2020年8月4日火曜日

人の手触り


 先月のこの欄で「岡田メソッド」(英治出版、2019年)を読んでいると記した。その岡田が雑誌のインタビューに応じている記事を目にした。隔月刊雑誌『サッカー批評』の74号(双葉社、2015年)。
 この中で岡田は、FC今治のオーナーとなって「岡田メソッド」をつくりはじめていることを語っている。私が読んでいた英治出版の本は、いわばその4年後の集大成であったともいえる。ふたつ、気づいたことがある。


(1)岡田は「岡田メソッド」のいくつかのポイントについて、「今明かすわけにはいかない」と棚上げしている。それはFC今治の戦い方にもかかわるということと同時に、「岡田メソッド」がプロ仕様のそれと子どもたちを育てている指導者向けのそれと重層的になっているイメージを持っていることを暗示している。しかもそれは、実際にゲームを展開するにあたって柔軟に、流動的に変わっていくものだという、開かれたイメージだ。
 ここには「岡田メソッド」と名づけられてはいるが、いうならば、岡田のサッカー経験を軸に選手やコーチやトレーナーなどの「アクション」を、後の世代に受け継ぐべき「ゲームの型(の基本)」として集大成したものとみている。しかもそれはスタティックにとらえられるものではなく、相手も含めて動的にかたちづくられていく(つまり形を変えていく)ものとみなしている。受け止めた人が、場の状況に照らしてどう展開するかという伸びしろ(余白)を十分に見込んで「基本型」を提示してみせようという見通しを示している。
 そこには、人が自らの判断を培う部分を見込んでいなければ、サッカーという「パターンがない」と言われるゲームでは、「チームゲーム」がつくれないと考えていることがうかがえる。人の感触が組み込まれているのである。

(2)将来の日本代表チームの監督について問われたときに、「海外経験豊富な日本選手がいずれ監督をするようになろう」と述べ、加えて、彼自身が日本代表監督をしていたときにファンなどから浴びせられた文字通りの叱咤(激励)が、外来の監督に対して日本文化が持つ引け目を裏返ししたように酷いものだったことを述懐している。つまり、外来のものに対してはいくぶん身を引いて、「見守る」姿勢を保つのに、日本人監督に対しては、期待余って憎さ百倍とでもいうべき、罵詈雑言が投げつけられ、家族ともどもピリピリしていたというのだ。
  つまりこれは、「一体感」が(場を得て)強烈に発現されるとき、日本代表監督が日本人であることによって遠慮がなくなり、怒り心頭に発してしまうのであろう。昨日のこのブログで指摘した「コロナウィルス感染者に対する村八分待遇」というのもこれと同じで、目前に展開しているコトが(自分とは違う人の為すことという)見境がつかないのであろう。
  岡田自身も、このようなファンの熱望の発露が日本独特のものか、何処の国にもあることなのか、ことばを保留している。つまり彼の観てきたヨーロッパの国々でも、似たような事態を観てきた彼だからこそ、単純な日本人論に片づけない視界の広さをみせているのだと思った。
 
 上記の二つのことは、良くも悪くも、人の感触、手触りの人というものの動きを見て取る視線が刻まれている。それがこの「岡田メソッド」の慥かさを感じさせていると思った。

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