白砂山と野反湖西岸縦走の3日間を終え、ひとつ気になったことがあった。
kwrさんの歩き方を指して私は、コースタイム男と呼んでいる。彼自身、事前に私の指定したルートを昭文社の地図などで確認し、出発点から終着点までのポイントごとのコースタイムを書きこみ、何時ころにどこを通過するかメモをつくって、それを参照し、ポイントごとにそれに書きこみをしている。精確には彼のメモに通過時刻などは書きこまれている。私はメモを取らないでカメラに記録された時刻をみて、大体のところを記しているから、大雑把だ。
山と渓谷社の雑誌やガイドブック、目にした本や雑誌のコース案内、昭文社の地図などのコースタイムは、みているとだいぶ変わってきている。昔のガイドブックなどは、結構きついコースタイムになっている。「休憩時間も含めていません」とわざわざ記載しているものもある。昔のコースタイムに較べて最近の地図やガイドブックの方が、いくぶん余裕のある時間を記しているようにも思う。山を歩く人のなかに高齢者が多くなったからなのだろうか。裏の事情は、知らない。
自分の体力の衰えをみていく参照点として、コースタイムを考えているから、コースタイムに合わせて歩くことを心がけようとは思っていない。たぶん同行することの多くなったkwrさんも、そうは考えていないと思う。だが彼の、自然のペースがほぼコースタイムなのだ。
白砂山の時も、7時間55分のコースタイムのところを全行動時間8時間45分で歩いている。山頂で(厳密にいうと)43分の長い休憩をとった。それを差し引くと、歩いている時間は8時間7分。8時間何がし歩いて7分しか違わないのは、たいしたものだ。コースタイム男と異名をとっても不思議ではあるまい。
このところいつも、kwrさんに先頭を譲っている。彼も先頭で歩いたほうがマイペースを保てていいというから、私もそれに従っている。そして彼のペースがどうも、長時間歩く時の私の身にうまくマッチしていると感じる。単独行で山に入ると、私はついつい足が速くなる。7時間も歩くと草臥れてきて、ペースが落ちる。抑え気味に歩くのがなかなか身に付かない。ところがkwrペースについていくと、草臥れを知らない。まだいくらでも歩けるよといいたくらいになる。そして、それに甘えてきた。
白砂山へいったときも、kwrさんはいつものペースで歩いていた。だが彼が、山頂直下の急登を上りながら一息ついたとき、ああこれは、よほど草臥れてるなと思った。荷を降ろし、水を飲む。下ろしたザックが斜面を転がり落ちそうになる。慌てて止める。雨カバーが外れているが、直そうとしない。カバーが外れたまま担いで歩きだそうとするから、止めて、カバーを直してあげた。疲れて気が廻らないんだよと口にするから、意識は届いている。身が動かないのだ。
私は雪山でよくそういう経験をして、若い人に助けてもらったことがある。夜ビバークしたテントに雪が降り積もる。放っておくとテントがつぶれるから、夜中に起きて雪掻きをする。それをしなければならないとわかっていても、身体を動かそうという気持ちにならない。同行していた若い人が何度も起きだして雪かきをしているのを私は、「すまないねえ」と言いながら、夢うつつであった。
kwmさんも、kwrさんのペースに黙々とついていくのを自分に課している。もともとkwmさんの方が山歩きを先行していて達者であった。彼女に誘われるようにして山に足を運び始めたkwrさんだ。ただ何年か過ぎて、彼の方に筋肉がついてくると、歩き方にそれほどの差が出なくなる。そうなると、あとは体力の差。内臓の強さや睡眠のとり具合とか、たぶん水の摂取や汗の掻き方、ペース配分の仕方までの違いが、長い山行に現れてくる。お昼が喉を通らないというkwmさんは、胃が弱点。それに比してよくお腹が空いたと口にするkwrさんは胃が丈夫だ。そういう違いが、白砂山の山頂で出てきた。
3日目もkwrさんは、「リハビリ登山だ」とはじめは言っていたが、エビ山を下るときには、「これを登るのは大変だなあ」と口にする。愚痴が出るほどの傾斜ではない(と私は感じている)。前日の白砂山の疲れが出てきているのだ。それが次の弁天山への(これもたいしたことのない)上りですっかり出尽くして、山頂で座り込んでしまった。珍しいことだ。
つまりお二人とも、私に付き合っていて口にはしないが、体力のリミットぎりぎりで歩いているのであろうと思う。もともと私は、リミットに近いところまで体力を振り絞る歩き方を好ましいと考えている。じっさいには体力の8割くらいを常時引き出すようにし、ときどき、リミットを感じるほどの歩き方をしていると、高齢にともなう体力の衰えを味わわないで済むと思っている。これ以外に、歳をとっても劣化しない方法はないのではないか。
そういう意味で、お二人の歩き方を私は、好ましく思う。たぶんそれが私にとっては、リミットの8割程度に相当していて、ときどきkwrさんの草臥れ具合に気づいて、そうかこの辺りがリミットなんだと考えるともなく思っているという次第だ。
逆にいうと、まだこの程度の山行は、kw夫妻とともにできるということでもある。このさき、秋が深まり、冬を迎えるとき、テントでどのように山へ入るか。寒いのはイヤだというだけでなく、寝袋もたぶん三季用をつかっているだろうから、最低気温が0度を下回ると、とてもテント泊はできなくなる。いや、最低気温が一桁でも、参ってしまうことは考えられる。つまり、山小屋も無理。宿に泊まるか、日帰りとするか。スノーシューも手に入れて歩こうという気はあるようだから、どうしたもんだろうと思案している。
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とは言え、「1週間もすれば疲れが取れて、次は何処へ行こうと山のことを考えている」とkwrさんは言うから、山が面白くなり始めている。加えて、翌日には筋肉痛というから、もう身体は回復に向かっているのだ。私には、それがない。疲れがそのまんま身に沁みこんで、歯の傷みとか肩の化石化とか気管支の咳とかに現れてくる。私に較べるとkwrさんは、まだ身体が若いのかもしれない。
歳をとっても山を歩けるというのは、それだけでもありがたい。リミットを感知したら、そのギリギリへの挑戦を続けながら、でも、危険は避けて身を守らなくてはならない。
さて、どうするか。家にいても、山を歩いているような気がしてくる。
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