2020年8月2日日曜日

中国文明への憧憬と絶望(1)なぜ中国の古典に心惹かれたのか


 これまでの最後になった1月の36会Seminarで「観ているのと接するのとで違うんだよ」と、中国の文化や人に対する私たち(戦中生まれ戦後育ち)の抱いている感触が取りざたされたことがあった。私は子どものころからいろいろな中華文明に触れてきた。書道や漢字がそうであるし、文章も漢文が多く、学ぶ言葉も和語よりも漢語が多かった。古典と謂われたものも中華文明がベースになっていると思われる気配に満ち満ちていた。そこに西欧文明が重なって近代化に乗り出した日本にとっては、中華文明の延長上にある(異質な)西欧文明とうけとめていたであろうか。いずれにせよ、文明に対する敬意は、同じように感じていたのであった。

 
 中華文明に対する敬意が私の内心に産み落とされたのは、どんなきっかけがあったからか。

(1)父親が書を良くし、古典や自作の漢詩を条幅に認め、四字熟語を色紙に落としていたことが、中華文明に対して親近感を抱く第一の体感であったか。
(2)母親が読経していたお経の経典の大半が漢字の字列であり、それを読み解く漢文の文法語順に(読み解いていたわけではなかったが)リズムというか、音感的に親しんでいた。
(3)学校の図書館や家の書棚にあった書き下しの「三国志演義」や「水滸伝」や「聊斎志異」を拾い読みしては、面白がっていた小中学校時代。当時は子ども向けに、全部フリガナ付きの読み物が学校図書室の書棚にはたくさんあった。漢字は読めなくても本が読めたのだ。
(4)思えば当時の「教養」の土台は、大正教養主義が培った中華・西欧文明から滴り落ちる「粋」を和風に取り繕ったものであった。高校までに目にした四書五経の片言節句も、思えば暗唱するように身に染みついていた。孫文や魯迅への共感が西欧文明による近代化(の違和感と)の橋渡しをしていたようにも、いま振り返って思う。
(5)しかも高校卒業が昭和36年。当時の大学(という日本の知識人世界)はオール左翼。12年前の中国共産党政府の成立も、大東亜戦争への「贖罪」感覚も相俟って、喜ばしいことと思っていた。後にそれは、中ソ対立の時期を介し(ソビエト社会主義・スタールニズムへの反発もあって)、毛沢東や周恩来への敬意を(アジア的な社会主義として)いや増しに増したこともあった。

 つまり上記をまとめていうと、1960年代の終わりころまでは、中華文明への敬意はつづいていたのであった。

 では、その敬意はいつごろ、どうして失われたのだろうか。それがSeminar以来、私の裡に生じた「論題」であった。
 上記の(1)~(3)は、身に沁みついたこと。私の「ふるさと」でもある。それがいつから「ふるさと」でなくなったかという問いは、成立しない。遠くにありて思うものになったかと問うことはできるが、それは(4)や(5)が対象化されるようになってからであった。その流れを追ってみよう。

(6)中華文明と(大正教養主義の延長で)感じていたのが、じつは、儒教しか眼中になかったのだと気づいたのは、諸子百家に触れたときであった。ことに「水滸伝」は、統治と個々の調和的一体性者を逆照して、明らかに人びとの暮らしを基盤にした、反抗の書であった(と昔読んだ書き下し本の印象を振り返っている)。老荘思想に触れてからは、儒教ではなくこちらこそ、日本に伝わって来た中華文明ではなかったかと思ったほどであった。身に沁みこんだ感性、自然観が身に馴染む。
 
 それはまた、竹林の七賢や「聊斎志異」「説話新語」に登場する人々の振る舞いとマッチしていると受け止めていたのだった。つまり中華文明の子細に分け入ったことによって、大正教養主義の偏狭さと、それをそう受けとめる感性の日本の時代的な立ち位置が浮き彫りになるようであった。
 その根っこには、社会を統治的にとらえる視線と被統治者の視線でみている違いがあった。先の戦争の反省の結果、大人の世界は国家と社会を分けて考えるようになったと、私は感じていた。
 儒教では国家と個人の在り様がひとつながりで斉一化されることばに溢れていた。それが分裂したのだ。いや、子どもの頃の「ものがたり」からすると、人の社会の混沌の物語ばかりであった。それがだんだんつながって一つの「せかい」とみるにつれ、儒教的なひとつながりの統治者目線が、わかり易くて「せかい」を構成しやすかったと、いまなら言える。もっとわかりやすくいうと、私は何も分かっていないのだという自覚であった。
 私自身の身の裡から問いかけると、戦争に対する大人たちの反省を私自身がどう受け止めるかが、問われることであった。それは西欧文明を分節化することであり、中華文明を対象化することでもあった。それでも、中華文明そのものへの敬意は、かたちを変えて続いていた。その根柢には、貧困や抑圧を放置する国家に対する反抗的な気分があったのだが、その根拠を考えると、戦後の社会状況を身をもって体感してきたことと、「日本国憲法」の提示する経世済民の理念があった。(つづく)

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