アメリカの大統領トランプは、実に子どもっぽい。自分の気に食わないことはウソかデタラメ。対立する人はクレージーであり、極左暴力主義者であり、秩序の破壊者だ。敵か味方かという政治力学の図式通りに世界ができていて、共和党の集会は壮大なエンターテインメント。主役の自分は、聴衆を喜ばせ、参加者の娯楽となるような出し物を提出して憂さ晴らしをしていただく。もちろんご自分も、存分に憂さを晴らす。率直にホンネをさらけ出して、思い浮かんだことを口にしている。
いささかでも不都合を感じたら、その障害になる「敵」をみつけ、そこへ攻撃を集中する。口を極めて悪罵を投げつけ、相手がビビるとみるや、そこへ抜け目なくつけ込む。いじめっ子の典型であり、その近視眼的な世界は、少しでも歴史的に世の中をみて来たものにとっては、開いた口が塞がらないほどバカげている。でもあまりにバカげているから、まともに相手にしたくなくなる。トランプはますますつけあがる。
不思議なのは、その彼を間違いなく支持する岩盤のような人々の存在である。私はアメリカ人というのをそれほど知っているわけではないから、これまでに読んだ本や観た映画のイメージでかたちづくったアメリカ人大衆を想いうかべているのだが、TVの画像に登場する「集会」の参加者たちの熱狂は、信じられないくらい夢中である。本気なのだと伝わってくる。バカげているというより、文字通りバカだと思うほどだ。
そう思う人がアメリカにもいるからか、トランプを支持する人が「隠れトランプ」と呼ばれるように、身を隠す。彼を支持すると公言するのはみっともないと感じているのだ。でも隠そうと隠すまいと、彼の振る舞いは日々、電波に載って世界中にばらまかれている。つまり、アメリカ人って、こんなにバカなのだと宣伝している。いや、ただのバカならば、話題にもならない。そのバカが世界随一の軍事力を持ち、経済的な位置を占め、世界中に通用するドル札という紙っ切れをふりまいて、他国と他の人々を右往左往させている。旧来の条約や取り決めを反故にし、文字通り暴力的にも、我が儘ではた迷惑な振る舞いがこの4年間席巻してきた。
日本のアベサンもよくつきあったと思うが、もともと体質的に二人は似ているから、案外アベサンは苦にしなかったのではなかろうか。
だが私たちは、トランプの振る舞いをみて、なぜみっともないと感じるのか。
国内向けの言葉をホンネとして披瀝するだけでなく、対外的にもそれを口にして憚らないのは、言葉や論理で相手と交渉するというよりは、とどのつまり腕力が強い方が強いんだよと、思い知らせて相手を屈服させるってことしか、彼の交渉術にはないってことか。そこには、近代が育んできたさまざまな交渉よりも、そのベースに流れる力関係が決定的だということが表面化しただけなのではないか。つまりマキャベリの(騙したりウソをついたり裏切ったりする)文化的な装いすらはぎ取って目的合理的な最短距離を突っ走れという、ポスト近代の手法を先取りしているということなのか。
つまり私たちの感性は、いまだ近代文化の衣をまとっていて、トランプはそっくりそれをはぎ取って応対していると。エデンの園でリンゴを食べた二人は「裸でいることが恥ずかしくなった」が、今は逆に、「衣装を着ていることが恥ずかしくなった」トランプの前で、衣をまとうという醜態をさらしているのであろうか。
みっともないという感触は、古い道徳観から来る「美意識」なのだろうか。今はホンネをさらして、率直に好意・敵意を剥き出しにして人に対するのが、ニンゲンらしい態度なのだろうか。アベサンをみていて、トランプと同じだと思うのは、この点だ。
私たち年寄りの持っている(これこそ日本人の多数がもつと思う)古い「美意識」からすると、敵意を剥き出しにして接すると、相手の人も必ず敵意を剥き出しにするようになり、売り言葉に買い言葉というふうに、「かんけい」は対立的になる。いうまでもないが、では逆に、好意をもって(あるいは敵意を隠して)対すると、相手も同じようにしてくれるかというと、必ずしもそうではない。そこが、難しいところ。ジレンマに陥る。でも政治の世界って、「敵―味方かんけい」が本質なのだから、それも仕方がない。だが、国家の首脳が取り仕切る「かんけい」は、ニンゲンの社会にベースを置いている。ニンゲンのかんけいが、基本的に「相見互い」で構成されていることは、近年の脳科学の実験でも証明されていることである。ましてグローバルに「相互依存」の関係が深まっている現代においては、ヒトとヒトとのかんけいの作法と国家と国家の関係の作法とが、それほどにかけ離れているはずがない。
だがまず、自らが「好悪」「善悪」の関係をひとまず棚上げにして、人に対して友好的に接することからはじめなければ、「かんけい」の改善は望めない。じつはトランプも、#ミー・ファーストが結局のところ他者の協力を得られない地平であることに、ぶつかっている。ところがトランプは、驚いた行動に出る。たとえば今日のネットニュースの配信。新型コロナワクチンの製造を大統領選の後、11月以降に送らせようとしていると政府の薬事局を非難したのだ。何という無茶ぶり。ここまでくるとお笑いになる。
だが、トランプ支持の岩盤は崩れない。これは、たぶん、アメリカという社会の捨て置かれた人々が、ほとんど顧みられる余地をもたないからではなかろうか。トランプはその世界と社会体制の(知的に権威主義的な)欺瞞を突き崩してくれる。そう期待しているのだろうか。
昔ながらの、ささやかな日常を味わいながら暮らしていた人たちが、経済的な変動に揺さぶられ、適応しようと右往左往するにもかかわらず、如何ともしがたい壁にぶつかる。個々人の責任で生きていくという共和党的世界が、グローバル化に伴う多数の移民の流入によって崩され、古き良き時代が消えていっている。良き時代の再来するを希望する人たちが、そうした魂の声に近い(ホンネの)叫びを脈絡なく繰り返すトランプに、期待を寄せているのだろうか。
つまり、民主党か共和党かという区分けだけでなく、社会の中下層にいる人たちの黙しがたいが、でもどこへぶつけていいかわからない「ふんまん」が噴き出しているのがトランプ現象だとすると、ニンゲン社会がすでに限界を通り越していて、調整不能な段階に来ているのではなかろうか。
限界を通り越しているから、たとえば「民主主義的自由」な社会体制では「国家」すら保つことができず、中国のような独裁制やロシアのような裏社会的暴力性が横行することで、かろうじて「(国民国家の)社会」の体裁が維持されているのではなかろうか。
とすると、「みっともない」とかバカげているという美意識の次元ではなく、ホモ・サピエンスの末期症状としてコトを見直してみる必要があるような気がするのである。
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