上半分にみずがきしぜん公園キャンプ場での一枚をモノクロームにして配置し、年賀状以来のお便りを書いた。それだけで私も、ネオワイズ彗星を観たような気分になった。

 

 このところの私の関心が、散らかり放題だ。いや、このところというよりも、昔からそうであった。なにかまとまるときは、そういった機会がどこかからやってくるように降りてくる。ひょっとした気分で取りかかったものが、ちょうど折よく喜寿であったとか、孫の20歳の誕生日を迎える間近であったとか、母親の一周忌であったといったふうに、片づく機会をうかがっていたようにケリがついた。何ごともケセラセラ、なるようになる。為せば成るというのは、取りかかりはじめてからふと、それを為しているということに気づたことを、やめないから言えること。成行まかせで、自分の意思というものが海に浮かぶ木っ端のようにふらりふらりぷかりぷかりと頼りなく、漂うばかりなのだ。

 

 6月から取り組んでいる「山の会8周年の記録」も、すでに原稿は出来上がっているのに、自分でデザインして割り付けして、印刷と製本だけを出版社に頼もうと、ふと思ったのが運の尽き、いいですよと応諾してくれた出版社から、それ以降何の「要請」もないことをいいことに、6年までデザインして、放り出したまんまだ。これは、散乱である。コロナウィルス禍のせいで、それまで定例的に行われてきた山の会の山行が、参加したい人たちの思い付きをまとめたようになって、いわばゲリラ的に行われている。一つひとつは片づくのだが、山の会としては、もうすっかり無秩序化している。それを面白いと思い、散らかり放題なのも、一向に悪いと思わないから、始末に負えない。

 リタイア後の気ままな暮らしってのは、そんなものなのかもしれない。

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