2020年9月28日月曜日

言語の「原的否定性」と社会関係への参入

  ダメなものはダメという(理屈抜きの)「原的否定性」を受け容れることが、社会関係に参入する「原的肯定性」に転化していく筋道を開くパラドクス。それを指摘した、大澤真幸『動物的/人間的――1.社会の起源』(弘文堂、2012年)を取り上げた。もうひとつ、大澤のオモシロイ切り口を取り上げておきたい。

 彼は言語が「原的否定性」をもって出立していると切り分けている。


《言語を習得することは、何かを知的に理解することだと思われているが、実際には、そうではない。それ以前のものが必要なのだ。トートロジーは無意味なのだから、それを知的に理解させることなど、不可能だ。言語を習得するということは、まずは、原的な否定性を構成するような社会的な関係性に入ること、つまり原的な否定性を帯びた命令を発する他者の権威を受け容れ、まさにその命令に(禁止や宣言としての)効力をあらしめることである。名前・言語を可能なものにしているのは、原的な否定性を構成する社会的な関係性である。》


 言葉に関して私たちは、いつ知らず身に備え、主体の発する理知的なコトと理解して使ってきた。しかしそもそも言語は、トートロジーではないかというのは、言われてみればその通りだ。

 中学の国語の時間を思い出す。「鷹揚」という言葉の意味を教師から問われたことがあった。そのとき「意味」というのは、単なる言いかえではないかと思った感じた。それを口にはしなかった。「広い心」とか「ゆったりした気持ち」というようなことを応えて、場面は次へ展開していったからだ。だが今言われてみると、まさしくトートロジーだ。

 「言葉の意味」と問われたとき、どう応えることが適切だったろうか。

 その言葉が使われた場面で、どういう心持を込めて、どのような文脈の中でどのような立場の主体によってその言葉が使われているかと、今なら答えたであろう。三省堂の「新明解国語辞典」の新奇さは、文脈の面白さで編み直したものであった。

 子どもが言葉をどう受け入れて、身の裡でどのように、その象徴的用法や文法を受け止めて、多様な使い方に習熟していくのかを(私は)説明できないが、(わが胸に手を当てて考えてみると)いつ知らず身につけ、後に「文法」として体系的に整合的な系統にまとめられていく。それを知的であると考えていたことも確かだ。

 大澤は、その出立点を(ダメなものはダメというのと同じ)「原的否定性」と見切る。それは言語のかたちづくって来た社会の権威を受け容れることであり、そうして「社会に参入」する「原的肯定性」が可能となる。そのパラドクスを、いま人々は忘れているのではないか。

 知的なものを受け容れるという過程には、「原的否定性」が社会関係に参入する「原的肯定性」の土台になっている出立点のパラドクスがある。学校に学ぶ子どもは、その出立点に立っている。

 にもかかわらず、子どもの意思が端から(誰にでも)完成されてあるものとして想定されて、論じられている。子どもの権利が尊重されるべきというのは、その内側に完成された意思がかたちづくられているからではない。政治的・社会的関係において保障されるという立場を尊重するということであって、金さえ払えば交換経済的に(子どもが)何をしてもいいということを意味しない。そこにはパラドクスが介在していることを、養育・教育する大人は承知しておかねばならない。

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 そのパラドクスが、消えている。

 ダメなものはダメだという言葉が通用しなくなったのは、人が理知的に物事の判断を自らの意思によって下すことが最良だという、西欧から入って来た近代的な合理精神のもたらしたものだ。古い時代に育った大人は、身をもってそのように仕込まれてきた。

 だが絶対神なき日本の土壌においては、神に平伏するという「原的否定性」に代わって、大人の権力性(暴力的な仕打ちをともなう権威の発動)が子どもに対する「原的否定性」となっていた。あるいは、責任の所在がわからない社会組織の裏返しだが、集団的空気を読めという圧力が、「原的否定性」として働いてきた。

 ところが、先の大戦への無謀な突入とおおよそ合理精神を欠いた遂行と敗戦によって大人の権力性は(子どもの心裡で)ずたずたに崩れてしまった。その欠落を埋めたのは、戦中生まれ戦後育ちの私たちからすると、進駐軍とそれが押し付けたという「新憲法」であった。巧まずして(私たちの身の裡で)「原的否定性」として屹立した。それを受け容れることによって、私たちは戦後の国家・社会への参入を肯定的に行うことができたのである。

 戦後の高度消費社会の実現と一億総中流という日本社会の変容が、ひょっとしたら「原的否定性」の起点を崩したのかもしれない。怖いものなしとなり、ことごとく自分の意思で判断し、モノゴトを推し進めているという錯覚を大人自らももつようになった。それを子どもに当てはめてみると、相変わらず「原的否定性」を躾けている学校というのは、まるで(子どもの)「肯定性」を否定しているように見える。その教師の権威、学校の権力性をも排除して自由に学ぶという幻想が広まる。あたかもその自由に学ぶ幻想自体が(子どもの成長にとって現実的で)あるかのように思いこんで、現代教育批判を行ってきたのが、1980年代以降の学校にまつわる社会状況ではなかったろうか。

 時代が変わるというのは、こういうふうに変わるんだと思ったものである。

 その根底には、人間の不思議が横たわっている。依存と自律のパラドクスも、見落とせない。親と子の関係を表すことごとも、人と人との距離感も、同様に、じつはパラドキシカルな機制を経て一人一人の身に備わり、それを内に秘めて、信従も、反発も、逸脱という振る舞いも眼前に展開している。

 それこそが、人の不思議。AIがとうてい及ばない「せかい」だと思えるのである。

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