昨日(9/21)、久々にまた、シャーロックならぬステイホームズの冒険。東京の銀座へ映画を観に行った。
《ガーシュイン『ポーギーとベス』新演出》と銘打ったMETライブビューイング・アンコール。
「ポーギーとベス」のなにかを知っていたわけではない。
その中で歌われる「サマータイム」を知ったのが1961年。東京へ出てきて同級生になった東京育ちの友人が口ずさんでいて教わった。物語りの中の曲ということやガーシュインの作曲ということは、その少し後、ラプソディ・イン・ブルーやパリのアメリカ人の曲とともに知ることになった。いわば、アメリカン・ポップスやクラシカル・ジャズの入口だったわけだが、田舎出の子ガモの刷り込みで、私の身にすんなりと沁みついてしまっていた。
誘われて、懐かしいガーシュインか「サマータイム」か、そう思って観に行った。
ステイ・ホームズの冒険とは言ったが、昨日は祝日、電車も混むまいと踏んだ。お昼過ぎに家を出て、帰宅したのは午後7時過ぎ。有楽町は賑わっている。銀座も人を避けて歩くのが難しいほどのたくさんの人出。若い人が多い。何より親密になっている。皆さんマスクをしている。でも、ぞろぞろ歩くというよりはさっさと歩くことができたから、昔日のような混み具合ではない。
歌舞伎座の前を通り過ぎながら、そう言えば、シネマ歌舞伎というのもあったなと思い出す。今日の「ポーギーとベス」も、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の2月公演をフィルムに収めたもの。先日観たイギリスの「リーマン・トリロジー」同様に、演劇や歌劇を映像にして、これまた同様に制作過程をふくめた演出家や振付師、主演者へのインタビューを交えて、いわば複数の視点から上演作品を鑑賞できるように工夫している。歌舞伎座でいえば、「音声案内」を膨らませたような仕掛けである。むろん画面に、字幕もついているから歌っている意味合いもそれなりに通じる。
シアター東劇の座席は、一つずつ開けて密にならないようにしている。500人くらい入る満席の半分がコロナ定員。その4割くらいが埋まっていたろうか。結構ステイ・ホームズ年齢が来ている。私と同じような感懐を抱いて観に来ているのだろうか。それにしても、3時間39分もの上演時間、元気でなくては観られない。
1935年が初演のミュージカル。メトロポリタン歌劇場ではなくブロードウェイだったと、インタビュアが不服そうに話す。出演者は(一部、警察官や判事役以外は)全員黒人であったというのが、2020年公演にも引き継がれている。今年となればBLMを意識せざるを得ないが、「原作を忠実に踏まえたため、不適切な表現があります」と断っているから、時代のギャップをそのようにして乗り越えようとしている(もっぱらっ性差別のようなところと思ったが)。
南部の黒人が多く住む港町。そのいくつかの場面を取り入れて、ミュージカルは展開する。圧倒的な声量の歌、見事な群舞のダンス、お話の筋そのものは定番のものだが、宗教的な匂いの強い善悪の極端な決めつけがありながら、身体不自由な乞食をも大切に抱え込むコミュニティ、その場における(いかにも声量の豊かな体躯の)女たちの健康で達者な振る舞い、あるいは「あいつは悪人ではなくて、しつけができていないのよ」としゃらりと言ってのける殺人者役のインタビュー。「幸せの粉」の売人の、徹頭徹尾エゴイスティックな悪人的振舞いがヒトの弱点を読み取り、悪へ誘い込む筋書き。そして、薬に溺れ身を持ち崩していく人をも、否定するのではなく求めていく展開。ミュージカルだから象徴的省略を駆使しながら、いわば歌舞伎のように様式に沿って話は運ぶ。BLMというよりは性的差別が根っこに横たわっていることを暗示するように私には思えたが、それすらもどうでもよく、人のありとあることを包摂するコミュニティのかたちは、案外猥雑なものかもしれないと感じていた。
とはいえ、ほとんどガーシュインの曲と歌とに聞きほれて3時間半余があっという間に過ぎていった。場面に組み込まれた「サマータイム」は、たしかにリサイタルの「サマータイム」とは異なり、(青年期の私に刷り込まれた)切なさをベースにしたもの悲しさよりも、愛おしさを押し出した充足感が感じられ、なるほどミュージカルとは項だったかと、やはり60年程前の花田清輝の「オペラ総合芸術論」を思い出したりしたのでした。オーケストラの下支えも圧巻であったと、振り返って思う。
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