2020年9月27日日曜日

動態的ソロキャンプ

 昨日(9/26)の「サワコの朝」のお客さんはピン芸人のヒロシ。今も芸人をやっているのかどうかは知らない。彼に言わせると、2005年頃2年ほどギューンと売れて、シュンと凹んでしまった。

 何かのきっかけで目覚め、取り巻きの人たちとキャンプに行くようになったが、彼らはヒロシが全部用意し、もてなすのが当然のように振る舞い、片付けも全部ヒロシまかせ。なんか変だなあと感じていて、一人で行くソロキャンプをするようになった。

 そうして、ある山の一角を買い取り、そこに手を入れながら、ソロキャンプをやってみる。これが性に合ってると思うようになり、ますます面白くなった。

 サワコが訊ねる。

「一人って淋しくないですか?」

「孤独って、沢山の人のなかにいて、何処にも取り付く島がなくてポツンとしている自分を意識したときのこと」

 と、ヒロシは応える。有名人や芸人たちのパーティがあって呼ばれていくが、皆さん、名のある方々。話しかけるわけにもいかず、話しかけられるでもなく、片隅で皆さんの様子をみているというのが、たまらなく嫌になった、と。むしろ、ソロキャンプをしているときは、そういう煩わしいことから離れて、何も考えないでいる。それがすがすがしく、さわやか。

 ソロキャンプが広まっているらしい。ヒロシも「ソロキャンプ」に関する本を出した。アウトドアの集まりに招かれて、ソロキャンプの話をしたり、その実際を披露したりもする。そのときは、イベントとしての催しに沿うように、キャンプ料理を少し豪勢にしてみたり、派手に振る舞ってみたりもするが、やはりソロというキャンプの仕様は、そういうところにあるとは思っていない。

 無心になって枯葉や木っ端を集め、火打石から火を熾し、焚火を見つめる。インスタントラーメンでもコーヒーでも、ゆっくり味わいながら時を過ごす。それが堪らないですね、と(人生における)自分の居場所を見つけたように静かに話す。

 ヒロシの周りでもそういう人たちが寄ってくる。皆さんご自分の用具一式をもってきて、一緒だが、ソロキャンプをする。その距離感が、最初の群れてもてなされて愉しんでいくキャンプの集まりよりも、ずうっと心地よい。なんでねしょうねえ、とすでに答えを知っているのに言葉にしないことも好ましく響く。

                                            *

 ヒロシの経験的屈曲が面白い。

(1)はじめはキャンプが面白い。だが、一緒にキャンプする人たちは、もてなされに来ている。もてなすのがイヤかどうかをヒロシは言わないが、なんかヘンだなと感じていたと正直に話す。

(2)ソロキャンプに踏み込む。山を買う。何もかも自力で手を入れる。すがすがしい無心の感触。

(3)むろんキャンプばかりでは食っていけないが、そこはそれ。昔取った杵柄がものを言って、彼がイベントに招かれ、実演も公演もし、本を出したりもする。それは彼の暮らしを支える程度の(と彼は言うが)収入源になる。

(4)ソロキャンプが、新型コロナウィルスのせいもあって、ブームになる。キャンパーがヒロシの周りに集まってくる。でもそれは、もてなしではなく、一緒にソロキャンプをする社会性を備えた距離感をもった集いとなっている。(2)の無心の感触とは違うが、他人との関係が次元を変えたように思える。

 

 上記の(1)から(4)への変転が、ヒロシの胸中で「ソロキャンプ」から引き出される「人生」の感触の動態的様相をうまく表していると思った。

 (1)は、ピン芸人ヒロシに依存する周辺の人たちとの「けんけい」がうじゃうじゃとまつわっている。それを否定したのが(2)だ。「かんけい」を断ち切ることによって、独りになる。そこに降り積もる「かんけい」のわずらわしさから解き放たれるすがすがしさが生まれる。

 とはいえ、生計を立てることが(社会との)「かんけい」を断ったままにはしておけない。そこに「ソロキャンプ」と新型コロナウィルスというきっかけが作用して、(3)の「かんけい」を生み出した。

 それによって、(2)のすがすがしさの感触を求める人たちが「かんけい」を保ちつつ味わう次元を作り出したのが、(4)だといえる。ヒロシ自身も「かんけい」との次元を換えているし、社会関係としての「ソロキャンプ」もまた、次元を換えた「かんけい」に到達している。

 「キャンプ」というひとつの働きかけが、「ソロキャンプ」に展開して「かんけい」の底に足をつけ、ヒロシ側の動機としては生計を立てるため、しかし社会的契機としては人が密集することへの反省としての「新型コロナウィルス」と、「ソロキャンプ」という文字通り「社会的距離」をもった出口が出現するという運びは、まさしく誰のどのような意思が作用したわけでもないが、相互に作用して事態を動かしている。このように、依存と自律との相互のかかわりが相乗して社会関係は動いている。それが開かれたかたちに向かっているのが、動態的ソロキャンプのもたらしている事態である。「三密」を避けるという否定的反省が、世界を肯定的にみていく方向を生み出している。

 自分のソロキャンプの動機といえば、山歩きの山小屋が混むことからはじまり、気楽にどこにでもビバークする歩き方にかかわって続き、このところ(歳を取ってからは)もっぱら麓の宿や山小屋どまりにしていたのが、新型コロナウィルスのせいで、宿や小屋もまたあやしくなって、仕方なくソロキャンプに戻った。山友もまたテントをに入れて、夫婦でツウィンキャンプに挑戦し、私のソロキャンプに付き合ってくれる。その間の距離が、with-コロナの山歩きになりそうな気配だ。ヒロシのすがすがしい様子が、私の山歩きの現在と重なって好ましく感じられる。

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