2020年8月30日日曜日

イワン・デニーソヴィッチの一日

 朝から冊子の編集をした。「ささらほうさら無冠」第49号。月刊で4年前から出してきたが、今年の3月からコロナウィルスのせいで、「ささらほうさら」の会合が行われない。3カ月休刊した。6月に再開したがすぐに第二波と思われる事態になって、ふたたび休止。7月からは会合があるかどうかにかかわりなく、編集して送っている。その8月号をつくったわけ。

 A4判で16ページ。1ページに400字詰め原稿用紙が5枚入るから、約80枚の小冊子だ。おおよそ今月に書いたものばかりのエッセイを12本。スタイルが決まっているから、もとの原稿を推敲しながら、分量を余白に合わせて調整し、二段組みにして収める。

 そうしてご近所のスーパーへ行ってコピーを取り、折り込んで冊子にする。土曜日とあってスーパーの人出は多い。でもコピー機を使う人は多くはないから、すぐに片づけることができた。マスクをしたまま。誰とも口を利かない。

 それを折りたたんで封筒に入れ、宛先を書きこんで、切手を貼る。消費税が8%から10%になったせいで、1円、2円と送料が上がり、古い切手に加えて、べたべたと貼るのが面倒くさい。今日は日曜日とあって郵便局はお休み。買い置きの端数切手があったのと、16ページの冊子の重さが40gもあって、それだけで送料は10円高くなる。94円。いろいろ取り混ぜて貼り合わせるのも、面白い。

 出来上がりをご近所の四つ角にあるコンビニ前のポストへ放り込みに行く。

 と、ちょうどポストのところへ回収車が来ている。間に合うかな。四つ角の信号の直進が、今ちょうど変わるところで、点滅している。ちょっと急ぎ足で渡りきると、ポストの方へ向かう信号が青に変わる。急ぎ足のままポストのところに行く。郵便車はすでにポストの袋をとりかえて出発するところであった。

 手に持った封書を上にあげる私の姿をみて、郵便車が動きを止める。運転者が窓を開け、腕を差し出し、「ありがとう」と手渡す。「いいですよ」と行って受け取った。

 やあ、よかった。なんだか今日は、運否天賦がいいや。

 まるでイワン・デニーソヴィッチの一日みたいだ。


 もう中身は忘れてしまったが、もう半世紀以上まで、当時のソビエトの強制収容所(ラーゲリ)の暮らしの切片を描いた小説であった。もちろん私はいま、自分が強制収容所に身を置いているとは思ってもいないが、ひょっとしたら、監視カメラや認証装置や社会規範に取り囲まれて、私も一個のイワン・デニーソヴィッチなのかもしれないと、思うでもなくイメージしている。人は皆、生まれ落ちた社会で、イワン・デニーソヴィッチとして成長し、自らの内面に規範の檻を育て、後にそれに苦しむ。その檻が自分の意思で設けられたものだと気づくことによって、さらに苦しむこともある。

 何処からどこをみて、どう生きようとするかによって、苦しみが増すこともあれば、苦しみを知らないで過ごすこともできる。どちらが価値が高いとか低いとかいう話ではない。

 そうしてその切片を切りとってみれば、16ページを埋めるだけの原稿があったこと、印刷機がへそを曲げずに作動したこと、スーパーのコピー機が混んでいなかったこと、端数の切手が買いおいてあったこと、何より郵便局の回収車が待って受け取ってくれたこと、いやそれより駆けつけるわが脚の前の信号機がちょうどうまく点滅し、すぐに変わって四つ角を渡ることができたこと。ああ、俺って、運良く生まれついているんだと、幸運に感謝していること。人生って、そんなものかもしれない。

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