2020年9月29日火曜日

運転免許更新の元気と変化

 昨日(9/28)に、運転免許更新のための「高齢者講習」を受けた。道路交通法の改正点、交通事故のケースや高齢者の何がモンダイかを自覚してよというお話の後に、視力の検査と短時間の運転実習があった。視力検査で、静止視力「0・7」、動体視力「0・5」と判定。静止視力が3年前は「1・0」であったのに、悪くなった。パソコンの見過ぎか。動体視力が「0・5」というのが前回より良いのか悪くなったのかわからないが、判定では「30~59歳平均と同じ。78歳前としては優秀」とあった。年齢による衰えの平均的な数値と比較してみているようだ。


 自動車教習所にはたくさんの若い人たちが免許取得のために来ている。路上教習に乗り出す人たちも少なからずいる。中には、教官が同乗していないのに一人で乗り回している車が何台もある。ひょっとすると、ここにきてコロナウィルスのせいで、運転をはじめようという人の練習場になっているのかもしれない。

 皆さんマスクをしている。部屋の入り口には消毒薬、実習車のドア、ハンドルなどを、一回一回殺菌のため拭いている。ご苦労なことだ。

 教習所の教官というのが、皆さん丁寧になった。昔のように威張り散らし、気に食わないと蹴とばすようなものの言い方をする人など、探してもいそうにない。私たち年寄りにも、なんとも丁寧な応対をする。ちょうど「秋の全国交通安全運動」の期間中、埼玉県警の重点項目を話し、どの点に気を付けていないと罰則が適用になると、秘密を漏らすように話す。近々、法改正もあって、高齢者の違反後の措置が厳しくなるともいう。罰金を払えば済むというわけではなく、運転実習も付け加わるそうだ。できるだけ厳しくして、年寄りに免許を返納させたいという方針でもあるのだろうか(返納とか、返上とか、これもなんだか妙な「お上言葉」だな)。


 70歳以上の高齢者10人が一緒に講習を受けたが、3年前の講習のときとは、様子が違う。皆さん若い。よぼよぼしている人がいない。「認知機能検査」を事前に済ませているから、そちらで問題があった人たちは、今日は別の講習に廻されているのだろう。3年前には、私と同じ75歳というのに、階段の上り下りに手すりにつかまり、ひと段ずつ脚をそろえながらすすむ人もいて、そうか、こういう人は車が頼りだろうなあと、いたく同情を誘った。でも今日の人たちは、皆さん私より若く見え、動きもそれなりにしゃかしゃかとしていた。


 講習を受けている自分を振り返ってみると、3年前よりはずいぶんと素直に話を聞くようになったとわがことながら、思った。前回も前々回も、何言ってやがんでえ、お説教はいいから話をすすめろよと、少し斜に構えて2時間ほどを過ごした。交通法規の改正点なども、ふんという調子で、読みもしなかった。だが今回は、大要はつかむ。注意点は、これとこれだな。わが身の衰えている点は、こことここかと、一つひとつ講師の話を腑に落としていた。どうしてこんなに素直になっちゃんたんだと、思い返して想う。

 たぶん、今日これから、250キロほどを運転して、福島県の檜枝岐村の方へ出かける。身近にどういう運転する予定が入っているから、取り締まりの注意点を聴くように、耳を傾けたのかしら。ゲンキンなものだ。

 もう一つ思い当たることがある。前回はこの人は私と同じ年なのかというような人が、沢山とは言わないが、それなりにいた。私はそんな年寄りではないぞ。運転だって、教官によく馴れていますね、と言われる程度の乗り回し方をした。つまり、肩肘張っていたわけだ。ところが3年経ってみると、バックで駐車するときに、一発で横の駐車ラインに平行に止まらなくなった。アクセルとブレーキを踏み間違えるような間違いは起しそうもないが、うっかり交通標識を見落とすようなこともあるかもしれないと、思うことがある。そういうこともあって、謙虚になっている。

 あと3年。なんとかそれまでに、自動運転の第4ステージの車が実用化できるように頑張ってほしい。そうなれば、「自動運転車限定」であっても、それに乗って、山へ出かけることができる。

 な~んて考えていたら、「寿命があればよ。頑張って」と、横合いから差し出口が挟まれた。

2020年9月28日月曜日

言語の「原的否定性」と社会関係への参入

  ダメなものはダメという(理屈抜きの)「原的否定性」を受け容れることが、社会関係に参入する「原的肯定性」に転化していく筋道を開くパラドクス。それを指摘した、大澤真幸『動物的/人間的――1.社会の起源』(弘文堂、2012年)を取り上げた。もうひとつ、大澤のオモシロイ切り口を取り上げておきたい。

 彼は言語が「原的否定性」をもって出立していると切り分けている。


《言語を習得することは、何かを知的に理解することだと思われているが、実際には、そうではない。それ以前のものが必要なのだ。トートロジーは無意味なのだから、それを知的に理解させることなど、不可能だ。言語を習得するということは、まずは、原的な否定性を構成するような社会的な関係性に入ること、つまり原的な否定性を帯びた命令を発する他者の権威を受け容れ、まさにその命令に(禁止や宣言としての)効力をあらしめることである。名前・言語を可能なものにしているのは、原的な否定性を構成する社会的な関係性である。》


 言葉に関して私たちは、いつ知らず身に備え、主体の発する理知的なコトと理解して使ってきた。しかしそもそも言語は、トートロジーではないかというのは、言われてみればその通りだ。

 中学の国語の時間を思い出す。「鷹揚」という言葉の意味を教師から問われたことがあった。そのとき「意味」というのは、単なる言いかえではないかと思った感じた。それを口にはしなかった。「広い心」とか「ゆったりした気持ち」というようなことを応えて、場面は次へ展開していったからだ。だが今言われてみると、まさしくトートロジーだ。

 「言葉の意味」と問われたとき、どう応えることが適切だったろうか。

 その言葉が使われた場面で、どういう心持を込めて、どのような文脈の中でどのような立場の主体によってその言葉が使われているかと、今なら答えたであろう。三省堂の「新明解国語辞典」の新奇さは、文脈の面白さで編み直したものであった。

 子どもが言葉をどう受け入れて、身の裡でどのように、その象徴的用法や文法を受け止めて、多様な使い方に習熟していくのかを(私は)説明できないが、(わが胸に手を当てて考えてみると)いつ知らず身につけ、後に「文法」として体系的に整合的な系統にまとめられていく。それを知的であると考えていたことも確かだ。

 大澤は、その出立点を(ダメなものはダメというのと同じ)「原的否定性」と見切る。それは言語のかたちづくって来た社会の権威を受け容れることであり、そうして「社会に参入」する「原的肯定性」が可能となる。そのパラドクスを、いま人々は忘れているのではないか。

 知的なものを受け容れるという過程には、「原的否定性」が社会関係に参入する「原的肯定性」の土台になっている出立点のパラドクスがある。学校に学ぶ子どもは、その出立点に立っている。

 にもかかわらず、子どもの意思が端から(誰にでも)完成されてあるものとして想定されて、論じられている。子どもの権利が尊重されるべきというのは、その内側に完成された意思がかたちづくられているからではない。政治的・社会的関係において保障されるという立場を尊重するということであって、金さえ払えば交換経済的に(子どもが)何をしてもいいということを意味しない。そこにはパラドクスが介在していることを、養育・教育する大人は承知しておかねばならない。

                                            *

 そのパラドクスが、消えている。

 ダメなものはダメだという言葉が通用しなくなったのは、人が理知的に物事の判断を自らの意思によって下すことが最良だという、西欧から入って来た近代的な合理精神のもたらしたものだ。古い時代に育った大人は、身をもってそのように仕込まれてきた。

 だが絶対神なき日本の土壌においては、神に平伏するという「原的否定性」に代わって、大人の権力性(暴力的な仕打ちをともなう権威の発動)が子どもに対する「原的否定性」となっていた。あるいは、責任の所在がわからない社会組織の裏返しだが、集団的空気を読めという圧力が、「原的否定性」として働いてきた。

 ところが、先の大戦への無謀な突入とおおよそ合理精神を欠いた遂行と敗戦によって大人の権力性は(子どもの心裡で)ずたずたに崩れてしまった。その欠落を埋めたのは、戦中生まれ戦後育ちの私たちからすると、進駐軍とそれが押し付けたという「新憲法」であった。巧まずして(私たちの身の裡で)「原的否定性」として屹立した。それを受け容れることによって、私たちは戦後の国家・社会への参入を肯定的に行うことができたのである。

 戦後の高度消費社会の実現と一億総中流という日本社会の変容が、ひょっとしたら「原的否定性」の起点を崩したのかもしれない。怖いものなしとなり、ことごとく自分の意思で判断し、モノゴトを推し進めているという錯覚を大人自らももつようになった。それを子どもに当てはめてみると、相変わらず「原的否定性」を躾けている学校というのは、まるで(子どもの)「肯定性」を否定しているように見える。その教師の権威、学校の権力性をも排除して自由に学ぶという幻想が広まる。あたかもその自由に学ぶ幻想自体が(子どもの成長にとって現実的で)あるかのように思いこんで、現代教育批判を行ってきたのが、1980年代以降の学校にまつわる社会状況ではなかったろうか。

 時代が変わるというのは、こういうふうに変わるんだと思ったものである。

 その根底には、人間の不思議が横たわっている。依存と自律のパラドクスも、見落とせない。親と子の関係を表すことごとも、人と人との距離感も、同様に、じつはパラドキシカルな機制を経て一人一人の身に備わり、それを内に秘めて、信従も、反発も、逸脱という振る舞いも眼前に展開している。

 それこそが、人の不思議。AIがとうてい及ばない「せかい」だと思えるのである。

2020年9月27日日曜日

動態的ソロキャンプ

 昨日(9/26)の「サワコの朝」のお客さんはピン芸人のヒロシ。今も芸人をやっているのかどうかは知らない。彼に言わせると、2005年頃2年ほどギューンと売れて、シュンと凹んでしまった。

 何かのきっかけで目覚め、取り巻きの人たちとキャンプに行くようになったが、彼らはヒロシが全部用意し、もてなすのが当然のように振る舞い、片付けも全部ヒロシまかせ。なんか変だなあと感じていて、一人で行くソロキャンプをするようになった。

 そうして、ある山の一角を買い取り、そこに手を入れながら、ソロキャンプをやってみる。これが性に合ってると思うようになり、ますます面白くなった。

 サワコが訊ねる。

「一人って淋しくないですか?」

「孤独って、沢山の人のなかにいて、何処にも取り付く島がなくてポツンとしている自分を意識したときのこと」

 と、ヒロシは応える。有名人や芸人たちのパーティがあって呼ばれていくが、皆さん、名のある方々。話しかけるわけにもいかず、話しかけられるでもなく、片隅で皆さんの様子をみているというのが、たまらなく嫌になった、と。むしろ、ソロキャンプをしているときは、そういう煩わしいことから離れて、何も考えないでいる。それがすがすがしく、さわやか。

 ソロキャンプが広まっているらしい。ヒロシも「ソロキャンプ」に関する本を出した。アウトドアの集まりに招かれて、ソロキャンプの話をしたり、その実際を披露したりもする。そのときは、イベントとしての催しに沿うように、キャンプ料理を少し豪勢にしてみたり、派手に振る舞ってみたりもするが、やはりソロというキャンプの仕様は、そういうところにあるとは思っていない。

 無心になって枯葉や木っ端を集め、火打石から火を熾し、焚火を見つめる。インスタントラーメンでもコーヒーでも、ゆっくり味わいながら時を過ごす。それが堪らないですね、と(人生における)自分の居場所を見つけたように静かに話す。

 ヒロシの周りでもそういう人たちが寄ってくる。皆さんご自分の用具一式をもってきて、一緒だが、ソロキャンプをする。その距離感が、最初の群れてもてなされて愉しんでいくキャンプの集まりよりも、ずうっと心地よい。なんでねしょうねえ、とすでに答えを知っているのに言葉にしないことも好ましく響く。

                                            *

 ヒロシの経験的屈曲が面白い。

(1)はじめはキャンプが面白い。だが、一緒にキャンプする人たちは、もてなされに来ている。もてなすのがイヤかどうかをヒロシは言わないが、なんかヘンだなと感じていたと正直に話す。

(2)ソロキャンプに踏み込む。山を買う。何もかも自力で手を入れる。すがすがしい無心の感触。

(3)むろんキャンプばかりでは食っていけないが、そこはそれ。昔取った杵柄がものを言って、彼がイベントに招かれ、実演も公演もし、本を出したりもする。それは彼の暮らしを支える程度の(と彼は言うが)収入源になる。

(4)ソロキャンプが、新型コロナウィルスのせいもあって、ブームになる。キャンパーがヒロシの周りに集まってくる。でもそれは、もてなしではなく、一緒にソロキャンプをする社会性を備えた距離感をもった集いとなっている。(2)の無心の感触とは違うが、他人との関係が次元を変えたように思える。

 

 上記の(1)から(4)への変転が、ヒロシの胸中で「ソロキャンプ」から引き出される「人生」の感触の動態的様相をうまく表していると思った。

 (1)は、ピン芸人ヒロシに依存する周辺の人たちとの「けんけい」がうじゃうじゃとまつわっている。それを否定したのが(2)だ。「かんけい」を断ち切ることによって、独りになる。そこに降り積もる「かんけい」のわずらわしさから解き放たれるすがすがしさが生まれる。

 とはいえ、生計を立てることが(社会との)「かんけい」を断ったままにはしておけない。そこに「ソロキャンプ」と新型コロナウィルスというきっかけが作用して、(3)の「かんけい」を生み出した。

 それによって、(2)のすがすがしさの感触を求める人たちが「かんけい」を保ちつつ味わう次元を作り出したのが、(4)だといえる。ヒロシ自身も「かんけい」との次元を換えているし、社会関係としての「ソロキャンプ」もまた、次元を換えた「かんけい」に到達している。

 「キャンプ」というひとつの働きかけが、「ソロキャンプ」に展開して「かんけい」の底に足をつけ、ヒロシ側の動機としては生計を立てるため、しかし社会的契機としては人が密集することへの反省としての「新型コロナウィルス」と、「ソロキャンプ」という文字通り「社会的距離」をもった出口が出現するという運びは、まさしく誰のどのような意思が作用したわけでもないが、相互に作用して事態を動かしている。このように、依存と自律との相互のかかわりが相乗して社会関係は動いている。それが開かれたかたちに向かっているのが、動態的ソロキャンプのもたらしている事態である。「三密」を避けるという否定的反省が、世界を肯定的にみていく方向を生み出している。

 自分のソロキャンプの動機といえば、山歩きの山小屋が混むことからはじまり、気楽にどこにでもビバークする歩き方にかかわって続き、このところ(歳を取ってからは)もっぱら麓の宿や山小屋どまりにしていたのが、新型コロナウィルスのせいで、宿や小屋もまたあやしくなって、仕方なくソロキャンプに戻った。山友もまたテントをに入れて、夫婦でツウィンキャンプに挑戦し、私のソロキャンプに付き合ってくれる。その間の距離が、with-コロナの山歩きになりそうな気配だ。ヒロシのすがすがしい様子が、私の山歩きの現在と重なって好ましく感じられる。

2020年9月26日土曜日

理性優位時代の禁忌の相対化

 現場の教師であったとき、世間の屁理屈に悩まされた。

 どうして制服を崩して着てはいけないのか。髪を染めてはダメなのか。アイシャドウやカラーネイル、ピアスなどの化粧(装い)はなぜ許容されないのか。

 生徒が訴える分には、その場で直に話すことができた。生徒は理屈を聴きたいのではなく、学校のスタンスを確認したいのだと考えて、ことばを繰り出した。装いと学校と生徒の立ち位置に関する教師としての思いを話す。それが「説得力」をもつのは、日ごろの教師自身の立ち居振る舞いが生徒の信頼を得るに十分なものであったからだと、いま振り返って思う。

 しかし世間の方は、面倒であった。ここで世間というのは、親やマスメディアや地域の人たちのご意見であった。ピンからキリまで開きがあった。直感から屁理屈まで、ご意見の土台がさまざまであった。それが学校という場へ向けて交わされるから、教師は(自身の暮らしにおける変化に伴う感覚の揺らぎとともに)その「外」から差し込まれるご意見に翻弄される。現場もまた、生徒の装いに関してピンキリの主張と振る舞いが錯綜するようになった。

 1990年前後の、平成がはじまるころ。高度消費社会の最盛期、バブルの渦中にあった日本の社会は、旧来の殻を脱いで産業社会の再編を目指さねばならない立場にあった。誰もが一斉に同じことに向かうのではなく、人それぞれの個性を主張し、活かして生きていけという気風が世間を風靡し始めていた。それが後押しして、メディアは、個性を抑圧し画一化する学校イメージを喧伝して、教師を叩いた。

 それに対して私(たち)は、おおむね次のような観点から向き合った。


(1)「ダメなものはダメ」、屁理屈をつけて言うと、必ず的を外す。でもどういう論理が隠されているかを考えなければならない。

(2)学校の制服や規則には、それなりにそれが定着した由来がある。それがこれであると手に取るように示すことはできないが、「学ぶ」という「修業時代に不可欠の要素」を含んでいることを経験的に感じる。時代や社会が変化したことによって、相応しくない(と感じる)規律や規則がある。しかし、「成長期の人の本質」はそう簡単に変わるものではない。だから古典の指摘が、今も生きていたりする。

(3)規則や規律を一概に守るものとしたり、否定することと考えるのではなく、(2)の「感じる」ことを一つ一つ丁寧に読み解いて、試行錯誤し、それを検証しながら、次のステップへすすめることが大切。


 学校現場で起こる制服や頭髪・化粧のモンダイは、いつも具体的である。具体的であるから、応答もまた、屁理屈に陥ることが多い。いろんな教師がいるから、生徒の好みに迎合する教師もいれば、そのようなことはどうでもよい(学校教育において本質的ではない)と考える教師もいた。逆に、それら規律・規則に(2)のような直観的経験を持つ教師も少なからずいて、その学校における規律や規則は、それら教師たちの(学校現場における)力関係に左右されることが多かった。世の中も、大雑把にいうと二つに分かれた。自由がいいという世間と(服装や頭髪が)だらしない生徒がいるのは学校がだらしないからだと考えて、言葉を交わすことなく分岐していた。

 現場の私たちは、せいぜい自分の担当する学年のそれを取り仕切ることで精いっぱい。学校全体をどうするというようなことは、「(担当する)学年の状態」を差し出して、ほかの学年に考えてもらう(あるいはこちらの学年も手直しをする)ことしかできなかった。管理職は、手も足も出なかったが、口ばかりは達者に世の潮流に迎合していた。

 そのとき、「学年通信」という(生徒向けに学年団教師が発行する)月刊誌と「無冠」という表題の(教職員組合分会の発行というクレジットを被った)教師間の週刊紙が意見を交換する力を発揮したと、振り返って思う。もちろんその場その場のモンダイを始末するのに追われ、根底的に考えるのは、後回しになってきた。

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 最近、大澤真幸『動物的/人間的――1.社会の起源』(弘文堂、2012年)に、思わぬ方面からの面白い指摘があった。

 「ダメなものはダメ」ということがあって初めて、人類史は出発しているのではないかという。大澤真幸は、進化生物学などを読み解きながら人類史を総覧して、「原否定性」という概念を提示する。


 《原的否定性とは、理由もなく否定されていること。ダメだからダメということ》


(a)「原否定性」が人類史の当初からかたちづくられてきている。バイブルにいう「(エデン園の)知恵の木の実を食べてはならぬ」というのもそれのひとつ。近親相姦とかが、なぜ禁忌として形成されたかは、後付けの議論はいろいろとなされているが、どのようにかたちづくられてきたかを問うと、「原否定性」に突き当たる。

(b)動物において(その禁忌)は自販機と同様に予め仕込まれている。だがヒトの場合(その禁止は)「選択的」である。そこに、ダメなものはダメということ(原的否定性)への、原的肯定性が生まれる契機が発生する。「なぜダメなのか」と問う。理由によって「禁止」を崩してしまうのは、知的に低劣だから。知的に高い(神に近い)認識をすれば、「原的肯定性」が生まれる契機となる。「知恵の木の実を食べてはならぬ」という原的否定性を(選択的に)受け入れるために、「神の言葉」としてヒトはつくり直した。


 となると、例えば、子どもが大人とは異なる世界を過ごさねばならぬ時代があるという「原的制約」もあるのではないか。それが、時代が人間主義的な、豊かな、人権意識が広まった世界になったために、「なぜ子どもは大人と違ったステージを持つのか」ということへの「理屈」が必要になった。

 子どもは小さい大人という時代認識が崩れて、保護養育を必要とする「こども」が誕生した。それがさらに昂じて、人として同じという「権利意識」が生まれ、その「権利」として「大人と同等の権利を持つ」として、「こどもの権利条約」などが国連でも決議された。

 だが、それは「権利」であって、子どもの実態ではない。子どもは、意思が尊重されるとはいえ、その意思が大人と同じ判断ができる主体と見積もることはできない。だが、子どもは保育され教育されるという考え方の中に、当人の意思がどうなのかと問う要素が入り込むようになった。世間の論議は、「こども(の主体と成長)」を見損なうようになった。

 しかも学校現場からみると、「こどもの権利」は、個々人を主体として想定している。だが、子どもは、子ども相互の関係において生長し、変容し、自己形成する、主体形成途上のものである。個人を取り出して、その局面だけで論じると、子ども集団の薫陶力も見損なうことになる。

 主体という認知には、(教育される当人の)求めるものがすでに(当人に)分かっているという逆転が起きている。ことに教育が委託されるようになると、親の庇護とか保護が介入するわけだが、個々の生徒の実態に即して、その場の対応を考えるよりも(世間の学校・教師批判に応じて)法的規定性の方が優先され、いわば杓子定規に(魔よけのお札のような)定めが解決策として登場するようになった。学校当局の応対も、そのようにして、規律・規則の根底的な受け止め方を外れ、世間的なお払いの儀式のようになっていった。

 大澤真幸の指摘は、あらためて根底的に、人類史的な視点から「ダメなものはダメ」という「原否定性」と、それが「原肯定性」に転化していく筋道を示している。そういう次元で、学校における規律・規則のモンダイを、とらえ返してみたいと思った。

2020年9月24日木曜日

見掛け倒しのライトノベルか

 大崎善生『存在という名のダンス(上)(下)』(角川書店、2010年)を読む。上下巻で500ページを超える。いうまでもなく、図書館の書架で、この本のタイトルを見て、借りて帰った。

 ちりばめた素材は、軽いものではない。そのかつての出来事自体は、まさしく人間存在とは何かと問う苛烈なものであった。それを弄んでいるのではないか。それが私の最初の、読後感。

 この作家が真摯なのはわかる。誠実に考えていることも分かる。だが、的を外している。出来事の表層を素材にして、自分の幻想的な物語世界に組み込んで、「お話し」にしているだけではないか。ドイツや五島の島や樺太やで起きた出来事の切片を取り出して「存在という名のダンス」を切り分けるのなら、もっと幻想と現実とのつなぎ目をきちんとリアリティをもって描き出さなければならないのではないか。

 この作家の幻想的な世界が、人の魂の時空を超えて触れ合う地平に「存在」の真実があると考えていることは受け止められるが、「存在という名のダンス」と表題を振るような哲学的な奥行きは、感じられない。面白かったともいえず、なんとも、ふくらませた風船から空気が抜けてしまっているような気持がしている。

2020年9月23日水曜日

見誤ったか

 昨日(9/22)は秋分の日、お彼岸の正日。「暑さ寒さも・・・」というように、日中の気温も25℃くらいで、過ごしやすかった。いよいよこれから秋の本番になる。

 ひとつミスをしたかと、気持ちが揺れた。予報を探って、登れる山を探していた。当初予定していた袈裟丸山は、雨。関東を抜け出た新潟側の巻機山の麓は晴れ。ならば、昨日麓のキャンプ場にテント泊し、今日(9/23)登って帰宅するというのはどうかと、山友に提案していた。

 ところが、台風12号が発生しやって来ている。様子を見ていたら、関東を直撃しそうだ。TV画面の、雨雲の動き予想は、23日から関東に雨をもたらしている。その雨雲が関東北部の谷川岳を越えるかどうか、目を凝らす。画面では、谷川岳を軽々と越えて、新潟にも雨雲がかかる。こりゃあダメだ。

 高い山の上では、何百キロも遠方の気象を反映する。例えば富士山は千キロ西、九州の気象に影響されたりする。となると、台風の関東上陸が24日でも、距離300キロに迫る台風の影響は、TV画面の雨雲の動きのように巻機山にかかるのは、仕方がない。毎週登ることはない、一息入れなさというお告げよ。中止と決定した。

 ところが、今朝チェックしてみると、巻機山の麓の天気は「晴れ」。予報も一日中「晴れ」となっている。どうして? 台風の接近が、当初予想より遅れている。さらに東に逸れていきそうだという。

 私が、見誤ったか。天のお告げと自分を甘やかしたか。とは言え、その山の天気は行っていなければわからない。雨男を抜け出るには、そういうこともあるさといい加減を身につけよう。

2020年9月22日火曜日

60年前とのコラボ

 昨日(9/21)、久々にまた、シャーロックならぬステイホームズの冒険。東京の銀座へ映画を観に行った。

《ガーシュイン『ポーギーとベス』新演出》と銘打ったMETライブビューイング・アンコール。

「ポーギーとベス」のなにかを知っていたわけではない。

 その中で歌われる「サマータイム」を知ったのが1961年。東京へ出てきて同級生になった東京育ちの友人が口ずさんでいて教わった。物語りの中の曲ということやガーシュインの作曲ということは、その少し後、ラプソディ・イン・ブルーやパリのアメリカ人の曲とともに知ることになった。いわば、アメリカン・ポップスやクラシカル・ジャズの入口だったわけだが、田舎出の子ガモの刷り込みで、私の身にすんなりと沁みついてしまっていた。

 誘われて、懐かしいガーシュインか「サマータイム」か、そう思って観に行った。

 ステイ・ホームズの冒険とは言ったが、昨日は祝日、電車も混むまいと踏んだ。お昼過ぎに家を出て、帰宅したのは午後7時過ぎ。有楽町は賑わっている。銀座も人を避けて歩くのが難しいほどのたくさんの人出。若い人が多い。何より親密になっている。皆さんマスクをしている。でも、ぞろぞろ歩くというよりはさっさと歩くことができたから、昔日のような混み具合ではない。

 歌舞伎座の前を通り過ぎながら、そう言えば、シネマ歌舞伎というのもあったなと思い出す。今日の「ポーギーとベス」も、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の2月公演をフィルムに収めたもの。先日観たイギリスの「リーマン・トリロジー」同様に、演劇や歌劇を映像にして、これまた同様に制作過程をふくめた演出家や振付師、主演者へのインタビューを交えて、いわば複数の視点から上演作品を鑑賞できるように工夫している。歌舞伎座でいえば、「音声案内」を膨らませたような仕掛けである。むろん画面に、字幕もついているから歌っている意味合いもそれなりに通じる。

 シアター東劇の座席は、一つずつ開けて密にならないようにしている。500人くらい入る満席の半分がコロナ定員。その4割くらいが埋まっていたろうか。結構ステイ・ホームズ年齢が来ている。私と同じような感懐を抱いて観に来ているのだろうか。それにしても、3時間39分もの上演時間、元気でなくては観られない。

 

 1935年が初演のミュージカル。メトロポリタン歌劇場ではなくブロードウェイだったと、インタビュアが不服そうに話す。出演者は(一部、警察官や判事役以外は)全員黒人であったというのが、2020年公演にも引き継がれている。今年となればBLMを意識せざるを得ないが、「原作を忠実に踏まえたため、不適切な表現があります」と断っているから、時代のギャップをそのようにして乗り越えようとしている(もっぱらっ性差別のようなところと思ったが)。

 南部の黒人が多く住む港町。そのいくつかの場面を取り入れて、ミュージカルは展開する。圧倒的な声量の歌、見事な群舞のダンス、お話の筋そのものは定番のものだが、宗教的な匂いの強い善悪の極端な決めつけがありながら、身体不自由な乞食をも大切に抱え込むコミュニティ、その場における(いかにも声量の豊かな体躯の)女たちの健康で達者な振る舞い、あるいは「あいつは悪人ではなくて、しつけができていないのよ」としゃらりと言ってのける殺人者役のインタビュー。「幸せの粉」の売人の、徹頭徹尾エゴイスティックな悪人的振舞いがヒトの弱点を読み取り、悪へ誘い込む筋書き。そして、薬に溺れ身を持ち崩していく人をも、否定するのではなく求めていく展開。ミュージカルだから象徴的省略を駆使しながら、いわば歌舞伎のように様式に沿って話は運ぶ。BLMというよりは性的差別が根っこに横たわっていることを暗示するように私には思えたが、それすらもどうでもよく、人のありとあることを包摂するコミュニティのかたちは、案外猥雑なものかもしれないと感じていた。

 とはいえ、ほとんどガーシュインの曲と歌とに聞きほれて3時間半余があっという間に過ぎていった。場面に組み込まれた「サマータイム」は、たしかにリサイタルの「サマータイム」とは異なり、(青年期の私に刷り込まれた)切なさをベースにしたもの悲しさよりも、愛おしさを押し出した充足感が感じられ、なるほどミュージカルとは項だったかと、やはり60年程前の花田清輝の「オペラ総合芸術論」を思い出したりしたのでした。オーケストラの下支えも圧巻であったと、振り返って思う。

2020年9月21日月曜日

最先端との感触の共有

 笹本稜平『その峰の彼方』(文藝春秋、2014年)を読む。「その峰」と呼ぶのは、アラスカのマッキンリー(デナリ)。山に取り付かれた男がヒマラヤなどに上りつつ、なぜ登るのかを問い、「その峰」に引き寄せられるように身を寄せ、その地の人と仕事と「かかわり」とに生かされている自分に行きつき、挑戦的に山に登る大自然との「かかわり」に一区切りつけて、次の一歩を踏み出そうとする物語。

 この作家の名前が山を表すように、この作家自身の体感溢れる記述。

 岩の感触、高度障害に対する心覚え、氷瀑を上るのと同じような青氷の危うさをはかる感触、岩と雪をアイゼンで上る体の感じる危険信号、あるいは深い雪をラッセルする非力のくやしさ、ザイルを結んでいないときの危うさと自在さのアンビバレンツな身の裡の思い、ザイルを結んでいるときの相棒への気遣いなどなど、この作中に登場する場面に、わが思い当たる記憶が呼び出されるのを感じながら読んでいった。

 

 山を歩くというのは、自らの裡側を覗くことと同じだと、私は思う。

 主人公が「その峰」の先に、見いだしていくものが、じつは自ら自身であったと(第三者として)読んでいるものにはわかるが、ご当人にとっては、わが掌につかんでいるものが「なにもない」。つまり、「その峰の彼方」は「わたし」であり、それはその振舞いが「かんけい」によって受け継がれ、受け渡され、綿々と続いていく(あるいはどこかで断ち切られる)コトゴト。つまりホモ・サピエンスのすべて、人類史である。

 でもそういうことを結論的にいいたいのではなく、それを先端的なクライマーの、具体的な振る舞いと自らのへの問いかけと、それが「かかわる」人たちの振る舞いを通して、突き留めていくために、この作家は500ページに及ぶ物語を要した。それが、先端的とはおおよそ次元の違う山歩きをしてきた私の裡側に響いた。

 

 山登りに限らず、ひとによって次元は違うが、向き合っている大自然と、それをそれとして感知し見極めていくセンスは、通有のものだ。それを、クライマーの日常と結びつけ、仕事やパートナーやアラスカという場やその社会の抱える社会関係を視野に収めて、自らの生き方として対象化していくセンスは、だが、山歩きが自ずからもたらす哲学的な視線なのだろうか。そこが目下の、私の関心事である。

 今の時代は、外へ外へ向けて人の活動はつくられていっている。外の自然を作り替え、他者に働きかけ、他者をわが身の裡に取り込むように働きかけ、利や益を引きだす。外部への働きかけとその動きがもたらす面白さが原動力になっても、それをわが身の才能とみているうちは、外部を内側に取り込めているとは言えない。ましてそれが、デジタル化されてYES/NO的に明快に処理されていくとあっては、外部と内部の端境に揺蕩う、躊躇いや戸惑い、すぐに答えを出さず棚上げしておきたい持ち越しの気分が、何処か影をひそめて消えてしまう。そうしてヒトは自生する視線を忘れて、挑戦するか逃亡するか、勝つか負けるか、縛られるて我慢するか自由になるために自裁するかを迫られる。何とも、生きづらい時代だと私は思う。そこに哲学的な自省に向かう契機はないのではないか。そう思ってきた。もし山歩きが、哲学的な内省の契機となる必然性を内包しているのであれば、そこを基点に、子どもたちが自らの内面をつくりあげていく場を考えてみてもいいなあ。

 そんな、私の「その峰の彼方」を思わせている。

2020年9月20日日曜日

何が起こったのか?

 一昨日、スマホの画面がフリーズしてしまった。厳密にいえば、最初の表示画面はでる。それを開くと「緊急通報」と表示され、数字を打ち込むキーボードが下半分に現れる。

 スマホをつかっている友人に聞くと、ロックされてるから暗証番号を入れるんではないかという。入れてみると、「サインが違います」と表示される。あれっ? 違ったかなと、別の数字を入れる。やはりだめ。

 とうとう昨日、近くの販売店へもっていった。後で分かったのだが、携帯・スマホの販売店舗とアフターサービスをするショップというのは違うのだそうだ。でも販売店の「修理部」の店員は丁寧に応対してくれ、あれこれと動かしてみる。自分のスマホで何かを調べて、こうではないかああではないかとみてくれたが、手に負えない。お客様センターへ電話をして尋ねてみてくださいということになった。

 帰宅して「契約書」にある「お客様センター」へ電話をする。9分ほど待たされたが、担当者が出る。私のスマホと同じ機種を向こうでも用意して、こちらの症状を聴きながら操作している。そうして私に、やはり「暗証番号」を入れるようにすすめる。そのとき、契約時の私の暗証番号が、私の記憶にあるものと同じであるとわかった。だが、ロックが解けない。30分ほどもやりとりしたが解除できず、担当者は私の家の電話番号を聴きおいて「調べて、後でこちらから電話をします」と言って切った。30分ほどのちに電話がかかり、あれこれと手立てを講じてみるが、やはりうまくいかない。結局「安心サポート」の2カ月無料サービスに入って「サポートセンター」へ電話をかけて対応してくれとなった(「来月には解約してくださいね」と付け加えて)。

 教わった番号に電話をする。今度は30分ほど待たされて担当者が電話口に出た。同じようなやりとりをくり返す。SIMカードを抜いてみたりもした。SIMカードなしでも、スマホは動くことを知った。しかしカードをもう一度差し込んだときに、何処が不都合なのか、「SIMカードが入っていません」と表示が出るようになった。あれ? ムキを間違えたかなと入れ直してみるが、表示は変わらない。参ったなあ。結局解決できず、「端末補償」に電話をして相談してくださいと、電話番号を教えられた。もちろん電話をした。

 「端末補償」の方は、いくつか操作したことを訊ねた後、修理箇所をチェックして初期化して送り返す、修理がいくらになるかわかったところで、修理をするかどうかを尋ねるからご返答願う、代わりのスマホを送るからその便で手持ちのスマホを送り返してくれ、という。SIMカードのことを訊ねると「SIMカードは取り外して送ってください」と付け加えた。

                                            *

 結局4カ所の「専門家」は、「ロックが掛かっている」事実を承知はしたが、その解除の仕方はまったくわからなかった。むろん、なぜロックがかかったかも「わからない」。故障か、操作上のミスかもわからない。ブラックボックスと言おうか、今の時代の機器類は、リセットするしか出直す方法を知らないといえるようだ。2~3週間かかるという。

 困るのは、データ。昨日も今も、マナーモードにしている私のスマホが、ときどきブーッブーッと唸り声をあげる。メールが来ているか、LINEが来ているか。でも開けることができない。急ぎの話が来るようなアテはないからさほど気づかいしないで済むが、でも連休明けの山のことを電話でやりとりすることもある。その関係者にだけ、「目下、スマホ不通です」と知らせた。

 昨日一日それに振り合わされ、現代の「デジタル暮らしの方法」を学んだわけだ。とても馴染めるコトではなかった。

 何が起こったかわからない。一番ありうるのは、気づかずにどこかのボタンを推してしまい、ロックを掛けてしまったんじゃないか(そんなことがあるのか? とも)。それとも、どこかから不正アクセスがあって、それを察知してスマホが自動的にロックを掛けたのか。でも、解除の仕方くらいは、教えておいてよねとアナログ的に思うのでした。

2020年9月19日土曜日

己の迂闊さを恥じないのか?

 ジャパンライフの元会長が逮捕されたと、メディアがはしゃいでいる。「マルチまがい商法」名づけているが、典型的と言ってもいいような詐欺容疑である。債権者7千人、2千億円の負債。一人あたりで割るわけにはいかないが、でも一人あたり3千万円か。なんだ、たっぷり資産を持っていた人たちではないか。メディアは、出資した人たちを「被害者」と呼んで、インタビューしている。自分のあちらこちらに預けていた蓄えを下ろして、1億円全部つぎ込んだという方もいた。気の毒にと思うが、半分は身から出た錆だと、私は思っている。

 むろん詐欺は詐欺。それを正当化する理由は何もない。だが、「被害者」というのは、詐欺の片棒を担いだということでもある。昔から「谿壑(けいがく)の欲」というではないか。欲は深い渓よりも深くとどめがないと知っていたから、庶民はさまざまな警句を築き上げてきた。

 18世紀半ばの「世話詞渡世雀」でも「人をだますにあらねども、皆欲故にだまされる」と語り物の定番にある。労せずして儲けようなどとうまい話に乗ったりしてだまされるのは、古来人の世の習いのようによくあること。たとえ迂闊とは言え、「世の中に、そんなにうまい話はないよ」とちょっとでも思っていれば、全部つぎ込んですってんてんになるような無様なことにはならない。むろんだますのが悪いことはいうまでもないが、それが詐欺だとわかっても、欲に駆られてお恥ずかしい、ま、ちょっとした勉強をさせてもらったわいと、言葉は己自身に向いたものだ。


 「欲多ければ身を傷(そこな)い財多ければ身を煩わす」


 と、金のない庶民はそうやって、金持ちたちをうらやむことさえ慎んで、身持ちを良くしたものである。それがいまは、影を潜めている。

 江戸の庶民がそうしたのは、詐欺に出遭って騙されても損をこうむっても、お上が始末してくれるわけではないと知っていたから。首尾よく行っても、お上は詐欺師を処罰するだけと観念していたからである。当然、詐欺師がお上の権威を利用したり、世の(財のある人たちの)信用を借用したりするのは、よくある話。庶民の知恵というのは、欲を掻かないように自戒するばかりでなく、他人を見る目を養うことを軸としていた。それが江戸の世話物のネタになっていたと考えると、それなりに庶民教育の役割を果たしていたのだね。

 だが、そのヒトやコトが信用できるかどうかは、何処で判断するか。自分自身が、どのような権威を担いでいるか、どのような力を信じているか、つまり自分自身をどこまで見極めているかどうかが、分かれ目となる。そのような哲学的な視線が何処まで人々の身の裡に定着しているかどうかも、時代を読み取る目安にはなる。

 

 現代のように社会が整い、隅から隅まで国家・社会がシステムを整えて私たちの暮らし方をサポートしてくれる(とみえる)から、ついつい、政府中枢の人たちに寄せる信頼も高くなり、権威主義的なブランドに判断力を失ってしまうというのは、わからないでもない。

 しかし、政府中枢の人たち(ことに政治家)も、そのような判断をする余裕もなく、政治資金を提供してくれる人や団体に身を寄せる。例の新設私立小学校名誉校長に名を貸した首相夫人もつねづね友人に「わたしを利用できるのなら、どんどん利用してください」と公言していたではないか。自分の利用価値を自覚していただけでも、この方はたいしたものだと言わねばならない。世の中の人たちの「信用」を見極める動体視力がいい。それが9億円の国家財産を値引きすることに繋がるとは思いもよらなかったであろうから、コトが判明するや否や全部なかったことにするという失態を演じて、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだのは、つい先ごろの話である。引き際の始末を周りに押し付ける身のこなしも、一級品と言わねばならない。

 

 モンダイは、私たち自身のなかに、自分を見つめる哲学的視線が組み込まれているかどうかだ。社会システムが揺るがぬ堅固さをもつと日々感じることによって、じつは私たち自身の内部に向かう内省的な視線が消えていっているのではないか。敗戦と貧窮の時代に自己形成するときを過ごしてきた私たちは、苦労しないでお金をもうけることに後ろめたさを感じる。だから預貯金の「投資話」にもすぐには応じない。ケチと思えるほど、慎重でもある。だが時代はバブルを経験して、儲け話が身の回りに溢れる時代になった。預貯金をただただ持っているのはバカだと言われるようになった。大枚を預けているだけで、それが何倍にもなって返ってくるという資本家社会の神話を、その通りに宣伝するコマーシャルは引きも切らず流れている。それに引きずられる人の気持ちも、わからぬでもない。

 でも、でもやはり、己の迂闊さを恥じ、自らの身を通してモノゴトを見極める眼力を、そのような哲学的な視線を備えようではないか。高い授業料だったけど、この視線は一生もんだからね。

2020年9月18日金曜日

力を抜いた声の響きが湛える奥行き

 人にすすめられて、映画『パヴァロッティ――太陽のテノール』(ロン・ハワード監督、2019年)を観た。「神に祝福された声」とか「イタリアの国宝」とまで言われたオペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティの若いころから晩年までの歌声を軸としたドキュメンタリー映画。1935年生まれという映像の世紀を象徴するように、1950年代からの声が映像とともに残されているのを、関係した人たちのインタビューを織り込んで、綴る。

 何より彼の歌声の響きが、巨大な画面と一緒になってぶつかってくる。目をつぶっていても十分楽しめる。と同時に浮かび上がってくるのは、パバロッティの人生。その生き方と声との関係が、音楽にまったくの素人である私の身の裡に切々と伝わってくるのが、観終わって後の余韻となる。


 聞いていて思う。若いころは声を張り上げることが世界に訴える一番の力になると思っていたなあ。だが絶叫は、いま聴くとその人の主張の前面を表す。前面が伝えるのは筋道であり、論理。あるいは機能的な要素ばかりである。いわば槍を突き立てて前へ進む人の方法である。受けとめる側は、受け容れるというよりは、まず、盾をもってわが身に突き刺さるのを避ける。突きたてる側は、ますます力で押すしかない。勝つか負けるかという勝負になる。それが溶け合って、思わぬ「じぶん」を見いだしていく発見にはならない。

 しかし、その主張の裏方や奥行きこそが、じつは、他人に伝えることの共感性を惹きだしてくる豊かな温床になる。大声ではなく、力を抜いた柔らかく静かな低声が染み込むように身に響いてくると、その声の出処がどのような人生を歩んできたか、どうそれを受け止めてきたかへ、聴く者の思いの行方を導いていく。

 パバロッティの声の移り変わりを聴きながら、インタビューに媒介されて私は、そのようなことを感じていた。ずばりそれを、パバロッティがコラボレーションを申し出て、それを引き受ける羽目になったアイルランドのダブリン生まれのロックのミュージシャン、U2のボノが口にした。

 還暦を過ぎてイタリアに戻ったパバロッティが(若い女性を愛人としていたことによって非難を受け、名声を落としたのちに)オペラの公演を行って歌ったのを評して、ファンの一人が高音域の「ハイCはでないわね。」とかつてのパバロッティではないと技術的に断じた。それにたいしてボノは「何もわかっちゃいない」と怒りをあらわにして、こういう。


「(パバロッティの声は)挫折を重ねないと出せない声だ」

「有名な曲を歌うとき歌手は何を差し出す? 唯一差し出せるものは自分の人生だ」


 まさにそう、と私は膝を打った。もう何十年も前になるが、「全身小説家」という日本映画があった。作家・井上光晴の人生と作品を総覧する、ドキュメント・タッチのお話しであったが、あれも同じように、「差し出せるものは自分の人生だ」ということをテーマにした物語であった(と今になって思う)。

 「有名な曲を歌うとき」「有名な歌手は」、聴き手に何を差し出すか。パバロッティにしか出せないと言われた広い音域のさらに高音域の「ハイC」を聴かせることか?

 そうではない。歌手は歌うことによって彼らの人生を聴き手に差し出している。それは、イタリアに戻って愛人同伴であったことによって評判を落としたパバロッティが「(わたしは)ゼロだ」と口にする言葉からうかがえる。ここで彼は、ほんとうに地に足をつけたのであった。

 「有名な歌手」でもなく、「有名な曲を歌う」でもなく、「わたしの歌を歌う」ことにわが人生を過不足なく重ねることができる安堵の響きを湛えている。それは、人生ってそういうものよという、一つの到達点を示している。

 それを、その地平で受け取るボノもまた、すでにそこに到達していることを意味している。それに共感する「わたし」もまた、人生として登った高見はおおよそ彼らとは比べ物にならないくらい低くて、ほぼ平地を虫のように這いつくばっていたにすぎないけれども、やはりすでに、そこに到達していると思う。

2020年9月17日木曜日

身を守る鎧と社会的共生のことば

 山から帰ってきた翌日(9/16)、WEBサイトに「バイバイと」と見出しを付けた記事があった。「?」と思って読んでみると、9/7の格安航空(LCC)ピーチ・アビエーションの機内であった「マスク騒動」の当事者が、メディアやチャットなどで言われっぱなしに我慢が出来ず、ブログを開いて自分の言い分を公開したというもの。要点は以下のようなもの。読むとそれなりに、説得力がある。


(1)マスクをすると圧迫感があるアレルギーだったが、それを皆さんに公表する理由はないと考えた。

(2)「マスクは義務」となっていなかったのでつけない「選択」をした。

(3)マスクをつけてくださいというCAに、「義務ですか? 文書をみせてください」と聞いても、応えてもらえなかった。「同調圧力」で片づけようと感じたので、それに抗することも思った。

(4)機長命令で降りろと言われ、文書でそれを確認して新潟空港で降りた。威力業務妨害と報道されたが、そのとき立ち会った警察官には「業務妨害の事実はない」と確認した。ピーチも「業務妨害」とは言っていない。

(5)その後の報道やチャットで大声を出したとか乱暴な振る舞いをしたといわれるが、その事実はない。黙っていると、それが事実のように独り歩きするので、やむなくこのブログを起ち上げた。


 発端の出来事は《北海道の釧路空港から関西空港に向かっていた格安航空(LCC)ピーチ・アビエーションの機内で、新型コロナウイルスの感染対策としてマスクをつけるよう求められた男性が、着用を拒否したことをめぐり、他の搭乗客や乗務員と口論になった。同機の機長は新潟空港での緊急着陸を選択、当該男性は機外へ出されることとなった》というもの。


 もし彼が(1)を表明していれば、たぶんそれで、このモンダイは片づいたであろう。だが「乗り合わせただけの乗客に公表する義務はない」というのも、その通りだ。ピーチが「マスク着用義務」を規定していれば、もともとこのモンダイは起こらなかった。にもかかわらず、CAが着用させようとしたことがムリ筋だったと考えると、モンダイは解ける。そのとき同乗の人たちは「不快になる」かもしれないが、CAが「ご事情がおありだそうですので、ご理解ください」と、周りの人たちに呼び掛けて済ませればよかったのであはないかと、(いまさらながらだが)思う。

 しかし中には、コロナウィルスに感染しているにもかからわず、飲みに行きカラオケを歌って広めてワザと伝染(うつ)していやるという輩もいた。陽性であることを隠して働いているヒトもいる。だから、このヒトがそうではないと思えないと、同乗者にとってはハイジャックの未遂犯のようにみえて落ち着かない。世の中の出来事は、そのように全部つながって起きているといえる。ことに情報がグローバルに共有されるようになると、人々の胸中の思念は他の人に理解してもらうことも、ムツカシクなる。つまり、知らない人たちが共存する近代的市民社会というのは、「人のことはわからない」と考えて振る舞うことが、出発点となる。

 

 このピーチの男にも逆に、近代的市民社会の規範が通用しないことに腹を立て、意地を張ったのであろう。ひょっとしたらその一角に「前近代的な日本の同調圧力に抗する」という「正義」があったかもしれない。つまりこの男もまた、自分の主張がCAや同乗者に理解されない振舞いと、わが身を見つめる必要があったと思える。でも、同じ飛行機に乗ったというだけで、彼らの頭の中まで変えてやろうというのは、余計なお世話、逆もまた真なりだ。

 どんな奴だかわからないが、でも同じ社会の空気を吸っている共生者という、相反する気分を土台にして暮らしている現代の、軋轢なのだ。

 それも、単なる商品取引の市場社会なら、その軋轢は貨幣に媒介されて支障なく展開するであろうが、暮らしの全部を包括する社会では、そう簡単に機能的に片づけるわけにはいかない。余計なお世話にまで行かなくとも、琴線に触れる言葉くらいは、添えておかねばならない。それが、郷に入っては郷に従えという意味ではないか。

 

 同調圧力というのは、別様にいえば、場を共有している共存意識である。いくら近代的市民社会とは言え、危ない相手とも共存するという意味ではない。

 しかし「危ない相手(と思える)」かどうかとなると、境界領域はあいまいになる。(思う)かどうかは、ヒトによって違いがある。鷹揚な人もいるだろうが、いい加減な人もいる。厳密にそれを求める人の基準も、法的言語を使う人と生活言語を用いる人との間にも、大きなズレがある。

 法的言語を用いるケースで、このピーチの男で思い出すのは、大西巨人の『神聖喜劇』。軍隊で上官から苛め抜かれるのを「軍律のどの条文にそれが記されているか」と上官を問い詰めて、敬して遠ざける下僚の論理を思い出す。文字通り彼は、法的言語の世界を極めることによって、生活言語の世界で傍若無人に振る舞う上官たちを封じ込めたのであった。

 このピーチの男の振る舞いは、生活言語を組み込んでいない点で、市民社会からはみ出している。同乗者の懸念を振り払うことができるのは、彼とCAである。彼が「ごめん、アレルギーなので」と一言いっておれば、大騒ぎにならなかった。あるいはそれを察知してか先回りして、CAが「お客様のご事情がおありのようですので」と、彼に変わって周りの方の不審を解くように付け加えて折れば、たぶん片づいたであろう。そういう文化が、デジタル時代がすすむに連れて廃れていっているとみえる。今回のピーチの出来事は、それが凝集されて噴き出した一つのケースである。

 

  こうして、騒動を回避するために次なる法的な整備をしようと、「マスク義務規定」を、法的にか運行会社かで整備しましょうというのが今後の動きとなるであろう。こうしてますます、社会は窮屈になる。まして、今後コロナウィルスの落ち着きをみて、世界的なビジネスパーソンの行き来は開いて行こうとしている。マスク嫌いでデモをするような国からもヒトはやって来る。

 せめて日本文化は、「場」を共にするものはともに相手の気持ちを慮ることを旨としている。郷に入っては郷に従うことを、ビジネスの人も旅人も日本体験として体感していってほしいと願わずにはいられない。

2020年9月16日水曜日

静かに屹立する十二ガ岳

 「女心と秋の空」というと、差別表現だと非難されるかもしれないが、あれにはじつは、「女心」は男にはわからないという敬意が含まれている。「わかる」と言ってもらいたいのが女心だと先日読んだ脳科学研究を自称する女性の書いた本を読んだが、「ひと(他人)にはわからない」というのがもっとも敬うかたちの心もちだと、長年の「人間研究者」である私は、自信をもって言う。その「秋の空」が、文字通り長雨となって山歩きを阻害している。山の候補を四方八方のいくつかを挙げ、その方面が曇りか晴ならば行きましょうと、山の会の同行者に声をかける。そうして見つけた処へ足を運んだ。

 

 富士五湖の一つ、西湖の北側に富士山と向き合うように峰を連ねる御坂山地。その一角にある毛無山、十二ガ岳に登ってきた。コースタイムは約7時間。日帰りの行程だが、こちらは年寄りを自覚し始めたから、1泊2日。前日(9/14)西湖湖畔キャンプ場にテントを張り、翌日(9/15)早朝から登ってお昼過ぎに下山、帰宅するという手筈。

 お昼頃ゆっくり家を出るというのは、車の運転にとっても気楽である。西湖にはキャンプ場がずいぶんたくさんある。平日だが久しぶりの晴とあってか、そのどちらにも大勢のテントが張られ、草地や砂地や木陰に料理をしたり本を読んだり、お喋りをする姿が見える。湖畔キャンプ場の受付の方はこちらが登山目的と知ると、受付裏手の、湖と少し離れた樹林に囲まれた草地を「まだ誰も来ていない」と教えてくれた。落ちあうkw夫妻の車も着いて、そちらにテントを張る。彼らにとっては、3回目のテント生活である。

 湖北側の毛無山への稜線と十二ガ岳の一角がみえている。毛無山から西へ向かって一ガ岳、二ガ岳・・・と十二の岩嶺が連なるので、この名がついたといわれる。その峰の凸凹が木々に覆われてなだらかな山容をみせる。富士山は雲の中だ。テントを張り、kw夫妻はテーブルと椅子を整え、これまでの3回同様に、ビールとワインを出して、お喋りをしながら夕食までの3時間ほどを過ごす。これがまた、山同様に至福の時になる。堪らない。

 浜辺のキャンプ場は夜遅くまで賑やかであった。夜中に起きてトイレに行くときに見上げた空には、星が瞬いていた。朝3時ころか、ピーッピーピャイポイという切れのいい鋭い鳥の声が3回ほど響いて、眠りから引き出されそうになった。隣のテントの声が聞こえて時計を見ると4時2分。起きだしてシュラフをたたみ、山用の服に着替え、テント前のグランドシートの上に食材とガスコンロと水などを出して、外へ出る。雨は落ちなかったようだ。

 

 5時過ぎ、私の車には荷を積み込み、kwさんの車と一緒に下山口へ向かう。目的地の住所をnaviに入れるが、「河口湖町西湖***」という住所が表示されない。googke-mapでみたときには、根場民宿の中央部に大きな駐車場があったはずなのに、集落にそんなものはない。狐に化かされたみたいと思いながら、ホテルの裏側に駐車場に置かせてもらった。そうしてテント場にもどり、kwrさんの畳み終えたテントや用具一式を積み込んで、車はそこに置いたまま山へと出発した。5時45分。

 500メートルほど離れた文化洞トンネル東側の登山口から登り始める。道は人が入らないためか、草ぼうぼう、標識も朽ち果てて倒れそうになっている。急斜面を登る。地面は策や雨が落ちたかのようにしっとりと濡れている。湿度90%というのが実感できる。6時前だが、朝陽がアカマツの樹林を突き抜けて差し込む。1300m辺りは雲の中。上へ向かうとますます霧が濃くなる。

 ヤマボウシが大きな丸い実をつけている。足元にはキバナノアキギリが黄色の花を霧のなかにみせる。シモバシラのような花が咲いている。ハクサンフウロが、背の高い草の間から身を迫り出している。

 ?キク科、?**ハグマ、、?ハギに似た花、?タツナミソウ、?アケボノソウ、トリカブトの山


 7時19分。毛無山1500mの山頂に着く。出発して1時間半の、ほぼコースタイム。富士山も雲の中。上空の一部に青空が見える。マユミがたくさんの実をつけている。ほんの少し稜線を行くと「一ガ岳」の表示がある。「なんだ、こんな峰なら平気だね」とkwrさん。彼が見たTV番組ではタレントのソロ登山としてこのルートを登っていたが、岩があって大変な様子だったという。キク科の白い花が道筋を飾る。

「二ガ岳」「三ガ岳」と越えていく。だんだん岩場を上り下ることが多くなる。大岩を回ったりする。「七ガ岳」は小さなこぶのようなピーク。表示板も割れてテープで止めてある。その次の「八ガ岳」は大きな山体を登る。

 「はちがたけ!」

 と先頭を歩くkwrさんが声をあげる。その表示板をみて、

 「やつがたけと呼んでくださいよ、ボクも」

 と口にする。kwrさんは昨年から八ヶ岳の縦走を願っていたのに、去年は槍ヶ岳の縦走でくたびれ切ってダメ、今年はコロナウィルスのせいで、行けなくなってしまった。「ガ」と「ヶ」の違いはあるが、表示板と並んで記念写真を撮った。思わぬリベンジだ。


 巨大な岩を回り込んですすむ。「九ガ岳」の表示がなかったが、たぶん、回り込んだ大岩がそれだったのだろう。「十ガ岳」への上りと下りは岩場であった。いよいよ岩の本番になる予告編のよう。「十一ガ岳」の先に、「キレット」と名づけられた大下りがあり、谷間に吊橋がかかる。最初の足場が突き立つように宙に浮いている。先頭のkwrさんが脚をかけると、足場が沈むとともに橋全体がぐらりと沈み揺らぐ。おおっ、と声をあげてバランスを取りながら、両サイドのロープをつかみ踏み板を辿る。十何メートルか下は渓になっている。行きつく先に道はない。岩が屹立し、ロープが垂れ下がっているから、そこを上るしかない。岩の先は上へと連なってみえない。kwmさんが吊橋を渡る。その頃にkwrさんは岩に取り付く。

 この岩上りが標高差でいうと150メートルはあったのではなかろうか。この山全体が岩でできていると実感させる。

 「こんな長い岩を登ったのは初めてだよ」

 とkwrさんは溜息をつくように繰り返す。

 こうして落ち着いた地面、山頂から100mというところに、西湖の中ほどの集落「桑留尾(くわるび)」に降りる分岐があった。ここから下れば1時間半。でも私たちは御坂山地の富士山を取り巻く外輪山のような山稜を辿ることにしている。トリカブトの群落がそちらこちらにあって、このあと歩いた鍵掛峠まで、絶えることなく咲き乱れていた。トリカブトの山だねとkwrさんはいう。

 

 「山梨百名山」十二ガ岳山頂1686m、9時7分着。出発して3時間10分ほど。コースタイムより10分余計にかかっていることを、kwrさんは気にしている。眼下に西湖とその南側に小さな尾根を連ねる、紅陽台から足和田山への山嶺が珠海との間に立ちはだかる。富士山は、相変わらず雲の中に顔を隠している。

 十二ガ岳から金山へ向かうところにも、岩場を下る長いロープが設えられている。ますます岩峰らしさが実感できるが、大部分がこんもりした木に覆われていて、歩いてみなければわからない。

 十二ガ岳と同じ標高の金山に着く。コースタイム通り。広い稜線に方向指示のトタン板が木に張り付けてある。ここで御坂山地の主稜線に出たとわかる。少し北に「山梨百名山・節刀ガ岳」があるので、行ってくることにする。稜線は広く、よく踏まれている。山頂近くには岩を上ることもあるが、十二ガ岳を歩いてきた身にとっては、なんでもない。

 節刀ガ岳1736m着、10時05分。ここでお昼にする。雲はかかり、青空も見えない。風があるというほどではないのに、汗ばんだ上体が冷える感じがする。一枚長袖シャツを着る。風向きが変わったのだろうか。20分足らずで、じゃあ行こうか、と起ちあがる。一息ついたせいか、kwrさんの脚は軽快である。鬼ガ岳への途中で、単独行の60年配とすれ違う。根場民宿から登って来たという。「今日初めて出逢った人ですよ」とkwrさんが言葉を交わしている。

 11時5分、鬼ガ岳山頂。山頂名と標高を記した表示が木に取り付けてあるが、文字は薄れ、消えかけている。「山名表示板くらい、ちゃんとしてやるといいよな」と、kwrさんはだれにいうともなく口にする。じつはこちらの標高が、先ほどの節刀ガ岳より2メートル高い。にもかかわらず、向こうは山梨百名山になり、こちらは百名山から外されている。むろん山は高いから尊いわけではない、とは思う。十二ガ岳も山梨百名山だが、背は高くない。また、山梨には、高い山ならいくらでもあるわけだから、鬼ガ岳だけを取り上げて云々するつもりはないが、でもなぜだろうと思わせる。富士山は、相変わらず見えない。ここから根場民宿にじかに下るルートも地図にはある。トタン板の方向表示板は「雪頭ガ岳→」と根場民宿の方を指している。音だけを聴くと、節刀ガ岳と間違ってしまうなと思う。

 

 御坂山地の稜線も、アップダウンは大きく、大岩が道を塞ぎ、回り込んだり岩場を下ったりする。12時4分、鍵掛峠。コースタイム1時間で来てるよと、kwrさん。富士山の西側の雲が取れ、山頂は見えないが、山麓の大室山1468mがポッコリと盛り上がって、独立峰のように見てとれる。富士山の側火山だ。樹海の広がりも精進湖の一部もみえている。

 「あとは1時間半の下り」とkwrさんの元気も出たようだ。ジグザグの安定した踏み跡が長く続く。途中で、一組の還暦ほどのペアと出逢う。

 「これから上りですか」

 「いえ、ここから、もう引き返そうかと思ってます」

 「気を付けて」

 根場民宿から鍵掛峠1500mまでの標高差は600mほどある。ジグザグの樹林の中の道を上りつづけるのは、根気がいる。日頃歩きなれていないと、へこたれると思う。

 その先に、大下りがあった。標高差で300m余下の渓はみえるが、明るくまばらな木々の間は小さな草しかついていない。渓の水音が聞こえるように思ったが、風音だったかもしれない。渓までのジグザグ道を滑らないように気を付けて下りに降る。渓に降りてみて気づいたのだが、そこから山体を回り込むように下る道の大木が、倒れている。中には、大石を根っこが抱えたまんまど~んと斜面を転がって、谷に向かって落ちている。小さい木の枝が道を塞ぐように折れて吹きだまっている。昨年の台風や今年の大雨が来ると、南西に向いたこの斜面は直接強い風が当たって、木々を倒してしまったのではなかろうか。その手入れをするほどの余裕もない。そんな感じであった。

 水場を過ぎ砂防ダムの堤防が見えてくると広い林道に出る。13時。あと30分で根場民宿だと足取りも軽くなった。水場から水をとっている太いゴム管が林道沿いに走る。林道は荒れているが、やがて舗装がしてあり、大型車の轍も残る。車が出入りしているようだ。と、ヒョイと開けたところで茅葺屋根が何棟も建っている古民家風の集落に出た。半鐘もある。その向こうに、富士山が全身を表している。「ごほうびだね」とkwrさんは到着を喜ぶ。観光客が来ていて、茅葺民家と富士山を見て喜んでいる。

 こうして、ほぼコースタイムで歩いて無事に下山したのだが、じつはここからが大変であった。私の車を置いたところがわからない。それよりも、朝探した大きな駐車場が林の向こうに垣間見えるではないか。ええっ? じゃあどこに置いたのだろう。たしか「ホテル西湖」の駐車場であった。通りかかった車の運転手に「ホテル西湖を知らないか」と訊ねた。彼はnaviを操作して「レイクホテル西湖ですよね。ここから3キロほど先ですよ」と教えてくれた。なんと、十二ガ岳からじかに降る下山口。西湖の中ほどにある集落だったから、根場民宿からまだ3キロも歩かねばならなかった。いやはや、申し訳ない。駐車場もなかったはずだ。バカだねえと反省しきりの御帰還であった。

2020年9月14日月曜日

with-コロナ時代のモデル

 黒野伸一『脱限界集落株式会社』(小学館、2014年)を読む。図書館の書架にあるのが目に止まった。

 人口減少によって「限界集落」がまちがいなく多数出来する。さあどうする? と論題になったのは、21世紀に入るころであった。あれから20年。今年はもう、そのような騒ぎ方はしなくなった。新型コロナウィルス禍が「天の啓示」のように教え諭していることは、人口減少の方が良いということだ。

 良いか悪いかは、当然立ち位置によって変わってくる。経済活動の隆盛こそが「解決策」と考える人たちは、人口の集中によって地方中核都市を構想し、過疎地と都会地との差異を浮き彫りにして経済活動の活性化を促進しようとする。そのイメージは、新しいものを歓迎し、賑やかな人の集まりを良しとする、人々の身の反応を誘う。と同時にそうした動きが忘れていくことに焦点を当てて、「限界集落」のありようにこそ「暮らし」の基本があると考えていくイメージが、この作品をつくっている。

 

 つまり、with-コロナ時代の将来モデルを描き出したと、いま読んでみて思う。お話しは人為の物語だから、仮構している地区や人や展開の筋道は変わるけれども、似たような事態に遭遇することは容易に想像できる。そのときに「忘れてきたこと」が浮かび上がる。都会の暮らしに草臥れたりはじき出されてきた人たちが、こちらの「限界集落」では受け容れられていく。そのかたちは、ヒトがいかにちゃらんぽらんであることか、計算づくではうまくいかないことかを、つくづく思い知らせる。計算づくというのは、計算できることに動きも考えも傾いていく。しかしヒトは計算できることばかりで生きているわけではない。むしろ、ちゃらんぽらんであることが、見落としているさまざまなことを拾い上げ、大事にしていくこともある。

 資本家社会の基本、あらゆることの商品化がすなわち利益の最大化と同義とする「原理」が、ありようも、設計イメージも、現実展開も貫く。労働力の商品化とマルクスが表現した「矛盾」が、もはや何の抵抗もなく受け容れられている社会システムを、根底から考え直してみようと訴える物語となる。それを読み取るとき、モデルを仮構する物語りに読み手も参画することになる。

 

 ライトノベルふうな文体が、いま読むと、with-コロナ時代のモデルの「習作」とみることができる。作者と一緒になって、「習作」に「習作」を重ねて、モデルを膨らませる。それはヒトの再生への道を探ることへつながる。面白い。ちゃらんぽらんの年寄りがいい加減なことを口にして、物語展開の駆動力になっているのは、オモシロイと同時に、こんな「せかい」に誰がしたと振り返ると、忸怩たるものを私は感じる。だが、忸怩もものかは、何もかも笑い飛ばして抱え込んでしまう共感性こそ、ヒトの生きる「じねん」だと言えるのかもしれない。

 

 今は曇り。今日はこれから、富士山の麓へ出かける。西湖のテント場に泊まり、明日早朝から御坂山塊の縦走に取りかかる。75歳までは日帰りの山であったが、ゆっくりと前日テントに泊まり翌朝登って帰宅するというwith-コロナ時代の、後期高齢者の山歩きだ。こうやって、いろいろな登り方を探るのも、楽しみの一つになった。

 ではでは。

2020年9月13日日曜日

苛烈な暮らしを視野に入れる哲学的なワケ

 先日(9/10)の朝日新聞に小熊英二が《「有色の帝国」の呪縛》とタイトルを振って、見出しに応じているのが掲載された。米国でBLMが取りざたされているが、「日本人は人種差別がない」というのはほんとうか? という問いに応えて、面白い指摘をしている。


(1)「人種」という言葉は近代日本では(優位な白人に対する)「有色人種」という意味合いだったからあまり使われず、かわって「民族」という概念が発明された。被差別の隠蔽である。

(2)近代日本の「民族」概念は「千年単位の歴史を共有している集団」とみなし、そこから同じ有色人種の韓国や台湾、東南アジア諸国民に対する差別を、作り出していた。支配の正当化である。

(3)米国の人種差別は、肌の色による階級差別のひとつ。だが、日本の「差別」はピラミッド型の社会的属性(=国のお荷物、社会の異質物というレッテル)による差別である。これは、差別や支配という意識をもたない民族概念の所産である。「じねん:自然意識」の正当化であり、肯定・安住である。


 言葉を換えていうと、(1)で黄色人種として差別されている現実を自ら隠蔽し、(2)によって被差別的状況から自らを解放し、差別的主体を起ち上げる道筋をつくる。その根底には(3)の「差別や支配という意識をもたない」自己意識が底流している。自分を直視していない。だからもしBLMに共感しようとするならば、まず、自分を対象としてみる(鏡に照らして自己省察を重ねる)必要がある、と言える。

 

 ホモ・サピエンスが人間に変わる過程には、「自然意識」の意識化が欠かせない。大自然に包まれたままの存在から自らを切り分けたときに、ヒトが自然を作り替える道筋が開けた。余剰生産物の蓄蔵と略奪を産む過程で生み出された社会システムに乗りつつ、構成員の実存を保証しようと考えたとき、人権が生まれた。近代の人間の権利意識は、「自然意識」を一つひとつ対象として乗り越えていくときに生み出されてきたものである。「じねん」のままでは、視界に収まらないことだといえる。

 

 大災害や大事件を「○○から××年」というかたちで振り返る記事や番組を多く見かける。あれは災害や事件で亡くなった人やその関係者の身柄に視点を移して、その当時と今との社会の仕組みや人々の在り様を対象としてみようとする企画だといいかえることができる。それは、ただ単に、亡き人を想い、愛おしみ慈しみ懐かしむということではない。死者に思いを致す地点に目を移すことで、生きている現在(の自分)を対象としてみる視点を手に入れている。自然に身を置いて「じねん」に生きる日本人の(と一般化していいかどうかはわからないが)智恵ではないか。

 ときどきそこへ身を置いてわが身を振り返る。後ろ向きのようにみえて、案外、近代へ踏み込むときのジャンピングボードになっていたんではないか。そんな気もする。

2020年9月12日土曜日

メルクマールとドグマ

 昨日(9/11)のTV番組を観ていて、映画監督の大林信彦が4月10日に亡くなったことを知った。82歳という。私の長兄と同じかと思い調べてみたら、1938年1月の生まれ。私の長兄は1937年の今日(9/12)。生誕83年だが、6年弱前、77歳で故人となった。学齢が一緒だ。私とわずか5年ほどしか違わないから、この歳になると同世代と思うかもしれないが、そうではない。敗戦を目安に採ると、ほぼ8歳であったのと3歳未満だったのとでは、記憶に残る戦争体験が格段に異なる。さらに敗戦後の混沌の中の生活と父や母の振る舞いをとどめる「個人的な体験」は、物心ついているのとまるで上の空であったのとでも、格別の内面形成に落差がある。そればかりは適わないと私は、子ども心に長兄への敬意を忘れたことがない。大林信彦の映画作品をそれほど意識的に観たわけではないが、TV番組の綴るコメントには、長兄との同世代感が滲み出ていた。

 まもなく7回忌を迎えるときになっても、私の内面を覗き見るときの反照というか鏡というか、一つのメルクマールのように屹立して、浮かび上がる。「弟は生涯兄に適わない」と誰であったか脳科学者がいっていたが、つくづくそう思う。私の自己形成の、間違いなく一角を占めてきたのだ、と。

                                            *

 昨日のこの欄で、「9・11は、今となっては狭隘なフラグマン」と題して"新型コロナウィルス禍"が教えるホモ・サピエンスへの天の啓示に触れた。そのことを書いているときに、久しく音信の無い息子から珍しくメールが入った。


 「同僚の知人が新築の家を売りに出そうとしている。家が出来上がったころに離婚となって手放したいそうだ。常念岳が見える安曇野の一角、明科駅から500メートル。駅までの間に図書館もありスーパーもある。犀川の傍だが、比高差があるから洪水の心配はない。もしリタイアまであと五年とでもいうのなら、いずれ故郷にするつもりで自分が買いたいくらいだが、いかんせんまだ15年程もある。そちらが、どこかに移り住む意向があるなら、子細を送る。」


 明科駅の近辺をgoogle-mapで覗いていみると、なるほど犀川の傍ら、篠ノ井線の線路との間に住宅地が位置している。図書館も交番も消防署も小中学校も高校も配置されていて、犀川の流れがつくる幅広い河川敷が快適な田舎暮らしを漂わせている。う~ん、もう18年早ければ、この話に乗ったかもしれない。いかんせん、もうリタイアしてからの暮らしの型は、決まったようなものだ。それとともに顔を合わせてつきあっている(せいぜい150人よという)人間関係も、5~7分類できるネットワークの100人余に固まってきた。つまり私の「余生」のパターンを崩せない限り、いまさら動くわけにはいかない。

 カミサンに話すと、息子に怒っている。ふだん連絡もしてこないで、何を見当違いのノー天気なことを。「ケア付きの住宅というのなら検討する余地があるからと、言っといて」とお冠だ。私の返信。


 「面白い物件ですね。リタイアまであと5年ならまだしも、彼岸まであと5年ほど。いまさらの感。お母さんはケア付きの物件なら検討しますと言っていますよ」


 折り返し返信があった。「了解です。ご放念ください」。

 おいおい、「ケア付きの物件」というのは、放念しないでね。

                                            *

 家というのは、ドグマである。それがないと不安になる。あると安定する。しかし安住すると、とらわれる。とらわれると意識するのは、安定している日常に「飽き」がきている「秋」でもある。もちろん私にも「秋」は来ている。それを振り払うために、毎週のように山へ向かう。山へ向かうのはドグマを棄てるためだが、ドグマというのは、私が日頃纏っている日常の暮らし。山へ入ると、還る処があることに心安らぐ。暮らしに飽きが来たら、彼岸に旅立つというほど、「秋」は意思選択的に位置していない。だから毎週(山に)旅立って、(無事)帰還して、ホッとしている。なんとも小心な「秋」であり、彼岸志向だと言わざるを得ない。

 つまり、今の人間関係を振り捨ててドグマを変えるほど、大きな変転に乗り出す気概はない。せいぜい、山と季節の移ろいを感じて、「飽き」を癒し、「秋」を先送りする。その程度の凡俗の暮らしなんだとわが身を見つめている。

2020年9月11日金曜日

9・11は、今となっては狭隘なフラグマン

 もう19年も経つのか。2001年の9・11は、まだ現役仕事をしているときでした。職場の、ふだんそんなことに関心を示したこともない狷介な高齢者が、興奮して何度も、しかも一日中同じことを話しているのを目にしたとき、貿易センタービルへの旅客機の激突は何を象徴しているのだろうと考えていました。

 アメリカの貿易センタービルという世界経済の頂点に現代技術の頂点を象徴する旅客機が、ともにそれらの活動が進行中の最中に、その担い手である人間まるごと衝突する。まさしく“矛盾”を象徴していました。それを画策・実行したハイジャック犯の側からすると“告発”だったでしょうが、人類史的な贅沢の極みに身を置いていた側からすると、“テロ”にほかならなりませんでした。

 “告発”にせよ“テロ”にせよ、どちらかの側に身をおくと決めてかかっています。そのどちらにも(気持ちの上では)属すと決めることができない者からすると、“矛盾”の象徴でした。でもその狷介な高齢者の興奮は、“矛盾”に気づいているのではありませんでした。贅沢とは言え変わらぬ日常に飽き飽きしているヒトと思いました。小説よりも奇なる現実に興奮していたのです。

 

 でもそれが、19年目の現在地点からみると、それも単なる断片にしか過ぎないと、明らかに見えてきます。今、私たちが遭遇している“新型コロナウィルス禍”は、もっとまるごとです。経済とか技術という次元ではなく、ホモ・サピエンスの存在それ自体が“モンダイ”とされている象徴。

 謂うならば“HLM”、Human Lives Matter。BLMでいうmatterと同じ「モンダイ」というニュアンスで私は遣っているつもりなのですが、人によっては「大切だ」と受け取るでしょう。むろん「モンダイ」と言わず「大事(おおごと)」と日本語にすれば、「大切」の意味も含まれますから、どうでもいいのですが。

 

 ホモ・サピエンスの過剰――人数の過剰、住まう密度の過剰というだけではありません。暮らし方の過剰、贅沢とか度が過ぎた遊興とか振る舞いの過剰。どのような暮らしがスタンダードなのかと決めてかかる人には、何を言っているかわからないでしょう。

 ですが、敗戦前後の昔風の暮らしとか戦後の窮乏生活を体験してきたものにとっては、立ち居振る舞いも、言葉も、物質的な暮らし向きも、これほど過剰でいいのだろうかと“不安”を感じるほど、過剰です。ホモ・サピエンスは、明らかに度を越した暮らし方に身を置いている。いうまでもなく、ホモ・サピエンスの全員がというわけではありません。にもかかわらず、なぜ今になってホモ・サピエンスをもちだすのか。

 ひとつ。歴史過程がすすむにつれて、ヒトの「せかい」は広くなり、その度に「ひと」として視界に収める範囲は広まってきました。家族が一族となり、氏族となり部族となり、「くに」となったり「藩」となったり、国家となって考えたり、近隣諸民族を分け隔てなくと考えたり、グローバリズムのようにすっかり一体化して(実のところ先進国社会の優位性を世界標準にして)考えたりするというふうに、次第に考える単位が大きくなってきました。

 9・11が象徴する現代社会の“矛盾”も、せいぜい「人間」が単位。実際のところは、経済的な先進国と低開発の後進国(途上国)という視界におかれたものでした。

 だが“新型コロナウィルス禍”は、明らかに途上国でも先進国でもなく、政治的な民主主義でも独裁的専制政治でもなく、でも、それら政治や経済や社会のかたちづくって来た社会的エートス(気風)をも俎上に上げながら、まさしくホモ・サピエンスが何をしてきたか/こなかったかを問うています。全人類史を振り返って、いま何が“モンダイ”かを考えなければならないところに立たされています。

 たとえば、山へ向かいながら「もう日本は、まるで亜熱帯ですよ」とおしゃべりをしていたら、「このまま温暖化がすすむと永久凍土が解け始めるから、封じ込められていた新手のウィルスが出て来ますよね」と同乗者が口にする。そうか、“新型コロナウィルス禍”は、そこまで視野に入れて考えなさいと教えているのかと感服したことがあります。

 

 “新型コロナウィルス”が終息へ向かうのか、拡大へ向かうのかとこれまでは論議してきました。でももうそろそろ、その次元を離れて、“新型コロナウィルス”とともにやっていくには、ホモ・サピエンスの次元で、ということは少なくともここ2~5万年ほどを視野に入れて、実存の仕方を振り返ってみる必要があるのではないかと痛感します。

 「サステイナブル」と言葉を添えて経済の専門家は論題に載せますが、もし現在の暮らしの質を保とうとすれば、少なくとも量を削らなければなりません。量を保とうとすれば、質を落とすことが欠かせません。資本家社会的には、前者と後者を同時に競争原理に基づいて進めようとしています。

 前者は、金持ちが生き延びて貧しいものはますます貧しくなる。格差の拡大です。後者は、貧しいものが混沌に投げ込まれ、いずれ滅び死に絶えていくという構図です。にもかかわらず、その現実に目をつぶって資本家社会的な競争原理に任せるのに、「経済を回復しなければ」と言葉をついで、結局のところ、夢よ再びというイメージをくり返しているのが、現今の政治家や経済の専門家たちです。

 

 ヒトの暮らす単位が大きくなり過ぎています。経済にせよ政治にせよ、もっと小さな単位で、そこに住まう人々の顔がわかる範囲の広さ程度で、暮らしの営みが「そこそこ出来上がる」かたちを基本形にして、社会を編み直す。そうしなければ、ホモ・サピエンスは近代の人間の暮らしさえ、営めなくなっているのです。

 面白いことに、その機会はすでに訪れていました。これまで快適な都市の暮らしへと人口集中がすすんできました。それが“新型コロナウィルス”によって、修正を迫られています。

 かつて私が小中学生のころは、「日本は人口が多い」とモンダイ視されていました。海外移民とか産児制限とかは、暮らしが貧しかったこともあって、切実に響くフレーズでした。ところが今や、一転して少子化社会がモンダイになっています。限界集落の出現をどうするか、あちらこちらの地方自治体が悲鳴を上げるようにしています。それこそ、“新型コロナウィルス禍”後の「withコロナ」時代の鳥羽口です。ゴリラ研究者の山際寿一が説くように、「一人のヒトは150人の知り合いが限度」です。おおよそ150人を基本にしたかたちをイメージして、暮らしを考えてみてはどうでしょう。もちろん今の仕事を棄てることはすぐにはできないでしょうが、リモート事業とか、テレ・ワークなどという新機軸もあれこれと考案されているようです。

 なぜこんなふうに、とりとめもなく、あいまいに口にするか。私のような後期高齢者にとっては先々のことが考えられないからです。せいぜい寿命も、あと五年。そう思うと、いまさら新しい暮らしの形なんて、バカなんじゃないのと身の裡からさえ声が聞こえてきます。

 “新型コロナウィルス”もそれを察知してか知らでか、高齢者から身罷るように手順を踏んでいるようにみえます。だから私は、不運とも考えません。ほど良くお迎えが来たくらいに思って、withコロナです。

 ただ私たちの子どもや孫のような若い人たちが、この先何十年も狭隘で偏狭なフラグマンに頭を悩ますのかと思うと、なんとも切なく思えて、いたたまれない気持ちになります。9・11は、もう遠い昔。ホモ・サピエンスの新しい時代を“新型コロナウィルス”とともに、まるごと考えていくことにしては、もらえまいか。そう、思っています。

2020年9月10日木曜日

秋の長雨? を愉しむ

 一昨日(9/8)山に行ったばかりだのに、もう来週の山を探っている。方角の違うところにある候補を三つ上げ、その地点の天気をみて、何処に行くか決めようというわけ。

 昨日のお昼、ひとつ見つけた。富士五湖のひとつ、西湖。火曜日と水曜日の天気が良い。降水確率10~30%の曇り。降水量は0mm。参加はしたいが水曜日に予定があるという方もいたため、火曜日に登って、テント組は下山後、現地のキャンプ場に泊まって祝杯を挙げ、翌日帰ってこよう。日帰り組は、域は一緒に行き、下山後現地の鉄道駅まで送ると、午後7時半には帰宅できるという。

 それだ、それだと、地図を打ち出して準備に取りかかった。

  ところが、夕方の予報をみると、どちらの日も降水確率が70~80%、雨のち曇りに変わっている。別の地点を探ると、野反湖方面が月曜日と火曜日が良い。野反湖のキャンプ場のバンガローは、水曜日と木曜日は閉鎖しているからちょうどいい具合だ。

 日帰りではどうかと探ってみると、みどり市東町沢入の火曜日が良い。こちらは袈裟丸山の登山口にあたる。どっちでもいいなと、参加希望者に知らせる。

 そうして今朝、予報をみると、野反湖もみどり市も全部「雨、70~80%、降水量1mm」と悪化している。これはどうしたことだ?

 まるで日替わり定食のように、入れ替わっている。昔から秋の長雨って、こうだったっけ。と考えていて、思い違いに気づいた。

 昔は、こんなに細かく予報をしてはいなかった。大雑把な天気図が表示され、あるいは午後4時のラジオの天気概況を聴いて天気図に書きとり、勝手に登山地点の天気を予想していた。パラパラと雨が降りかかるのは、山だから当たり前。降水確率とか降水量なんて、考えたこともなかった。思えば、「山に行くようになって何が変わった?」と友人に問われて、「雨が平気になった」と応えていたではないか。だから私は、「雨男」の異名をとるようになり、初めから終わりまでずぶぬれの山歩きをガイドしたこともあった。そうだ、9月の平標山だったなあ。

 それが、気象衛星の性能も上がった。そのせいもあろうが、地点と時間とが細かくチェックされ、一日のうち、ちょっとでも雨が降るとなると、降水確率は60%とか80%と表示される。もちろん予報を観る方は、「1時間ごと」の予報もみることができるから、大雑把な表示に右往左往することはないが、表示が目まぐるしく変わるのは、きめ細かく予報できるようになったおかげでもある。

 でもまあ、こうして予報もふくめ、行き先もどちらにしようかと探しているのも、山歩きの愉しみの一つといえばひとつ。それをメールでやりとりして、愉しんでいる。

2020年9月9日水曜日

静かな祈りのような蕎麦粒山

 先月の25日の瑞牆山以来、2週間山へ足を運んでいなかった。平地では猛暑続きだったが、山の天気はほぼ毎日雨に見舞われる予報。山梨、新潟、群馬、栃木と埼玉各地の登山区域を毎日チェックして、晴れた日があれば行こうと、何カ所か候補に挙げて声をかけていたが、その何処もがダメだったのだ。そうして9/7の早朝、秩父市の浦山口の天気予報が「曇り、降水確率10%」とあるのを見つけた。さっそくkwさん夫妻にメールを入れる。合わせて「蕎麦粒山へ行きたい」と話をしていたstさんにも声をかける。友人と別の山に行く予定にしていたstさんが友人も一緒でいいかと応答がある。もちろん、もちろん。こうして、慌ただしく翌日(9/8)の山行が決まり、山の会の人たちにも広くお知らせした。

 秩父線影森駅で、8時に待ち合わせる。東浦和から2時間みていたが、1時間40分ほどで着いた。総長は高速も混んでいない。花園インターからの一般道も、通勤の車と逆向きなのでスムーズに運んだ。影森駅は主要道から少し引っ込んだところにあり、民家に囲まれてわかりにくい。駅前の駐車場は広い。通勤客がここに車を置いて熊谷方面へ出かけるのだろう。武甲山が朝陽を受けて目の前に屹立する。駅長らしい人が出てきて、削られる山の変貌を口にする。あと百年もするとなくなるかな、と。五十余年前にここに住んでいた知り合いは、「武甲が削られて、うちに朝陽が差すようになった」と喜んでいたのが思い出される。

 

 車で来たkwさんとも合流し、電車で来たstさんと友人を乗せて、浦山川の上流、川俣の大日堂へ向かう。大日堂入口の浦山川の右岸にある大きな仕舞屋(しもたや)風の家の前、道路を挟んだ空き地に車を止める。kwrさんが止めることを断ろうと家を覗くと、女将さんらしき人が出てきて、「浦山ダムができるときに、ごね得でね・・・」とこの家の由来を話す。息子は東京で仕事をしていてときどき帰って来るそうだ。久しく話し相手がいなかったかのような気配を感じた。

 歩き始める。8時25分。ほぼ予定の時刻だ。私のお知らせしたコースタイムは6時間10分。kwrさんが昭文社地図でチェックすると7時間5分という。そうだ、毎回そうしたコースタイムの違いを指摘される。私のみている「資料データ」が古いこともあるが、近年のGPSやネットの広がりのお蔭で、歩く人の「データ」が多くなり、時間も修正されていっているようだ。

 実際今日も、帰着時刻は15時31分。山頂のお昼に30分ほど割いたが、それをふくめて行動時間が7時間6分。ほぼコースタイムで動いていたということであった。

 

 古びた大日堂はひっそりと針葉樹林に囲まれて薄暗い。境内の裏側に登り口がある。昔は木の階段を設えたのであろうが、朽ち果てて緩み、ジグザグに切って急傾斜を上がる。この急な登攀が30分つづき、「60号鉄塔」に出る。一息つく。稜線に沿って高圧線の鉄塔は「59」「58」「57」とつづき、高圧線を表記しなくなった最近の国土地理院地図と違って、通過ポイントを示すのに便利だ。「58号鉄塔」883mで稜線に上がり、そこからは緩やかな上りになる。昭文社地図では稜線歩きのようにルートが記されているが、国土地理院地図では稜線を巻くトラバース道になっている。それが、あやしく崩れ、滑り落ちると面倒になると思われる。ほかの道は踏み跡もしっかりしているのに、ここばかりは注意を払った。

 その一角に「明治神宮」の署名の入った掲示板が二カ所たてられてあった。たぶん、ここからここまでという領域を記す必要から、立てられたのであろう。下の方は杉林、標高の上の方は檜の林になっていた。掲示板は、踏み込むな、持ち帰るな、荒すな、ここは明治神宮の所有林だという趣旨のことが記してあったが、林はみごとに整備され、なるほど植林してから80年くらいの年数がたつような気配。でも、秩父にそんな針葉樹林を持っているなんて話は、初耳だ。


 先頭を歩くのは、いつも通りのkwrさん。その後に、今日初参加のyokoyさん、stさん、kwmさんとつづく。彼女たちはいずれも草花に詳しいらしく、ときどき立ち止まっては言葉を交わしている。神宮の森を過ぎてしばらく稜線を辿ると、急峻な上りが待っていた。約標高差で300メートル登って仙元峠1444mに着く。この上りがきついとか、武尊山のそれに比べれば、そうでもないとか、kwmさんとstさんが話している。yokoyさんは黙々とkwrさんについてすすむ。ずいぶん強い人のようだ。途中の大木が根を残して、土がまるごと崩れ落ち、何十メートルも下へとえぐっている。

 

 仙元峠は秩父と多摩を結ぶ唯一の峠だったそうで、江戸の人たちの三峰講、上州の人たちの富士講は、この峠を通って行き来したということが、峠の大きな看板に記されている。

「ここでお昼にしますか」とstさんが訊く。まもなく正午だ。

「いや、あと20分頑張って山頂まで行こう」とkwrさんが動き出す。

 標高差は、わずか30メートルだったのに、標高差50メートルくらいを下りに降る。そうして登り返す。それがきつい。こうして大きな岩が現れたところで、山頂に行きついた。

 12時15分。3時間50分かかった。山頂は巨岩がいくつか並び立ち、灌木に囲まれている。見晴らしは良くない。一組のご夫婦がお昼にしている。彼らは東日原の日原鍾乳洞の辺りからから登って来たという。往復するらしい。

「5時間半かかりましたよ、そちらは?」

 とstさんたちと言葉を交わしている。こちらは埼玉県民ですからと、蕎麦粒山を都県で分け合っている。

 

 お昼にする。20分ほどでkwrさんが身支度を整えている。おや、もう行くの? と訊くと、いやいや・・・と苦笑いをしている。kwmさんも、そろそろ終わるようだ。stさんとyokoyさんは上の岩で、お喋りをしている。上空には雲かかり、しかし向かいの山並みはよく見える。川苔山や鷹ノ巣山などが重なって西の方へつづいている。風が涼しく、心地よい。

 途中の林の途切れたあたりからは、東側の有間山や大持山などが、明るい日差しを浴びて見えていた。そちらも、しかし、山嶺が重なり、どれがどれかわからない。長沢背稜と呼ばれているのは、どこからどこまでのこと? とstさんはまるで高校生のような好奇心丸出しだ。ところが、先ほど上った仙元峠の表示板には「天目背稜」とあった。天目山が間近にあるからだ。その向こうには酉谷山もあり、去年9月に歩いた熊倉山も見えた(はず)。三峰山から雲取山に向かう山嶺と三差路のようにぶつかる。そこまでが長沢背稜かどうかはわからない。

 

 ご夫婦が先に出発し、私たちもそれを追うように下山にかかった。12時45分。30分の昼食タイムだ。ひとたび下り、標高差50メートルほどの上りがある。下るときほど、きつさを感じない。

 仙元峠に着く。表示板を読むと「仙元というのは水の源」とあった。そうか、そうだったのか。あちらこちらにある「仙元」の意味が、私の心裡で解きほぐされる。たしかに山は、水の源だ。明治神宮の森であっても、水こそが命の源。山に登るのも、祈りを捧げるような行為だ。泉源/仙元まで、山頂まで足を運んで、感謝をささげる。ことばにするとウソっぽくなる。沈黙の祈りこそ、心裡を伝えるのにふさわしい。それには無心で山に登るという好意こそ、相応しい。神も仏もない。自然こそが大いなる源。

 そう考えてみると、今日の私は、何も考えないでのぼっている。ただただ、前の方の後をついて歩いているが、足元の慥かさをみているだけ。ほとんど瞑想の状態だったなと、振り返って思う。静かな山であったが、同時に、祈りの山でもあったと感じる。

 

 下山中、先述の崩れかけたトラバース道を通っているときに、左太ももに攣るような緊張が入る。歩度を緩めても、攣りそうな気配は変わらない。歩くのをやめて、ザックからエアゾルを出し、太ももに吹きかける。そうして歩いても、緊張はすぐには解けない。ゆっくりと、皆さんより遅れてすすむ。水が足りなくなると足が攣るといつか耳にしたことがある。水を飲む。5分ほどすると気配が収まり、そのうちなんでもなかったかのように自在に足が動かせる。よかった。去年だったか、一人で山に入ったときに、足が攣りそうになって慌てたことがあった。それ以来、エアゾルを買い、kwmさんたちが遣っている漢方薬を薬袋に入れて歩いていたのが、幸いした。

 でも考えてみると、以前は攣ることもなかった。最初の攣りそうな感触がどういう状態で起こったのか、いまとなってはわからない。だが一つ言えること。2週間山に行かなかったこと、つまり身体を動かさなかったことが原因しているとしたら、どういうことなのか。私の脚の筋肉に行きわたって、つねづね引き攣りを防止していた潤滑油が、もう2週間以上は持たないと教えているようである。毎週山に入っていてこそ、トレーニング抜きに、身体が保たれている。それが間遠になると、たちまち潤滑油は切れて、今日のように千メートルの標高差を上り下りするのに耐えられない。

 59号鉄塔に来たとき、私のボトルの水が空っぽになった。あらっ、空っぽだと口にすると、stさんが甘いけどと言ってピーチ味のジュースを少し分けてくれた。それは口にするとほんとうに甘くて、益々水が欲しくなる態のものであったが、それで少しずつ口を湿らせて残りの1時間を歩き、最後の大日堂への急斜面を下って行った。

 車に乗せてあった、運転用のテルモスのお茶を飲んだときは、ほんとうに生き返るってこういうことなんだと思うほど、身の裡にお茶が染み渡るのを感じ、感動したほどだ。

 

 ともあれこうして、蕎麦粒山の山行が終わった。stさんとyokoyさんのお二人を影森駅まで送り、「無事下山」のメールを送ろうとしたら、「充電してください」と表示が出て、スマホの電源が切れた。しかし順調に浦和へ帰還。5時45分。長沢背稜まで行ってきたという充足感は、半端なモノじゃない。

2020年9月7日月曜日

知らない鳥

 川内有緒文・中川彰・写真『バウルを探して完全版』(三輪舎、2020年)を読んだ。なんだこれは、「わたし」の本ではないか、と思った。

 著者は1972年生まれというから、私の娘のような若い方。ただ経歴は世界中を旅した赫赫たるものがある。もちろん観光旅行ではなく、NGOであったり国連職員としてであったり、世界各地の困窮する人たちの現場に足を運んでいる。その彼女が、パリでの国連仕事に行き詰まりを感じて仕事を辞めて日本に帰国し、ふと思い立ってバングラデシュの〝バウル〟に会いに行こうと思い立つところから、本書ははじまる。


 いわゆる書籍分類をすればノンフィクションとなるであろうが、わずか2週間ほどの旅が、まるでバングラデシュという国のドキュメンタリーであり、その国の人々がどのような文化を堆積して日々を過ごしているか、その暮らし方が、哲学的な次元にまで目が行き届いているかのように綴られている。一気に読み切ったわたしも、ほんのちょっとした「こころの旅」をしたように感じてうれしい。しかもその旅は、バングラデシュという国と町への旅というよりも、「わたし」の内面へ向けての旅であった感触なのだ。

 その私の感触は、たぶん、この著者自身の「旅」の始まりと終わりとの、わずか2週間の間に起こった変化であり、彼女の「せかい」の広がりと深まりと重なっていると受けとめている。

 

 バングラデシュを知る人に〝バウル〟のことをきくと、たいていの人が知ってはいるが、「どういう人?」と訊ねると、言葉にできない。いろんな人がいるよという。ミュージシャンだともいう。修行者だともいう。イスラム世界のバングラデシュで修行者? どんな宗教? ときくと、さて? と言葉にならない。吟遊詩人だと説明する人もいる。「バウルに会えるかな」と訊くと、いや何処へ行けば会えるかはわからないよ、という頼りない情報を抱えて2週間の旅に出る。

 18世紀末に生まれた吟遊詩人の元祖のような方の名前に行きつく。ラロン・フォキル。

 ラロンの歌、ラロン・ソングが人々の間で親しまれ、口ずさまれている。まるで日本の小学校唱歌のように親しまれてはいるし、それを謳って一躍名が売れ、「日本でいえば美空ひばり」という歌姫もいるが、彼女は歌を教える学校を営んでもいる。

 あるいは地方の町の一角に(全国から)〝バウル〟が集まって三日間、かわるがわる人が登壇して「まるでNHKのど自慢」のようであったり、いや「紅白歌合戦」だと思うほど、(人々に)よく知られた歌い手や演奏家も登場する。その傍らに、もう何年もずうっと座り続けて人々の尊敬を集めている歌わない〝バウル〟がいる。(ある程度中流階層の?と思われる)親たちはわが子がそれを口ずさむのを好ましくは思っていない様子もうかがえる。なぜか。彼のフォキルというのは「乞食」を意味するという。〝バウル〟は在野の哲人という感触か。

 

 この著者の旅で出逢う〝バウル〟が彼女の「バウル概念」をかたちづくり、また壊してはつくり直し、さらにまた壊さないと理解できないという転変をくり返し、ついに彼女は、ある種の達観を手に入れる。一つの概念にまとめようとすることが、すでに「ドグマにとらわれてはいけない」ことを為している、と。ありとある「かたち」を、それとして受け入れて(わが身の裡を)みつめていると、〝バウル〟というのは、己の内面に視線を向けて問いかけの旅をしている人たちだと、氷解していく。その過程が、「旅」の過程を書き記すことによって浮かび上がってくるのが、読んでいてスリリングであり、興味深い。

 そこには、モノにとらわれ、モノゴトに拘泥し、いろいろなモノを持つことによって損なわれていく人の身のナニかが、忽然と浮かび上がってくる。それは、しかし、言葉にするとウソっぽくなる。人から人へ伝えるのは、心から心へ伝えるものでなくてはならない。その言葉がラロンの詩であり、歌だ。しかも歌は、いかようにも「解釈」できる。できるから、まるで日常の歌謡のように口ずさまれたりする。だがその意味ところを象徴的に解いてみると、深い哲学的な視線が浮き彫りになる。しかし、そうしては真意が伝わらない。そこに謡わない〝修行者〟が存在する。

 

 とどのつまりと、コトを要約しようとするのも、別様にいえば修行が足りない証である。こうして、中空に投げ出され、しかし、間違いなくわが身の裡への旅をはじめることになる入口の扉を開ける。そこに立っているという実感が、率直な読後感である。

 本書中に引用されているラロン・ソングを三つ、末尾に紹介しておく。最初のは「オチンパキ(知らない鳥)」というたいへんポピュラーな歌だそうだ。

 ここに登場する「鳥」とは何か。「八つの部屋、九つの扉」とは何か。それを問うた著者に、一人の〝バウル〟が応える。

 その答えを聞いて「ということは、母屋というのは**ですね」と反応した途端に、このバウルは、何か大きな失態をしたかのように、口を閉ざす。その失態をしたかのような振る舞いのなかに、私は〝バウル〟の伝承の仕方の核があるように感じた。それこそが、わたしの忘れているコトであり、今の時代の日本が(無意識のうちに)捨て去ろうとしていることだと強く思った。


*「オチンパキ(知らない鳥)」


鳥籠の中、見知らぬ鳥は、どうやって往き来をする?

つかまえたら、「心の枷」を、その足にはめたのに。

八つの部屋は九つの扉で鎖され

中をときたま閃光がよぎる

その上には、母屋がある――

そしてそこには、鏡の間。


心よ、おまえは籠をあてにしてるが

おまえの籠はもろい青竹作り、

いつパタリと崩おれるやもしれぬ、

ラロンは言う、籠が開けば

その鳥は どこに一体逃げ去ることか。


**ノヨン・デワンの歌の一つ


盲人がもう一人の盲人に言う

行こう、祭りに行こう

盲人はいう でも道を知っているのか

盲人は答える

知らない でもとにかく行こう

だってほら この世は祭りなんだから

この世は 盲人だらけの祭りなのだから

学者が学があっても自慢ばかりしている

長老は悪口ばかり言っている

どいつも こいつも

この世は 盲人で溢れている

だから行こう 世の祭りへ 盲人の祭りへ

  

***ラロン・フォキル「誰もが訊ねる、ラロンは一体どの家の生まれなんだい」


誰もが訊ねる、ラロンはいったいどこの生まれなんだい

ラロンは言う、「生まれ」っていったい何だい、

この目でまだ目にしたことはないよ

(中略)

ある人の首にはヒンドゥーの数珠、

別なヒトにはムスリムのトズビ

それで、生れがわかるっていうのかい

生まれてきたり、死んで逝くときに、

「生まれ」の印を持つやつなど、どこにいるのかい


溝を流れるただの水が、

ガンジス河では聖なる水になる

なんの違いもないただの水が、

器によって大違い


世界中が、生まれの話で持ちきり

誰もがその話で、一喜一憂

ラロンはその生まれへの迷信を、

とうに七つの市場に売り払ってしまったよ

2020年9月6日日曜日

雨が降る―同世代が身罷る―ウィルスが身近に感じられる

 烈しい雨の音で目が覚める。台風10号はまだ奄美・吐噶喇群島の辺りなのに、関東地方にも雨をもたらしている。朝4時。起きて新聞を開く。このところ新聞は朝刊も夕刊も、毎日薄いビニールに包まれている。予報が雨だと、配達のときに濡れてしまうと想定するからだろう。気象関係者は「私雨」と呼ぶらしい。ごく限られた地域に降る雨のことらしい。観測技術が詳細化してきて、綿密な予報が可能になったからのようだが、天気予報をみて山歩きをするようにしていると、その予報表示がほんの夜中の一瞬であっても「70%」とか「80%」と出されるから、腰が引けていけない。やはり山歩きは、「雨男」と言われようと、若干の雨は覚悟して歩くようでなくてはダメだなと思う。

 

 朝刊を読む。今朝の訃報は、73歳と78歳。前者は国際的な活躍をした男性のダンサー、後者はハウステンボスの創業者だという。団塊の世代の弟と同年生れと私と同年生れ。私たちの寿命が近づいてきていることを、こうやって予告され、予感する。ぼちぼちだんな。

 その脇に、志村けんに関する誰かのコメントがあった。近頃志村けんの姿をTVでも、よく見かける。昨日もチンパンジーと手をつないで、旅をしている映像が流れていた。死ぬといきなり評価が固まるというか高まるというか。お笑いの下地に芸術的な達観があったとか、人柄が好ましいとなる。生前彼の出演する番組のやんちゃぶりが度を越していると非難轟轟出会ったのが、嘘のように。でも、これこそ、彼岸からの目線で此岸をみるから。遠近法的消失点から現在を観ている自分を、意識しなさいということではないか。つまり、その視線が良いとか悪いとかいうことではなく、日ごろ私たちが忘れていることを、死者が思い出させてくれている。単なるセンチメンタリズムと謗るなかれ。むしろ伝統的な自己対象法として、哲学的な評価をした方が良いとさえ思う。

 

 日曜日とあって、一週間のコロナウィルスの広がりがまとめられている。じつは隔月に開催していた「36会Seminar」の3月開催予定が、5月、7月と延期になってきた。では、9月は開催できるか。7月の「案内」では開催目安を(会場のある東京都の数値で)、①感染者数が20人以下、②感染経路不明が20%未満、③実行再生産数が1.0以下、と明示した。①は、けた違いになっている。②も、58.7%と、お話しにならない。かろうじて③だけが「0.88」と「1.0」を下回った。東京都は相変わらず「感染拡大」「警報発令」の姿勢を崩していないから、Seminarの開催はムツカシイ。ところが政府は、山を越したとでもいうような受け止め方をしている。どうして?

 昨日、政府の専門家会議に参加している大阪大学の行動経済学者が、この夏のウィルス対応を総括して「新型コロナウィルスはある程度制御可能」とする記事があった。要点は以下の通り。

(1)3月には専門家が危機感を強く持っていたのに対して、国民は軽く受けとめていた。だが、7月以降は、それが逆転している。専門家は「ある程度制御できる」と考えるようになったのに、国民は危機感を強めている。

(2)感染クラスターは、夜の町やカラオケなど特定の業種に絞ることができる。スポーツジムや感染対策をしている業種、あるいは公共交通機関では、それほど感染拡大がみられない。湿度が高いと飛沫感染の拡散が抑えられる。

(3)50歳未満では重症化することはほとんどなく、高齢者や重症化する人への重点的な対応が必要。事態がひっ迫している現場医療機関の負担を軽減するための財政支援が、ピンポイントで必要だ。

 

  なるほど「ある程度制御可能」となると、経済振興にも乗り出せる。山を越したような気配の根拠が、これか。だが、現場の地方自治体の首長たちはそれほど楽観していない。たぶん、「ある程度制御可能」というには、その制御に携わる自分たちの行政システムやそれを社会的に浸透させる社会環境やシステムが整っていなければならない。「制御」は机上の理屈じゃない。実務的な展開をするだけの社会的身体と財源をもっていなければ、机上の空論になってしまう。全国民への十万円配布もそう。「接触確認アプリ」を広めるのもそう。安倍政権が交代する今ごろになって政府は、「デジタル化をすすめる」と「公約」している。つまり地方自治体の首長と政府の違いは、実務的な運びができるかどうかの見通しを感じているかどうかによる。とすると、自己判断が求められている私たちは、首長の方を実際的だとみるしかない。

 

 ただ、こうはいえる。

(a)新型コロナウィルスは、高齢者には厳しいが若い人にはさほどの打撃を与えない。

(b)ホモ・サピエンスのスタート地点からみて、何が過剰かを、経済、文化、政治にわたって鳥瞰し、過剰なものを整理して出直せというのが、コロナウィルスが齎した「天の啓示」だ。

(c)ニンゲンの過剰を調整するとしたら、高齢者から身罷るのが順当だ。


 つまり、ニンゲンを滅ぼすことなく、ニンゲン社会を再編成をするのに、この新型コロナウィルスは最適な「啓示」となっている。となると私たち高齢者は、静かに退出しようではないか。自らすすんでコロナウィルスの餌食になることはないが、コロナウィルスに見舞われたからといって、騒ぐことではない。静かに受け入れて、彼岸へ旅立とうではないか。カッコよく、そんなことをウィルスとの共生だと考えている。

 巨大な台風がやってきている。ニンゲンは自然の子だ。高齢者には、ぼちぼちその秋(とき)が訪れている。

2020年9月5日土曜日

36会Seminar 9月予告と開催決定時期のお知らせ

皆々さま

 新型コロナウィルス禍が、まだ続いています。政府はひと山乗り切ったという感触でコロナウィルスに対応していますが、東京都は感染の広がりが拡大傾向にあるとの認識を崩しておらず、様子を伺っている私たちとしては、困惑しますね。


 「36会Seminar 7月開催のご案内」の中で、開催する「条件」を以下のように記しました。

【実施するかどうかの目安】

 東京都の三つの指標が以下のようであることを目安として実施の可否を判断する。一週間前(7/18)の指標をみて判断します。その後大きく変動があるときは、再度、見直します。

1、感染者数が20人未満である。

2、感染経路不明が20%未満である。

3、実効再生産数(感染の広がりを示す指数)が「1・0」未満であること。

 上記指標については、「東洋経済online 国内感染の状況」https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

における「東京都の状況」による。


 東京都の感染者数は9/4で「211」ですので、開催条件「1、」とは桁外れです。また「2、」は、東洋経済onlineでは掲載されていません。「3、」の実効再生産数は、東京都0.88、埼玉県0.94と1.0を下回っていますが、神奈川県は1.05と、まだ「感染拡大」の傾向を示しています。


 ただ、夏場の「傾向」を、政府の専門家会議に参加している大阪大学の行動経済学者が総括している記事がありましたので、以下に添付しておきます。要点は以下の通りです。

(1)3月には専門家が危機感を強く持っていたのに対して、国民は軽く受けとめていた。だが、7月以降は、それが逆転している。専門家は「ある程度制御できる」と考えるようになったのに、国民は危機感を強めている。

(2)感染クラスターは、夜の町やカラオケなど特定の業種に絞ることができる。スポーツジムや感染対策をしている業種、あるいは公共交通機関では、それほど感染拡大がみられない。湿度が高いと飛沫感染の拡散が抑えられる。

(3)50歳未満では重症化することはほとんどなく、高齢者や重症化する人への重点的な対応が必要。事態がひっ迫している現場医療機関の負担を軽減するための財政支援が、ピンポイントで必要だ。


 さてそういうわけで、後期高齢者である私たちにとっては、あまり状況は変わっていないといえそうです。9月26日(土)の「36会Seminar」の開催は難しいかと思いますが、19日(土)まで様子を見て、「3、」を中心に、濵田守、佐藤和恵、三宅健作さんたちと相談して、開催か延期かを決定したいと思います。

 何度も延期になりますが、講師の伊勢木洋昭さん、よろしくご了承ください。

      2020年9月5日 36会Seminar事務局 藤田-k-敏明


                            ***東洋経済online 2020/09/05

★「新型コロナは制御可能」が今夏の経験の結論だ――大阪大・大竹氏「的を絞った対策で乗り切れる」

                                                    野村 明弘 : 東洋経済 解説部コラムニスト


7月に始まった新型コロナウイルス新規陽性者の再拡大は、約1カ月を経て収束に転じた。懸念された重症者の増加も一定程度に抑えられ、国民の新型コロナへの見方も徐々に変わりつつある。

政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の構成員である大阪大学大学院経済学研究科の大竹文雄教授は、ウイルス流行当初からの変化をどう見ているのか。心理学の研究成果を用いた行動経済学の視点を交えて話を聴いた(インタビューは8月25日に実施)。


 ◇ 3月は専門家と国民の危機感に相違があった


――今年3月から政府の専門家会議のメンバー(7月に新型コロナウイルス感染症対策分科会に改組)として活動されていますが、春の第1波から今夏の感染再拡大までにどのような変化を感じていますか。


初めて参加した3月19日の専門家会議は強烈に覚えている。当時は、国民と専門家の間で危機感の強さがまるで違った。一般に多くの人々は、中国・武漢発の新型コロナ流行はもう落ち着いたから、小中高の一斉休校措置を解除すべきだと話していた。


だがこの頃、欧州帰りの感染者が毎日10人くらい入国していた。専門家会議は、欧州発の感染拡大を押さえ込まないと大変なことになると、非常に強い危機感を共有していた。西浦博教授(京都大学大学院医学研究科)は4月に「行動制限なしなら42万人死亡のリスク」と話したが、3月の時点でも人工呼吸器がどれだけ足りなくなるかなどの推計値を公表していた。


――行動経済学者として、そのような状況をどう見ていましたか。


3月19日の専門家会議の発表資料には、主に2つのことが書いてあった。1つは、(先に感染拡大が起きた)北海道は落ち着いたということ。もう1つは、感染源のわからない陽性者が東京などで継続的に増加しており、大規模流行につながりかねないということだった。


人間には、自分の信じたいことの情報だけを見てしまう「確証バイアス」がある。だから、危機感を強調したいのなら、そちらをもっと強く書かないと国民には伝わらないと思った。会議後に尾身茂・副座長(地域医療機能推進機構理事長)にそのことを伝え、記者会見では危機感を前面に出してくださいと話した。ただ、書いたものを通じて国民に伝わる部分が大きい。全面的な修正ができなかったのは残念だった。


――その後、感染は急拡大し、春に第1波を形成しました。次の7月以降の感染拡大については、どう見ていますか。


今回は、専門家と国民の認識ギャップが逆になった。検査態勢が充実したことにより、若者を中心に陽性者が増えたが、春の第1波でももっと検査を実施していれば、より多くの感染者が見つかっていただろう。7月後半からは中高年の陽性者も増え始めたが、いずれにしろ、感染は収束し始め、重症者も春に比べてさほど増えなかった。院内感染や高齢者施設での対策や検査態勢が拡充され、早めに対応できるようになったことが奏功したためだ。今夏の経験により、「新型コロナはある程度制御できるようになった」と、大方の専門家は認識している。


 ◇ 今後は国民の認識も変わるだろう


これに対して、一般の人々は「感染が増えている」と連日ニュースで聞かされ、「コロナはどこにいても、普通に生活していても感染してしまうのか」と危機感を高めてしまった。これは、春とは逆方向の認識ギャップだ。もっとも、夏の再拡大では重症者の少なさが明確になったため、これからは国民の認識も変わってくると思う。


――予防対策の有効性もわかってきたということですね。


        大竹文雄(おおたけ・ふみお)/大阪大学大学院経済学研究科教授。 1961年京都府生まれ。1983年京都大学経済学部卒業、1985年大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。2018年より現職。博士(経済学)。専門は労働経済学、行動経済学。著書に『日本の不平等』『経済学的思考のセンス』『競争と公平感』『競争社会の歩き方』など多数(撮影:今井康一)


「夜の街」やカラオケなど感染リスクの高いところを避けるようにすれば、かなり防げるというのが専門家の認識だ。また、高リスクのところでも、予防のガイドラインを守っている事業者では、クラスター(感染者集団)はほとんど起きていないのも事実だ。


最近の研究では、AI(人工知能)などを活用した気流シミュレーションや感染者数シミュレーションも盛んになっている。アクリル板は何センチメートルまで高くすれば飛沫の拡散防止効果が高いとか、湿度を高くするとあまり飛沫が飛び散らないといった知見が報告されている。2月の流行初期にクラスターを発生させたスポーツジムではその後、感染が起きなくなった。これも対策がしっかりしたことが要因と考えられている。


残念なのは、対策がうまくいき、クラスターを起こしていないところをメディアが積極的に報道しないことだ。スポーツジムの成功例はもっと取り上げていい。分科会の発表資料でも「電車に乗ってもコロナはうつらない」というメッセージを夏から出し始め、大規模イベントでも屋外なら感染リスクは低いこともわかってきている。こうした科学的なファクトが伝わっていけば、人々の新型コロナへの見方もよい方向に収斂されていくだろう。


一方で、新型コロナの流行を制御するため、いつまでも国民の自主的な行動変容に頼っているのにも限界がある。国や地方自治体は、店舗などの対策とその効果について個別事例の情報を収集し、事業者向け予防ガイドラインをより精緻化していくべきだ。そうすれば、国民1人1人は特に気をつけなくても、世の中全体で感染対策が機能するような状況を作っていくことができるだろう。


――春に大打撃を受けた経済の立て直しも急務です。


コストとベネフィットの比較考量が重要だと思う。人の移動を完全に止めれば感染リスクが下がるのは当然だが、経済社会の悪化で健康を害する人もいる。世の中のリスクはコロナだけではないことを認識すべきだろう。確かに春の段階では、ウイルスのリスクがどの程度かわからなかったため、予防的に押さえ込んだのは正しかった。しかし、もうそこまでしなくてもいいのではないかというのが、今夏の経験の結論だろう。


新型コロナは、無症状者が感染源になったりするなど厄介な病原体だが、50歳未満では重症化リスクはほぼなく、それ以上ではあるなど世代によって随分影響が違う。加えて、重症化するとかなり長期間の入院が必要となり、医療資源を占有してしまうのも特徴だ。それによってほかの患者さんの医療を提供できなくなるリスクがある。だが、逆に言えば、これらのことにしっかり対処すれば、さほど新型コロナを恐れる必要はない。つまり、リスクの高いところに集中投資することが重要で、そうすれば経済との両立は可能ということだ。


――国民全体にまんべんなくではなく、的を絞った対策が重要ですね。


1つは、ウイルスの拡散源となる「夜の街」での対策。もう1つは、重症化リスクの高い人に感染が広がらないようにする対策。後者のためには、医療機関や高齢者施設などで予防用の設備や検査機器・体制に集中してお金を投じる必要がある。クラスター対策や検査などの業務でパンクしがちな保健所の体制強化も重要だ。


 ◇ コロナ重症者用病床の確保にインセンティブを


――重症者用の病床確保策についても提言されていますね。


高リスクのところで対策を行っても、どこかで漏れが生じれば重症者は一気に増えかねない。重症者に対応する病床が不足することが医療崩壊を引き起こす最大の原因であるため、そこへの対応も不可欠だ。医療崩壊まで行ってしまうと、地域経済を止めざるをえなくなる。経済停止のコストを考えれば、コロナに対応できる病床を確保することのベネフィットの大きさがわかるだろう。


残念ながら現在は、コロナ対策用に病床を空けることと、ほかの疾患のために病床を空けることでは、後者のほうが医療機関の収益にとってメリットが大きい制度になっている。そのため、私は医療機関のインセンティブ構造を変える財政支援が必要だと提言している。


――コロナ禍によって受診抑制が起き、経営難に陥る町のクリニックも増えています。破綻が相次げば、地域医療の受け皿が毀損してしまいます。


そうしたクリニックになぜ患者が行かないかと言えば、感染症対策に不安があるからだろう。クリニックや医療機関が感染症対策をしっかり行うことを目的としてお金を使うべきだと分科会で議論している。経営危機だから一律にクリニックへ補助金を出すというのではなく、財政支援のあり方を考えるべきだろう。

2020年9月4日金曜日

後期高齢ステイホームズの冒険

 昨日(9/3)、何ヶ月ぶりかで電車に乗った。埼玉の東京出張所「いけぶくろ」で、映画を見るため。何しろ、コロナウィルス騒ぎになった3月から一度、やむを得ず大宮まで乗っただけ。

 それ以前は、70歳ころには月に1000km使っていた車も月400kmほど。できるだけ電車やバスを使うようにしてきた。高齢者の運転が危ういと世間様からうるさく言われはじめたからでもあった。山の会の人たちも、私が75歳を超えてからは私の車に同乗しなくなった。それはそれで、運転する私としては気持ちがいいことだったが、山行計画は電車やバス、せいぜい現地に近い地点からレンタカーを借りることが多くなった。それもコロナウィルスで一転した。移動は、車ばかりになった。

 

 ステイホームズの後期高齢者にとって今、電車に乗って池袋に行くことは大した冒険である。そんなに面白い映画なの? 

 そうなんです。池袋の映画館でイギリスの劇場で観る演劇を映像化して上映している。ナショナル・シアター・ライブ(NTL)の『リーマン・トリロジー』(原題:THE LEHMAN TRILOGY)。

 ロンドンのピカデリー劇場で上演されたものの「録画」といえば録画なのだが、歌舞伎座のそれを映像化したと言えば、分かるかもしれない。じっさいの劇場でみているよりも間近に、特等席で、ときにオペラグラスを目に当ててみているような迫力があった。映画の料金も通常の2倍。なるほどそれだけ払ってもしょうがないと思う出来栄えであった。

 

 舞台そのものが素通し矩形の骨格だけの立体。それが、まわる。その背景の画像が大画面の海であり、荒野であり、大都会であり、綿花畑であるという自在の展開によって、置かれている状況を見事に象徴する演出が舞台に集中させる。ときどき右下に生の演奏をするピアニストの姿が映る。観劇する人々の拍手や笑いが響き、「休憩」に入ると劇場の二階席をふくめた人々の様子と喧騒も、あたかもその場にいるように垣間見せる。

 「こんな映画をやってるよ」という友人の紹介を受けて、カミサンが行かないかと誘う。私のコロナ電車忌避症を知っているからだ。7月以来、映画館に足を運んでいない。

 もう一つ私には動機があった。コロナウィルスがやってきて、友人の脚本家・舞台監督の主宰する劇団ぴゅあの今年2月公演が中止になった。2019年1月の公演を見過ごしていたから、私にとっては2年の空白の後のピュア公演だったのだが、それがコロナ禍の関係でみられなくなった。今度観ることのできる期間も、この先見当がつかない。この後演劇界はどうするだろうと考えていたとき、劇団ぴゅあが画像を使っていたことに思い当たった。あれを上手に使えば、無観客で上演して画像にすればできるんじゃないか。

 でもそうしたとき、テレビドラマとどこが違うか。それが浮かび上がる映像でないと、二番煎じになる。そんなことを考えていたから、そのあたりも見てこようと重い腰を上げたわけだ。

 

 面白かった。素材そのものは19世紀半ばにニューヨークに渡ってから21世紀初めころのリーマン・ショックまでの、リーマン・ブラザーズの辿った道を凝縮したものである。ユダヤ人という背負った重荷と新天地アメリカの対比、南北戦争、世界大戦、1929年の世界大恐慌と辿り、大富豪の仲間入りをしてきたリーマンブラザーズが、2008年の「リーマン・ショック」で破綻するまでの流れを追うとなれば、主舞台は映像の世紀。当然残された映像もあまたあったはず。

 しかし、映画やテレビドラマであれば取り入れたであろう場面を切り捨てて、言葉と出演者の動きで補って素早い展開を仕掛けていく。ほとんど絶え間なしに舞台の素通し矩形が回転して、わずか3人しか登場していない俳優の、いま誰がどこへ向かって言葉を継いでいるかを示すように、画面は変わる。ピアノのバックミュージックが「4人目の登場者」のように、舞台回しの役を務めている(と後で、ピアニストを評価するコメントが組み込まれている)。

 

 演劇というのは、省略の芸術だ。省略の間を、出演者と観客の共有する「空気/せかい」がつなぐ。その橋渡しを読み取るのが、台本と演出と役者の演技といえようか。観客の拍手や笑いが画像に組み込まれるわけが分かる。あれは、「空気/せかい」のレベルの確認なのだ。映像で観ている人にも、それを求めている。

 その省略が極端になるほど、観客の加担する領分が増える。それは、演者にとっても観ているものにとってもスリリングな遊びにほかならない。ぼんやりしていては、置いていかれる。ぼんやり演じていては、浮いてしまう。


 第一部から第三部までの幕間の間に「休憩」が2回含まれる。映画には「休憩」に加えてピアニストや出演者の制作秘話が差しはさまれ、いかにも今風のつくりにしている。221分と、舞台の公演時間を記しているが、実際の映画は11時半に始まり、3時20分に終わった。制作秘話や予告のコマーシャルなどもあったから3時間50分となったのだろう。ぼんやりする暇もない緊迫感が持続した。日本語字幕があったから分かりやすく受け止めることができたことは、いうまでもない。

 それにしても観客には、若い人たち、ことに女性が多い。池袋の映画館は、ひと席ずつ開けて座るようにセットしており、チケットの予約・購入、あるいは入口で消毒したりすることも、すっかり定着している。コロナウィルス時代の映画館の営業スタイルが決まってきているようであった。

 そうそう、一つ印象的なコト。シネ・リーブル池袋という映画館はルミネ八階にあると、ネットで確かめて出かけた。ルミネの8階で、はてどこだろうと、手近の店番をしている女の子に聴いた。彼女は「えっ、ここにはないですよ。違う階じゃないですか」と応える。「まいったねえ」と探そうとしたら、後からエプロンをした女性が「この先、左側にありますよ」と教えてくれた。ほんの20メートル先の映画館のことを、おしゃれなレストランの店員が知らない! これは、ひとつの発見であった。都会って、そういうものなんだよね。

 知る人ぞ知る。知らない人は知らない。

 だから、何? ってわけね。

2020年9月3日木曜日

パターン化する人間認識

 昨日(9/2)の「自己完結する話は、なぜ面白くないか」に少し続ける。

 ベースとしている領野は脳科学とか言語学とかヒトの感性領域の解析であり、とりあげている素材はまさしくニンゲン。私の関心領域とも重なるのだが、読みすすむにつれて(なんだかなあ)という違和感が膨らむのは、なぜか。昨日はそれを、私の期待からズレると見立てた。だがよく考えてみると、ベースと素材の見立てとの間の乖離というよりも、素材のニンゲンに対する見方が出口のないパターンに封じ込められているからではないか。

 黒川伊保子の体験というのならエッセイとは言え、一片の小説を読むように読みすすめることができる。実際そのように思われる男と女の話、夫と妻の話は各所に現れる。思い入れや傾きがあっても一向にかまわない。その人の考えなのだから。

 ところが脳科学や言語学の研究成果として語りだされると、どうしてニンゲンは「モテるモテない」に集約されるのかが、わからない。「機嫌を損なう損なわない」が主題になるのかもわからない。もちろん、そういう限定場面だけを取り上げているというのなら、それはそれで構わないと思うのに、なぜか、そこに閉じ込められるような息苦しさを感じる。その「主題」そのものに私の内部の何かが反応しているのだろうか。それらがいつしか「7年毎の脳の大転換」と結びつくと、もっとちゃんと根拠を聞かせてよとも思う。

 

 音韻学的な言語論へのアプローチは面白い。ドイツ語の、子音を主とする発音と日本語の母音を軸とする言葉の形成とが、乳児のときのミルクの吸い口(「乳首」と黒川伊保子はいう)の形と硬さの違いの考察も面白い。日本語の音訓の音の違いと言葉の公私の違いへの着想も興味深い。にもかかわらず、日本語とイタリア語の近接を「麺の茹で方の違い」が分かるかわからないかとか、「食感の好みの一致」とかに終結すると、この人は何を実人生としたうえで研究活動をしているのだろうと思ってしまう。単なる関心の違いが、私と合わないだけなのだろうか。

 そんなことを考えていたら、今朝(9/3)の新聞の「折々のことば」にこんな言葉が引用されていた。


《シャレルとジャレルと発音の区別を意識することにより、意義が分かれて来た。――鈴木棠三》

                                                                                         

 そして引用者の鷲田清一は、こう続ける。


《平安語のザル(戯)には①ふざける、②機転がきく、③くだけた感じ、④風雅な趣などの意味があったが、清音化してサル(曝・晒)とも交わっていた。中世になるとそれがジャレルとシャレルになり、前者は①に、後者は②③④へと意味を分化させたと、国文学者はいう。おしゃれは戯れにも髑髏(しゃれこうべ)の晒(さ)れにも通じる。死と遊びがそこで結びつく。深い。『ことば遊び』から》


 黒川伊保子の音韻の展開の行きつく先と、鈴木棠三の言葉に触発された鷲田の解釈の行きつく先の違いは何か。黒川のそれは、ふ~ん、オモシロイ、で終わる。だが鷲田のそれは、そこから「わたし」の裡側での広がりがはじまる。その、「終わるかはじまるか」の違いが、自己完結するだけの話か、その話の提示者とのやりとりが引き続き心裡に抱かれるかの違いだ。同じようにオモシロイと感じても、その先が解き放たれるか、閉じて終わるかで、本の印象ってのは、ずいぶんと違ったものになる。著者に対する印象も、すっかり異なってくる。

 そこで感じるオモシロイは、じつは自分の姿をみていることだということも、尾を引く感懐である。

2020年9月2日水曜日

自己完結する話は、なぜ面白くないか

 ご近所の方が「こんな面白い本がありましたが、いかがでしょう」と、山際寿一の書いた本をうちのカミサンに手渡し、それを私も読んで、返信を書いたことは、先月記した。すると次いで、「こんな本もありますが」と2冊渡して来た。活字そのものに中毒のようになっているせいもあるが、やはり山際寿一の本と脳科学の本と分かり、カミサンが読んでいた。黒川伊保子『脳成熟』(新潮文庫、2018年)。読みながら「でも、この人のは嫌いだな」という。

「どうして?」

「う~ん、どうしてだか。自己完結している。」

「うん? どういうこと?」

「うまく解析できないけど、でも、いやだな」

「その、いやだなというわけを言葉にできたら、批評が成立するんだよね」

「・・・・」


 そういうわけで、カミサンが読み終わってから私が目を通した。あっ、自己完結するってこういうことだったのか、と思った。

 まず、脳科学の本だと思ったのは、タイトルをみた私の誤解。「女性脳」はこれこれこういう傾きがある、「男性脳」にはかくかくしかじかの特性があると紹介し、その特徴を踏まえて女性や男性と向き合うのに、このようなすれ違いが生じる、誤解が生まれると、披瀝する。この方は脳科学の専門家ではないのかと、改めて経歴を見返す。

 大学は物理学科、メーカーでAIの研究に携わるとある。本文中に言葉や感性に関する関心をもって仕事をしてきたとか、ドイツの何かで研究活動をしていたらしいとわかる。だが、脳科学の研究結果をどのように汲み取って、そう考えてきたか、そう信じてきたかということには、何処にも触れていない。黒川伊保子の脳科学研究結果の何を信頼しているかは書きこまれいるが、そのプロセスは一切現れないから、読者にとっては「信じるか信じないか」しかない。しかもそこから繰り出されることばは、男と女のこと、夫と妻のこと、親と子のこと、力関係のことなどなど、世間話の話題に振って、脳の特性からしてこうした方がいい、ああするのはまずいと教えてくれている。

 上から目線ということについても、人を保護的に見る立ち位置に立てば、相手に合わせて自らを処することができるから、悪いわけじゃない。通常謂われる「上から目線」は、むしろ他者と対応になって五分に構えているのに優位に立とうとするから、いやらしい「上から目線」にみえる。他者を保護的にみなさいと、しっかり論理的に展開する。その視線が欠かせないことは、自分を対象としてみるときに最も強く感じる。つまり保護的にみている「わたし」は、仮構点だという忸怩たる自戒である。

 起点が「信じるか信じないか」からはじまって、世俗の読み物らしく、いかにも俗受けするような話に振りながら、脳科学のことを何も知らない読者に教えてくれる。この方に強い関心を持つ人でなければ、何でこんな決めつけるようなお説教をよんでるんだ、オレって思うわ。私なら、脳科学の研究結果のどのようなプロセスを経て「男性脳」「女性脳」の特性が割り出されてきたかを、効かせてもらいたかった。脳の7年ごとの構造変化というのも、面白い。それを伝統的な小学校入学6~7歳、中学の3年14~15歳、大学卒業の21~22歳とか、「7歳までは神の裡」という俚諺に託してしまわないで、56歳からの脳の本番まで論証的に進めてもらうと、読みごたえもあったろう。言語学を勉強したのであれば、7年毎に脳が変化展開する過程で、言語がどう組み込まれ、組み替えられ、どの地点で「こども脳」が「大人脳」にどう変わってくるのかを、もう少し構造的に教えてもらいたかったなあ。ぴょんぴょんとご自分の世界を跳んで、ホラって、見栄え良く見せるのが、この方の今経営する会社にとっては重要なのかもしれないが、モノを読むというのは、セッションである。知的世界をベースにするのなら、その世界を歩いている魅力を提示して、読者がそれを鏡にして自らの「せかい」を対象化するようになってこそのセッションではないか。

 ま、これも、新潮社の、あるいはその元になった雑誌などの編集者の企画に応えたものだから、どなたにも興味を惹くようには書けませんねというのかもしれない。だが、著者紹介の欄に記載された既刊書のタイトルをみる限りでは、そうした深みに踏み込んだ書名は見当たらなかった。

 この方は、脳科学と世俗世界とをつなぐ語り部ではない。脳科学の高みから世俗世界の右往左往しているのを睥睨して、正解を提示してみせている宗教的リーダーだと思った。無論そういう存在が無意味というわけではなかろう。むしろ私のように「信じる根拠」を求める方が稀有なのかもしれないから、当然私の主張が少数派かもしれない。読む人が読めば、黒川伊保子の世界も楽しむことができるに違いない。

 

 そうしてひとつ気づいたこと。作家のモノする作品というのは、読後であれ、読みながらであれ、読者の内心と言葉を交わす必要がある。作家の設定するフィクション世界が、読者の抱いている現実世界とどこかで交差し、どこかにその展開の蓋然性に頷きながら読みすすめてもらう仕掛けが欠かせない。しかもそれが、読者の世界を批判する要素を持っていて、後はご自分の(考える)世界よと突き放してこそ、読んだ甲斐があろうというものだ。

 自己完結する世界というのは、自己を対象化してみせていない。展開する世界の、外とか下とかに別様の営みがあることを、しかもそれがそれなりの根拠をもって存在することを、そこはかとなく想定していることが、人が生きるということには欠くことができないと思う。

2020年9月1日火曜日

三猿・四猿の教えは、何処へ?

 桐野夏生『猿の見る夢』(講談社、2016年)を読む。2013年から2014年にかけて週刊誌に連載した作品だから、この作家の胸中には、2011・3・11の残響が残っていたはずだ。にもかかわらず、一切そういう社会的気配は描き込まれていない。書かないことが、最も伝えたいこと。

 

 舞台は、現在。週刊紙ばかりか、TVでも街でもヒトの欲望満開の話題ばかり。

 登場人物も、普通の人たち。というか、大きな企業の会長、社長、秘書、安定企業に勤める40歳代の奔放な独身女性、大した資産を受け継いだ老母の世話をする娘夫婦に取り囲まれた、ファッション企業に銀行から出向してきた平取役員とその奥さま。普通というよりは、そのちょっと上の階層の人たち。切りとる場面は、ごくごくの日常。老母の葬儀くらい。つまり今の世の中を動かしている主流の人たちの日常が取り出されて、平凡なリビングやレストランや会長室や愛人宅などなどの、ごく普通の場面でのやりとり。今の時代の断片を切りとって、提示する。

 

 それのどこが「サルの夢なの?」と、タイトルをみて手に取った読者は思う。

 人びとは自分の欲望のままに生きている。オシャレなものを身につけ、おいしいものを食べ、ゴルフやセックスを楽しみ過ごす。ちょっと心裡に掘り下げてみると、美人に目が行き、出世を望み、お金にはいつ知らず心惹かれ、でもその「わたし」が世に広まるのは迷惑する。そこにこだわる自分がなんともみっともなく現れている。なんだ、これって、サルそのものじゃないか。「サルの夢」って何よ。

 

 桐野夏生の「夢」への跳躍は、日光東照宮の「三猿」に隠された「四猿」があったと「うわさ」投げ込んで、物語りを展開する駆動力による。「三猿」も隠された「四猿」も、左甚五郎が何を託し、何を意味し、なぜ隠されたのか? むろんこの小説は、ちらりとこの辺りに触れるだけで、すべては隠される。どこが読む者の愉しみでしょ、と作者が語り掛けているようである。

 そういうわけで、「サルの夢」はただ単に舞台回しに過ぎないから、物語りが終結するところで、すべてが揮発するように消えてしまうというのも、ストーリーテラー・桐野の真骨頂というところか。

 

 さて、で、なにが本書のテーマか。それは「三猿」「四猿」に触れないでは語れない。でも触れると、この作品を読んで読者が愉しむところを謎解きしてしまう。それではあまりにラチもない。今の時代、あまりに「三猿」「四猿」から遠くなってしまった。

 そんなことを、間もなくこの世をサル立場の私が眺め渡しながら、ヒトもサルもたいして変わりないなと振り返って遠望している次第。いや、はや。