2020年10月9日金曜日

見てくれが良い――エリートは誤らない

 瀬戸内寂聴が「アベサンは見てくれが良かったからね」と言っていたと、カミサンが言う。どういう文脈でその言葉がつかわれたのかわからないが、見てくれの良さが7年8カ月という長期政権を支えたのだとすると、日本の有権者の国民性もその程度のものと言われているよな気もする。だが、アベサン自身は見てくれの良さと意識していなかったであろう。彼自身の才覚といつ知らず思い込み、それが彼の人格の骨格になるほど、文字通り骨の髄から自らに自信を持っていたと(彼の立ち居振る舞いを観ていて)私は思う。

 それと同様に、去年(2019年)4月に池袋で母子二人を轢き殺した自動車事故の運転当事者の裁判が始まり、新聞などにも彼の供述が公表されるようになったので思い当たる。工業技術院のエライサンを務めていたことが、事故後の逮捕の見送りなどにも現れたのじゃないかと世評に取り沙汰され、「上級国民」という言葉を生み出した事故車運転者は、「車に異常」として無罪を主張したと、紙面は批判的である。「反省してない」と批判するが、それとは別に、私はこの人はアベサンと同じだと思った。上級国民と呼ばれるエリートの典型を示しているからだ。

 状況証拠は、「車に異常」を示してはいない。ブレーキを踏んだ形跡はない。アクセルを踏み続けた形跡がある。動転してハンドルのコントロールが利かなくなっていたことが、状況の展開から示されている。にもかかわらずなぜ彼は、「車に異常があった」と言い張るのか。事故の結果、二人の母子を殺害したことと、車のコントロールが利かなかったこととは次元の異なるモンダイだからである。事故の原因は、技術的なモンダイ、事故の結果は偶然性のモンダイなのだ。その分節化が、事故総体をモンダイにしているときにも、なぜ(事故原因当事者の胸中において)分けられたままなのか。その結節点が、彼の「せかい」においては、毅然と分けられたままで、何処にも接合点をもたないからだ。

 接合点とは何か。普通私たちがこの事態の当事者であった場合、「私はブレーキを踏んだが、車が暴走した」と思っても、アクセルとブレーキを踏み間違ったんじゃないかと指摘されたら、ひょっとしたらそうかもしれないと(自分自身の思い込みに対する)反省が入り込む。そこには、自分が間違うことなんてしょっちゅうあるじゃないかと、日ごろ感じて生きているからである。それはもう人格と言っていいかもしれないくらい、身に沁みて世に恥をさらし、臍を噛みつつ切歯扼腕してきた己の貧しさであり、卑小さであったと反省しているからだ。

 だがエリートは、こうした反省をもたない。いつも自分の外にモンダイが生じ、外に原因があり、自分はその原因を究明・審判する責任当事者であり、いわばモンダイに対して「神」のような立場をとってきた。エリートは誤ってはならないし、誤らないのである。それが彼の人格をつくり、彼を取り巻く関係を構成し、「上級国民」の待遇をもたらしてきたのであった。審判者は、したがって、自らを省みるポイントをどこにも見出すことができないのである。

 まして彼は、工業技術院の院長という車に関しては一家言ある立場を生きてきた方だ。まさに自家薬籠中のモンダイ事案に、人生を掛けて培ってきた人格が総動員されていても、不思議はない。しかもそれが、彼だけの振る舞いではなく、エリートを上級国民として接遇する警察や検察の「かんけい」も動員されていたことが、今回の動きでわかる。もしこの当事者が中級国民か下級国民ならば、警察官が「何バカなことを言ってんだよ。アクセルとブレーキを踏み間違えたんだろ! 耄碌してたんだよ、お前は」と決めつけられ、調書がつくられておしまいだからである。それでも否認すれば、もうあたりまえのように逮捕拘束され、自供するまで釈放されないってことは、去年4月以降の交通事故を起した人々の処遇をみれば、一目瞭然である。

 つまりここには、「上級国民/エリート」という「見てくれがいい」ことに循循としたがう社会的風潮がしっかりと流れている。そこがまさに、モンダイなのだ。

 それを、「(二人も死亡しているのに)反省していない」という(マスメディアのとりあげる)次元で、取り扱っていいのか。技術的な原因究明に、人間要素を組み込んで、総合的に判断していく回路をつくりあげねばならないのではないか。「見てくれがいい」ことで世の中が通る。それが世の風潮ならば、それをもう一つ深めて、より人間要素を組み込むにふさわしい規範の回路を再構成する視線が、私たちの暮らしのなかに組み立てられなければならないのではないか。

 この事故当事者のことだけにかまけて、彼を非難して留飲を下げればいいわけではなかろう。

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