2020年9月18日金曜日

力を抜いた声の響きが湛える奥行き

 人にすすめられて、映画『パヴァロッティ――太陽のテノール』(ロン・ハワード監督、2019年)を観た。「神に祝福された声」とか「イタリアの国宝」とまで言われたオペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティの若いころから晩年までの歌声を軸としたドキュメンタリー映画。1935年生まれという映像の世紀を象徴するように、1950年代からの声が映像とともに残されているのを、関係した人たちのインタビューを織り込んで、綴る。

 何より彼の歌声の響きが、巨大な画面と一緒になってぶつかってくる。目をつぶっていても十分楽しめる。と同時に浮かび上がってくるのは、パバロッティの人生。その生き方と声との関係が、音楽にまったくの素人である私の身の裡に切々と伝わってくるのが、観終わって後の余韻となる。


 聞いていて思う。若いころは声を張り上げることが世界に訴える一番の力になると思っていたなあ。だが絶叫は、いま聴くとその人の主張の前面を表す。前面が伝えるのは筋道であり、論理。あるいは機能的な要素ばかりである。いわば槍を突き立てて前へ進む人の方法である。受けとめる側は、受け容れるというよりは、まず、盾をもってわが身に突き刺さるのを避ける。突きたてる側は、ますます力で押すしかない。勝つか負けるかという勝負になる。それが溶け合って、思わぬ「じぶん」を見いだしていく発見にはならない。

 しかし、その主張の裏方や奥行きこそが、じつは、他人に伝えることの共感性を惹きだしてくる豊かな温床になる。大声ではなく、力を抜いた柔らかく静かな低声が染み込むように身に響いてくると、その声の出処がどのような人生を歩んできたか、どうそれを受け止めてきたかへ、聴く者の思いの行方を導いていく。

 パバロッティの声の移り変わりを聴きながら、インタビューに媒介されて私は、そのようなことを感じていた。ずばりそれを、パバロッティがコラボレーションを申し出て、それを引き受ける羽目になったアイルランドのダブリン生まれのロックのミュージシャン、U2のボノが口にした。

 還暦を過ぎてイタリアに戻ったパバロッティが(若い女性を愛人としていたことによって非難を受け、名声を落としたのちに)オペラの公演を行って歌ったのを評して、ファンの一人が高音域の「ハイCはでないわね。」とかつてのパバロッティではないと技術的に断じた。それにたいしてボノは「何もわかっちゃいない」と怒りをあらわにして、こういう。


「(パバロッティの声は)挫折を重ねないと出せない声だ」

「有名な曲を歌うとき歌手は何を差し出す? 唯一差し出せるものは自分の人生だ」


 まさにそう、と私は膝を打った。もう何十年も前になるが、「全身小説家」という日本映画があった。作家・井上光晴の人生と作品を総覧する、ドキュメント・タッチのお話しであったが、あれも同じように、「差し出せるものは自分の人生だ」ということをテーマにした物語であった(と今になって思う)。

 「有名な曲を歌うとき」「有名な歌手は」、聴き手に何を差し出すか。パバロッティにしか出せないと言われた広い音域のさらに高音域の「ハイC」を聴かせることか?

 そうではない。歌手は歌うことによって彼らの人生を聴き手に差し出している。それは、イタリアに戻って愛人同伴であったことによって評判を落としたパバロッティが「(わたしは)ゼロだ」と口にする言葉からうかがえる。ここで彼は、ほんとうに地に足をつけたのであった。

 「有名な歌手」でもなく、「有名な曲を歌う」でもなく、「わたしの歌を歌う」ことにわが人生を過不足なく重ねることができる安堵の響きを湛えている。それは、人生ってそういうものよという、一つの到達点を示している。

 それを、その地平で受け取るボノもまた、すでにそこに到達していることを意味している。それに共感する「わたし」もまた、人生として登った高見はおおよそ彼らとは比べ物にならないくらい低くて、ほぼ平地を虫のように這いつくばっていたにすぎないけれども、やはりすでに、そこに到達していると思う。

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