2020年8月17日月曜日

自立の根拠を何処に置くか

 先日(8/13)「些細なことに引っかかる」と、朝日新聞の天声人語氏の国民イメージを俎上に上げた。一昨日(8/15)の社会面の記事に「goto何を信じれば」と題して中央政府と地方政府のコロナウィルス対策に対する態度の違いを取り上げ、「真面目な人が損」と小見出しをつけて、「戸惑いの声」を取り上げている。増山祐史と記者の署名もあるから、この記者の立ち位置が出ているとみて良いのであろう。

 

 この記者も、天声人語氏と同じように、「行っていいのか、だめなのか。どっちなんでしょう」と千葉県の会社員・女性(34)が困っている様子を取り上げる。でも、この記事を読んで私は、何を困るのかと思う。知人と沖縄旅行を予約した。gotoキャンペーンで安くなるから、もっけの幸いというわけだろう。ところが沖縄では感染が拡大し、玉城知事が県独自の緊急事態宣言を出して「慎重に判断していただきたい」と暗に(来沖)自粛を要請する(ような)呼びかけをした。だが、キャンセル料は支払わねばならないことに、困っているというのだ。

 何を困るのだ。来るなといっているわけではない。政府が補助をしないと言っているわけでもない。補助を当てにして予約したのであれば、行けばいいではないか。ひょっとしたらコロナウィルスに感染するかもしれないと心配しているのかもしれない。だったら、どう予防すればいいかを心配するべきであって、キャンセル料を払わなくていいかどうかを気遣うのは、見当違いというものだ。

 感染しないようにするにはどうすればいいですかと、尋ねればいい。

 どこへ? さあ、千葉県保健所か沖縄県当局か厚生労働省か。

 

 東京都からのgoto-は排除しているから、都民が予約していたツアーへのキャンセル料は国が補償するという。それに対して、千葉県の人にはそれが適用されない。そこが不公平だと記事はいいたいようである。

 だがそうか?

 首都圏を一括して「他府県へgoto-しないで」というのなら、上記のケースは「不公平」といえる。だが東京都だけに限っているのだから、別にモンダイは生じない。

 

 つまり、この記事は、行っていいのか悪いのか、きちんと決めてよと、当局者に文句をいっているのである。当局というのが、政府か県知事か、旅をあっせんした旅行社かわからないが、それぞれの当局者は(法的には)適正に運用している。不公正も不都合もない。足並みがそろわないのは、立場が違うことだから、致し方ないではないか。ご自分で行こうとしたのではなかったか。

 増山祐史記者は千葉の会社員・女性に仮託して何を言いたかったのであろうか。為政者の「統一性」がないことを非難したかったのであろうか。あるいは、地方分権が確立されていなくて、沖縄県知事が「来沖禁止」を呼び掛けたいのに、そのような法的手段をとる権限がない。そのことを言いたかったのであろうか(これには一言も触れていないが)。あるいは旅の予約をしたのちに、沖縄県の感染状況が一層悪化している不安を、だれが汲み上げてくれるのかといっているのであろうか。

 

 そもそも千葉の会社員・女性を「まじめな人」と呼ぶわけがわからない。別段私は、彼女が「まじめでない」といいたいのではない。彼女を「まじめな人」と呼ぶことによって(記者は無意識に)バカにしているんじゃないか。旅の予約をした。その後に沖縄の感染が拡大した。でも為政者は、行くな/来るなとは言わない。不安である。自分で決めたことに迷う。バカだなあ、と。(迷うってのは、バカかい? 普通の人に普通にあることじゃないのかい?)

 どうしようと「困っている」ことを、どこかの誰かのせいにしたい。手ごろなところに、中央政府と地方政府の見立ての違い、立ち位置の違い、判断の根拠の違いをみつけたので、そこへ責任を転嫁しようと思った。だが論理的にはこの千葉の会社員・女性の「迷い」を救済する手立てはない。だから記者は、「真面目な人が損」をするという世俗的な俚諺に助けを借りたわけだ。でもこれって、マスメディアがやることかい? しかもこの記事を掲載する全国紙も、記者と同じ感性を持っているとみてよいであろう。

 

 コロナウィルス禍が提起しているモンダイの一つに、中央と地方の権力分立と財源の移譲があると、私はかねてよりとりあげてきた。だが明治維新以来、長きにわたって中央政府依存を続けてきた精華が、「まじめな人」なのだ。もちろんそういう臣民・国民をつくるのに、このマスメディアも協力してきたわけであるから、この記者も「責任を感じている」のかもしれませんね。

 ふふふ。でももし政府が、彼女のキャンセル料を補償するといったら、このマスメディアはそれに噛みつくであろう。筋が通らないからだ。

 つまりこのモンダイを解く鍵は、千葉の会社員・女性の自律/自立精神である。お上があなたの行動を決めてくれるわけではなく、ああしろこうしろと指図してくれるわけでもない。ことごとく自分で決める自由を保障しているのが、この国の政体だということである。

 

 そのスタンスを私は、悪く思っていない。自律せよ、自立せよ。国からも自律せよと、一律にいうわけにはいかないから、せめて依存しないで済む暮らし方を(ご自分で)探りなさい。

 長い教師仕事をしている間、私が青年期の若い人たちに呼び掛けてきた「テーマ」は、この一言であったと、振り返って思う。もちろん学校や教師や親や友人仲間から自律するってことは、「依存」が大勢の中にあっては異端扱いされるかもしれない。だが私のような戦中生まれ戦後育ちが「押し付けられた憲法」下で身につけてきた精神的な生活習慣は「自律」であった。

 修身斉家治国平天下という儒教のひとつながりにみている世界を、身と家と国と天下と全部、一つひとつ分節化して切り離し、それぞれにいかにするか、どう受け止めるか、どう突き放すかと思案する。そうして、わが身のおかれている立ち位置を勘案したうえで、それを結節点にして総合し(そのときどきのとりあえずの)、対応をする。それを自律/自立することだと思い成して過ごしてきた。

 

 若い青年たちからさんざん虚仮にされて私が学んだことは、私は(世界においては)一個のただの人であるという認識であった。教師という仕事は、高い教壇あってはじめて成立していると思った。ただの人である私が、教師面をして何を教えることができるかと考えたとき、教えることは何もなく、若い人が何か(ひょっとしたら学ぶことがあるかと思うきっかけ)を、場面に応じて提示することが教師の役割だと感じたのであった。だから、若い生徒たちが違和感を感じるようなことをつねに口にする。

 その起点は、「ただの人である私」が身につけてきた人類史的文化の総体だと居直ると同時に、じつは私自身が人類史的文化の総体を身に備えていないのではないかという自己批判的な視線。その双方であった。

「わたし」が人類だ。「わたし」が人間だ。「わたし」が日本人だ。「わたし」が一個の人だと、わが身を(場に応じて)生徒の前に突き出す。それが生徒の内面にスパークすることもあればしないこともあった。あるいは、それが(生徒ばかりか教師のあいだで)物議を醸すこともあれば、物議をかもした当の人とではなく、それを傍目にみていた人との間の精神的な裂け目が垣間見えたこともあった。

 そして、こう思う。教育というのは、文化の継承だ。だがそれが、言葉でなされると思うところが偏頗なのだ。心と体と精神と魂のすべてが総じて伝わっている。つまり暮らしの場を共にすることによって提出される「かんけい」の実存が伝えられているのだ。

 伝えようと思うことが逆向きに伝わるというのは、わが胸に手を当てて親父との相剋を想い起せばすぐにわかる。しかも年を重ねるにつれて、伝わったことも姿を変える。そうか、そういうことだったのかと、親父の33回忌になって思い当たることもある。それと同様に、何十年も経って、あのときのあの教師のあの言葉や振る舞いは、そういう意味であったのかと、ふと思い当たる。そのようなことを思い起こさせてくれるのを奇縁というのかと、仏教用語に思いを広げることもあった。

 

 そのことごとくが、いま思うと、私の自律の根拠であった。自律が私の生涯のテーマになったのも、親世代の起した戦争と敗戦が奇縁であったともいえる。あれで親父は社会と国家を分けて考えるようになったのではないか。そんな話はしたことがないが、親父の八百屋やスーパーマーケットの主人としての戦後の立ち居振る舞いをみていると、そう感じる。その親父の思いをいつ知らず受け継いできた「わたし」の身に沁みついたあれやこれの文化も、たぶん、何らかの形で子どもたちに受け継がれていく。その中心テーマが「自律/自立」であることも、すでに受け渡されているに違いない。

 マスメディアが、まだ「依存性」を前提に記事を書いているかと思うと、日本社会の「自律/自立」は、まだ先が遠い。そんなことを、考えた8月15日であった。

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