大崎善生『存在という名のダンス(上)(下)』(角川書店、2010年)を読む。上下巻で500ページを超える。いうまでもなく、図書館の書架で、この本のタイトルを見て、借りて帰った。
ちりばめた素材は、軽いものではない。そのかつての出来事自体は、まさしく人間存在とは何かと問う苛烈なものであった。それを弄んでいるのではないか。それが私の最初の、読後感。
この作家が真摯なのはわかる。誠実に考えていることも分かる。だが、的を外している。出来事の表層を素材にして、自分の幻想的な物語世界に組み込んで、「お話し」にしているだけではないか。ドイツや五島の島や樺太やで起きた出来事の切片を取り出して「存在という名のダンス」を切り分けるのなら、もっと幻想と現実とのつなぎ目をきちんとリアリティをもって描き出さなければならないのではないか。
この作家の幻想的な世界が、人の魂の時空を超えて触れ合う地平に「存在」の真実があると考えていることは受け止められるが、「存在という名のダンス」と表題を振るような哲学的な奥行きは、感じられない。面白かったともいえず、なんとも、ふくらませた風船から空気が抜けてしまっているような気持がしている。
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