2020年10月10日土曜日

訃報

 昨夜、神戸から知らせがあった。48年半前に知り合って以来これまで、お付き合いしてきたNさんが亡くなったという奥さまからの知らせ。昭和7年の生まれだったから、88歳(誕生日前なら87歳)か。10月4日、肺炎とのこと。

 コロナか? と思ったが、そうではなかったという。家内で転倒して神鋼記念病院に入院したときPCR検査を行って、結果は陰性であった。

 生前の希望もあり「献体」をした。亡くなって後、ご遺体は神戸大学に送られ、葬儀も遺言に沿って執り行わない。奥さまの妹さんがお出でになっていろいろと手続きや整理をしてくれている。明日(10/10)が初七日。ひと段落したのでお知らせをしたと、静かに響く電話の声が悲しみを湛え、それを抑えて聞こえる。

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 Nさんは、憂き世に身を置きながら、浮世に淫せず、あたかも竹林の七賢というのはこうではなかったかと思わせる清貧の読書人であった。その人柄は鷹揚にして寛大・寛容。星占い、パチンコの攻略法から、職場の愚痴やぼやき。記憶に残るのは、長く共産党の党員であった人が70年代半ばのソビエト共産党の非道が理解できないと愚痴をこぼしたとき、プラハの春を例示して「今ごろ何言ってのよ」と軽くいなしていた。かの党員は、それで離党したのではなかったか。いろんな傾きをもった人たちを受け容れ、相手に応じて話題と言葉を繰り出した。長屋の御隠居のような人望を得ていた。

 当然私には私向きの顔をなさっていたのであろうが、フランス哲学に造詣が深く、フーコーの『言葉と物』を譲り受け、ルネ・ジラールを紹介してもらったのも、彼からであった。

 知り合いの絵描きがフランスへ旅をするとき、Nさんに手紙をフランス語で書いてもらったことを、帰国後に話していたことを思い出す。それをフランス人に手渡したとき、彼の国の人が「これはだれが書いたんだ? こんな見事な文章はフランス人だって、書くひとはそういない」と嘆声込めて驚いていたという。さすが東大の仏文科を卒業しただけのことはあると、下世話な言葉を交わしたことを憶えている。

 あるいは、いつ頃であったか、「島尾敏夫論」を書いて文藝賞に応募したこともあったと、その文藝賞を審査していた私の知り合いから聞いたことがある。いかにも島尾敏夫が繊細な人の心もちへ分け入るのを、綿密子細に読み取っていく感性の持ち主であったと思う。

 じつは彼に出会うまでの遍歴を聞いたことがない。彼自身が語らぬものを聞き出すことを遠慮したというのが私の内心であるが、彼自身は自らのことを語る文脈を、人とのかかわりにおいてもたなかったのではなかろうか。私と出逢う前、つまり40歳位までに、世の中と人のかかわりの酷薄な底を観てきたのではないかと思わせる世界への見切り方を感じたことがあった。

 驚いたのは彼のモノゴトとのかかわりへの見極めの速さ。距離の取り方の判断が敏速に行われ、ほとんど仕事に関することも「用がない」と始末してしまう素早さだった。私はどちらかというと、かかわりを引きずる。出逢ったものが、その後の自分とどう関係するかわからないことが多く、ひょっとしたらという迷いがいつもついて廻ったから、モノゴトも出来事も、その記録書類も参考資料も、始末することができなかった。今でもそうだ。ぐずぐずと手元において、何年も目にしないうちに積み重なって、いずれゴミとして処理されてしまう羽目になる。まあ、今の自分の脳みその中と同じなのだが、きれいさっぱりと見極めをつけて捨てることができない。Nさんの、そうしたことに関する振る舞いは、人生の何が大事で、何を大切にするということが、ほんとうにおつも、きれいさっぱりと整理がついているように思えた。そこに至る彼に人生の「見極め」に、底知れぬ(彼の経験の)奥深さを感じもしたのであった。

 三十数年以上前、彼は50歳代の半ばで仕事を辞めた。何があったのか、しかとは聞いていないが、両親の面倒を見る必要が生じたように、私は思いこんでいる。父親が裁判官で各地を転々としたこと、彼が仕事を辞めて実家のある宝塚に移り住んだころも、父親は神戸の「(弁護士)事務所(?)」へ時々出入りしているような話を聞いた覚えがあるから、ずいぶんな長寿であったに違いない。また父親の死後、母親が認知症になり、「人の生きていること自体が悲惨と思えるような様子」と伺ったこともある。

 ご両親の没後、Nさん夫婦は六甲山の稜線にある別荘地の管理人を兼ねて移り住み、人気のない閑散とした森の中の何階建てかの住宅の一角で、鳥を相手に過ごす日々を送った。私も何度か訪ねたことがある。いつであったか年末ごろ、一晩泊まってお喋りをした翌朝の一面の雪と寒さに驚いたことがある。

 寒い六甲山上を離れて十数年前、神戸に移り、安住の地としたのであった。そこにも3度ほど訪ねてお喋りをしたのであったが、3年ほど前、「もう喋っていることもできないくらい調子が悪い」と、訪問を断られたこともあった。今年の6月、近況報告代わりに私の小冊子をお送りしたとき、電話口で奥さまが、受け取ったとお話になったあと「今ここにいるのですが、お話をする状態ではありませんので」と仰っていて、1月の腓骨骨折が、まだ直っていないのだろうかと案じていたのでした。

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 訃報を受け、お悔やみの手紙を書こうとして気づいたのであるが、Nさんの奥様の名前を知らない。いつ訪ねても、たいてい傍らにいて話を聞きながら、あれこれ面倒を見てくれた奥さまは、若いころに空手やヨガに精通し、指圧師の資格を取って、ときどき施療を施していた。中学校の教師であった私の友人の一人がメンタルに落ち込んでいたとき、彼女に相談に乗ってもらうよう紹介し、彼女にあったのちその友人が大宮で空手教室へ通うようになったと聞いたこともある。

 いつか訪ねてお線香でもと思ったが、「献体」から戻ってくるのがどういうかたちなのか、聞き漏らしてしまった。また戻ってくる時期に2年ほどかかると聞いて、はて、いつ頃どうやって訪ねていっていいものやら分からなくなっている。

 でも、逝去を知らせてもらったことで、今日一日、彼との日々に思いを巡らす機会を得た。私のなかに記していったNさんの記憶がまるで彼からの手紙を繙くかのように、今取り出して読み返しているのです。

 ご冥福を祈ります。合掌。

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