昨日(8/28)は午後ストレッチがあり、そのあと夕方から定例の飲み会。コロナ禍時代の「飲み会」は、どこかのキャンプ場でやろうじゃないかと一人が言い、奥日光の光徳キャンプ場がいいと提案し、いやあそこはいま、やっていないよと私が友人から聞いた話をすると、ならば湯元でもいいじゃないかと言い募り、しかしそのためにテントを手に入れ、寝袋を買うってのは、ないだろうと口を挟むと、そういえば湯元キャンプ場の傍には休暇村湯元があるよ、そこに泊まればいいじゃないと、誰かが追加した。皆、誰からも宛にされない身だから、勝手なことをいってワイワイと気炎を上げた。そういう気炎が、でも、そのまんま実行に移されるから年寄りの戯言は、あなどれない。
今朝起きて新聞をみると、「安倍首相 辞任表明」と大見出し。へえそうかい。逃げ切ったねと思った。記事に目を通すと、逃げ切ったと思った記者もいたようで、最後の方で、こんなふうに書いていた。
《……首相自身や昭恵氏の関与が追求された森友・加計学園問題や「桜を見る会」などの問題が相次ぎ、「権力の私物化」と指摘されたことについて、首相は「私物化したことはない。国家国民のために全力を尽くしてきたつもりだ」と反論した。》
ふ~ん、そうなんだ。この人は、心底、そういうふうにしか考えられない人なんだと、感じる。
ところが、意図したわけではあるまいが、その脇に置かれたコラムが、こんな言葉からはじまっていた。
《「悪」はつねに外部にあるなら、経験は何度繰り返しても経験にならない――山本夏彦》
そうしてこの言葉の引用者、鷲田清一はこう続ける。
《エッセー集「毒言独語」(1971年刊)から。当時の世相について、コラムニストは「非は常にことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろ相場は決まったようだ」と呆れる。罪を犯しても「こんな私に誰がした」と嘯くと。痛い経験を生かすには過程全体の検証が必要なのに、人はついそこから自分を外してしまう。だからいつになっても同じ過ちをくり返す。》
山本夏彦がこのエッセーを出版した1971年といえば、安倍晋三は17歳。当時の世相をどう吸収したかは知らないが、お坊ちゃん育ちと見える彼の言動をみていると、「非は常にことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろ相場は決まったようだ」と思うことばかりであった。政治家だから表と裏があって、言動にもその鬩ぎあいが現れてくるというのは、裏と表の齟齬を「経験」してきた人物の体現すること。安倍晋三という人は、「こんな私に誰がした」と嘯くことさえしない。コトが身の裡に回帰しない。つねに非は外部にある(とさえ考えていない)から、身の裡を通過することさえしないのだ。トランプさん同様、自分の思ったことを口にする。それがどんなに現実と食い違っていても、(どうしてそれが自分のせいなの?)と不思議に思うばかり。それを私は、「お坊ちゃん育ち」と受け止めていた。だが、そういうふうに考えると、安倍晋三という人ばかりでなく、その時代に育った人たちの共有する社会的エートス(気風)なのかもしれない。
そこへ権力的立場とそれに拝跪する権威主義が加わると、森友や加計学園のようなことが、あるいはそれを隠蔽するために役所の総力を挙げて文書の書き換えをし、しかも口を拭う。隠蔽の貢献者は「出世」をすることで、ますます口をつぐむという構図が出来上がる。そのモンダイの径庭をつぶさに感じているはずなのだが、安倍晋三さんの身の裡にはほんの少しも沁みこまない。「全身全霊を傾けて国家国民のために尽くしたつもり」という、何枚舌があっても恥ずかしくて口にできないことをしゃあしゃあと言えるのは、「非は外部にあり」という基本スタンスが揺るがないからだ。
この新聞記事が絶妙の皮肉な配置をしていたと編集デスクをほめるべきかというと、私はそうは思わない。鷲田清一のコメントをもう少しわが身に引きつけて言い換えると、安倍晋三首相の何年かの在任を「痛い経験」として「生かしていく」ことが要請されているのは、私たち国民であり、日本の政治であり、社会の仕組みなのではないか。つまり安倍晋三さんに「経験を生かせ」と力説しても、もはやそれは意味を持たない。安倍首相の辞任表明を私は「逃げ切った」といった。これ自体が、やめた人を鞭打って辱めるようなことは、やってはいけない。キレイに水に流そうという、古来の知恵が、「経験を活かす」ことを阻んでいる。
たとえ安倍晋三さんがやめたとしても、森友や加計学園や文書偽造のお役所仕事にケリをつけてはならない。それには、森友や加計学園や文書偽造のモンダイをわが身を通して感知しないといけない。そのうえで、どうしたらそうした事態をくり返さないでやって行けるかと考えてこそ、「経験を活かす」ことができるのだと思う。
メディアも、これまでのように他人の言葉を借り、自分の都合のいいようにパッチワークをして報道したり、詰問したりするのではなく、わが身を通して、そのモンダイを咀嚼し、わが非として抉り出していくことをしてもらいたいと願う。
0 件のコメント:
コメントを投稿