2020年10月31日土曜日

「金無垢の正論」?

 昨日の「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」に関して、やはり長年逢っていない大学の先輩から次のようなコメントがあって、驚くと同時に、これは何だろうと考えている。


《F様 なるほど端倪すべからざる金無垢の正論ですね。というような言い方が漱石の『それから』に父に対する主人公代助の言葉として出て来ます。Mさん(メールをくれた大学の後輩)がどう御意見に応対するか、それも興味深いです。結局、当事者同士で解決するか、自治体が仲立ちして解決するか、個人が解決するか(撤去)という簡単な問題に変わりがありませんが。W拜》


 なんだか揶揄われているみたいですね。『それから』の代助がどのような場面でいかような思いを込めて父親にその言葉を吐いたのか思い出せませんが、「なるほど端倪すべからざる金無垢の正論ですね。」というセリフは、ほとんど浮世離れした世迷言というニュアンスで響きます。

 いま私が浮世離れしているのは間違いありませんが、おおよそ「正論」を吐いているという感覚を持っていませんでしたから、不意を突かれたように、ちょっと驚いています。そうか、そこまで私は、ズレているのか、と。

 ひょっとしたら「コミュニティ性」という言葉が、いまさら何をというのかと思われたのかもしれません。というのも、1年少し前になりますが、私が身を置く団地の管理組合の理事長を務めたときに感じた感懐を、『団地コミュニティの社会学的考察』としてまとめたとき、最初にそのタイトルを目にした同世代の友人二人が、「高度成長時代の遺物の廃墟? の話ですか」とか「……高齢化、そして、そもそも論として空き家だらけではコミュニティなんて言葉は成立しないですよ」と反応したからです。つまり「コミュニティ」という言葉を、もはや実態どころか、とりあげる意味もないほどの抜殻の概念とみていたのです。


  『団地コミュニティの社会学的考察』で私がとりあげたのは、一年間の管理組合理事長としての経緯とその都度の感懐でした。400字詰め原稿用紙にするとおおよそ80枚ほどのエッセイです。要点は、ごく簡略にいうと、以下のような点です。


(1)築後30年のわが団地は大規模な改修を前にして、修繕積立金の値上げをしなくてはならない。どこかの管理会社にお任せするのではなく自前管理をタテマエとしてやって来たわが管理組合は、戸建て住宅の改修管理をするときの判断や資金や改修依頼を、管理組合という公の場で審議決定して、しかも組合員多数の同意を得てすすめなければならない。つまり、戸建て住宅住民が、独りで、あるいは家族でやっていることを、公然の会議で(それなりの意を尽くして)やりとりすることになる。

(2)ところが居住者は、それぞれの人生を何十年もかけて紡いできた言葉や感性や感覚、価値観をもっているから、言葉を交わす舞台を共有することからして、大仕事になる。30年同じ団地でくらしていても、それらを共有する機会は、理事を同期で務めて顔見知りになるくらい。それも、十年に一度となると、互いに子細を忘れてしまって、馴染にすらならないことが多い。

(3)つまり(2)の状況のもとに(1)の協議や決定を行うというのは、互いの言葉や感性や感覚を擦り合わせて、ズレや距離を推し量り、団地の建物の補修管理という局面において言葉を重ね合わせていくことが必要になる。その実務を取り仕切る所作と関係が「コミュニティ性」である。

(4)上記の(3)を組み込まないと、たいした論議をすることもなく、あるいは、「建物維持管理に関する専門家」に任せて、あとはよしなに、とお任せするしかない。それでは修繕積立金の大幅な値上げは承認してもらえまいと考えたとき、建物の修繕管理と費用というコスパ的合理性だけでは話がすすまないことに突き当たった。

(5)上記の(4)のモンダイが、コミュニティ性の消失という高度経済成長期から辿った私たちの社会の特徴なのではないか。私たちの戦後過程は、経済一本やりですすめてきたけれども、自分の暮らしの周辺を整えることを地方行政にお任せにして、せいぜい町内会という旧時代的な行政の下請け的な末端組織に担わせて、知らんふりをしてきたのではないか。

(6)いまさらコミュニティ性の復活という無いものねだりはできないかもしれないが、それに代わる「かんけい」を組み込むことをしないと、地方自治も含めて、自分たちのことを自分たちで取り仕切るという自律的な社会構築はできない。


 とまあ、そういう考察をしてきました。「正論」を述べて良しとするようなセンスは、微塵も感じていません。そこへ、Mさんのケースが飛び込んで、昨日のような感懐を綴ることになった次第です。まさか大先輩のWさんから、代助のセリフを使ってまで揶揄われるとは思いもよりませんでした。

 とは言え、浮世離れして暮らしているのは、間違いありません。まして、Mさんが今後どう対応するかについて、何かサジェストをしようなどという意図も見識も持ち合わせていません。

 ただ、日本全国、何処へ行っても似たような事象が起きているなあと、わが経てきた時代を岡目八目で、社会学的にみているだけです。何をもって「正論」と思われたのでしょうかね。

2020年10月30日金曜日

私が身を置くコミュニティ性とは何か?

 学生時代の後輩が、近況を知らせるメールに、要約以下のようなことを記していた。


(1)彼の家の敷地に設置されているカーブミラーが樹木によって見えずらいので伐採してほしいとご近所の方が市役所に申し入れ、市の職員が伐採を依頼しに来た。去年にも同様のことがあり、応じている。

(2)このカーブミラーは、彼の父親が「はるか昔に」行政からの依頼を受けて「好意で…場所を提供した」もので、その維持管理に責任を負ったものではない。

(3)ご近所の方が(直接)依頼するならまだしも、市役所を通じるというのなら、市役所として対処するべきではないのか。その結果(市役所が伐採したの)かどうかはわからないが、最近(家に)立ち寄ってみると、生け垣が無残にも切り払われていた。これも不快である。

(4)「カーブミラーがみずらくなっている」とご近所の方が、ほかのご近所の方へお話しし、話しを聞いた方がわが家へそれを伝えた。出逢ったとき、最初のご近所さんが「ありがとう」と見下したような挨拶をしたのも、何だか腑に落ちない。

(5)(今はそこに定住していないため)年に何回か訪れている程度なのと敷地内の改造を考えているので、カーブミラーの撤去をお願いすることになる。


 とまあ、こんな具合だ。

 実家を維持するかどうかは、後継ぎ世代としては大きなモンダイだが、東京に暮らしてきて、実家が田舎にあるような場合、この後輩のようなことに出くわすことになる。別荘のように使えばいいと都会暮らしは考えるかもしれない。

 しかし、地元の人にしてみると、公が設置したカーブミラーが、個人宅の樹木の生長で見えなくなるというのを「なんとかしてほしい」と要望するのも、無理からぬこと。当然、市役所に要請することになる。

 ふだんから顔見知りの親しいご近所ならば、家を訪ねて「依頼」することもできようが、それも個人宅の植栽が公の設置物を利用を邪魔しているとみているに違いない。まして、年に何回かの訪問者である人には(ご近所さんも)そうはできない。つまり、公を介在させた関係しか紡がれていない。それなのに伐採に応じてくれたので「ありがとう」とご挨拶をした。見下したわけではない。率直に感謝したのだが、「好意で場所を提供」していたのであれば、伐採は市役所の役割、そりゃあ申しわけないことをしたと、思っているかもしれない。

 ということは、市役所が(後輩の許諾を得て)費用負担をして伐採するということか、カーブミラーの撤去をしてもらうしか、穏やかな解決方法はない。日頃「関係がない」からだ。

 これは、個々住民の「関係構築」をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティをかたちづくって来たツケが回ってきているのではないか。ご近所さんからすると、カーブミラーがまさか個人宅の「好意によって」維持されているとは思ってもいないであろう。むしろ、公共物のカーブミラーが私邸の植栽によって見ずらくなるというのは、植栽の持ち主が整備すべき負担とみるのは、当然である。

 つまり、「はるか昔」のコミュニティ性では、「好意によって提供」してもらうこともありうることであったし、そうであることをご近所も当然承知の「習い」だったにちがいない。市役所がその周知を図る必要もなかったのであろう。だが、世の中がすっかり一変した。人びとは(私たちも)須らく公共性が媒介して「関係を取り結」んでいると思っている。

 公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっているのだ。それが都会暮らしの気軽さと、田舎育ちの私なども好感を持って、田舎を棄てた。そのツケが、今になって回ってきている。もちろん高度消費社会を経過したからに違いない。暮らしの多くを「商品交換」に廻すようになった。いわゆる生活インフラと呼ぶもの以外も、調理から住まいの掃除・洗濯まで、「外注」に出すことができる。家族も解体気味であるから、昔日の自助・共助の受け皿は、消えてしまってどこにも見当たらない。

 自助、共助、公助と新しい政権は口に乗せたが、それをアテにできるような実態は、見当たらない。介助や介護も、「共助」はなくなり、「自助」というのは、「外注に出す」ことにほかならない。政府も、自助や共助の実態が、ほぼ交換経済の市場に任せになっているのを、承知しているから、市場への刺激という文脈では政策とするけれども、コミュニティ性に基づいた自助・共助の「関係」を構築するイメージには、辿りつけない。

 「公助」があるようなイメージを持っているかもしれないが、今の行政の水準からすると、「公助」というのは最低限度の暮らし方も保障されない場に身を置くことを意味している。つまり「身を棄てる」に等しいと私は思っている。

 上記のような実態の社会に身を置いて暮らしていることを、コロナウィルスの蔓延が、図らずもあらわにして見せている。もう何年も逢っていない後輩のメールが、そんなことを考えさせてくれた。

2020年10月29日木曜日

ひっち・ハイクの三方分山

 昨日(10/28)は「午前中・晴れ、午後・曇」の予報。富士山を見に行こうと精進湖へ向かった。浦和駅で二人を乗せ、kw夫妻とは現地で落ち合う。約2時間20分で精進湖畔に到着した。だが富士山は、雲の中。下山口の県営駐車場から見上げても、手前の大室山の盛り上がりはかろうじて見えるが、その後ろの富士山は何処にあるかわからない。

 8時40分、歩き始める。寒くもなく暑くもない。10分足らずで登山口に着き、沢沿いに山へ向かう。緑の多い山肌のところどころに黄や赤に色を変えた木の葉がみえ、焚火の煙がたなびく。すぐに沢を越える、今にも折れそうな丸太橋を渡り、渡り返し、山道へと踏み込む。トリカブトの小さい花が目に入る。

「そう言やあ、十二ガ岳もトリカブトの山だったなあ」

 とkwrさんがつぶやく。面白い山だった。西湖畔にテントを張って9月半ばに登ったのに、もう遠い昔のことのように感じる。沢を離れ、砂防ダムの堰堤の手前からジグザグの急傾斜を上る。30歳代の一組に道を譲る。stさんの元気な声が聞こえる。根を剥き出しにして倒れた大木の枝葉が、まだ緑を保って頑張っている。マムシグサの実が明るい朱色で目立つ。太い木が踏路を覆い、前方の山肌の緑が朝日に照らされて緑の色を軽くしている。その中に色づいた紅葉も、なかなか乙なものだ。樹間から今日の最高点の山が姿を現す。樹間の向こうの紅葉が柔らかい色合いを湛えて秋の到来を感じさせる。三方分山1422m。「さんぽうぶんざん」と読む。なんとも風情の無い読み方だ。かつての精進村、八坂村、古関村の結界をなしていたのがこの山の名になったらしい。いまや合併で名が変わってしまった。

 女坂峠1210mに着く。9時45分。登山口910mからのコースタイムは1時間20分だが、55分で歩いている。「いつもより、ゆっくりですよ」とkwmさん。「阿難坂(女坂)」と木の標識がある。かつて甲府と河口湖を結ぶ峠道の一つであったと記す。「精進湖3km→」とある。

「3キロも来たかね」

 とkwrさん。

「3キロを55分なら、街歩きのペースだね」

 と応じる。かなり適当だが、それはそれで困るわけじゃない。

 北の方へ抜ける標識に「上九一色村古関」とある。「サリンじゃなくてトリカブトを使えばよかったのにね」と誰かが言う。「サティアンって、今もあるんだろうか」と言葉が加わる。そう言えばもう、四半世紀にもなる。その末裔はいまも健在らしい。これも時代が生み出したものなのだろうか。

 木々の色づきが鮮やかになってくる。東へ向かう稜線のところどころに綱が張られ、北側が大きくえぐられて、踏路の下が空洞になっている。踏み込まないようにルートを手直ししている。このところの台風や大雨のせいだろうか。そういうところが何箇所もあった。

 センブリが白い花をつけて楚々としている。アザミの残り花が一輪だけ咲いていた。落ち葉が散り敷き、見上げると色づいた木の葉が移り行く季節を感じさせる。オオカメノキの朱い実がたわわについている。向こうに見えるピンクのはマユミですよと、誰かが指さす。白いキクの仲間が花を咲かせて毅然としている。薄緑のコシアブラが一本、すっくと立ちあがる。一息入れようと立ち止まる。樹間に富士山が見える。「ええっ、あんな高いところにあるんだ」と誰かが言う。雲が取れ、姿を現した。みえた、見えた。これをみるために来たんだからと思う。

 10時半、今日の最高点、三方分山の山頂に着く。コースタイムより20分も早い。ま、早い分にはモンダイはない。下の方で追い抜いた一組の二人が、南の方の富士山を眺めている。

「みえて良かったですね」

 と言葉を交わす。精進湖と富士山が一視に入る。

 今度は私たちの方が先行する。ここから先は150m下っては100mほど上るというアップダウンをくり返しながら、1300mの稜線を南へ辿る。湖西山(精進山ともいうらしい)を越え、三ツ沢峠(精進峠と名を変えたらしい)に出る。コースタイムは30分とあったところが、35分。まあまあか。でもそこから次の根子峠(ねっことうげ)まではコースタイム30分なのに、45分もかかってしまった。どういうことなんだろう。根子峠の先のパノラマ台で追いついてきた件の二人連れも、エラク時間がかかったとコースタイムのことを口にしていたから、私たちのペースが落ちたわけではなさそうであった。

 そうそう、ひとつ触れておくことがある。根子峠への稜線の紅葉は、陽ざしもあってか見事なものであった。その途中に「←至・根子峠 ひっち 精進峠・至→」という標識が太い木に取り付けてあった。「ひっちって、なんだ?」と口々に。「ヒッチハイクかね、こんなところで」と言葉を交わして通り過ぎた。気になったので帰宅して辞書で調べたら、「ひっち」には「筆池」「筆致」「櫓」の三つがあった。最後の「櫓」は「ひつじ」とある。そちらの項目へ目を移すと、次のように詳しい解説があった。


《ひつじ【櫓・稲孫】(古くは「ひつち」)刈った後の株から、また生える稲。または、それになる実。…古今集「かれる田におふるひつちのほにいでぬは世を今更に秋はてぬとか〈よみ人しらず〉」……》


 とあった。「ひこばえ」のことを指すようだ。たぶん、これが地名の「ひっち」に近いのではなかろうか。まさかこんな高所で「田」をつくったわけではあるまいが、古今集の歌は、世に出ることもかなわぬままに生涯を終える哀しさを謳ったのであろうか。ここを通過したのが、今まさに秋。世に出たことなどどこ吹く風と、彼岸のお迎えが来るのを、ただただボーっと待つ身にすると、そういうこともあったわなあと懐かしい感懐に浸る。まさに「ひっち・ハイク」の三方分山だと思った。

 根子岳からパノラマ台へはコースタイム通りであった。右手下方に本栖湖を見やりながら、徐々に富士山に近づいていく。途中に「千円札の逆さ富士はこの先」と本栖湖の方への道標もあった。パノラマ台にはたくさんの人がいて、ちょうどお昼をとっていた。ススキの穂が揺れる向こうに、富士山がすっくと立っている。意外にも雪は山頂部から抉れた谷間に白い筋になってついているだけ。雲は富士の北側、五合目当たりに漂っているが、富士山のお中道は、山腹を仕切るように横一線についているのがわかる。

 少し東を見やると、足元の精進湖から西湖、その向こうの河口湖が、両側から迫る樹海と山並みとの間に一望できる。「湖の水面の高さがそれぞれ違うんだね」と、新発見のようにkwrさんが口にする。河口湖の上に連なる稜線の左の端には、山頂に通信塔が立ち、三ツ峠だとわかる。9月に登った毛無山や十二ガ岳、根場民宿から登る王岳への御坂山嶺も、鮮明に見える。stさんは「密度が濃い」という。いい山だったという意味らしい。30分も山頂に滞在した。

 下山路は根子峠に戻って、緩やかに刻まれた、落ち葉散り敷くふかふかの道をジグザグに下ってゆく。斜度は45度くらいあるみたいと下方の湖をみながらysdさんは言う。そう思うくらい、傾斜が急なのだが、ルートは緩やかに刻まれて、調子よく降る。

 駐車場に着いたのは1時半。行動時間は4時間50分。コースタイム4時間半のところを、4時間20分で歩いた。いかにもコースタイム男の先導であったが、これくらいの軽い「ひっち・ハイク」が好ましく感じられるようになったのかもしれない。

2020年10月27日火曜日

慥かさの確信

  昨日(10/26)、1年半ぶりに一人の友人と会った。昔は山へ一緒に登ったりしていたが、私が仕事をリタイアしてからは、年に1回、逢うか逢わないか。逢うと酒を飲み、カラオケに行き井上陽水を歌うことが多かった彼が、3年前に連れ合いを亡くし、消息を交わす程度の行き来であった。

 どこかで会いませんかというお誘いに、天気のいい日に、コロナもあるから荒川の河川敷でお昼を一緒にどうか、飲み物食べ物は買っていくよと応じていた。明日はどうかと電話を入れたら、荒川の河川敷はちょっと遠いじゃないか。一杯やるのだろうから、帰りの自転車も危ないし、電車で行きますよというので、北浦和公園で落ち合うことにした。

 家から歩いて7kmくらいか。伊勢丹でワインやつまみ代わりの寿司などを買い込んで、歩いて行った。約束の時間より早かったので、入口の石垣に座って本を読んでいたら、公園のなかにある美術館の方から彼はやってきて、「やっぱりここだったか」と笑う。もう何年も姿が変わらない。ひざを痛めて少しびっこを引いている。1年半の懸隔が、一挙に解れる。声の響きがに馴染む。

 彼もお昼を買ってきていた。太巻きや稲荷寿司や和風の煮物などが、私の買ってきたものとほぼ重なる。食べ物の感覚も似ているんだと、可笑しい。


 彼は1年半前に正多面体の透視図を描いていると話していた。その話をすると、「ああ、それがひと段落したのでね」と、プリントしてきたものを取り出す。全部でA4版50枚を超えていたろうか。カラー印刷である。私はてっきり手書きしているのだと思っていたが、コンピュータの正多面体の透視図を平面に落としている。当然線が入り混じるから、奥行きに応じて色を変えて透視図がそれとして認知できるように工夫している。アルキメデス正対とかアルキメデス双対とか、もう一つ何とか・・・いうらしい。五角120面体というのが、最後の透視図であったが、どういう「せかい」のことなのか、とんと見当がつかない。数学だね、これは、と言葉を交わす。彼はこれを出版社に持ち込んだらしい。担当する人は数学を専門とする編集者らしく、感嘆してみながら、「しかし今は、こういうのをコンピュータに(数値入力して)操作して描いたり、AIに描かせたりしますからね」と、人力でやったことに感心したそうだが、「しかし需要がありませんからね。ネットに乗せて同好の士にみてもらうってとこでしょうか」と、けんもほろろであったという。

 そういえば、数学の「難問」を解いたという数学者の解析書を読み解くのに何年もかけて、やっと正解だよと専門家の声が上がったという話も聞いたことがある。逆にいうと、AIなどに描かせていると、そういうトポロジーというか、空間イメージを思い描く能力がヒトの脳中から消えてしまうんじゃないかと話しがすすむ。彼は一仕事終え、肩の荷を下ろしたようであった。でも需要がないってことは、仙人の世界のようだね、彼が身を置いてきたのは。


 仕事がわが身に遺した痕跡って何? とか、言葉のもつ有無を言わせぬ概念性の根拠とか、沈黙が祈りから生まれているとか、人の暮らしというのが商品経済の中ですっかり揮発してしまっているんじゃないかとか、でも、自分がほんとうにつまらない存在だと感じている人しか世界の基点に足をつけることができないのではないかなどと、話しが転がる。私自身が考えるともなく思っていることの慥かさを、彼との応答を通じて確信に換えていったような気がした。

 気が付くと3時間半も過ぎていて、持ってきた飲み物も食べ物もあらかた片づけた。ほろ酔い加減で駅に向かい、上りと下りの電車に乗って、ホームで別れた。

2020年10月26日月曜日

過ごしやすい季節

 昨日(10/25)も晴。気温も20℃前後と過ごしやすい。図書館へ本を返却に行き、借りて帰ってくる。道々は行き交う人もさほどなく、マスクなどの気遣いがない。図書館の人の集まり具合もほどよく、三々五々、本を読む人、調べものをする人、スマホを覗く人、ぼんやりとしている人。日曜日というのに、いかにも年寄りの多い社会の風景だなと、わが身も年寄りであることを忘れて思っている。皆さんマスクをしている。入口の消毒薬も、使われている。そう言えば、子どもの数を以前ほど見かけない。用心しているのだろうか。

 長袖一枚で、寒さを感じない。陽ざしが暑く感じられ、日陰を伝って歩いたほどだ。「感じなくなってるんじゃない?」とカミサンが言うのも、わからないでもない。半袖のアンダーウェアも、カミサンに言われて今朝、長袖に取り換えたばかり。鈍くなっているのが、わがことながら実感している。

 風もなく、住宅街の人のたたずまいも静か。コロナウィルスのお蔭で、私好みの気風が広がっているように思う。

 

 人の暮らしというのは、本来、こういう静かなものではなかったか。「本来」というのは、「原初」とか「日常」というほどの感触。騒ぐのは文字通り「お祭り」のとき。年に2回か3回ほどの非日常だったはずだ。日常が「つまらない」が「たいせつ」ということを、身につけていたように思う。なにかの歌にもあったが、「♪・・今日の業をなし終えて・・・♫」という「業」が、大切にしなくてはならない日常を意味していた。「暮らし」という営みが「業」。代々受け継がれ、一つひとつを丁寧に天から与えられた人の業として受け止められていた。

 それが、資本家社会的な商品経済が隆盛になってから、「暮らしの業」も交換に付されるようになっていった。高度経済成長を経て高度消費社会になるにつれて、「暮らしの業」もお金を払って交換されることが普通になった。「天から与えられた暮らしの業」という観念も蒸発し、お金を出せば「買える」こととなってしまうと、「人の営みの大切なこと」という祈りに似た感懐はなくなってしまった。

 「人の営みの大切なこと」というのは、人と人との関係のもたらす心もちに重心を置いた感懐である。それが「交換」に付されることによって、機能的な面だけがとりだされてコミュニケーションとして論題にはなったが、人と人との関係のもたらす心もちが内包していた「祈り」に似た「大切さ」の思いは、機能的な作用に取ってつけなくてはならない人間的要素のように扱われはじめた、とは言えまいか。そして、お金が介在して売買されることによって、人間的要素自体も、余計な心情となっていったように思える。

 さらにその傾向を加速したのが、ITによるデジタル社会であった。YES/NOの二答式応答法は、人間的な不安定要素をわざわざ組み込まなければ、回路に入り込まないこととなった。人間的な不安定要素というのは、迷いとか、決断できないこととか、わからないことを棚上げする人の恒である。それを私は「人間定数」 と呼ぶが、デジタル化社会がいつ知らず人間定数を排除して、かくあるべしという人間イメージを前提にして、モノゴトをすすめる手順を決めてしまう。YES/NOの世界においては、上昇するか/脱落するかの回路に入ってしまう。もはや人間定数は、余計なもの、バグになった。そういう社会に、私たちは身を置くようになった。それを離れては、暮らせなくなってしまっているともいえる。

 コロナウィルスがもたらした静かなたたずまいは、「暮らしの業」へ立ち戻れという天啓のように響く。じつはそれは、私の世代が子どものころに身につけた「原風景」でもある。70年以上の径庭をおいて再会し、季節の移ろいとともに「過ごしやすい」と感じているのである。

2020年10月25日日曜日

なぜ食べると力になるのか

 山を歩くと腹が減る。行動食と呼ぶが、飴を口にしたり、羊羹を食べたり、餡パンを頬張ったりして、カロリーの補給をする。栄養分の吸収はどうやっているんだろうと思ったことがある。そりゃあ胃腸が吸収してるのさと誰かに言われて、そうだよなあと思って、長く納得してきた。

 いつであったか、その栄養分の吸収のたびに細胞が壊れ、新しい細胞が生まれてんだよ。だから75日かなんかで、お前さんの体は全部新しくなってるんだぜと、訳知り顔の知人にいわれて、驚いたことがあった。後に、全部新しくなるには7カ月とか7年とかを要すると、これまた訳知り顔のTV番組が話していて、私の知人よりはTVの方が正しいのだろうと、そちらを信用することにしてきた。


 でもどういうふうに、細胞が壊れ、どういうふうに更新されているのか。それが、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』を読むと子細に展開している。細胞の内部と外部がどう接合して、どう分離するのか。その過程で栄養素などがどのように運ばれるのか。その精妙な仕組みとそれに目を付けて極めていく研究者のものの見方と、そこに分け入るための技法に感嘆しながら、読みすすめる。

 すでに記したが、福岡伸一の逆説的な仕組みを受け容れるセンスの奥行きの深さに、彼の人間認識の繊細な広がりを感じて、ストーリーテラーとしての才覚に惚れこんでしまった。「動的平衡」という彼の造語が、ただ単に、そのメカニックな仕組みだけではなく、福岡伸一の持つ複雑さと繊細さと豊潤さの周縁部が一つになって、わが身の裡に揺蕩うようになっている。それは、わが身の複雑さと繊細さと豊潤さを言い当てられているようで、でもまるでそれに気づいていない「わたし」と、しかしいつしかそれを身につけて作用と振る舞いをしていることに、何か大きな力に支えられていると感じる。それが「生物としてのわたし」であり、自然の力なのだと思う。「識る」こと以上に「存在」することの(生物の)力強さに、思い及ばぬ不可思議さと感動を覚える。福岡伸一のいう「動的平衡」が、私にとっては「動態的平衡」と言い換えることができるほどの感懐をともなっている。まさに、天に感謝したい思いだ。

 この場合の「天」とは、生命誕生以来の37億年の全経過と、生命種の99.9%が絶滅したにもかかわらず、偶然にも1/1000の幸運に恵まれてここに至ったという運と、それらを自らの認識としてとらえることのできる知的な力をホモ・サピエンスに培ってくれた何かを指している。


 40年程も前になる。ある出版社の編集者に「これから(の時代)は宗教ですかね、哲学ですかね」と、人の関心の重きをなす傾向について問われたことを、思い出す。そのときは(哲学と言いたいが、でもこの人は何を考えてるんだろうと思って)「う~ん、なんでしょうね」と言葉を濁し、彼は道元の著した「正法眼蔵」に関心があると話してくれた。それは哲学でもあり、ある種の修業をともなう宗教でもあると(私は)感じてはいたが、当時の私は未だ、その身と心のあわいを一つとしてとらえる境地には踏み込んでいなかったのだと、いま振り返って思う。

 その当時手に入れた『正法眼蔵啓迪(上)(中)(下)』(大法輪閣、1981年第十刷)三巻を書架から引き出し、眺めてみると、思い当たることごとが綴られている。道元といえば13世紀の半ばを生きた方。約800年昔の道元からの手紙(の解説書)と読み取れば、いつしかわが身に刻まれていた「身の記憶」が浮かび上がってくるかもしれないと、読み心がくすぐられる。

 知的であるとは、形而上学的に考えることではない。食べたものが力になる。その不思議を不思議と受け止めて、でも力にしている身の精妙さに思いを致す。操作し向けている自然の摂理と幸運に感謝をする。それが知的ではないかと、動態的平衡を思っている。知的であるとは、知識を身につけることではない。知らないことがいっぱいあることを知ること。知らないことのもっとも身近な最大のものがわが身であることに気づくこと。それこそが知的だと思う。

2020年10月24日土曜日

コロナ対応の宿

 紅葉と小鳥を堪能した奥日光の宿は、コロナウィルス対応をしっかりしているなあと、好印象を持った。何がそう感じさせたのか、記しておきたい。

 泊まった宿は休暇村日光湯元。毎年、山歩きやスノーシューの宿として利用してきた。湯ノ湖畔の立地は満点。清潔感も抜群の宿。だが、コロナウィルス対策は徹底していた。なるほど「滅菌」と「三密対策」を、こういうふうに工夫しているのかと感心したことを箇条書きにしておく。


(1)入口に消毒薬を置く。マスク着用の注意書き。各所に消毒薬は置いてある。

(2)モニター画面に向かって検温を行う。

(3)フロントの順番を待つよう係員を置き、順番が来ると呼ぶ。

(4)夕食も朝食も開始時刻が15分刻み。その時間差で座席が緩やかに埋まり、ビュッフェ方式の部分も混みあわない。

(5)マスクの「一時置き」用の挟み紙を用意。使い捨て手袋の箱を各テーブルに置き、ビュッフェに採りに行くときには、着用するようにウェイターが声をかける。

(6)夕食のメイン料理は係員がテーブルごとに配膳する。ご飯や汁物、飲み物、若干のお好みの品々はビュッフェ方式で各人が取りに行く。

(7)朝食はほぼすべてがビュッフェ方式だが、これも混みあわない。お二人様と団体様との会場を分けていたようにも思う。食事が終わったテーブルの片付けと消毒などは、一つひとつ念入りに行っていた。

(8)風呂の入口のスリッパ置き場を16人分に制限している。それ以上になると入らないで下さいと、注意を受けた。じっさいには8人くらいが入浴していたが、10人を超えることはなかった。

(9)部屋の清潔感は、いつもと同じであった。


 フロントや売店会計のビニールカバーなどは、街のスーパーなどと同じにあった。これが決め手というような大げさなことではないが、丁寧に「滅菌」と「三密」に気配りしていることが伝わる。宿が古いと、それだけで大丈夫かなという気持ちになりかねないが、建物の清潔感に加えてコロナウィルス対策をしていますという心持が加わり、安心して泊まることができた。

 なんとかこれで、この冬のスノーシューも実施したいものだと考えている。

2020年10月22日木曜日

紅葉の奥日光に身を浸す

 昨日(10/21)、8時40分に湯元を出発。歩き始める。私は何度も歩いた道。カミサンも、孫を連れて何度か歩いたルート。紅葉を見るつもりで湯元から、刈込湖・切込湖から光徳根抜けるルートを歩いた。

 湯元の泉源辺りから眺める山肌の紅葉は、文句なしに「秋色」に染まっている。ゆっくり歩く。カミサンは十年前に痛めた足が、まだ不安定という。金精道路を越えて三ツ岳のトラバースに入る。谷を挟んだ向かいの山肌に陽が差し、濃淡取り混ぜた色とりどりの黄色とところどころ赤や白の広がりが、奥日光の紅葉感を醸し出す。木の葉が落ちているせいか、幻の湖と言われる蓼ノ湖の湖面が見える。落ち葉を拾ってはこれはナニ、これはナニと木の名を確認する。ヒロハカツラの葉の付け根が心景になっていて、ふつうのカツラとこれこれここが違うと、寄せてみせる。

 光徳からの縦走者がやってくる。ずいぶん早いなあ。聞くと6時ころに光徳を出たという。そうか、ならば湯元に着くまでを考えると、彼は4時間の行程だ。この後しばらく時間をおいてだが、私たちと逆コースを歩く人たちはずいぶんと多い。むろん、同じコースを歩く人も多く、追いついたり追い越されたりして、のんびりと歩いた。

 鳥の声は少ない。カケスとアカゲラを見かけたくらい。何かわからない声も聞こえた。また光徳の下りたとき、駐車場そばの歩道にカメラの放列が並んでいる。なに? と聞くと、ムギマキを待っているが、こないですねえという。と、何か来た。アカゲラか。いやいやあれはオオアカゲラですよ。とかたわらの人が教えてくれる。長い時間、マユミの実をつつき、姿を見え隠れしながらみせてくれた。マミチャジナイも、また現れた。

 と、カミサンが肩をつつく。うん? と振り向くと、埼玉の鳥友のご夫婦がいる。日帰りで遊びに来たのだそうだ。やはりカメラの放列をみて、立ち寄ったところで、ばったりというわけだ。コロナウィルスのせいでしばらく会っていなかったせいか、あれやこれやカミサンは話し込んでいる。昨日夕方のTVニュースで、奥日光の紅葉が見ごろと報道があったので、わんさと押しかけてきていると、笑っている。

 折よく湯元行きのバスがやってきて、それに乗って宿へ戻った。バスも渋滞に巻き込まれて30分も遅れているそうな。6,7割の乗客。2時半。一休みして風呂に入る。暖かい湯に身体がほぐれる。出てからのワインも、家で呑むよりははかどる。それが身体に残らない。のんびり遊ぶってのは、体調にもいいようだ。

 さて明日(10/22)は、渋滞を避けて帰る。日光植物園にも寄らねばならない。身を浸した奥日光の紅葉は、お天気と小鳥の倍音をともなって、いつになく素敵なものになった。自力で動けるというのが、もたらしたご褒美であった。

2020年10月21日水曜日

絶品の紅葉、眼福の小鳥たち

 奥日光に来ている。ハイキングをして紅葉を愉しむというのが、当初の訪問目的。ところが、それを聞きつけたカミサンの鳥友が「私たちも、今日奥日光に行きます」と、出発の日に連絡してきた。紅葉なので、いつもの通りいろは坂は渋滞すると考えて、朝6時半前に家を出た。やはりうまい具合に渋滞前を走って8時半には赤沼に着いた。

 駐車場わきのズミの木にはたわわに赤い実がなっている。それを啄ばむ小鳥が群れを成している。アトリだよとカミサン。こんなにたくさんのアトリが来ているんだ。もっと南の方へ向かう途中なのかもしれない。その群れの近くに、マヒワが2羽飛び込む。アカハラが現れる。うん? 眉斑があるよと、マミチャジナイだとカミサンがいう。と、上空を、猛禽が飛ぶ。ハイタカだという。

 渋滞に巻き込まれた鳥友が、1時間遅れで着いた。もうその頃には何百台か入る駐車場がいっぱい。私などが双眼鏡をもって鳥をみていると、近づいてきた車が「もう出ますか?」と聞いてくる。鳥友は、かなり乱雑に止めてあった車の隙間に自分の車を押し込んだ。

 赤沼は、戦場ヶ原の入口。だが戦場ヶ原は目下、昨年の台風で壊れてしまった木道を補修中で、入域できない。ほとんどの人たちは、小田代ヶ原へ行くか、エコバスに乗って千手が浜の方へ行くようだ。バス待ちの人たちの列も長くなっている。日光白根山が雪をまとって外山の向こうに顔をのぞかせ、いかにも日光の最高峰・盟主という風貌である。

 私たちは、赤沼の奥、開拓村の方へ向かう。ここは昔、戦場ヶ原が開墾されたときに、最初に入植者がはいったところ。今は畑となり、雪のない季節の慣例を利用し、日光市の麓の方の農家からイチゴや栽培植物の苗を預かり、冬場が近づくと、それを麓に戻す事業を行っている。畑の苗はイチゴか? 作業をしていた方に訊ねると「これはオダマキだよ」と返事が返って来た。そんなものまで育てるんだ。畑のあいだを歩いていると、男体山から大真名子山、小真名子山、太郎山、山王帽子山、三ツ岳が陽ざしを受けて明るく、とてもクリアにみえる。その山体は針葉樹の緑を背景に、黄色や赤の紅葉が映え、ちょうどいい季節に来た思いを強くする。

 はて、行き止まりだったろうかと思う頃、電信柱が左へ折れて森の中に消えている。ああ、たぶんここを抜ければ、三本松だよと踏み込もうとする。と、ぱあっと小鳥が飛び立つ。アトリが森の中の踏み跡にたまった水を飲んでいる。しばらく見てさらに進むと、光徳から三本松へのクロカンのルートに入る。十人ほどの人たちがスコープを構えて何かをみている。ムギマキがいるという。いる、たしかに。コガラもいる。メジロもいる。シジュウカラもいる。ヒガラもいたように思った。

 お昼を済ませて赤沼から小田代方面へ少し入り込む。こちらではムギマキのオスをみることができた。カメラを持った鳥友はクロツグミもとらえていた。

 こうして、絶品の紅葉に眼福の小鳥たちを加えて、奥日光ののんびり時間の一日目がはじまった。

2020年10月20日火曜日

なに、これ?

 今(10/20)、奥日光に来ている。ずうっと前から計画していて、宿の申し込みもしていたのに、それにgo-toが加わった。go-to事務局へアクセスして手続きをすると、「クーポン券」云々がメールで届いて、それをもっていけという。宿泊手続きのときにそれを提示すると、運転免許証を提示して、本人確認をして適用者本人だと認めてもらい、割引値段で宿泊契約を結ぶ。

 ところが、その手続きのときに、25%の「go-toクーポン(買い物券)」がついてきた。宿泊している日につかいきららければならないクーポン券。「栃木県」と、券面に記しているから、県内ならどこでもいいのであろうか。

 でもねえ、戦場ヶ原や小田代ヶ原、赤沼から三本松にかけての昔の開拓村など、山を歩くのに、こうしたクーポン券は、使いようがない。でも、貰ってるんだから、使わない手はないでしょう、とカミサン。そりゃあ、そうだ。でも、使わないと、誰の懐に入るんだろう。

 これって、税金だぜ。要するに、私らが遣う分には、自分の税金を自分で遣うって構図になるけれども、でも考えてみると、私らの子や孫の世代の国の予算を、先取りして食いつぶしているってことじゃないのか。

 そりゃあ、コロナウィルスの旺盛な中で、経済を再生させようとしているんだから、その程度の埒外の支出圧力は、かまわないんじゃないの? と思わないでもない。でもねえ、気が引けて、無駄遣いという気が強くする。

 どうしようと思いながら、明日と明後日を奥日光で過ごす。

2020年10月18日日曜日

身体の不思議

 季節の変わり目である。1年と少し前に買ったタニタの体組成計ではじめて計ったときの私の「体内年齢」は「61」歳であった。その年の誕生日に、それは「62」になった。なんだ15若く表示が出るように設定されているのかと思った。そして今年の誕生日の日、それは「63」。どのように「体内年齢」を算定しているのかわからないが、誕生日ごとにひとつずつ増えるというのは、私の年齢を基点にして、そこからの「(年齢)距離」を計っているのであろう。

 では、その他の数値もそうかというと、そうではない。同じく計量すると表示される「足腰年齢」は、2年前に「70」であったが、去年も今年も、相変わらず「70」のままだ。これも、どう算出しているのかわからないが、別の指標ではじき出しているのであろう。わからないままだから、喜んだり悲しんだりしているわけではない。「相変わらずだな」と、心静かに受け止めている。

 ところがこのところ、体重が減ってきている。

 半年前までは「63±1」kg台がふつうであった。体重を身長の二乗で割った値で導き出すと「61」ほどが、肥満でも痩せでもない中央値となる。だが、山を歩く私は、ちょっと多いくらいが「蓄えがある」とみて、良しとしてきた。

 ところが今年の夏ごろ、「62±1」kg台が良く表示されるようになった。1日の「代謝量」は変わらない。身体を不調を感じたこともない。だから「(この暑さなのに)水が不足しているかな」と思っていたのだが、いつしかそれが通常値になっていた。

 それが秋になって、「61±1」kgに変わりつつある。これはどうしたことだ。1日の「代謝量」は相変わらず「1375~1400」kcalで推移している。カミサンの値を聞くと、私のはちょっと多いのかなと思うが、それがいいことなのかまずい兆候なのかはわからないし、そのように善し悪しで考えたこともない。

  年々まちがいなく年を取る。それに伴い、身は衰えていく。体重が漸減していくのは、致し方ないことかもしれない。そう考えると、体重の1キロや2キロ減ったからと言って騒ぐことはない。だが目に見えて、自分のそれを日々突きつけられていると思うと、何処がどう衰微して行っているんだろうと、考えて見たくなる。食欲が落ちたわけではない。歯が悪くなってよく噛めないから、消化力が低下したかもしれないが、下痢をするわけでもなく、日々の排便も順調にやってきている。緩やかに彼岸へ渡る準備が進んでいるのだとすると、こういうペースの運びは、ありがたいとも思う。

 そうして今朝方、心臓の外側を通っている血管に流れる脈流を、私の左腕の二の腕の腋近くに感じた。ドクッ、ドクッと何回か脈打ち、おおっ、これは心臓の表側を流れる血脈ではないか。こんなふうに脈打っているのかと、感嘆とともに感じとり、ややっ、いま途絶えたのは不整脈というやつかと考えるともなく夢うつつで思いながら、目を覚ました。

 心臓に張り付いた血管の脈流をそれと感じたのは、生まれてはじめてのことだ。なにかの予兆なのであろうか。

 身体の不思議を、身をもって感じている。それこそ一つの宇宙と呼んでいいほどの壮大なメカニズムに保たれて、78年間も動いてきているこの身体。それだけでも不思議ではあるが、それを意識しはじめている自分がまた、いっそう不思議なのだと、入れ子状のからくりを想いうかべながら感嘆している。

 今日は、陽ざしがいい。

2020年10月17日土曜日

満点の紅葉(4)リミットを感知する地点

 白砂山と野反湖西岸縦走の3日間を終え、ひとつ気になったことがあった。

 kwrさんの歩き方を指して私は、コースタイム男と呼んでいる。彼自身、事前に私の指定したルートを昭文社の地図などで確認し、出発点から終着点までのポイントごとのコースタイムを書きこみ、何時ころにどこを通過するかメモをつくって、それを参照し、ポイントごとにそれに書きこみをしている。精確には彼のメモに通過時刻などは書きこまれている。私はメモを取らないでカメラに記録された時刻をみて、大体のところを記しているから、大雑把だ。

 山と渓谷社の雑誌やガイドブック、目にした本や雑誌のコース案内、昭文社の地図などのコースタイムは、みているとだいぶ変わってきている。昔のガイドブックなどは、結構きついコースタイムになっている。「休憩時間も含めていません」とわざわざ記載しているものもある。昔のコースタイムに較べて最近の地図やガイドブックの方が、いくぶん余裕のある時間を記しているようにも思う。山を歩く人のなかに高齢者が多くなったからなのだろうか。裏の事情は、知らない。

 自分の体力の衰えをみていく参照点として、コースタイムを考えているから、コースタイムに合わせて歩くことを心がけようとは思っていない。たぶん同行することの多くなったkwrさんも、そうは考えていないと思う。だが彼の、自然のペースがほぼコースタイムなのだ。

 白砂山の時も、7時間55分のコースタイムのところを全行動時間8時間45分で歩いている。山頂で(厳密にいうと)43分の長い休憩をとった。それを差し引くと、歩いている時間は8時間7分。8時間何がし歩いて7分しか違わないのは、たいしたものだ。コースタイム男と異名をとっても不思議ではあるまい。

 このところいつも、kwrさんに先頭を譲っている。彼も先頭で歩いたほうがマイペースを保てていいというから、私もそれに従っている。そして彼のペースがどうも、長時間歩く時の私の身にうまくマッチしていると感じる。単独行で山に入ると、私はついつい足が速くなる。7時間も歩くと草臥れてきて、ペースが落ちる。抑え気味に歩くのがなかなか身に付かない。ところがkwrペースについていくと、草臥れを知らない。まだいくらでも歩けるよといいたくらいになる。そして、それに甘えてきた。

 白砂山へいったときも、kwrさんはいつものペースで歩いていた。だが彼が、山頂直下の急登を上りながら一息ついたとき、ああこれは、よほど草臥れてるなと思った。荷を降ろし、水を飲む。下ろしたザックが斜面を転がり落ちそうになる。慌てて止める。雨カバーが外れているが、直そうとしない。カバーが外れたまま担いで歩きだそうとするから、止めて、カバーを直してあげた。疲れて気が廻らないんだよと口にするから、意識は届いている。身が動かないのだ。

 私は雪山でよくそういう経験をして、若い人に助けてもらったことがある。夜ビバークしたテントに雪が降り積もる。放っておくとテントがつぶれるから、夜中に起きて雪掻きをする。それをしなければならないとわかっていても、身体を動かそうという気持ちにならない。同行していた若い人が何度も起きだして雪かきをしているのを私は、「すまないねえ」と言いながら、夢うつつであった。

 kwmさんも、kwrさんのペースに黙々とついていくのを自分に課している。もともとkwmさんの方が山歩きを先行していて達者であった。彼女に誘われるようにして山に足を運び始めたkwrさんだ。ただ何年か過ぎて、彼の方に筋肉がついてくると、歩き方にそれほどの差が出なくなる。そうなると、あとは体力の差。内臓の強さや睡眠のとり具合とか、たぶん水の摂取や汗の掻き方、ペース配分の仕方までの違いが、長い山行に現れてくる。お昼が喉を通らないというkwmさんは、胃が弱点。それに比してよくお腹が空いたと口にするkwrさんは胃が丈夫だ。そういう違いが、白砂山の山頂で出てきた。

 3日目もkwrさんは、「リハビリ登山だ」とはじめは言っていたが、エビ山を下るときには、「これを登るのは大変だなあ」と口にする。愚痴が出るほどの傾斜ではない(と私は感じている)。前日の白砂山の疲れが出てきているのだ。それが次の弁天山への(これもたいしたことのない)上りですっかり出尽くして、山頂で座り込んでしまった。珍しいことだ。

 つまりお二人とも、私に付き合っていて口にはしないが、体力のリミットぎりぎりで歩いているのであろうと思う。もともと私は、リミットに近いところまで体力を振り絞る歩き方を好ましいと考えている。じっさいには体力の8割くらいを常時引き出すようにし、ときどき、リミットを感じるほどの歩き方をしていると、高齢にともなう体力の衰えを味わわないで済むと思っている。これ以外に、歳をとっても劣化しない方法はないのではないか。

 そういう意味で、お二人の歩き方を私は、好ましく思う。たぶんそれが私にとっては、リミットの8割程度に相当していて、ときどきkwrさんの草臥れ具合に気づいて、そうかこの辺りがリミットなんだと考えるともなく思っているという次第だ。

 逆にいうと、まだこの程度の山行は、kw夫妻とともにできるということでもある。このさき、秋が深まり、冬を迎えるとき、テントでどのように山へ入るか。寒いのはイヤだというだけでなく、寝袋もたぶん三季用をつかっているだろうから、最低気温が0度を下回ると、とてもテント泊はできなくなる。いや、最低気温が一桁でも、参ってしまうことは考えられる。つまり、山小屋も無理。宿に泊まるか、日帰りとするか。スノーシューも手に入れて歩こうという気はあるようだから、どうしたもんだろうと思案している。

                                            *

 とは言え、「1週間もすれば疲れが取れて、次は何処へ行こうと山のことを考えている」とkwrさんは言うから、山が面白くなり始めている。加えて、翌日には筋肉痛というから、もう身体は回復に向かっているのだ。私には、それがない。疲れがそのまんま身に沁みこんで、歯の傷みとか肩の化石化とか気管支の咳とかに現れてくる。私に較べるとkwrさんは、まだ身体が若いのかもしれない。

 歳をとっても山を歩けるというのは、それだけでもありがたい。リミットを感知したら、そのギリギリへの挑戦を続けながら、でも、危険は避けて身を守らなくてはならない。

 さて、どうするか。家にいても、山を歩いているような気がしてくる。

2020年10月16日金曜日

満点の紅葉……野反湖西岸の縦走(3)絶品の紅葉に恵まれる

 第3日目(10/14水)、8時、キャンプ場を出発。バンガローのあいだを縫い、ダケカンバの林の中を登り始める。5分ほどで古い登山口の標柱の立つ地点を通過する。その脇には今日私たちが歩くルートの距離が表示してある。7・4km。4時間とみると、おおよそ時速1・85kmのペースとなる。最大標高差は450mほど。それが早いか遅いかはわからないが、たぶんkwrさんは、そのコースタイムで歩くことになろう。ただ、彼が調べてきたコースタイムは、私が事前に提示したものとは少し違うという。どこが? エビ山から弁天山へ行ったところから、目的地の富士見峠までが、私の提示は15分。だが、彼の調べたのでは30分となっている。どうしてなんだろうとは思うが、わからない。

 陽ざしが明るく強い。すぐに上着を脱いだ。kwrさんは首に陽が当たるという。西へ向いて上っているからだ。帽子の庇を首の方に廻せば、という。陽ざしの当たった紅葉が、際立つ。足元を見てばかりのkwrさんにはわからないが、後から彼の姿をみている私には、ハッとするような景観にみえる。その都度、カメラのシャッターを押す。立ち止まって下を見ると、野反湖のキャンプ場の全景とその湖畔にあるテント場が見える。湖の対岸にある八間山が太陽の陽を背中にしょって威風堂々としている。なるほどkwrさんが「八間山」という名の日本酒があるといっていたか。それも、よくわかる。野反湖の守り神というわけなのだろう。1時間20分で三壁山に着く。

 「昨日の山は、リハビリだね」とkwrさんは笑う。(昨日に比すれば)今日はらくちんという意味のようだ。ルートのササは手入れが行き届いている。刈り払って広い。見晴らしは良い。左の方を見ると、昨日登った白砂山が、堂岩山から八間山の稜線の向こうに、頭をグイっと持ち上げて際立っている。踏路を遠望する山歩きというのも、悪くない。山頂直下の急登が思い出されるほど、屹立している。笹原の稜線を行く。ところどころ開けた地点から南西が見えたり北西の方が見えたりする。

 「あれは草津だね。あんなに高いところにあるんだ」

 「あの山は、なんだろう」

 とkwrさんが指さす。歩いていて後で思い出した。あの丸っこい大きな山体は、浅間山だ。

 小ピークの山体を回り込んで、さらに向こうの高沢山1906mに登る。その山頂直下に、分岐があり、「カモシカ平・大高山 至→」と記した朽ちた標識があった。広いササ原を山体の東側に広げているのが、カモシカ平なのであろう。朝日を浴びてササが輝いている。ルート上の泥濘に偶蹄類の足跡がくっきりとついていた。シカと思ったが、あるいはカモシカかもしれないと思い直した。

 高沢山1906m、10時03分。35分のコースタイムだ。笹原と樹林に囲まれ、見晴らしはまったくない。そこからの下りは見事に紅葉が目に入る。一番いい季節にやって来たと思った。散り敷いた落ち葉のじゅうたんがこれまた見事であった。開けた地点から西方の山が見える。

 陽ざしを受けた紅葉が見事に輝く。エビ山1744mに10時45分。これもコースタイムどんぴしゃり。「いや草臥れたよ」とkwrさんは腰を下ろし、カロリーの補給をする。私もバナナを食べる。エビ山の山頂には、若い人とアラカンのそれぞれ単独行の二人がいて、若い人はスマホをいじり、アラカンは弁当を食べている。ここからキャンプ場に戻るのなら、「1・8km」とある。40分ほどだそうだが、キャンプ場を中学生の一泊で使わせてもいいねえと、kwrさんは昔を思い出したようだ。

 10分ほど休んで弁天山への下りを辿る。急な下り道。両側は丈の高い笹原。足元は岩と大きな段差の急勾配。正面にはこれから向かう弁天山、左には湖が見え、一番下は平らかな笹原が広がっている。kwmさんがシラタマノキの花やツルアリドウシの実を見つける。今日は植物に関心を示さないものしかいないから、彼女は面白くないだろうなあと思う。湖とほぼ同じ標高に降り立つわけだから、二百数十メートル下る。降り切って少し登ったところに、湖を経てキャンプ場に向かう分岐がある。

 「キャンプ場ってのが固有名詞だね、ここでは」

 とkwrさん。降り切ってまた、登る。途中で団体さんと出逢う。先頭の方が道を空けて「すみません、20人です」と断る。皆さんに「ありがとう」と言いながらすれ違う。若い人も多い。街中を散歩するような靴を履いた人もいる。どんな団体さんなのだろう。エビ山への上りは苦労するだろうなあと、kwrさんと話す。分岐がある。「弁天山北」とあり、ここから二俣に分かれ、「←富士見峠・弁天山を経て峠→」と標識が立つ。これで分かった。ここから弁天山の山体をトラバースして富士見峠へ向かえば15分だが、弁天山山頂を越えて峠へ向かえば30分ということだ。コースタイムの謎が解けた。山頂には小さな弁天様の石像があった。

 弁天山の山頂から振り返ると、高沢山の東側の谷から雲が立ち上ってきている。そうか。眺望のいい山の天気はおおむね午前11時ころまで、それを過ぎると雲が出て見晴らしは悪くなるということか。

 「それにしても去年、よく槍ヶ岳の縦走をしたもんだねえ」

 と、kwrさんは口にする。昨日と今日の疲れ具合では、とうてい歩けないと感じているようだ。一年歳を取ったってことか。

 紅葉の中を過ぎて降ると笹原に出る。向こうに湖と今日の到達点の富士見峠が見える。足元にシャジンの仲間とマツムシソウが咲いていた。あれっ、夏の花なのにと思う。

 こうして12時25分到着。私とkwmさんは車を取りにキャンプ場に戻る。そのあと「道の駅六合(くに)」によって温泉に入り、浅間蕎麦を食べて帰路に就くことになった。そのときkwrさんがどうして「六合」って書いてクニって読ませるんだろうと疑問を呈した。帰って調べてみると、「日本書紀」に「日の神の光、六合に満ちにき」とあって、六合をクニノウチと読ませていることが分かった。なぜそう書くかはわからないが、日本書紀の時代からそう読ませていたことがわかる。由緒ある読み方なのだ。

 じつは、もうひとつ記し置きたいことがある。来るときにnaviが八ッ場ダムの方を指示したと書いた。帰りにそうなるのかと思っていたら、違う道をたどる。ああこれなら、昔の道だからと思っていたら、道路標識の「←渋川」を無視して、直進をすすめる。ままよ、行ってみようとそちらへ行くと、とうとう来たときの道を通らず、何処をどう通ったのか渋川伊香保ICにポンと入ってしまった。帰りに寄ろうと思っていた「道の駅おのこ」とか「道の駅こもち」は何処にも見当たらなかった。狐につままれたみたいというのは、こういうことを言うのだろうか。

2020年10月15日木曜日

満点の紅葉……白砂山・野反湖西岸縦走(2)精一杯の白砂山

 二日目(10/13火)朝5時10分ほど前に目が覚めた。少し雨がテントに落ちかかっている。昔は「朝の雨と女の腕まくり」という山男たちの言い習わしがあった。その心は「恐くない」という意味であったが、近ごろは逆に、「恐ろしい」ことかもしれない。今日の雨は、どっちだろう。予報では「晴れ」のはず。

 流しのところでお湯を沸かす。ヨーグルトとバナナに暖かいカップ素麺を食べる。テントはそのままにしておく。kwrさんは、食べ物と着るものを車に入れておくという。用心深いなあ。ま、いろんな人が出入りするから用心に越したことはない。リアカーに積み込んで車まで曳いてゆく。雨具のズボンも身につけて、車の一台でバス停わきの駐車場まで行き、そこから歩き始める。6時40分。

 少し上ってすぐに、標高50メートルほど下り、ハンノキ沢を渡る。水量が多い。板の橋が二枚かかっているが、沢の半ばまで。あとは水をかぶっている石を伝って渡る。ストックがあるからkwrさんもkwmさんも難なくわたる。写真を撮っていた私の前に、単独行の男性が渡ろうとしている。「どうぞ」というが、私に先に渡れと言っているようだ。彼はストックを持っていない。私の渡るのをみて、渡ろうと算段しているのだろう。ではではと、先行する。

 落ち葉の散り敷いたルートを登る。先頭を歩くkwrさんもkwmさんも足元を見ているが、彼らを見上げる私からすると、見事に色づいた紅葉に溶け込むようにみえる。標高1665mの地蔵峠をいつ通過したのかわからなかった。スマホのGPS現在地をみると、地蔵山1802mのすぐそばに来ている。地蔵山の標識はない。7時46分。だいたい出発してから1時間。私がコースタイム男と呼ぶkwrさんは、マイペースで上ったり下ったりするのが、見事のコースタイムに近い。狂っても5分前後。

 モミだろうかシラビソだろうか、針葉樹の木立の足元にはクマザサが生い茂る。それらの木々の間に、落葉広葉樹のダケカンバやカエデやブナやコシアブラの黄色や赤が映える。相変わらず霧がかかる。踏み跡はしっかりとしていて、歩きやすい。そうだ、15年程前に皇太子が白砂山に登ったとどこかに記してあった。ロイヤルルードってわけだ。

 堂岩山2051mに着いたのは9時3分。2時間23分で来ている。途中で追い越した男女3人の一組がやってきた。静岡の伊豆からきたそうだ。団塊の世代二と人と少し若い女の人一人。尻焼温泉に泊まっていたらしい。テント泊も悪くないよとkwrさんが話すと、「上げ膳据え膳でなきゃイヤ」と、女の人が言う。なるほど女性にとっては、そうだろうなあと思う。「白砂山まではここから1時間5分かな」と伊豆の男性が言う。そうだったかなと疑問符が浮かびかけるが、何しろこちらにはコースタイム男がいる。そう思って地図に目をやることもしなかった。あとで考えると、それがkwrさんに影響したのではないかと、私は推察した。

 堂岩山を出てから、アップダウンが大きな、標高1900m~2050mの稜線上を、背の高いザサ原を縫うように白砂山へ向かう。稜線上からはクマザサの緑の原にのところどころに赤や黄色の紅葉が点在し、腹の辺縁を黄色のダケカンバだろうか林が飾っていて、目を奪う。おっ、シャクナゲの小さな白い花が一輪だけ咲いている。狂い咲きだが、けなげな感じがする。一段と高いピーク2041mに「猟師の頭」と名がついている。下の原が一望でき、晴れていればほんのちょっとした岩登りもある。白砂山と野反湖の間にある八間山との間の谷間が一目に収まる。私はマタギの狩りのやり方を想い起していた。狩りのために山に入ったマタギは、頭が見晴らしのいいところにいて、左右に配置した撃ち手と追い手に指示を出して、獲物をしとめる。「猟師の頭」とは、それの謂いか。

 そこから先、1950mほどに降ってから190mほどを登り返して白砂山の山頂に至るところが、岩の乗越があり、急斜面の上りとなる。ササをかき分けるような上りに、さすがのkwrさんも一息つく。後から来た件の伊豆の三人組が、追い越して先行する。あとで思ったのだが、山頂まで1時間5分という堂岩山でのやりとりが、kwrさんにプレッシャーをかけていたのではないか。だがじつは私が事前に地図に記入したのをみると、堂岩山から白砂山までのコースタイムは1時間半となっている。堂岩山を出たのは9時15分だから、厳密には(休憩タイムをふくめて)1時間29分で歩いたことになる。まさにコースタイム男。そのペースにもくもくとつきあったkwmさんが少し調子を崩したのかもしれない、と思った。山頂部でお昼を兼ねてゆっくりと時を過ごし、40分も長居をしてしまった。ときどき雲が取れ、榛名山が見えた。賑やかに屋並がみえるのは中之条の町であろうか。

 白砂山への稜線上では、5人の戻ってくる人たちにあった。最初の30代の単独行の女性は6時にキャンプ場バス停を出たそうだ。早い。「待ってても(霧が)晴れないから」という。50代女性の単独行者は伊豆の三人組と同じころに出発したそうだ。一人だけ私たちを追い越した単独行の年配者もいたが、ほかの男3人をふくめて、今日出逢ったのは9人。結構人気がある山だと思った。

 北からの風を受けるとひやりとするほど、冷え込む。北側から南側へ、雲が山嶺を越えて流れ込んでいる。もう少しうまく見えれば、雲の滝になるのだろうが、見晴らしがよくない。台風の連れてきた南風と北からの風がぶつかって、雲となり、霧となり、あるいは今朝がたの雨となっているのかもしれない。天気の変わり目が少し予報よりズレたように思えた。

 帰りに八間山へ寄ろうかと、昨日kwrさんが話していたが、そちらを回ると40分ほど時間がかかる。下山には緩やかな良い道だろうと踏んだが、暗くなっては足元が危うくなる。疲れも溜まるから、計算通りに歩けるとは限らない。やはり当初の予定通り、往復とすることにして、下山にかかる。とはいえ、アップダウンは来たときと同じだけ繰り返す。kwrさんの事前調べでは、累積標高差が1000mを越えるという。だが帰りもkwrさんのペースは、kwmさんを気遣いながらも落ちることなく、コースタイムでポイント、ポイントを通過する。登るときにみていた景色とまた違った味わいがある。ダケカンバの林は葉が落ちて、冬枯れに近づいていた。

 陽ざしが出て、明るい紅葉の色合いにドキッとするほど驚きを感じる。見下ろす山体も、逆光にキラキラ光る笹原の緑に黄色や赤の彩が戯れ、まるで箱庭の秋を演出しているようであった。上部の雲はとれず、足元のシャクナゲとハイマツとが岩を取り囲んでつづき、晴れていれば絶品の紅葉だなと言葉を交わしながら、すすむ。kwmさんも遅れずについてくる。樹林帯に入ってからも、山は黄色とちりばめた朱色に包まれ、秋を迎えた実りのときを湛えているようだ。まさに満点の紅葉、真っ盛りの秋であった。

 こうして往きと帰り、二度紅葉を愉しみ、キャンプ場に降り立ったのは3時15分。出発してから8時間35分の行動時間。山頂の休憩40分余を引けば、7時間55分。まるではかったようなコースタイムであった。


 まずシャワーを浴びよう。200円でコインを買い、10分間のお湯のサービスを浴びる。体が温まり、それだけで疲れがどこかへ行ってしまう。テント場へリアカーで荷を持ち込み、椅子と食卓をセッティングし、まずkwさんが用意してくれていたビールで、下山の乾杯。4時半。kwrさんは早速、火を熾す。冷え込みと暗くなる気配が、この焚火で一挙に過ごしやすい下山祝いに変わる。

 「遅くなるから夕食にしようや」とkwrさんが言い、おつまみ代わりに夕食を食べることにして、kw夫妻は日本酒、私は焼酎のお湯割りを片手に、焚き火の片隅でお湯を沸かして、夕食に取りかかる。こうして6時半ころまで、また今日も宴会を愉しんだ。

 明日の野反湖西岸の縦走は、どうしよう。身体が回復していればと条件を付けていたkwrさんも、あなたに任せるよと私に丸投げにした。じゃあ明日、霧が出ず、晴れていれば歩こう。目が覚めて、雨や雲の中であったら、帰ろうと言って運を天に任せてテントに入った。

 ところが、最初に記したように、夜中に雨が落ちてきて、結構な降りになった。こりゃあダメかなと思っていたが、6時前、起きてみると、厚い雲が空を覆っているものの、隙間からは青空が見える。霧は出ていない。これは天気が良くなる。登らずべからずとなって、第3日目を迎えるのでした。

満点の紅葉……白砂山・野反湖西岸(1)キャンプ泊を愉しむ

 10/12から昨日まで野反湖へ足を運んだ。お目当ては白砂山と野反湖西岸の縦走。テント泊。kw夫妻が同道する。昨年からプランにあった。だが野反湖テント場は、宿泊も含めて水曜日と木曜日は休業。曜日の制約と天気の続き具合とがうまくマッチしなくて、ここまで持ち越した。雨続きの中、10/12(月)と12/13(火)が晴れ、10/14(水)が曇と予報が出る。10/10に山の会の皆さんに案内する。10/12(月)の午後3時、現地集合。

 わが家からの車の行程は4時間とあったから、3時間で行けると余裕をもって出発した。ところが高速を降りてからのnaviは、おや? と思うような道を案内する。とうとう八ッ場ダムの祈念館脇を通って、野反湖へ入った。野反峠からみる湖と周囲の山は、低い雲に頭を抑えられてはすでに全山高揚にまとわれて、雲間の陽ざしを受けて美しく輝く。湖沿いに、黄色や真っ赤に染まった木々の葉が現れて、本格的な秋にやって来たなあと思う。集合時刻の15分前であった。先着していたkw夫妻が要領を教えてくれ手続きを済ませて、大きなリアカーに荷物を積んで800mほど離れた湖畔のテント場へ向かう。

 洗い場と大きなトイレとゴミ置き場が設えられたテント場は、二段に分かれて湖畔へつづく。上の森にはバンガローがあるが、樹林に囲まれて山に溶け込んでいる。すでに3張ほど張られている。その一つは煙突があり、「SAUNA」と「看板」を立てかけ、その向こうにタープを張ったテントがある。後で分かるが、30代のSAUNAの日本販売代理店を起業した方。ロシア製のSAUNAテントの営業でテント場を経めぐっているらしい。ロシアやフィンランドで盛んなSAUNAを広めようと考えている。薪をストーブに焚き、それに水をかけてテントの中をSAUNAにする。「日本製のストーブがほしいですね」と元気だ。

 そうそう記しおかねばならないことがある。テントを張っていてはじめて、テントポールを家に忘れてきたことに気づいた。参ったねえ。kw夫妻は心配してくれたが、私は、昔のツエルトでビバークしたことを思い出していた。「平気、平気」と言いはしたが、ポールの無いテントがなんともみすぼらしい。

 寝るときは、ディレクターズチェアをテント内の片隅にたてて持ち上げ、対偶の隅に食糧入れの段ボールと冷蔵用の発泡ウレタンを立てかけ、両脇にザックや着替えを入れた袋を置いて、何とか寝るときに顔にかからないようにして過ごした。最初の夜、雨が落ちて来たときにはこれはたいへんと思ったが、そうひどくならずに済ませることができた。ところが二日目の夜、今度は結構な雨が降った。幸い寝袋には(防寒用に)シュラフカバーをかけてあったから良かったが、テントとぴったりくっ付いたところから水滴が浸入し、濡れにぞ濡れし状態になった。

 kw夫妻は日本酒をもってきている。それも美味しかった。私は寒くなるかもしれないから焼酎のお湯割りを用意していた。豚肉とナスの炒め物を、レトルトの味付けでお酒のつまみにした。これからは、ちょっとは食べ物にも気配りをした方がいいかなと、思っている自分が面白い。これまでは、軽くて調理が簡単、カロリーのあるもので十分と考えていた。

 kwrさんは焚火をするために一式を買い入れ、天下の新聞紙を用意し、薪を調達して火をつける。なかなか要領がいい。これが冷え込む空気に馴染んで、身体を温めるのに絶大な効果を発揮した。しかも彼は、燃えた残り火に加える炭を用意していて、それでお湯が沸かせる。夕飯もそれで大半の手間が省けた。山用のテント泊しか知らなかった私には、キャンプの楽しさという、一つ次元の違う世界をみているような気分であった。歳相応に、老後の楽しみにしようかな。

2020年10月12日月曜日

ルートnの法則

 福岡伸一の「動的平衡」の本題に入る前に、もう一つ面白い指摘があったことに触れておこう。

 彼の著書『生物と無生物のあいだ』で、分子や原子という構成単位はこんなに小さいのに、どうして生物は、こんなにも大きい(必要がある)のかと疑問を持ったことから探究がはじまっている。さらにまた、脊椎動物はおおむね左右対称の形になっているが、それはどうしてなのだろうと、疑問を呈する。

 面白い。ほとんど子どものような疑問や着想の延長上に研究がなされている(と記述がすすむ)ことに、私は感心する。つまり私自身の(すっかり忘れていた、あるいは気が付きもしなかったが、言われてみればなるほどと思うような)内発的な疑問に、接着するからである。


 DNAが遺伝的形質を受け継ぐ過程に物理的制約がかかっていると説明する媒介として、ブラウン運動が取り出されている。この説明に意外な指摘があった。ブラウン運動というのは分子や原子の動きは秩序性を持っておらず、ある空間の中で勝手がってに自在に動いているとする物理法則だが、例えば、水の中に色のついた溶液を垂らすと、ブラウン運動にしたがって全体に広がり、やがて均等な濃さに薄まる。福岡伸一はこの薄まっていく過程のなかに、濃い方から薄い方へ広まっていくだけでなく、逆に、薄い方から濃い方へ動く粒子もあることに着目する。つまりブラウン運動の無秩序が成立するなら、平均的な動きとは逆の動きをする粒子が必ずあることに注目して、その割合を取り出す。


 要約すると、次のようになる。

《その(逆の方向へ動く)頻度は「ルートnの法則」と呼ばれ、全体の個数の平方根数と、統計的にみている。つまり、もし100個の粒子が動いているとすると、そのうちの10個は逆方向に動いている。もしその個数が100万個あるならば、1000個が逆の方向へ動いている。生命体ではもっとたくさんの原子と分子が構成しているから、逆方向へ動くものの割合は、下がる。逆に、少ない原子や分子で構成されているものは、逆方向への割合が多くなって、すぐにトラブルなどに巻き込まれて種族の維持ができなくなるともいえる。》


 この指摘をオモシロイと私がいうのは、原子や分子や粒子の動きと同様に、社会の中の人々の個体の動きにもまた、「ルートnの法則」が働いていると考えると、寛容・寛大な心もちを持つことができるからだ。世の中の人の動きは、必ずしも自由社会というわけでなくとも、全体としては「ルートnの法則」が作用している。むろん社会体制や時代の気風が物理的制約として立ちはだかるから、「逆の方向への動き」のかたちは、さまざまに変わるであろうが、少なからず社会的風潮の平均ばかりが存在しているわけではない。1億人の人がいれば1万人は「逆方向への動き」をしていても不思議ではないということになる。ある研究の紹介を思い出した。

 以前、数学研究者・森田真生の指摘を紹介したことがある(「数学する身体」『新潮』2013年9月号)。「進化電子工学」の研究の紹介。人工知能をつかった人間ロボットのチップを制作する過程で、100個の論理ブロックを用意して作業をさせたところ、そのうち37個を用いてチップを制作した。ところが、37個しか使われない論理ブロックのうち5つは、他の論理ブロックと一切つながっていない。ところがその5つのどれを取り除いても、回路は動かなくなってしまった。それを森田真生は、人工知能がアナログの情報伝達経路を進化的に獲得してしまっていると解読している。

 つまり、「ルートnの法則」を算入することによって、「アナログの伝達経路」を担保する「不可思議」の思考回路を、身の裡にとり込むことを意味する。論理ブロックの「機能している」と見る目自体に、じつは、人が現在獲得しているモノゴトへの「理解の枠組みの縛り」が入っている。機能していない論理ブロックをバグとみている限り、取り込まれている「5つの論理ブロック」がなぜ、どのように作用しているのか、わからない。それよりは、「不可思議」のままに棚上げしておくことの方が、「世界」を全体として視界に収め続けるのに、有効に作用する。

 社会的事象についていえば、世の秩序に反することを、ついつい排除して仕舞おうとする習性を、私たちはもっている。だが、それは、世の中に対する「理解の枠組みの縛り」にとらわれているからなのだ。私たちが忌避することに、じつは「不可思議」のことがいっぱい入っているのではないかと思うのだ。

 こうした視点を波及的に醸し出すだけでも、「動態的平衡」は面白いと言わねばならない。

2020年10月11日日曜日

親しい友人を失くしたときの挨拶の言葉

 昨日記した友人Nさんの逝去に際して、奥さまにお悔やみのご挨拶を書こうとしていた。その今朝の「折々のことば」にこんな一文が載っていた。


 《人は自分の思いを手本のない自分の言葉で話すしかない。ここは大学ですから、会話の授業はやりませんよ  ある仏文科のフランス人講師》


 引用者の鷲田清一はこんなコメントをつけている。


 《評論家の加藤典洋が大学時代の受けた仏語作文の授業で、フランス帰りの受講生が、日本文学の翻訳よりもっと実際的な日常会話や作文をやったほうがいいと発言した。講師は、親しい友人を失くしたときに正しい挨拶ってある?と返し、こう続けた。表現の真の力と困難を学ぶのが大学というところ。……》


 どんぴしゃり。私は早朝から、まさに手本のない自分の言葉で書くしかない日本語作文に取りかかった。昨日一日Nさんのことを考えていたことを思い出しながら、彼が私にとってどのような存在であったかを、具体的な時代と場面を想い起しながら、訥々と綴った。くしくも1970年代を総覧するような気分になった。

 Nさんに感じた不思議は、何だったろう。フランス現代哲学に通暁する知的な到達点と裏腹な市井の熊さん八さんにつきあう耳の傾け方と語り口は、Nさんの身の裡のどこに齟齬をきたさず仕舞いこまれていたのであろうか。「育ち」かとも思うが、Nさん自身の口からそれを聞いたことはなかった。もし今度奥さまにお会いする機会があれば、それをこそ聞いてみたいと思いつつ、4時間ほどかけて書き上げた。

 「親しい友人を失くしたときの挨拶の言葉」をこれから何通も書くことになるのだろうか。それとも、誰かが書いてくれるのが先になるのだろうか。こればかりは、わからない。

 手書きこそがいいとは思ったが、タイプして印刷し、封筒に入れて切手を貼り、ポストに投函しようとしたら、また、いつかのように郵便回収車が収集を終えているところ。手をあげて受け取ってもらい、やあ今日も、また、イワン・デニーソビッチの一日だと喜んだ。


 台風一過、群馬県北西部の野反湖周辺の天気が良くなった。テントをもって白砂山と野反湖西岸の山を経めぐってこよう。昨日、山友にお知らせをし、3人で行くことにしてテントサイトに予約を入れた。2泊3日。むろんソロ・キャンプ。ただ私は、山歩きのテント泊なので、キャンプを楽しむというセンスは、ない。必要最小限の荷をもって、寒さにだけは負けないように準備をして出かける。相方の二人が、焚き火用の火置台を手に入れたと言ってきた。寒さ対策というのだが、焚火をして楽しもうなんて、まるで若者みたい。ま、そういうのを見るのも悪くないか。

2020年10月10日土曜日

訃報

 昨夜、神戸から知らせがあった。48年半前に知り合って以来これまで、お付き合いしてきたNさんが亡くなったという奥さまからの知らせ。昭和7年の生まれだったから、88歳(誕生日前なら87歳)か。10月4日、肺炎とのこと。

 コロナか? と思ったが、そうではなかったという。家内で転倒して神鋼記念病院に入院したときPCR検査を行って、結果は陰性であった。

 生前の希望もあり「献体」をした。亡くなって後、ご遺体は神戸大学に送られ、葬儀も遺言に沿って執り行わない。奥さまの妹さんがお出でになっていろいろと手続きや整理をしてくれている。明日(10/10)が初七日。ひと段落したのでお知らせをしたと、静かに響く電話の声が悲しみを湛え、それを抑えて聞こえる。

                                            *

 Nさんは、憂き世に身を置きながら、浮世に淫せず、あたかも竹林の七賢というのはこうではなかったかと思わせる清貧の読書人であった。その人柄は鷹揚にして寛大・寛容。星占い、パチンコの攻略法から、職場の愚痴やぼやき。記憶に残るのは、長く共産党の党員であった人が70年代半ばのソビエト共産党の非道が理解できないと愚痴をこぼしたとき、プラハの春を例示して「今ごろ何言ってのよ」と軽くいなしていた。かの党員は、それで離党したのではなかったか。いろんな傾きをもった人たちを受け容れ、相手に応じて話題と言葉を繰り出した。長屋の御隠居のような人望を得ていた。

 当然私には私向きの顔をなさっていたのであろうが、フランス哲学に造詣が深く、フーコーの『言葉と物』を譲り受け、ルネ・ジラールを紹介してもらったのも、彼からであった。

 知り合いの絵描きがフランスへ旅をするとき、Nさんに手紙をフランス語で書いてもらったことを、帰国後に話していたことを思い出す。それをフランス人に手渡したとき、彼の国の人が「これはだれが書いたんだ? こんな見事な文章はフランス人だって、書くひとはそういない」と嘆声込めて驚いていたという。さすが東大の仏文科を卒業しただけのことはあると、下世話な言葉を交わしたことを憶えている。

 あるいは、いつ頃であったか、「島尾敏夫論」を書いて文藝賞に応募したこともあったと、その文藝賞を審査していた私の知り合いから聞いたことがある。いかにも島尾敏夫が繊細な人の心もちへ分け入るのを、綿密子細に読み取っていく感性の持ち主であったと思う。

 じつは彼に出会うまでの遍歴を聞いたことがない。彼自身が語らぬものを聞き出すことを遠慮したというのが私の内心であるが、彼自身は自らのことを語る文脈を、人とのかかわりにおいてもたなかったのではなかろうか。私と出逢う前、つまり40歳位までに、世の中と人のかかわりの酷薄な底を観てきたのではないかと思わせる世界への見切り方を感じたことがあった。

 驚いたのは彼のモノゴトとのかかわりへの見極めの速さ。距離の取り方の判断が敏速に行われ、ほとんど仕事に関することも「用がない」と始末してしまう素早さだった。私はどちらかというと、かかわりを引きずる。出逢ったものが、その後の自分とどう関係するかわからないことが多く、ひょっとしたらという迷いがいつもついて廻ったから、モノゴトも出来事も、その記録書類も参考資料も、始末することができなかった。今でもそうだ。ぐずぐずと手元において、何年も目にしないうちに積み重なって、いずれゴミとして処理されてしまう羽目になる。まあ、今の自分の脳みその中と同じなのだが、きれいさっぱりと見極めをつけて捨てることができない。Nさんの、そうしたことに関する振る舞いは、人生の何が大事で、何を大切にするということが、ほんとうにおつも、きれいさっぱりと整理がついているように思えた。そこに至る彼に人生の「見極め」に、底知れぬ(彼の経験の)奥深さを感じもしたのであった。

 三十数年以上前、彼は50歳代の半ばで仕事を辞めた。何があったのか、しかとは聞いていないが、両親の面倒を見る必要が生じたように、私は思いこんでいる。父親が裁判官で各地を転々としたこと、彼が仕事を辞めて実家のある宝塚に移り住んだころも、父親は神戸の「(弁護士)事務所(?)」へ時々出入りしているような話を聞いた覚えがあるから、ずいぶんな長寿であったに違いない。また父親の死後、母親が認知症になり、「人の生きていること自体が悲惨と思えるような様子」と伺ったこともある。

 ご両親の没後、Nさん夫婦は六甲山の稜線にある別荘地の管理人を兼ねて移り住み、人気のない閑散とした森の中の何階建てかの住宅の一角で、鳥を相手に過ごす日々を送った。私も何度か訪ねたことがある。いつであったか年末ごろ、一晩泊まってお喋りをした翌朝の一面の雪と寒さに驚いたことがある。

 寒い六甲山上を離れて十数年前、神戸に移り、安住の地としたのであった。そこにも3度ほど訪ねてお喋りをしたのであったが、3年ほど前、「もう喋っていることもできないくらい調子が悪い」と、訪問を断られたこともあった。今年の6月、近況報告代わりに私の小冊子をお送りしたとき、電話口で奥さまが、受け取ったとお話になったあと「今ここにいるのですが、お話をする状態ではありませんので」と仰っていて、1月の腓骨骨折が、まだ直っていないのだろうかと案じていたのでした。

                                            *

 訃報を受け、お悔やみの手紙を書こうとして気づいたのであるが、Nさんの奥様の名前を知らない。いつ訪ねても、たいてい傍らにいて話を聞きながら、あれこれ面倒を見てくれた奥さまは、若いころに空手やヨガに精通し、指圧師の資格を取って、ときどき施療を施していた。中学校の教師であった私の友人の一人がメンタルに落ち込んでいたとき、彼女に相談に乗ってもらうよう紹介し、彼女にあったのちその友人が大宮で空手教室へ通うようになったと聞いたこともある。

 いつか訪ねてお線香でもと思ったが、「献体」から戻ってくるのがどういうかたちなのか、聞き漏らしてしまった。また戻ってくる時期に2年ほどかかると聞いて、はて、いつ頃どうやって訪ねていっていいものやら分からなくなっている。

 でも、逝去を知らせてもらったことで、今日一日、彼との日々に思いを巡らす機会を得た。私のなかに記していったNさんの記憶がまるで彼からの手紙を繙くかのように、今取り出して読み返しているのです。

 ご冥福を祈ります。合掌。

2020年10月9日金曜日

見てくれが良い――エリートは誤らない

 瀬戸内寂聴が「アベサンは見てくれが良かったからね」と言っていたと、カミサンが言う。どういう文脈でその言葉がつかわれたのかわからないが、見てくれの良さが7年8カ月という長期政権を支えたのだとすると、日本の有権者の国民性もその程度のものと言われているよな気もする。だが、アベサン自身は見てくれの良さと意識していなかったであろう。彼自身の才覚といつ知らず思い込み、それが彼の人格の骨格になるほど、文字通り骨の髄から自らに自信を持っていたと(彼の立ち居振る舞いを観ていて)私は思う。

 それと同様に、去年(2019年)4月に池袋で母子二人を轢き殺した自動車事故の運転当事者の裁判が始まり、新聞などにも彼の供述が公表されるようになったので思い当たる。工業技術院のエライサンを務めていたことが、事故後の逮捕の見送りなどにも現れたのじゃないかと世評に取り沙汰され、「上級国民」という言葉を生み出した事故車運転者は、「車に異常」として無罪を主張したと、紙面は批判的である。「反省してない」と批判するが、それとは別に、私はこの人はアベサンと同じだと思った。上級国民と呼ばれるエリートの典型を示しているからだ。

 状況証拠は、「車に異常」を示してはいない。ブレーキを踏んだ形跡はない。アクセルを踏み続けた形跡がある。動転してハンドルのコントロールが利かなくなっていたことが、状況の展開から示されている。にもかかわらずなぜ彼は、「車に異常があった」と言い張るのか。事故の結果、二人の母子を殺害したことと、車のコントロールが利かなかったこととは次元の異なるモンダイだからである。事故の原因は、技術的なモンダイ、事故の結果は偶然性のモンダイなのだ。その分節化が、事故総体をモンダイにしているときにも、なぜ(事故原因当事者の胸中において)分けられたままなのか。その結節点が、彼の「せかい」においては、毅然と分けられたままで、何処にも接合点をもたないからだ。

 接合点とは何か。普通私たちがこの事態の当事者であった場合、「私はブレーキを踏んだが、車が暴走した」と思っても、アクセルとブレーキを踏み間違ったんじゃないかと指摘されたら、ひょっとしたらそうかもしれないと(自分自身の思い込みに対する)反省が入り込む。そこには、自分が間違うことなんてしょっちゅうあるじゃないかと、日ごろ感じて生きているからである。それはもう人格と言っていいかもしれないくらい、身に沁みて世に恥をさらし、臍を噛みつつ切歯扼腕してきた己の貧しさであり、卑小さであったと反省しているからだ。

 だがエリートは、こうした反省をもたない。いつも自分の外にモンダイが生じ、外に原因があり、自分はその原因を究明・審判する責任当事者であり、いわばモンダイに対して「神」のような立場をとってきた。エリートは誤ってはならないし、誤らないのである。それが彼の人格をつくり、彼を取り巻く関係を構成し、「上級国民」の待遇をもたらしてきたのであった。審判者は、したがって、自らを省みるポイントをどこにも見出すことができないのである。

 まして彼は、工業技術院の院長という車に関しては一家言ある立場を生きてきた方だ。まさに自家薬籠中のモンダイ事案に、人生を掛けて培ってきた人格が総動員されていても、不思議はない。しかもそれが、彼だけの振る舞いではなく、エリートを上級国民として接遇する警察や検察の「かんけい」も動員されていたことが、今回の動きでわかる。もしこの当事者が中級国民か下級国民ならば、警察官が「何バカなことを言ってんだよ。アクセルとブレーキを踏み間違えたんだろ! 耄碌してたんだよ、お前は」と決めつけられ、調書がつくられておしまいだからである。それでも否認すれば、もうあたりまえのように逮捕拘束され、自供するまで釈放されないってことは、去年4月以降の交通事故を起した人々の処遇をみれば、一目瞭然である。

 つまりここには、「上級国民/エリート」という「見てくれがいい」ことに循循としたがう社会的風潮がしっかりと流れている。そこがまさに、モンダイなのだ。

 それを、「(二人も死亡しているのに)反省していない」という(マスメディアのとりあげる)次元で、取り扱っていいのか。技術的な原因究明に、人間要素を組み込んで、総合的に判断していく回路をつくりあげねばならないのではないか。「見てくれがいい」ことで世の中が通る。それが世の風潮ならば、それをもう一つ深めて、より人間要素を組み込むにふさわしい規範の回路を再構成する視線が、私たちの暮らしのなかに組み立てられなければならないのではないか。

 この事故当事者のことだけにかまけて、彼を非難して留飲を下げればいいわけではなかろう。

袈裟丸山の秋

 さて、歩いたときに思い浮かんだことが先行してしまいました。

 袈裟丸山への登山口は、塔の沢登山口、折場登山口、郡界尾根登山口と、三つある。地理院地図にはバラ沢峠からのルートも記されているが、廃道になっている。折場登山口はわたらせ渓谷鉄道の沢入(そうり)駅近くから林道を23km入ったところにある。以前、郡界尾根から上り後袈裟丸山を経て折場登山口へ下るルートをとったことがある。じつは今回も2台の車を使って同じルートを歩こうと考えていたが、後袈裟丸山と前袈裟丸山のあいだの八反張のコルが崩落して通行禁止になっていることがわかった。また、そこへ通じる林道が修理するために通行禁止になっているので、折場登山口からの往復とすることとした。

 浦和駅で二人の参加者を乗せて、日光清滝へ向かう。沢入駅へは大間々から入るルートの方が近い。だが、北関東道を降りてから大間々までの一般道が混雑して、時間が読めない。日光周りだと、清滝から日足トンネルを抜ける道は、混雑することもない。合流時間の8時半に15分ほど余裕をもって辿りついた。すでにkw車は到着し、首を長くして待っていたようであった。折場登山口に広い駐車場には車が1台止まっており、私たちの後からもう1台がやって来た。

 8時50分、明るい日差しの中を歩き始める。いきなりの急な上り。山はたいていそうだから、先頭のkwrさんはペースを守りながら、ゆっくり歩度をすすめる。落葉広葉樹の濃淡取り混ぜた緑の中を、ゆっくりとすすむ。30分ほどで西側の渓とその向こうの袈裟丸山を望む側が草付きになって開けている地点に着く。今日辿る稜線が一望でき、その先の袈裟丸山は雲を被っている。その間に挟まる深い渓が紅葉を点在させて切れ落ち、一番深いところに滝が流れ落ちている。登り口から山頂までが一つの山だとすると、小丸山などの小ピークを含む袈裟丸山は、なんとも巨大な山体をもっているとみえる。私たちが上りはじめるころに到着した車から降りたペアが、後から登ってくる。60歳前後か。道を譲って先行してもらう。

 ところどころの黄色や赤の紅葉が目を慰めてくれるが、残念ながら陽ざしは西の方から押し寄せる雲に阻まれて、紅葉の鮮やかさを消してしまっている。1時間で賽の河原に着く。寝釈迦を通る塔の沢ルートとの合流点になる。このルートはよく上られているコースだが、ちょっと時間がかかる。以前人を案内したときには、すっかり草臥れて小丸山から引き返すことになった。

 足元はしっかりと踏み鳴らされ、長く親しまれた登山道の面影が残る。袈裟丸山の命名由来を弘法大師に求めているのは、いずこも同じという感じがするが、赤城の山神に邪魔されて弘法大師が袈裟衣を脱いで丸めておいたというのは、なんともおとぎ話めいて興ざめがする。賽の河原の石積みのことも、別の表示板に記している。黄色のカラマツとドウダンツツジの朱い色とが見事だ。

 しばらく稜線沿いの笹原とまだ緑緑したモミジや色の変わり始めたナナカマド、ツツジの紅葉をみながら軽快に歩を進める。小丸山1676mにもコースタイムの2時間で到着。ところどころの紅葉の見事さに先頭が立ち止まり、後の方から嘆声が漏れる。

 霧が巻いてくる。かまぼこ型の鉄製の避難小屋に降り立つ。ドアの鍵が外側からかかっている。声をかけノックをしてstさんがのぞき込む。中は板敷になり、断熱のシートを敷いてあるのか、居心地は悪くなさそうに見えた。stさんは「外から鍵を掛けられたら、どうするんだろう」と心配をしているのが、おかしい。別棟のトイレもある。

 ここから前袈裟丸山の山頂までが、今日二度目の急登。段差が大きい。両側の笹の丈が高く、埋もれそうになりながら登っていく。あと標高差130mのところでkwrさんは休みを取り、一息入れる。岩場もある。登るとき私たちが道を譲った若いペアが降りてくる。「やあ来ましたね。(山頂は)すぐですよ」と道を譲る。ランドマークになるようなトドマツが一本、霧の中に浮かぶ。そのすぐ先に袈裟丸山の山頂があった。12時到着。濃い霧の中。眺望も何もあったものではない。

 昼食にする。この先のルートを見に行くと、「前袈裟丸山から後袈裟丸山の間、八反張は風化が激しく危険ですので、通行を禁止します 東村」と標識が立てられている。標識自体も塗装が剥げかかっている。ふと思い出してメモを辿ってみると、2009年の10月20日に、郡界尾根から後袈裟丸山に上り八反張りのコルを通過して折場登山口縦走している。そのとき、郡界尾根の登山口に同じよう韙「東村」の掲示板があったと記載している。そうか、あの時の崩れそうなコルの砂地がそのまんまなのかもしれない、と思った。

 と、向こうから一人上がってくる。私たちと同じくらいの高齢者だ。そういえば折場登山口の駐車場に、1台車がおいてあった。この方か。後袈裟丸山に行ってきたという。コルの崩れそうなところのことより、その先の上り下りが笹につかまって登る急登だったと話す。「元気だね、後期高齢者は」とstさんが冷やかす。申年だよと、件の高齢者は言う。私は午年、kwrさんは未年。「なんだ同学年だね」と言葉を交わして、先に降りていった。山頂へ6人ほどのアラカンの男たちが上ってきて、急ににぎやかになった。霧が濃い雲になり、雨粒が混じるようになった。私たちは雨具を羽織って、下山を始める。12時38分。

 上からみると、笹原の中の紅葉が鮮やかに見える。林立するダケカンバの白色も彩になっている。40分で小丸山に戻る。往きの1時間に比して帰りが早すぎるほど早い。帰心矢の如しかと思う。雲が取れ、雨具は避難小屋を通過するときに脱いでいる。賽の河原も、コースタイムより10分も早く帰着した。14時26分、広い笹原の上部に出る。遠方の、南西の山並みが雲の下にみえる。雲は1600メートルほどの高さに広がって伸び、その下から西を見晴らすと晴れわたっているのであろう。赤城山へ連なるものだろうが、重畳たる山の重なりに見分けがつかない。

 折場登山口に着いたのは14時55分。行動時間は6時間5分。山頂で35分ほどとったから、5時間50分のコースタイムのところを、5時間半で歩いた計算になる。未年の先頭も、いや、なかなかの健脚といったところか。

 帰途は、kw車に先頭を頼んで、伊勢崎ICへ向かった。渡良瀬川沿いに走っていると雨になった。だんだん本格的な降りになり、大間々の街中に入ると、やはり車の渋滞はひどなった。伊勢崎iCから浦和ICまでは順調であったが、浦和も雨の中は皆さんゆっくり走るせいか、渋滞気味。ほぼ6時に駅に到着した。無事であったことが何より。家に帰ると、どうして連絡しないのよ、何かあったんじゃないかと心配したと、カミサンはご立腹。よく見ると、連絡したはずの私のスマホは、「機内モード」のままであった。

2020年10月8日木曜日

山歩きと沈黙

 昨日(10/7)、袈裟丸山1878mに登った。山の会の人たち、高齢者の5人。順調に登り、快適に下山した。登っているときは、列の中ほどからひっきりなしにおしゃべりが聞こえた。植物のこと、山歩きのこと、日頃のトレーニングのこと、コロナ禍になってから姿が見えない山の会の人たちのこと。元気だなあと思いながら最後尾を私は歩く。

 山頂は霧の中。お昼を済ませ、少しばかり雨滴が混ざるようになった。私の前を歩く小柄なysdさんは、段差の大きい急傾斜の足の置き場を細かく探って、ストックを着いて一歩で片足を降ろす私に較べて、苦労している。わりと平坦な尾根歩きになった下山中、暫くおしゃべりが絶えた。

「おしゃべりが絶えましたね」

 とysdさん。皆さんが草臥れてきたことを言おうとしたのだろうか。それとも彼女自身が、疲れてきたことを漂白しようとしたのだろうか。

「山歩きは・・・」

 と言いかけて、ふと、何か大切なことに気づいて、ことばを止めた。それが夜中に思い起こされて、何を言おうとしたんだっけと気になったわけを、今考えている。

                                            *

 草臥れてくると沈黙が訪れるというのは、ま、あたりまえのこと。パッと頭に浮かんだのは、山歩きは「祈りに似ている」ということだったか。どうしてと問われると言葉が継げない。俳人でもあるysdさんは、自分の思いを口にすることはめったにない。後を歩いているからよくわかるのだが、彼女の感懐が、視線と身のこなしに現れる。立ち止まる。身を乗り出すようにしてのぞき込む。その先に、縮こまったような葉をたくさんつけた灌木が楚々と立っている。

「何でしょうね」

 と問う。kwmさんが

「コメツツジって、以前言ってましたよね」

 と、私を振り返る。私はうんうんと頷く。

 石裂山のいくつかあるピークの一つでみつけて「これなんでしょう?」と言葉を交わしたことを思い出す。6月の末の晴の日、翌週の山の下見に行ったら、駐車場にkwさんの車が止まっていた。後を追いかけては追いつけないかもしれない。そう思って私は、予定と逆のルートをたどった。そうして偶然出会ったピークで一緒にお昼を取りながら交わした言葉のひとつが、コメツツジのことであった。もちろん私が知る由もない。写真にとって帰宅後、植物の師匠に訊ねて、そうだろうと同定した。その葉を想い起したわけではない。kwmさんの記憶と慧眼に感嘆していた。

 その先でysdさんは、縮こまっていた茎と葉を伸ばしたのを見つけ、

「ああ、こうなるとわかりますよね」

 と、うれしそうであった。

                                            *

 「祈りに似ている」とはどういうことか。山を歩いていると瞑想しているような気分に陥る。運動生理を専門にする方は、ランニング・ハイと同じという。意識は明瞭。歩いている足元は、しっかりと見ているが、そこに意識を集中している以外のことは、何も考えていない。無念無想というのは何も考えないことだというが、眠っているわけではない。明晰な、一つことに集中した意識の外は、何も胸中にとどめていない様子のこと。それが「祈りに近い」というのは、「なにをお祈りしたのですか」と問われた伊勢神宮の研究者から聞いた言葉だ。

「祈りというのは何も考えていないことです」

 神に何かをお願いするとか、平安を祈るというのは、それ自体が人の分際として過ぎたこと。むしろ何も考えないことこそが、清浄な心持だ、と。

 では、どうして山歩きが「何も考えない」ことに通じるのか。

 山が大自然を現すものであることは、いうまでもない。そこを歩くものは、自らをも大自然の中に組み込んで、その要素として身を溶け込ませる。もちろん無念無想という観念はない。大自然の、さまざまな現れ方が要求してくる足の運び、身の平衡のとり方、呼吸の仕方、溜まる疲れや痛みをとる休憩のとり方などなど、いわば大自然と対峙し、身を馴染ませ、無事の通過を祈るようになる。もちろん大自然は、応えてはくれない。沈黙したままに、向き合うわが身の懸念を浮き彫りにし、不安を増したり、安堵の一呼吸を受け容れたりする。

 人はそれを、レジャーとかリクリエーションと呼んだり、スポーツと名づけたり、場合によっては冒険と褒め称えたりするが、基本的には、大自然にわが身を溶け込ませている作法である。その核心のところが「祈り」と呼ぶほかないたたずまいだと、私は思うようになった。

 欧米的な人間観からすると、自然から切り離された人は、自然を支配する、神から与えられた「意思」として、自らを際立たせる。それは闘いであり、征服であり、「意思」のままに大自然を操る振る舞いである。まず、沈黙はない。いかにして状況を克服するか、言葉にならないものは、ことごとく無用であり、「意思」を体現しないものは、無駄というほかない。そこには、(自然に対する)「祈り」はない。自らが創造した「神」に対する祈りしかない。

 日本人の(と限定していいのかどうかはわからないが)「祈り」は、自らが大自然に溶け込み、一体化する作法が備わっている。そこに、自らを超越する「思念」の根拠がないことを、欧米の知識人は論題として批判するが、逆に彼らは、大自然に対する敬意を(人の卑小さというかたちで)もつことがない。

 自らを溶け込ませた大自然への「祈り」には、大自然に生まれながらそこから身を引きはがし、なおかつ、その一角に自身を溶け込ませようとする、大いなる矛盾が内包されている。そういう矛盾的存在体として現在しているがゆえに、山に向かわないではいられない「思い」が絶えることなく湧き起って来るのではないかと、大自然から離れて都会暮らしをしている私は、思わないではいられない。

 昨日、山を歩きながら、ふと、口を突いて出る言葉を、中途半端にとどめざるを得なかったことを、そのように解きほぐしてみた。

 単独行のときは、もちろんお喋りはしない。だが友人と一緒に登るときには、言葉が交わされる。それが山歩きの中盤どころで沈黙に変わるのは、皆さんの体が大自然に馴染み、祈りに似た沈黙に身も心もひたひたと浸るからではないのか。ただ単に、疲れたからというよりも、沈黙こそがふさわしい次元に到達したからではないのか。そう思うと、黙々と歩くのが、なんとも愛しく、麗しく思えてくる。

2020年10月7日水曜日

目の付け所に舌を巻く

 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』に踏み込もう。

 まず驚いたのは、「動態的平衡」を説くまでに至る彼の関心の在処とその探究の航跡がかっちりと物語り化されていることであった。物語り化するというと、作者の設えた舞台でそれぞれに配置された役者が立ち回り、出来レースのように話が収斂していくと考えがちだが、これはそうではない。

 福岡伸一の関心の置きどころは「生命とは何かという問題」。それについて彼は、


《結局、明示的な、つまりストンと心に落ちるような答えをつかまえられないまま今日に至ってしまった気がする》


 と率直に吐露する。そう言っておいて、こう続ける。


《生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである》


 感嘆したのは、後者の引用のような「結論」に至りながら、なお、前者の引用のように「答えをつかまえられないまま今日に至っている」という自己認識をもっていることに、である。これは見事に開かれた知的展開を自身が用意している。

 学者が自らの研究成果をもとに著書を書いてなにがしかのことを提示するとき、たいていはその論展開の根拠を縷々論理的に述べ立て、ときには優しく噛み砕いて説明して、ご自分の所論を開陳する。しばしば読者である私は、何か取り込まれるような窮屈さを感じる。

 もちろん、これらの著者の所論が、私の理解していない世界から伝えられてくるわけであるから、その異世界の端緒に取り付くまでは(小説を読むのと同様に)ややこしい世界を歩いているんだなあと思いながらも我慢して、異世界の舞台の端っこにたどり着かねばならない。しかし、辿りついた世界で見事に自己完結する話を聞かされると、なんだか陋屋に取り込まれてしまったような気がして、窮屈になる。

  ところが福岡伸一は、あたかも読者がどの地点から読みはじめているかを承知しているかのごとく、話しをはじめる。それが、彼の関心の置きどころにある。つまり彼の関心の置きどころが、ただの市井の老人である私の関心事から出立している。しかもそれをDNAの二重ラセンとそこに記された四つの文字とその組み合わせへと展開する運びは、まるで福岡伸一と一緒に、自分もその探究の旅に出ているような気分にさせてくれる。生物研究者というよりもストーリーテラーとしての福岡伸一の才能に助けられて、わが世界を視界に収めて眺望しながら、極めて狭い世界の探求に乗り出していく。

 アメリカの研究機関の仕組みが日本のそれとどう異なるのか、そこにおける研究者が、日本の大学における研究者の胸中に去来する「思惑」とどうズレるか、なぜズレるかも一望できる。それがしかも、DNAの二重ラセンと絡まって、どうノーベル賞に結びつき、あるいは、その発見に行きつきながら、それと知らずに埋もれていく研究者のいたことを発掘するように、書きとどめていく。そこにこの著者の、この研究分野における人々へのまなざしの慥かさを感じる。なぜか「動態的平衡」の説明に行きつく前に、すでに福岡伸一の所論の慥かさを確信している「わたし」を見いだしているという具合だ。

 と同時に、ポスドクという日本の研究者の不遇、研究システムの閉鎖性、あたら深く広い関心と興味をもっていたがためにポスドクという従属的立場にほぼ永続的におかれ続ける多数の優秀な研究者がいることを痛切に思う。かと思うと、アメリカにおいては、自らテクニシャンという研究助手的な位置に身を置きつづけ、まったく別の音楽世界でプロとして名を売っているひともいる。その自由さが、ノーベル賞ものの研究者ばかりが名を連ねる世界の物語の行間に挟まれて浮かんでくる。まるで、小説を読んでいるような自在さに舌を巻く。

 こうも言えようか。福岡伸一のこの物語の語り口こそが、「生命とは何か?」をまるごと提示してみせているとはいえまいか。もはや「動的平衡」の理論がどういうものかは、どうでもよくなっている私自身を感じながら、読みすすめているのだ。

2020年10月6日火曜日

わが身に問う「生命とは何か」

 今日は年1回の健康診断。山を歩く意欲はあるか、お酒が美味しいか、熟睡できているか、こうしてパソコンに向かってなにがしかのことを書きつける心もちのわだかまりを感じるか。これらの一つひとつが、私自身の日々の自己診断。それを外から、生理学的な側面から医療に診てもらおうというのが、今日の健康診断というわけだ。

 その都度、思う。わがことなのに、「生命(いのち)」について、何にも知らない、と。

 身体を動かしているとき、随伴している呼吸を意識すると、身のこなしがこわばったりしなやかになったりしていることが、よくわかる。こわばる身体が吐く息によってほぐされ、力が抜けていく心地よさを感じると、身と心とが切り離せないもの、そこにこそわが実存が明かされていると思う。「実存」というのは「生命(いのち)」のこと、「生命の現実形態」を指している。

 山を歩いていると、呼気と吸気とそのリズム、水と汗とその摂取の仕方、カロリーの摂取とエネルギーの消耗のことにも気遣う。過度の運動が、身に「わだかまり」をもたらし、それがなんであるかを感じとって対応していないと、力が抜けて歩けなくなったり、脚が攣ったり、それ以前に、バランスを崩したり、転倒してしまうことになる。ふだんと違う身の遣い方をすることによって、わが身の裡がどのように動いているかを感知する機能が作動するようだ。

 「生命とは何か」と問うことも、どの次元でその問いを発するか、どの切り口でその問いに応えるかによって、引きだされてくる言葉はさまざまになる。

 わが身の裡の動きを感知する機能とは、宇宙を観察するのに似ている。観察したことがらは、ことごとく宇宙の内側において感じとられたことである。にもかかわらず、宇宙の生成から四十数億年の流れをつかみ、銀河系がいくつくらいあるか、天の川銀河が宇宙の奈辺に位置するか、太陽系は天の川銀河のどこに位置しているかなどを描くとき、その視点は何処に仮構しているのであろうか。そう思うのと同じ「わだかまり」がわが身をのぞき込むときの「わたし」にも感じる。

 「どの次元でその問いを発するか、どの切り口でその問いに応えるか」が、じつは仮構点。仮にそこに身を置いていると想定して鳥瞰している。いわば、わが身は宇宙。その外側にたくさんの宇宙があり、それとのかかわりがわが身をつくっている。人間だけではない。ホモ・サピエンスだけでもない。地球上の生命誕生以来の積み重ねが、今この身に結晶し、なおかつ今も、崩れ解れてエネルギーを吸収・運搬し、次なる結晶へとかたちを為してゆく。その核心部を遺伝情報の受け渡しと限定すれば、DNAやRNAの「わがままな」継承になるであろうが、それが「生命(いのち)」と本質規定されると、あんた、何処をみてんのやと非難されることになる。実存が遺伝情報の継承だけで語られては堪らない。だから「動態的平衡」という「生命(いのち)」の概念が際立って目立つことになる。

 そう思って、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)を手に取った。意外な記述に、私の興味のポイントが引きずられて揺らぎ変わるのを感じる。この方は、まさに、生命の実存形態の発見過程を、まるごととりあげることによって、科学的には限定的な「生命」の起源や移ろいを、展開世界をふくめた「実存」として取り出して提示してみせる。

 まずはそこに感動していることをご報告するにとどめる。いずれ機会をみて、踏み込んでみたい。

                                            *

 いま、健康診断を受けて帰ってきた。検査結果は3週間後。とりあえず、悪いところはない。明日は、この先崩れる天気を前にした、十月上旬最後の晴の日。袈裟丸山へ登る。

2020年10月5日月曜日

世界への私的な馴染み方

 しばらく前、スマホがロックされてしまった。どう解除して良いかわからない。サービスセンターやサポートセンターへ問い合わせていろいろとやってもらったが、治らない。とうとう機器補償サービスへ送って、修理してもらったものを送り返してもらった。SIMカードの受け皿が壊れていたとの説明があり、スマホは「初期化」されていた。

 さてそれを起動してみると、「データを読み込みますか/初期化しますか」と聞いてくる。えっ、データが残ってるの? どこに? と思う。そこから先、どうしていいかわからない。やむなく、販売店に相談に行く。若い女の子が対応してくれたが、彼女は私のスマホに触ろうとはしない。こうやったら、ああしたらと口を添えて私の動きをみている。だがLINEのPWとなったところで、私がいくつか入れてみるが、動かない。「忘れたとき」とあるのをクリックして初めからやり直そうとするが、応答しない。女店員は、2階のカウンターへもっていけと言ってお手上げにした。

 2階にもっていく。「忘れたとき」のメールアドレスがパソコンのものだとわかると、家へ帰らないとできませんという。ははあ、暗証番号も何度かた試して失敗すると、スマホは30分とか、半日とか時間を置かないとロックされてしまったんだっけと、いつかどこかでやってしまった失敗を思い出す。持ち帰るが、トライできない。

 一昨日、近所にある家電店へ行って、そこのスマホ販売員に「この先、どう操作したらいいだろう」と訊ねる。パソコンではなく、このスマホのメールアドレスを「わすれたとき」に送信して、「そう、そこを開いて、これこれ、ここの数字を入力して・・・ 」と手順よく教えてくれる。見事に次の段階へすすむ。SIMカードにあったデータなのだろうか、古いLINEの相手先が保存されていたことがわかる。でも、ここ一年のは消えてしまっている。かかってきた/かけた電話番号もあるが、誰のものだかわからない。なにより、山の地図を読みこんだとき、「現在地点を読み込めません」と表示が出て、これがどうやっていいかわからない。スマホ販売員は私のスマホを手元に引き寄せ、何か操作をして「ここが節約モードになっていると、GPSを読み込めないんですよ」と言いながら、「精細モード」に切り替えると、山の地図がパッと表示された。見事な手際。でもねえ、そんなこと私には、思いつきもしない。

 これまで私が身につけてきたコトゴトは、見よう見まねでいろいろとやってみて、失敗すると少し戻って別のやり口にトライするというふうにやってきた。つまりそれが私流の身に馴染むやり方であったのかもしれない。ところがデジタル化がどんどん進むと、身に馴染まない手法が採用されていっていて、次のステップに進むときの手順(アルゴリズム)が霧の中に入ってしまうと言えそうだ。世界が私の「せかい」からどんどん遠ざかってしまう。当然、時代遅れになっている私は、世の片隅に身を置くしかなく、受け身的にしか世界に位置することができない。参ったねえ。

                                            *

 今日は長兄の7回忌。亡くなって満6年になる。でも、7回忌の法事は開かれない。むろん長兄の連れ合いや長男が執り行うものではあるが、コロナウィルス禍もあって、少し前に予定していたものが、揮発してしまった。兄弟は皆高齢者だから、ことに移動と密集を避けて自己防衛するほかない。「天の啓示」と受け止めて、わが部屋の祭壇にお水を上げ、お線香を点けた。わが部屋の祭壇には父親と母親と末弟と長兄の祈念誌や写真や著作物も置いてある。いつのまにか大勢になったなと、わが胸中のひとりひとりと言葉を交わすように、考えるともなく思っている。こちらの方の「せかい」が、離れていく世界よりも馴染を感じる。

 そうか、そういうふうにして私も、彼岸へ近づいて行っているのか。これも悪くない。

2020年10月3日土曜日

天晴の会津駒ケ岳

 会津駒ケ岳に登ってきた。2泊3日。何とも時間をゆったりと使った贅沢な山行。9/29(火)に現地登山口の檜枝岐村見通に入ってテントを張った。見通が「みづうり」と読むことを、地元の土産物売り場で知った。「ミヅーリ」とカタカナで書いていたから、アメリカのミズーリ州と縁でもあるのかと思ったほど、意外な読み方だ。この檜枝岐村も「桧枝岐」といれると、「検索」が反応(ヒット)しない。

 現地で午後3時に落ちあう。道路検索を掛けると、4時間55分と出る。だが昨年行ったときは、4時間で登山口に入った記憶があるから、午前10時ころに家を出た。涼しくなっている。ラッシュも過ぎて、のんびりと年寄りのgo-to。秋の交通安全週間とあって、高速道路も皆さんゆったりと走っている。那須塩原ICから一般道に入り、日光国立公園の北端を越える。道路は塩原の中心街を通らないでいいようにバイパスができている。冬に備えて、道路工事が行われている。片側通行が何ヶ所にもあったが、それも苦にならないくらい、順調に抜けた。会津西街道に入って「道の駅たじま」でお昼にしようと休憩をとる。そこで、同行のkw夫妻と出逢う。彼らも、お昼を採ろうと立ち寄っていた。かき揚げ蕎麦を食べた。「その混ぜご飯も美味しいよ」というオバサンの声につい買ってしまって、それは夕飯になった。

 キャンプ場は、国道のわきにあるのだが、カラマツの林の中。テント場の先には伊南川が流れ、その向こうは会津駒ケ岳につづく山体が迫り出してきている。道を挟んだ向こうにはアルザと名づけられたレストランが並び、その先に村営の温泉施設が午後だけ営業している。ひっそりとしていた。私たち以外に、後から2組のテントが入ったが、キャンプ場全体は、静かなたたずまいであった。さっそくトイレをチェックしたkwrさんはシャワートイレだと喜びの声をこぼす。水場もある。キャンプ場管理のオジサンが計算た料金は、車2台、人3人の二日間で、9000円。kwrさんは「安いんじゃないの?」とオジサンに言うが、笑顔で、「これも」と、温泉の入浴券を3人分くれた。後で分かるが、無料の入浴券であった。

 テントを張る。kwさんたちはもうひとつブルーシートをもってきて、食事宴会用に敷いて椅子とテーブルを据える。私もディレクターズチェアを手に入れてきて、鼎談がはじまる。kwmさんが選んだという会津の純米吟醸酒が美味しい。まだ午後2時。

 「こんな調子じゃ、たいへんだよ」と、お酒が美味しいと言っていたkwrさんが警戒をする。何しろ明日の山は、標高差1100m。行程は7時間半ほど。それを日帰りするわけだから、心配するのも無理はない。でも、3時間もかけて3人で、日本酒4合だから、つつましやかなものだ。何をしゃべったか覚えていないが、ふと気づくともう5時前。夕飯の準備にかかり、私は道の駅たじまで買った混ぜご飯に、ちょっと変わった味付けのレトルトカレーをかけて頂戴した。

 7時には寝袋に潜り込んでいた。深夜11時ころトイレに起きたとき、カラマツ林の合間から漏れ来る月明かりの明るさに驚き、見上げると十三夜の月が煌々と照り輝いていた。沢音がその明かりをちりばめるように響いている。

                                            *

 第二日目(9/30水)、目が覚めたのは3時48分。おおむねこの時間に起きようと考えていると、その頃に目が覚める。とはいえ、9時間近く横になっているのだから、ま、目が覚めて当然か。起きだしてトイレに行き、顔を洗い、朝食の準備にかかる。今日はテントをそのままにしておけるから、時間はかからない。生姜入りの甘酒と温かいインスタントの素麺。それに真空パックした卵のサンドイッチ。朝の空気が冷たくない。気温は7℃。こんなものか? ちょっと体感が狂っているのかもしれないと思う。

 5時半前に車1台で出発。まだ暗いうちから登山口へ向かう車が通る。会津駒ケ岳ばかりでなく、この先には御池という登山口もある。さらにその先には尾瀬沼へ向かう最短の沼山峠登山路もある。人気の登山エリアなのだ。滝沢登山口はすぐに分かった。林道に入り込んでくねくねと下の沢に沿って2kmほど登る。林道の空き地に車が止まっている。その一番上まで詰めてスペースに車を置く。すでに十何台かの車がある。人気の山なのだ。後から来た車の女性が「トイレありますか」と訊ねる。なかった。「青空トイレですね」と応じる。

 歩き始める。5時45分。足元はすでに明るい。すぐに急傾斜の階段を上って登山道に踏み込む。ここからしばらくは、急傾斜がつづく。「ゆっくりね」と先頭のkwrさんに声をかける。朝陽がシラカバの林を抜けて差し込む。オオカメノキが赤と黒の実をたわわにつけて、野鳥を歓迎しているみたいだ。ほぼ1時間以上の急登。その間に、後から登って来た登山者が追い越してゆく。遠慮する方もいるが、「若い人は先に行きなさい」と道を譲る。すぐに姿が見えなくなる。

 標高1650mほどの「水場」に着く。歩き始めてから1時間半。本当にkwrさんはコースタイム男だと思う。ベンチに眼鏡を忘れた人がいる。帰りに気づくだろうと、ベンチの目につくところに置き直す。涼しいが冷えない。いちばん山歩きにいい季節だ。ブナや巨大なダケカンバが目につく。

 ここから上は、ところどころに木の土留めが設えられて、階段のようになっている。雨で土が崩れ落ちないようにしている。黄色や赤に色を変えているカエデやオオカメノキ、ガマズミ、ウルシなどが目につくようになる。秋だ。木陰から見える東の方は、雲海が広がり、ところどころに帝釈山や田代山など、山の頂た姿を見せている。雲海の下は、会津から檜枝岐村に南下する国道沿いの町々があるはずだ。

 標高が2000mを越える辺りから木の背丈が低くなり、会津駒ケ岳の山体が緑の木々をまとって大きく広がっていくのが見える。ところどころに朱色が点在しているのは、ナナカマドだろうか。池塘のある手近の草付きは、すっかり色を変えて草モミジになっている。秋が深まる。駒の小屋が青空に浮かぶように姿を見せる。まるでスタジオ・ジブリの映画の一場面の絵のように感じられる。脇に盛り上がる駒ケ岳よりもランドマークのようだ。

 おや? テントがあるぞ、とkwrさん。近づいて分かるが、木道を補修する資材の運び上げたものであった。ヘリコプターが往来したのであろう。小屋に近づくと、大きなテントが張ってあり、電気を起こす発動機の音が聞こえる。脇の池にはビールを冷やしてある。その向こうに目をやると、十人ほどの若い人たちが木道をとりかえている。たしかに木道は、あちらこちらで傾き、崩れ、朽ち果ててとても足を乗せるようではなくなっている。

 「環境省かな?」とkwrさん。国交省じゃない、と私。駒の小屋下の特設テントの脇に「檜枝岐村施工工事」とあった。国の補助金は入っているのであろうが、冬前にこうした工事を終えてしまおうとするのは、たいへんな事だ。コロナの影響もあって、工事が遅れているのかもしれない。古い木道を取り除き、新しいのを設置して、その木道の上に滑り止めの金具を打ち付けている。それで思い出した。去年同じ時期に駒の小屋に泊まった私が、日の出を観ようと外へ出たとき、木道が凍りついていて、2度ほど転んだのだった。人気の山だから、こうして取替工事を急いでいるのであろう。

 小屋から15分ほど登ると会津駒ケ岳。山頂は背の高い木々に囲まれて見晴らしは良くない。だがしっかりとした山頂表示の柱が立てられ、古く朽ち果てそうな、山名表示板が西と東に向いて設置されている。那須連山、奥日光、谷川岳、武尊山、尾瀬の山々、平が岳や越後駒ケ岳など、登ったことのある山の名が記されている。「あちこち行っていて良かったねえ」と言葉を交わす。

 駒ケ岳の山頂から北西の方へ下る。ここも木の階段が設えられていて、補修されている。滑り止めもついているが、歩幅に合わなくて歩きにくい。眼下に中門岳への大きな山体が一望できる。草モミジに覆われ、ところどころの針葉樹の緑と相まって、箱庭の景観を観ているようだ。

 駒ケ岳を下りきったところの展望が開ける。尾瀬の燧岳がどっしりとした姿を間近に見せる。遠方に至仏山、景鶴山、平が岳、越後駒などの山が重なり合うように連なっている。振り返って駒ヶ岳の方を見ると、笹原が午前9時の陽ざしにキラキラと輝いてまぶしい。草付きと池塘を若干の上り下りをくり返してすすむと、大きな池があり、「中門岳 あたり一帯をこう呼ぶ」と名づけた大きな標柱がたっている。ベンチもあって、ここが山頂かと思ってしまうが、地理院地図だとその先に2060mの山頂が記されている。山頂にもいくつも池塘があり、広い平坦な草付きと周りを取り囲む背の低い針葉樹があり、東側が開けて木製のベンチが四つ。6人ほどの人がすでに座っている。東の方に那須の山々が見える。南の方には奥日光の女峰山、小真名子、大真名子山、太郎山と男体山、三つ岳も凸凹の山頂を並べてそれと分かり、その西に、以北最高峰の日光白根山の独特の山頂が際立つ。

 ここで20分ほどお昼をとる。帰りの道は逆光になるが、来るときとまた違った風に景色が見えるから、面白い。崩れかけた木道にバランスを取りながらkwrさんの歩みは順調だ。やってくる人がいる。登山口でトイレの在処を聞いた人も来ている。単独行が多いねと、kwrさん。女の人たちも、ずいぶんと多くなった。駒ケ岳の山体を巻いて駒の小屋へ向かう。霧が出てきた。木道工事をしている人たちが雲のかかりはじめた下にみえる。これもまた、絵になる。小屋下には、コースタイムより少し早く着いた。

 光の加減だろうが、下るにつれ、紅葉が目に付く。カメラに収める。後から下山する人が来ると、道を譲る。そうだ私たちは、「喜寿コースタイム検証チーム」だと思う。kwrさんというタイムキーパーを先頭にして、歩く。昭文社の地図などに記されたコースタイムが妥当かどうかチェックして歩いているようなものだ。1時間10分のコースタイムを、2~3分しかたがわないペースを維持している。今回は壊れたスマホが機能しないので、高度計だけが私の頼り。それにkwrさんの歩度が地点を明示してくれる。ま、それほどにルートはしっかりとしていて、危なげがないということだ。

 林道の降り立つ。13時10分。出発してから7時間25分。休憩時間をふくめて、おおむねコースタイム通り。お見事でした。

 キャンプ場に戻り、風呂へ行く。温泉は13時から17時までの営業。なんとももったいない。お客はほとんどいない。露天風呂に浸かってゆったりと身をほぐす。風呂を出てすぐ脇のレストラン&土産物屋に、生ビールがあるというので注文する。なんと15分近くもまたされた。生ビールを注文する人がいなかったため、機器の操作をどうやるか、手馴れた人がいなかったとか。そういえば車で来る人ばかりのこのレストランで、生ビールを飲む人がいないのは当然か。

 檜枝岐歌舞伎の解説本とかそば打ちの大きな木のボール(器)などを売っている。一つが2万円もするなど、なかなかの力作。栃の木のハチミツもあった。

 こうしてご機嫌になってキャンプ場に戻り、椅子とテーブルを出して宴会の準備。明日は何時に起きてもいいから今日はゆっくりできるとkwrさんもご機嫌。そうはいっても、夕方7時には日が暮れて、明日朝6時まで寝ても11時間もあるよとおしゃべりをしながら、白ワインを空ける。kwさんがおつまみをつくってくれる。そのままテーブルで夕食のパスタをつくり、テントに潜り込んだのは7時ころであった。

  驚くなかれ私は熟睡して、途中二度ほど目を覚ましはしたがトイレにもいかず、気が付くとテントが明るい。時計を見ると、朝6時少し前。冗談じゃなく、11時間も熟睡した。こうして疲れをとっているんだと、わがことながら感心した次第。このスタイルの山行は、癖になりそう。テント泊なら、あとは寒さをどう防ぐかだけだね。

 7時過ぎに出発して順調に帰途に就き、10時45分頃には帰宅していた。関東平野も雨ではなく、そこそこ涼しい。まったく、天晴の会津駒ケ岳であった。

2020年10月2日金曜日

何言ってんだか

 山から帰って来てみると、アメリカの大統領候補の討論会が無茶苦茶であったとTVも大はしゃぎしている。昨日(10/1)の朝日新聞の天声人語は、とぼけたことを言っている。


《討論というより殴り合いである。口直しに往年の大統領選の動画を探した。……理性的なやりとりにホッとする▼心配なのは「トランプ氏はこんなもの」という気持ちが「政治家なんてこんなもの」に変わっていくことだ。皆が討論の正常化を望むのではなく、討論そのものを軽蔑するようになることだ。米国民主主義の行方を世界が見ている》


 何をいまさら。トランプが4年前に登場したことから何も学んでいない。取り澄ました「理性的な討論」が、口先だけの知的な人たちの独占域だと蹴とばしたのが、トランプの登場ではなかったか。天声人語氏は、いまだに近代的知の領域の幻想に身をとどめて「政治」を眺めている。私たち庶民は、4年前に近代知の底が抜けたとみなした。「政治家なんてこんなもの」という認識は、ことにトランプを取り上げるまでもなく、安倍晋三もプーチンも習近平も皆「こんなもの」と思わせてくれている。

 新しく日本の宰相になった菅首相も、学術会議の会員に会議側推薦の会員候補を6人、任命しなかった。その理由も「説明しない」としている。まさしく権力の発動 というのが、こういうものであることを国民に知らしめているのだ。この次元では、香港に対する習近平の振る舞いと、なにひとつ変わらない。

 それを、さもこの先に起こることかのようにいうことによって、じつは、天声人語氏も、いまだ我が国の政治も、菅新宰相も、理知的に物事をすすめることができる同じテーブルについていると錯覚しているか、そうだと思いこもうとしている。それはしかし、自分を欺くことにしかならない。

 理知的に物事をすすめることができるステージを、どうやったら設えることができるか、そこから考えはじめなければならない。政治家がウソをつくのは、天下承知のこと。それが本質よということを知りながら、しかしそれでは日本の国の将来は明るくないよね、何とかしないといけないってところをどうやったら切り拓けるのか。そこを、マスメディアの大御所は、提示してみせなければならないと思う。それだけの影響力を持ってるんだから。

 本質を知るということと、それをそのまま発現させておいては、世の中はどうにもならないぞという予感とを、具体的に政治の世界に反映するには、どこから手を付けて世の気風を変えていくのか。何世代経ても変わらない人というものと、しかし、いつしか世は変わって、世の規範が移ろいゆくこととのどこに焦点を当てて、人々の心を動かしてゆくのか。

 天声人語氏のような「とぼけた口ぶり」で、果たしてどれだけの人が心を揺さぶられたであろうか。

 えっ? おまえが胡乱なのよって? どうして? 


 そりゃあ、ではどうするか、お前が提示してみろって(いつかのアベサンのように)言われても、できるわけがない。そういう立場にいたこともないし、今も立っていないし、ごまめどころか、ごみのような暮らしを世の片隅でしてきただけ。私が何かを言うなんて、口はばったいことこの上ない。でもね。野球はうまくなくても、プロ選手のプレーを見て批評はできるのよ。好き放題を言って、ごめんね。民主社会だもの、それくらい耳を傾けてよと、ぼやいているのでした。

2020年10月1日木曜日

秋を感じてきました

 一昨日から2泊3日で会津駒ケ岳に行ってきました。子細の山行記録は明日以降に記しますが、恵まれた晴天の中、檜枝岐村のキャンプ場にテントを張り、会津駒ケ岳に登り、中門岳まで足を延ばし、下山して後にさらにもう1泊してくるという贅沢な山行。

 標高2000メートルを超えるとは草モミジが広がっていました。落葉広葉樹の緑が覆う山腹のところどころに、黄色く色を変えた葉が陽ざしに生えて輝いていました。緑の合間に、ハッとするような赤色の葉が背丈を伸ばして陽の光を受けています。朱い木の実と黒く変色した木の実が一緒になって、たわわにぶら下がっているのも、圧巻でした。

 最低気温は7℃。今朝のテントの外は、11℃。まさに秋です。朝のひんやりが沢音とともに、秋を感じさせます。

 道の駅には栗の袋詰めが並べてありました。昨年あった新蕎麦の殻付き袋詰め20kgは「今年は雨がつづいて、収穫が始まったばかり。店頭に並ぶのは10月の半ば。また来てね」と言われました。キャンプ場傍のアルザという温泉入り口前の駐車場には山栗の毬がいくつも落ちていました。ほとんどの中身は持ち去られた後でしたが、それでも実が落ちていて、それを拾って持ち帰る人がいました。

 浦和に近づいて気温が22℃になっていることに気づきました。出発する日は25℃でしたから、こちらも10月の装いに切り替わっているのですね。

 帰宅してみると、山梨の友人から「令和2年の甲州ぶどう」が送られてきていました。


《勝沼の天候ッ茂例年にも増して異常でした。とくに下記の長雨で消毒ができず、葡萄には、晩腐病等の病気が蔓延しました。近所には、収穫を放棄した畑があり、子供のころから葡萄畑を観てきましたが、こんな光景は初めてです。》


 「わが夫婦は、痛い腰をさすりながらも、楽しく畑仕事を続けられており、これが今年の大きな成果です。」と言葉が添えられ、まだ緑の色をくっきりと遺したぶどうの葉が添えられていました。

 金融関係の仕事を退職後、親の持っていた畑を継ぐようにして葡萄栽培に携わり、売るというのではなく、大地と天候という大自然と格闘しながら、葡萄という生き物を育てているこの方の姿には、頭が下がります。わが身を省みると、すっかり年寄り気分で、山やキャンプを愉しむという消費的な過ごし方しかしていません。お恥ずかしい限り。

 美味しい葡萄を頂戴しながら、誰にともなく、お赦しを乞う気持ちになっていました。