2020年9月21日月曜日

最先端との感触の共有

 笹本稜平『その峰の彼方』(文藝春秋、2014年)を読む。「その峰」と呼ぶのは、アラスカのマッキンリー(デナリ)。山に取り付かれた男がヒマラヤなどに上りつつ、なぜ登るのかを問い、「その峰」に引き寄せられるように身を寄せ、その地の人と仕事と「かかわり」とに生かされている自分に行きつき、挑戦的に山に登る大自然との「かかわり」に一区切りつけて、次の一歩を踏み出そうとする物語。

 この作家の名前が山を表すように、この作家自身の体感溢れる記述。

 岩の感触、高度障害に対する心覚え、氷瀑を上るのと同じような青氷の危うさをはかる感触、岩と雪をアイゼンで上る体の感じる危険信号、あるいは深い雪をラッセルする非力のくやしさ、ザイルを結んでいないときの危うさと自在さのアンビバレンツな身の裡の思い、ザイルを結んでいるときの相棒への気遣いなどなど、この作中に登場する場面に、わが思い当たる記憶が呼び出されるのを感じながら読んでいった。

 

 山を歩くというのは、自らの裡側を覗くことと同じだと、私は思う。

 主人公が「その峰」の先に、見いだしていくものが、じつは自ら自身であったと(第三者として)読んでいるものにはわかるが、ご当人にとっては、わが掌につかんでいるものが「なにもない」。つまり、「その峰の彼方」は「わたし」であり、それはその振舞いが「かんけい」によって受け継がれ、受け渡され、綿々と続いていく(あるいはどこかで断ち切られる)コトゴト。つまりホモ・サピエンスのすべて、人類史である。

 でもそういうことを結論的にいいたいのではなく、それを先端的なクライマーの、具体的な振る舞いと自らのへの問いかけと、それが「かかわる」人たちの振る舞いを通して、突き留めていくために、この作家は500ページに及ぶ物語を要した。それが、先端的とはおおよそ次元の違う山歩きをしてきた私の裡側に響いた。

 

 山登りに限らず、ひとによって次元は違うが、向き合っている大自然と、それをそれとして感知し見極めていくセンスは、通有のものだ。それを、クライマーの日常と結びつけ、仕事やパートナーやアラスカという場やその社会の抱える社会関係を視野に収めて、自らの生き方として対象化していくセンスは、だが、山歩きが自ずからもたらす哲学的な視線なのだろうか。そこが目下の、私の関心事である。

 今の時代は、外へ外へ向けて人の活動はつくられていっている。外の自然を作り替え、他者に働きかけ、他者をわが身の裡に取り込むように働きかけ、利や益を引きだす。外部への働きかけとその動きがもたらす面白さが原動力になっても、それをわが身の才能とみているうちは、外部を内側に取り込めているとは言えない。ましてそれが、デジタル化されてYES/NO的に明快に処理されていくとあっては、外部と内部の端境に揺蕩う、躊躇いや戸惑い、すぐに答えを出さず棚上げしておきたい持ち越しの気分が、何処か影をひそめて消えてしまう。そうしてヒトは自生する視線を忘れて、挑戦するか逃亡するか、勝つか負けるか、縛られるて我慢するか自由になるために自裁するかを迫られる。何とも、生きづらい時代だと私は思う。そこに哲学的な自省に向かう契機はないのではないか。そう思ってきた。もし山歩きが、哲学的な内省の契機となる必然性を内包しているのであれば、そこを基点に、子どもたちが自らの内面をつくりあげていく場を考えてみてもいいなあ。

 そんな、私の「その峰の彼方」を思わせている。

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