福岡伸一の「動的平衡」の本題に入る前に、もう一つ面白い指摘があったことに触れておこう。
彼の著書『生物と無生物のあいだ』で、分子や原子という構成単位はこんなに小さいのに、どうして生物は、こんなにも大きい(必要がある)のかと疑問を持ったことから探究がはじまっている。さらにまた、脊椎動物はおおむね左右対称の形になっているが、それはどうしてなのだろうと、疑問を呈する。
面白い。ほとんど子どものような疑問や着想の延長上に研究がなされている(と記述がすすむ)ことに、私は感心する。つまり私自身の(すっかり忘れていた、あるいは気が付きもしなかったが、言われてみればなるほどと思うような)内発的な疑問に、接着するからである。
DNAが遺伝的形質を受け継ぐ過程に物理的制約がかかっていると説明する媒介として、ブラウン運動が取り出されている。この説明に意外な指摘があった。ブラウン運動というのは分子や原子の動きは秩序性を持っておらず、ある空間の中で勝手がってに自在に動いているとする物理法則だが、例えば、水の中に色のついた溶液を垂らすと、ブラウン運動にしたがって全体に広がり、やがて均等な濃さに薄まる。福岡伸一はこの薄まっていく過程のなかに、濃い方から薄い方へ広まっていくだけでなく、逆に、薄い方から濃い方へ動く粒子もあることに着目する。つまりブラウン運動の無秩序が成立するなら、平均的な動きとは逆の動きをする粒子が必ずあることに注目して、その割合を取り出す。
要約すると、次のようになる。
《その(逆の方向へ動く)頻度は「ルートnの法則」と呼ばれ、全体の個数の平方根数と、統計的にみている。つまり、もし100個の粒子が動いているとすると、そのうちの10個は逆方向に動いている。もしその個数が100万個あるならば、1000個が逆の方向へ動いている。生命体ではもっとたくさんの原子と分子が構成しているから、逆方向へ動くものの割合は、下がる。逆に、少ない原子や分子で構成されているものは、逆方向への割合が多くなって、すぐにトラブルなどに巻き込まれて種族の維持ができなくなるともいえる。》
この指摘をオモシロイと私がいうのは、原子や分子や粒子の動きと同様に、社会の中の人々の個体の動きにもまた、「ルートnの法則」が働いていると考えると、寛容・寛大な心もちを持つことができるからだ。世の中の人の動きは、必ずしも自由社会というわけでなくとも、全体としては「ルートnの法則」が作用している。むろん社会体制や時代の気風が物理的制約として立ちはだかるから、「逆の方向への動き」のかたちは、さまざまに変わるであろうが、少なからず社会的風潮の平均ばかりが存在しているわけではない。1億人の人がいれば1万人は「逆方向への動き」をしていても不思議ではないということになる。ある研究の紹介を思い出した。
以前、数学研究者・森田真生の指摘を紹介したことがある(「数学する身体」『新潮』2013年9月号)。「進化電子工学」の研究の紹介。人工知能をつかった人間ロボットのチップを制作する過程で、100個の論理ブロックを用意して作業をさせたところ、そのうち37個を用いてチップを制作した。ところが、37個しか使われない論理ブロックのうち5つは、他の論理ブロックと一切つながっていない。ところがその5つのどれを取り除いても、回路は動かなくなってしまった。それを森田真生は、人工知能がアナログの情報伝達経路を進化的に獲得してしまっていると解読している。
つまり、「ルートnの法則」を算入することによって、「アナログの伝達経路」を担保する「不可思議」の思考回路を、身の裡にとり込むことを意味する。論理ブロックの「機能している」と見る目自体に、じつは、人が現在獲得しているモノゴトへの「理解の枠組みの縛り」が入っている。機能していない論理ブロックをバグとみている限り、取り込まれている「5つの論理ブロック」がなぜ、どのように作用しているのか、わからない。それよりは、「不可思議」のままに棚上げしておくことの方が、「世界」を全体として視界に収め続けるのに、有効に作用する。
社会的事象についていえば、世の秩序に反することを、ついつい排除して仕舞おうとする習性を、私たちはもっている。だが、それは、世の中に対する「理解の枠組みの縛り」にとらわれているからなのだ。私たちが忌避することに、じつは「不可思議」のことがいっぱい入っているのではないかと思うのだ。
こうした視点を波及的に醸し出すだけでも、「動態的平衡」は面白いと言わねばならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿