2020年11月30日月曜日

天罰をどう呼び戻すか

 2020/11/17の本欄で、浅田次郎『マンチュリアン・リポートA MANCHURIAN REPORT』(講談社、2010年)を取り上げた。そのなかで、物語の分岐点としても取り上げられている万里の長城を舞台とした物語、浅田次郎『高く長い壁』(角川書店、2018年)を読んだ。前著で不完全燃焼しているこの作家自身の、日本軍の中国侵略への批判を少し燃焼させたのが後著、と私は読みとった。

『マンチュリアン・リポート』は天皇の密命を受けた将校が身をやつして張作霖暗殺の経緯を調べ午前に報告するという筋立てであった。当然視界は大局を見つめるようになり、調査報告も統治者の目線に絞られ、関東軍の動きも上層部の怪しげな蠢きを浮き彫りにするように話はすすんだ。だが、その大局を辿る著者の(現地調査の)視線は、軍内部のヒエラルヒーからもこぼれ落ちる「倫理性」に目が止まり、軍の大局視線からは大きく外れる現地住民の暮らしと憤懣に気持ちを寄せないではいられない。その思いを、南は南京後略、北は満州の鎮圧に傾ける軍事戦略のはざまで取り残される万里の長城付近の駐屯軍に起こる「事件」、小状況にことよせてミステリ仕立てにしたのが、『高く長い壁』である。

 大局と小状況を対比して考えてみると、目下のコロナウィルスに対する政府と東京都の齟齬と確執にも、思いが及ぶ。経済の衰微を大局と呼んでいいかどうかは議論もあろうが、政府が経済状況を勘案しているのに対して、東京都はコロナウィルスの広がりをみている。それを小状況とよぶのもまた、異論がないわけではなかろうが、小状況は東京都がよくつかんでいる。しかし、大局をみている(と考えている)政府は、小状況の権限を認めないで、末端まで支配が行き届くことと思っているから、go-toトラベル開始のときに、東京都を除外するという決定をしてしまった。ところが今になって、小状況をつかんでいる東京都が要請すれば受けると「責任を都に押し付けるような姿勢に転じた。それを都知事は遺恨をもって素知らぬ顔を続ける。政府は、go-toトラベル開始時のスタンスを変えたと表明すれば片づくことなのだが、メンツにこだわる現政権は、下駄を都に預けたまま、ワシャ知らんよという。こんなことをしていたのでは、都民は堪らないねといいたいが、もともと自助・自己責任で自己防衛しなさいというのが政府の基本姿勢なのだから、国民の方は、政府の無策には慣れている。こんな時にもしあなたがミステリ作家であれば、小状況のどのような事件を媒介にして、大局の無茶苦茶な無頓着で無策な様子を炙り出すか。そんな心もちで読むと、なかなかこれも、「高く長い壁」であることが読み取れよう。

 つまり、八百万の神をなんとなく信奉している庶民目線でいうと、政府がワシャ知らんよという顔をするのに対して、わしらも知らんもんねと、応じている。それが現実態。もし政府が、シモジモは金銭に触れることとなると素直に動くと金をちらつかせて庶民の琴線を揺さぶると、美味しい所だけ頂こうかなと元は己の納めた税金であることを忘れて得をした気になる。でも、それ以外のやりとりは、バカだなあ奴らはと白けてみている。私は、これはこれで、「高く長い壁」を掘り崩していく手立てになっていると思う。むろん長年かかるであろう。あるいは、「危機」を醸成して、わしらも知らんもんねという心持を保てないほど(為政者が)揺さぶってくることも経験上知らないわけではないから、用心はしている。だが、利用できることは利用する。でも利用されるのはまっぴらごめんと、距離を置いて眺めている。

 せいぜい、浅田次郎のようにミステリを仕組んで、「高く長い壁」に乗じて無策を続ける為政者たちに天罰が下ってくれないかと、祈っているのである。

2020年11月29日日曜日

コロナウィルス禍の思わぬ贈り物

  コロナウィルスのせいで、「ささらほうさら」の会合が今年2月以来、6月に1回開かれただけで、ずうっとお休みです。来月も予定しいたのに、コロナラッシュでまた休業。結局来年の3月までお休みすることになっています。

 言うまでもありませんが、休業補償はありません。ま、金銭に換算できる損失が有るわけじゃありません。でも、琴線に関わる「損失」を法的言語にして換算するのなら、どうなるか。言葉になりませんが、今の政府に、そういうことに関する補償能力があるとは考えられませんからね。当然申請しません。

 さてこの、ブログスペースの提供者から「1年前の記事を読んで感想を書いてください」というメールが送られてきます。去年の今頃何を考えていたかと感慨深く目を通しています。ちょうど去年(2019年)の11月の「ささらほうさら」の講師はmsokさん。この方のエクリチュールに触れたブログ記事(2019/11/28)「茫茫たる藝藝(4)あそびをせんとやうまれけむ」は、お前さんなんでこんなブログを日々更新して書いているの? と自問自答するのに似た、思いを綴っています。

 じつは、「ささらほうさら」がお休みになってからも毎月、私は「ささらほうさら・無冠」を作製して関係の方々に送っています。それに対する返信ハガキが、律義に毎回、msokさんから送られてくるのです。ま、お互い、近況報告のようなものですが、それは読み捨てるには惜しいほど「エクリチュールの遊び」に溢れています。コロナウィルス禍がもたらした思わぬ贈り物です。

 1年前のブログ記事に紹介したmsokさんの作文術、自称「枡埋め」はこう記しています。

 

《貧乏性ゆえか、いや実際幼少のころから貧乏でしたが、その所為もあって原稿用紙に余白があると何かひどく勿体なく思え、できることなら折角の四百もの桝目の凡てを埋めてやりたいと思うほどにその性向が勝っているのであります。》


 それを象徴するような彼からの葉書は、小さな文字でびっしりと埋められています。葉書裏面だけでなく、表面も住所宛名書きを上の方へググっと押しやって2/3を細かい文字で埋め尽くしています。一番多かったときは、400字詰め原稿用紙に換算すると4枚が収まっていたほどです。

 かつて、表面の半分までは埋めてもいいが、それ以上はダメと「通信法」か何かにあるとかないとか耳にしたことがあります。それでも日本郵便が配達してくれるのは、msokさんの娘さんがお仕事でJPに関係していることへの忖度でしょうか。まさかね。

 その便りが月一回届きます。それが楽しみで、私もまた、「ささらほうさら・無冠」を毎月書き記し、msokさんに送り届ける生活習慣病にどっぷりと浸っているわけです。もちろん、「ご返事無用」とときどき記すことを忘れていません。親しい中にも遠慮ありって言うではありませんか。msokさんの肺の持病が、このコロナウィルス禍で傷めつけられているのではないかと思いますから、無理はしないようにと気遣っているのです。その程度の分別は、お互いが後期高齢者ですから、身に付いています。暑い夏の最中、彼が熱中症にかかって点滴を受けたことも、この「枡埋め便り」によって知ることとなりました。でも、葉書が来るのを心待ちにしていないわけではありません。「元気だよ」という印です。

 ブログ記事も、考えてみれば、ひとつの「便り」です。目を通してくれる方が、あの方とあの方と・・と思い浮かべるのは、ちょっとした気力の持続につながります。よく人間関係論者が「褒めるといい」と関係術を言い立てますが、実は褒めなくてもいいのです。良いとか悪いとかはどちらでもよく、ただ、目を通してくれているという感触があれば、違いなんてどうでもいいのです。

 ブログ記事を書くような自問自答というのは、人の思索思考の本質であって、それ自体、褒めてくれなくても、その文章の存在がありましたよ、目を通しましたよと確信できる反応さえあれば、書き手の思いは半ば達成されています。ほかの方がそれに賛意を表明するか、批判をするかは、ほかの方のモンダイ。つまり、言説とか表現というのは、表明されたときに記述者の手を離れ、一人歩きする。その独り歩きがはじまった言説を、記述者も読者として読み取ればいいのです。

 自問自答というのは、言葉自体がある種の同義反復であるように、論理も表現もレトリックも、トートロジーです。繰り返しなのですね。ですから、誰かが書いたものを誰かが読むというのは、どう読んだかを問われない絶対性を持っています。言語の絶対性といってもいいほどの孤立性を有しているのです。その「意味の混沌の大海」に身を投げる行為が表現です。

 ただ大海へ投げた言葉の瓶詰が拾われて読まれているよということを知るのは、ある種の喜びにつながります。それが、msokさんの葉書なのです。

2020年11月28日土曜日

撤退戦を戦うトランプ

  大統領選で敗れたトランプが、籠城戦をするのかと懸念されていましたが、どうも、撤退戦に入ったようですね。12月の各州からの選挙人選出が「投票結果」の通りだったら、城を明け渡すと関係部署が明け渡しの準備に入ったとバイデン側に通告しました。トランプ本人は、あくまでも「不正選挙」を訴えてぎりぎりまで頑張ると気勢を張っていますが、ま、それは敗軍の将のつね、殿を務めるのが誰かはわかりませんが、このまま突き進むと籠城戦しか残らなくなり、それは討ち死にしか道が残されないと、彼の頭も理解したのでしょうね。

 あるいは、前代未聞の票を獲得したトランプを担ぐの人たちが、4年後を目指せと視野を広げたのかもしれません。つまりまだまだトランプ人気は、侮れないということです。

 トランプ人気が何を意味しているのか、相変わらず考えておかねばならないと思っています。ひとつリンクするのは、トランプの登場は、かつてのドイツにおけるナチスの登場と同じ質のものではないかということです。ナチスも、ワイマール共和国の「最も民主的な体制」のもとに誕生しました。第一次大戦後にドイツが背負うことになった過酷な負債に苦しむドイツ国民にとって、憤懣のはけ口は債権の行使を急ぐフランスなどの近隣諸国でした。そう言えばヒトラーは、優秀なゲルマン民族を旗印に掲げました。ちょうと都合のよい標的としてユダヤ人を見つけて槍玉にあげたのも、トランプの見つけた標的と同じですね。対立候補クリントンであったり、イスラエルに敵対するイランやテロリストであったり、果ては中国やコロナウィルスにまで、次から次へと標的をでっちあげてきました。それは自らを指示してくれる選挙民の歓心を買うための宣伝戦であったし、ウソでもなんでも百遍繰り返せばホントウになるという「マインカンプフ」の操作戦術と似たようなものです。ただ一つ違って幸いだったのは、トランプはナチスの親衛隊のような私兵をもっていなかったことです。プラウドボーイズや全米ライフル協会を私兵に育てようと思っていたのかもしれませんが、やはり彼らもアメリカ民主主義社会の育ち、そこまで利用されるほど馬鹿ではなかったといえるかもしれません。もっとも、そうは言っても、武器を持った彼らがいつまたトランプ親衛隊に豹変するかわかりません。大統領が正式に後退するまで、目が離せない所です。

 ナチスは敗戦によって解体され、ドイツ国民もそれを支えてきたことを肝に銘じて、戦後大胆な法的規制を自らに課しています。はたしてトランプの4年間をアメリカ国民がどう総括して、今後に活かすか。分裂を、ふたたびユナイテッドするのがバイデンのお仕事になるのでしょうが、ただのオバマ時代への復帰だとすると、また再びトランプ勢力は生きながらえるってことになるんじゃないか。そんなことを東洋の島国の片隅で私が心配するのは、国際政治がこれほど私たちの身近な暮らしにビンビン響いてくるようになったのは、やはりエゴ剥き出しのトランプ流が目に見えるように展開してみせてくれたおかげです。それは同時に、日本の政治もまた、トランプとほぼ同じ土俵で繰り広げられていることを如実に曝してくれています。国家の為政者が、こんな素人の私と同じセンスで、右往左往しているのかと思うと、安穏としているわけにはいかないと不安になるのです。

 民主主義というのは、素人が国家の運行を操船するようなものです。潮流を読み、星を見ていく先を見定め、いやそもそも、何処へ、なぜ向かうのかも、その都度見極めながらすすむのですから、船の能力や将来的なコトを見越した修復を重ねながら、重い荷や軽い荷の優先順位の評価をつけながら、降ろしたり積んだりしなくてはなりません。専制国家のように「優れた誰か」にすべて任せてのほほんとしていると、いつか経験したような沈没の憂き目をみないとも限りません。それらすべてが、「あなたの手にかかっています」と責任を押し付けられる。それが民主主義です。

 優秀な民族という甘言、偉大な国よ再びという願望、#ミー・ファーストというホンネ剥き出しの心地よさは、足元を危うくすることを肝に銘じなくてはなりません。いつも勝つことしか頭にないと、すべてがフェイクと謗りたくなっても来ます。トランプのデタラメなフェイク・ニューズは、まさしく民主主義時代の産み落としたものにほかなりません。

 多種多様な人々とかかわりあって世の荒波を航るには、いろいろな事態に遭遇することになります。挫けず、倦まず弛まず、雨にも負けず風にも負けない丈夫な体をもって、生きていってねと、次の世代に託す祈りを込めている次第です。

2020年11月27日金曜日

国家百年の大計

 学術会議の任命をめぐって、相変わらず説明しない/できない状態が続いている。「総合的俯瞰的に考えて」というのが、じつは政府の意向を忖度することを要請していることだと、安倍時代からのやり口をみていると推し測れる。つまり、気に食わない学者を排除するのだが、そうは口にできないから「総合的俯瞰的に考えて」「個々の人事案件には言及しない」と逃げようとしている。

 いや逃げているんじゃない。任命されなかったのは日本共産党の系列に属する人たちだから(排除したいの)だという、内調によるレッド・パージ復活のようなきな臭い流言も出回っている。陰謀論のような政治世界が好きな方々は(賛否どちらにせよ)、そういう言葉を弄んでいれば(自説を堅持しつづけることができて)結構なのだろう。だがふつうの庶民からすると、自分の頭の上のハエを追うことに夢中になっているとしか思えない。

 他方で、軍事研究に協力しないことへの批判じゃないかと、学問と政策との連携を図ろうとするモンダイとして、を正面から論じようとすることまで、蓋をしてしまうのかと思う。その善し悪しはとりあえず脇において、政府がそう考えているのなら、それを正面から論題として掲げて学術会議と論戦を交えることを避けて通らないでもらいたい、と思う。

 学術会議が、軍事研究への協力はしないと決議するのは、単にイデオロギー的な差異があるからではなく、歴史的な経緯がある。根底にある経験は、「政治への不信」だ。猪瀬直樹「昭和16年の敗戦」で明らかにされたように、太平洋戦争が不可避かどうかが論じられていた昭和16年に、当時の政府の、産業、軍事、学術など関連諸機関の俊才を集めて「日米もし戦わば」という机上の模擬戦を政府首脳も立ち会って行ったという。その結論は「敗戦」であった。にもかかわらず、無謀な戦争に突入したという「経験」は、学術と政治とを切り離して考えるという「教訓」を産んだ。その「教訓」は、原子力科学者が核開発に携わることとなり原爆や水爆を生み出して実戦に使用する結果を産んだ。そこにおける科学者の「敗北」を経験化したことも「教訓」に組み込まれている。

 もう一つある。戦後日本が、(アメリカの押し付けられたものであっても)新憲法の下で、平和主義を採用してきたのであるから、「政治への不信」は、戦前と戦後で別物と切り離して考えてもいいはずであった。だが戦後政治の過程は、GHQの変節も含めて、「政治への不信」を払拭することにならなかった。せめて、科学と政治の独立性を担保することを通じて、戦前と戦後の「政治への不信」を「教訓」として堅持してきたのが、学術会議の姿勢であった。

 それを転換しようというのであるなら、文字通り政治的な裏工作やタテマエ的な手続き論で片づけず、正面から切り込んで、「科学と国策の連携」を論題として、やり取りするべきである。そうした問題を脇において、「総合的俯瞰的に考えて」といっても、真意を隠して政治の意思を通そうとしているとしか映らない。「総合的俯瞰的に考え」ることの子細に立ち入って、政府が説明することを避けてきたために、現在の齟齬が生じ、相変わらず「政治への不信」が拭い去れないでいる。

 それと関連指摘になるのは、学問や芸術に対する国策の姿勢である。

 教育と並んで学問や芸術に対する政府の姿勢は「国家百年の大計」と呼ばれてきた。目先の効果や効率に左右されず、長い目で見て民生を豊かにしていくのは、国民に「希望をもたらす」意味でも、重要である。そこに育まれる「希望」には、誇らしさと自律する気高さが育まれるからだ。それは、目下の貧窮にも耐える力にもなるし、何より次の世代の「希望」につながって、国家社会存続の原動力になる。大雑把な見方でいうならば、いろいろなモンダイはあったが、明治維新から日露戦争までの日本の歩みは、その誇らしさに支えられていたと、司馬遼太郎が描いていたではないか。

「総合的俯瞰的な考え」というのは、須らく「国家百年の大計」でなくてはならない。

 ところが(バブル崩壊以降)21世紀に作用されている国策は、学問研究に対して「大学の独立行政法人化」を押し付け、競争原理を持ち出してコストパフォーマンスを問うようになり、なんの役に立つか、いくら儲かるかを学問研究に強いるという愚行を横行させてきている。これでは、「国家百年の大計」どころか、誇らしき研究の屋台骨もやせ細り、先の成果しか見えなくなってしまう。バブル時代に育って学問研究に打ち込んできた何千人という博士たちが、ポスドクと呼ばれる失業状態におかれ、ついには研究活動を断念するしかない状況に置かれている。

「総合的俯瞰的な考え」というのは、鷹揚であることを意味している。天空を舞う鷹のように、些事些末にこだわらず、ゆったりと百年の大計を与える如くに総合的俯瞰的に世の中を見つめる。民生を鳥瞰する。それが「希望」となっているか、誇らしさや気高さを体現しているかを確かめながら、寄り添って立ち尽くすことこそ、政治の信頼を取り戻し、ならばこそ、多少とも軍事に貢献する研究も必要であろうと国民が思うようになる。それを、長期的にみ通すのが、まさに「総合的俯瞰的な考え」なのだ。

 防衛論議の貧しさは、目先の損得と相手との力比べしか目に入らないやりとりにある。日本国憲法の前文が誇らしく掲げている「平和主義」の精神(「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」)を、今一度想い起して、その上に立って考えてもらいたいと思う。


《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。》


 その誇らしさを、果たして戦後日本は築くことが出来たろうか。そのためには、アメリカとの関係もまた国民に隠さず、己に厳しく政府は取り仕切って行ってもらいたいものである。

2020年11月26日木曜日

静かな奥深い諏訪山

 昨日(11/25)家を出たとき霧のような雨が降っていることに気づいた。降水量でいえば0mmであろう。ときどきワイパーを動かして雨滴をぬぐう。鶴ヶ島を通過するころには上がっていた。高速道を下仁田で降り、南下して上野村に向かう。途中でnaviがフリーズした。こうなると地図を読んで経路を確認しておかねばならないと思う。道路標示に「浜平→」が目に留まり、そちらへのトンネルを二つくぐる。と、林道が行き止まりになり、ガードレールの外が草地の駐車場になっている。浜平登山口だ。

 今日の諏訪山は、最初4人で上るはずであった。Sさんがお孫さんのお付き合いで行かないことになった。先週、天人山塊の毛無山に同行したkw夫妻が、疲れが取れないと不参加。こうして私の単独行になった。この山、当初私が調べたコースタイムでは5時間であった。ところがkwmさんがネットでみると6時間前後。毛無山は往復5時間20分であったのに6時間を超えたのを勘案したのであろう。ちょっとムリとみたのであろう。地図を打ち出して、スマホのyamapの地図でコースタイムをチェックすると、5時間50分であった。累積標高差は1151mとある。私の単独行の場合、早くなりすぎるのを抑えなければならない。早すぎて、後半で疲れが出るのだ。

 8時20分、歩き始める。湯の沢沿いの入口対岸には、「浜平鉱泉」と何軒かの家屋がある。右岸の20メートルほど高いところから沢に降りる。それなりに踏み跡が残るが、沢のごろた石と落ち葉で分かりづらいところがある。徒渉するところには、丸太を組み合わせた橋が架かる。ところどころに赤いテープがつけられ、それに注意していればルートを見失うことはない。

 沢からはずれる標高800mほどから1250mほどまでの間が、ジグザグの急登になる。紅葉はすでに終わっている。標高900mくらいのところにカエデの紅葉が2本、赤い色を枯れた木立の間に屹立させている。山はとっくに冬なのだ。湯の沢の頭1250mに着いたのは9時44分。歩き始めて1時間24分。コースタイムと5分しか違わない。いいペースだ。

 その先、標高1300mほどまでは稜線歩きになる。いくつかあるピークを巻いて踏み跡がついている。滑り落ちそうな危うい所もないわけではないが、バランスを崩さず歩けば心配はない。1時間のコースタイムの所を45分できている。ついつい調子に乗って急いでしまう。そのさきが、三笠山への上りだ。ロープのかかる岩場が何カ所かあるが、むつかしくはない。鉄の長いハシゴのかかるところが二カ所ある。三笠山1491mに10時56分。湯ノ沢の頭から1時間半のところを1時間12分。ちょっとコースタイムより早いか。登山道から眺めたこの三笠山は、峨峨たる山が木を装っているようにみえる。三笠山を越えて諏訪山に向かう途中で振り返ってみると、そこの深い漆塗りのお椀を伏せたようにぽこりとした山容を、木々の間を通して見せている。三笠山からの眺望は見事であった。上州の山並みの向こうに八ヶ岳など、甲斐の山々が輪郭をくっきりとしてみえる。湿度も低いのだろう。遠望が利くのは、ここだけであったと、諏訪山の山頂へ行って思った。

 三笠山から諏訪山へ向かう地点に一カ所、どう降りるだろうと思案する岩場があった。斜度は60度、15mほど。二枚の岩がぶつかり合って直角に凹んでいる。縦に罅割れたところはあるが、手や足を掛けるところがみつからない。ただ、ロープが2本、新しいのと古いのが掛けてある。かつてはこういうところをザイルで確保して肩がらみやエイト環をつかって下ったものだが、まさか肩がらみで降りることを想定しているとは思えない。わずかでも足場になるところに爪先をかけ、靴裏を岩に張り付けてザイルをもって身体を立てるようにして降った。この同じところを復路では、手足を掛けるところが簡単に見つかり、ロープをつかむことさえしないで通過したから、下りのときによく見極めて通れば、ムツカシクはないということであろう。

 諏訪山山頂直下でのこと。正面の大岩のすぐ左側を上れば山頂部につくと思ったが、岩の右裾に踏み跡がある。へえ、そちらからも行けるのかと踏み込んでみた。だが大岩を回りこんだところで踏み跡は消え、ている。枯葉が降り積もった急斜面を見上げると、上に山頂部と思われる平坦部が見える。元に戻るのも面倒だと、落ち葉にストックを突き刺して、まるで雪山のラッセルのようだと思いながら、急登を上った。案の定、そこが山頂であった。11時28分。登山口から3時間8分。ちょっと早すぎたくらいで、いいペースであった。山頂部は縦に長く、木々に囲まれて眺望はない。太い古木を横たえてベンチにしている。やわらかい陽ざしが降り注ぐ。そうだ、今日はまだ、誰一人として逢っていないと気が付く。お昼にする。ここで20分過ごして、下山にかかる。

 往路を戻りながらコースタイムとの差を頭で計算している。三笠山までが20分の所を2分ほど余計に掛けている。三笠山から湯ノ沢の頭までは1時間5分のところを、ほぼ1時間4分。その途中で、脚に異変を感じた。左太ももが攣りそうになる。右の太ももにも、そういう感じが走る。わりと平坦な稜線を歩いていたときである。立ち止まって、スパッツの上からエアゾルをかける。しばらく違和感が落ち着くまで足を休ませる。ゆっくり歩いて違和感をほぐす。緩やかに炎症が収まり、違和感が遠のいていく。やれやれ。前回これが起こったのは、蕎麦粒山へ行った帰り道だった。そのときも同じような手当てをして、少し立ち止まっていて、収めた。やはり前半と還りの岩場が負担をかけていたのであろうか。

 湯ノ沢の頭からの下りが1時間のところを約1時間。何と順調に上り下りしたことか。ただ、急斜面を下るのは足への負担が大きい。太ももの違和感がどうなるか気遣いながら、下った。幸い何事もなく、バランスを崩すと危うい所も難なく通過して、駐車場に到着した。14時21分。出発してからちょうど6時間。山頂の食事タイム20分を差し引けば、歩行時間は5時間40分。まずますのコースタイム山行であった。そうそう、誰一人、出会わなかった。静かで奥深い山であった。

 先週の山は、帰りに暗くなる運転のことが心配であった。今回も、日暮れは早い。4時を過ぎてからは灯りを点けて走った。帰宅したのは4時45分。すでに街灯も点いていた。もう冬場、6時間を過ぎる山行はムリなのかもしれない。

2020年11月24日火曜日

何処から「違い」が出てくるのか

 先日(11/21)の「底辺をみる慧眼」で記したブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)を読んでいて、気になったことのひとつ。

 著者自身が驚いて書いていることだが、イギリスの保育基準では3歳児4人につき保育士1人という基準に対して、日本では3歳児20人に対して保育士1人になっているということ。そして、日本の保育園は静かに園庭で子どもたちが過ごしているのに対して、イギリスの子どもたちは走り回り、あちこちで諍いをし、声をあげて騒ぎ、保育士たちは駆けずり回って世話をしているという。

 保育園の敷地の広さや遊び道具の種類とか設け方にも違いがあるから、一概には言えないが、日本では、子どもたちはおとなしくしていることが基本となり、イギリスでは騒ぎまわることを基本と考えていると思える。こうも言えようか。日本では先生のいうことをきいて、周りに迷惑をかけないように過ごすことを躾け、イギリスでは、子ども同士の争いごとや子どもと先生とのもめごとを通じて、子どもが自身で学んでいくことを躾けと考えている。

 そこには、大人社会の規範の反映があり、社会集団と個体との布置関係が現れている。つまり、大人自身が、社会集団と向き合うとき、(皆さんに)迷惑を掛けずに自らを持して位置することを心掛けていれば、日本の保育園のような様子が生まれる。他方、迷惑をかけるかどうかは二の次で、まず自身が何をどうしたいかを表現・表出させることを求め、しかる後に(それが社会と引き起こすコンフリクトを経て)社会と個体との在り様の文法をかたちづくっていくことが子どもを育てることだと考えているとイギリス風になる。どちらがより、現代社会にふさわしいかも、時代の変遷と見合って変わっていくのであろう。

 日本に関していうと、(皆さんに迷惑をかけない)ことから、まず自己(の欲求)の表現・表出を行う方向へ、時代は動いてきた。その前者と後者がちょうど見合うところに、「自立/自律」が位置し、「自己責任」で世の中を渡れという処世訓が人々の隅々にまで行きわたってきた。病気や災害や不運によって不遇に見舞われ、暮らしが行き詰った人たちに対しても、厳しい視線が向けられる。そういう厳しい社会になってしまった。

 少子化対策として、新政権が一番に放った施策が不妊治療であったのは、笑止千万であった。むろん私は、不妊治療を無用とは思っていない。それはそれで推奨して推し進めればいいのだが、それが少子化対策というのは、日々どれほどの堕胎が行われているかに目を止めれば、お笑いだと思うのである。子どもを産むことが暮らしを行き詰らせることになる社会的要因を取り除くことこそが、つまり安心して子どもを産める社会保障制度を整えることが、少子化対策の第一の施策であることは、考えるまでもない。だがそれがなぜ等閑視されるのか。子どもを産むかどうかは、個人責任で考える範囲のモンダイであって、それを社会的ケアの範疇とは考えていないからだ。社会的ケアと考えるのは、すなわち(妊娠するかどうか、子を産むかどうかという)個人のモンダイが世の中に迷惑をかけていることであるから、我関せず焉と、知らぬ顔をするのが、ご正道だと為政者たちは考えているからである。だったら、少子化対策なんて政治の課題に載せるなよって思うが、不妊治療は(個人の選択できるモンダイではなく)科学医療のモンダイであるから、推奨しようというのであろうか。

 ブレイディみかこの本書を読んだ末尾に、次のように記した。

《そうした現場を歩いてきた著者の眼力は、なかなか見事なものがある。彼女自身が「アナキーに」感性を解き放っていくのが読み取れて、のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる。底辺をみてこそ、その社会の最上辺に至るモンダイが見てとれるという指摘は、なかなかの慧眼と言える》

 だが、逆なのかもしれない。ブレイディみかこが20年ほどイギリスで暮らすうちにイギリス流の保育技術を身につけ、底辺託児所に携わるうちに「下流ブリティッシュ」を含む移民ら、下層の人々の規範や振る舞いの流儀を身に沁みこませ、それが「アナキーな」感性に実を結んできたのかもしれない。「のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる」のは、お前さんそれで、自分の意思で生きているのかいっていう、自問自答だ。

 あたり構わず我が儘に振る舞うトランプがアメリカ選挙民の半数に迫る支持を得るのも、そういう自己主張をしてやっと手に入れてきた日々の暮らしが、誰がどこでそうしているのか目に見えない社会システムによって窮迫するところに追い込まれているのを打開するには、クールな解析よりも、熱狂的なぶつかり合いを通じて道を開くという気構えがあるからかもしれない。日本では到底受け入れられないトランプ支持者の振る舞いも、案外、人類が生き延びてきた活力の原基を示しているのかもしれない。

2020年11月23日月曜日

Seminar中止

 11/12のこの欄「頑張らにゃあ、バイデン・メトロノーム」にも記しましたが、コロナウィルスで3月からずうっと延期してきたSeminarを、そろそろやってもいいんじゃないと声がかかり、呼びかけたところ、常連のうちほんの2名を除いて、皆さん参加すると返事があった。同時代の空気を吸っている私たちのあいだに、何か共振するものがあるんじゃないかと思うほど、意気投合するようにして、実施を決めていたのだが、それから十日の間に、すっかり情勢が変わってしまった。

 とうとう11/21に「Seminar中止の直前案内」を送ることになった。文面は、こうだ。

                                          ***

皆々さま

 いやはや、ここ連日のコロナウィルスの広がりようは、尋常じゃありません。

「そろそろ(自粛をやめても)いいんじゃない?」と言っていた方も、「(開催して)大丈夫かな?」と心配するほど、日々記録更新の模様です。

 ことに「最高レベルの警戒」を呼び掛ける東京都。神奈川県も埼玉県も、不要不急の移動の自粛を呼びかけています。なかでも「高齢者への感染が第3波の特徴」と言われては、Seminarを開催するのは、「大冒険」どころか「火中の栗を拾う」に等しい振る舞いです。

 それもあってか、すでにお二人の方が、参加取りやめの連絡をくださいました。

 諸事情を考慮した結果、11/28(土)の第二期・第12回Seminarは中止することといたしました。

  出席のご連絡をくださっていた方々には、ほんとうに申し訳ありませんが、ご理解の上、ご承知くださいますようよろしくお願いします。

  2020年11月21日 事務局

追伸:次回Seminarは1/23(土)に予定

 このSeminarも、当初予定していた講師・I・Hさんが入院しているのに、事務局で引き受けて開催しようとしたものでした。それが中止に追い込まれたのも、「天の啓示」かもしれません。/I・Hさん、12月に退院ということでしたが、その後いかがですか。中止したSeminarは、次は1月23日(土)に予定しています。そのときには、講師として、よろしくお願いします。

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 Seminarを発案し、一緒に運営に当たっているM・Kさんは

「実は私からも中止したいとのメールを出そうとしてメールを開いたら、貴信があったわけです。これだけ感染者が増えたのでは、火中の栗をひらうどころか、自殺行為かもしれません。」

 と、さっそく賛同の返信がきた。

 また慎重居士のT・Tさんからは

「いつものお世話に深謝しております。ご無沙汰しておりますので、年1回くらいは顔を合わせたいということと、ダイナミックなCOVID-19情勢とで、本日まで出欠回答保留にさせていただきました。またの機会を楽しみにします。」

 と、音信があった。

 月初めに「もうそろそろ(Seminar)やってもいいんじゃない」とメールしてきたT・Sさんは、

「残念(座暗念)ですが承知しました。対策を講じての行動なればメディアが騒ぐほどのことでははないと思いますが・・・・」

 と、自衛策を講じていれば、大丈夫じゃないかと思っているようだ。

 また都内で医院を開いているH・Kさんは

「セミナー中止のご連絡を有難うございました。お世話役は判断と決断を迫られ、その決定には必ず、賛否両論があります。お疲れさまでございます。2月後は予想もつきませんが、セミナーが開催できる事を願っております。」

 と、事務局へのねぎらいの言葉を添えてきた。

 Seminarがある日にはうちを早く出て映画を一本見てから来るというF・Tさんは

「お世話になります。まあ、仕方ないですね。しばらく我慢がまんですね。ワクチンを待ちましょう。」

 と絵文字を添えて記している。

 いつも興味津々で、子どものように質問を仕掛けてくるH・Mさんは

「了解致しました。この爆発的な感染の広がりは、各種のcampaignに起因するするものかどうかは、専門家の意見を聞いてみないとわかりませんが、このコロナは一筋縄ではいかぬどえらい奴ですね。地球全体を巻き込んで、人類への挑戦でしょうか? 又は罰を与えているのでしょうか? お互いに我が身を守る努力をいたしましょう。1月には、本当にお会いできますよう、祈るしかありません。」

 と、コロナウィルスを何とか自分の「せかい」のなかに位置づけておこうとする意欲を示しています。これに対する返信を書いた。

 《「人類への挑戦」というより、「人類への天の啓示」と受け止めています。ヒトが多く「密」である。都市への集中という経済の「密」である。暮らしが贅沢という「密」である。働き過ぎも「密」。ヒトの暮らしの原点、お伊勢さんの保ち続けている暮らしの基本、火を熾し、森を育て田を起し、稲を植え育て、ことごとく自らの手でひとつひとつ賄っていく営みが、過剰。つまり「密」であると「天の啓示」が降りてきているように感じています。原点に還れ。ヒトが長生きするというのも、「密」なのかもしれません。

そういうお話を交わせるといいと思ったのですが、1月に、また。》


 政府は、私の見立て通り、自己防衛しなさいという姿勢を崩していない。行政府を当てにせず自律的にやっていきなさいよというのならいいのですが、何、タダの無策だよと、口の悪い友人は評している。それほどに、行政への信頼は失せているということか。

2020年11月22日日曜日

身が詰むって感じが身につまされる

 先日私のスマホが故障したことを記した。リセットしてからの使い勝手がよくない。毎回、開錠のために暗証番号を入れなければならない。山を歩いていて現在地を確認するときなど、ずいぶんと煩わしいと感じる。でも、どうやってそれを無しにできるのかが、わからない。

 NTTの光通信を利用している。それをプロバイダともどもドコモに切り替えたら、月ごとの請求がカード会社を通してきて、請求の明細もなく、金額が結構な額になっている。何処へ問い合わせていいかも、わからない。

 世の中がだんだんブラックボックスになっていく。ま、こちらが世の中から浮いてきているとは思っている。デジタル化が進んで、カタカナ文字の操作がほぼ日常語のように画面に並ぶと、もうそこでお手上げって。一つひとつ考えながら操作するもんではなく、体で覚えてさかさかと手指が動くものと若い人たちは受け止めているのであろう。

 そう言えば、車にnaviをはじめて付けて走ったとき、助手席に座っていた娘が「naviの画面をみなさいよ」と声を上げたことがあった。つまりnaviは画面を通して予期的情報をたくさん流しているのに、私はnaviの声の指示だけを聞き採ろうとしていたから、五差路か何かでうろうろしたのを叱る声でだったのだ。いまだもって私は、naviの経路表示まかせのままに動くことができない。それよりは、事前にnaviの経路を地図でチェックし、混んでるときはこちらが良いかと修正して、頭に入れてから運転に取りかかる。そういう心の準備を内側で整えてからでないと、naviと共存できない。つまりアナログ世代がデジタル世界に移行する間の、身が馴染む時間を、目下、過ごしているというわけだ。寿命が尽きるのと馴染むことができるのと、どちらが早いか、競っているようなものだ。

 スマホや光通信がブラックボックスだからと言って、埒外にわが身を置いてしまうわけにもいかない。それどころか、日常の暮らしは着実にデジタルに移行している。それをある程度使いこなせなければ、何かを手に入れるのにも不自由する。ましてgo-toトラベルなどの「特典」にあずかろうとすると、間違いなく落ちこぼれる。デジタル機器のサポートシステムに頼るほかない。だがそのサービスの拠点が、街なかのどこにでもあるものじゃない。今使っているスマホのサービス拠点は、電車で6駅も先にある。「開錠ナンバーの解除」というのを聞くために電車賃を210円支払って出かけるのも、何だかなあと、つい思ってしまう。こういうのって、ケチなのだろうか?

 そこへ、今使っているスマホから乗り換える手数料が0円というコマーシャルメールが入った。乗り換え先の大手の出店が歩いて5分ほどの所にある。そこへ行って話を聞くことにした。カウンター越しに5人ほど、ほかに広くテーブルを6つほどおいて、スタッフが6、7名いる。用件を聞き、受付番号をもらって少し待つと、スタッフが来て、応対してくれる。すぐに切り替えの話に入るから、いやいや、切り替えたらどうなるか、話しを聞きたいのであって、すぐに切り替えるかどうかを決めるつもりはないと、こちらは引け越し。

 私のスマホのつかい方とスマホ自体が持っている能力との大きな乖離も気になっていた。スタッフは、私のスマホの使用容量をあれこれ操作してチェックし、それならばこうなると「料金試算」を提示する。ふんふんと聞く。6カ月の格安期間を過ぎてこちらに切り替えると、一番安いこの料金であとはずうっと維持できる、と。

 光通信の話を出すと、こちらに切り替えるとスマホ料金が月壑500円安くなる。連れ合いのスマホがこの大手なのでというと、それなら、も少し安くなります、とも。さらにわが家がご近所の集合住宅と聞くと、ケーブルテレビの会社の回線が入っているなら、プロバイダも切り替えると、安いプランがあると言って、話しを聞いてみるつもりがあるなら、そちらの担当者を紹介するから、聴くだけ聞いてみたら、とも。

 こうしていったいどこまで何が作用して安くなるのか、絡み合ってわからなくなる。ふと気づいて、彼が別の機種のスマホを考えているんじゃないかと思い訊ねると、やはりそうであった。今使っているこの機種が不都合でなければそのまま使いたいのだというと、使えるかどうかを調べに行って、OKですと応答する。このスタッフが当たり前と考えていることと私がそう思うこととがずれているのだ。そうこうするうちに、スマホも光通信の方も、来月までが切り替えに障りがない期間ということも分かって、いつの間にやら、買い替えることに話が転がっていく。

 あれもこれも合わせると、今使っているのよりも1500円ほど安くなるというので、今月中にいろいろな手続きをすることにして、あらためて出直すことにした。これだけで、1時間半。

 つきあってくれたスタッフもそうだが、手早く、かつ、根気がいい。こんな年寄りに懇切丁寧に向き合うのも、好感が持てる。ま、これがセールスってやつなんだろうけれど。

 そこで、スマホの画面開錠の相談をする。ではではと、私のスマホを受け取り、何やら操作を続けて、ここをこうすればいいとありますよねと、画面を私に向ける。なるほど四つばかり選択肢が並び、暗証番号を使用しない所をチェックすると、以前のスマホに戻った。と同時に、そこにあった注意書き。他の人が操作することをブロックできなくなりますとある。そうか、それで、以前にこれがフリーズしてしまったのかと、直感した。アルゴリズムというか、カタカナ用語と手順がわかればそれなりに仕えそうな予感がした。

 機器に私の身が馴染むというよりも、スタッフの応対にアナログ仕様の身が馴染むって感じがした。

2020年11月21日土曜日

底辺をみる慧眼

 ブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)を読む。この著者がどんな方だか、本書の文体に表れたことしかわからないが、したたかで確かな視線をもった方とみた。女性の視線が、これほど勁く遠くまで届いているのを感じたことは、あまりない。オモシロイ。

 本書は、2000年代の後半から15年程のあいだイギリスに暮らし、保育士の仕事をしながら目にすることになった託児所の変貌を、労働党政権から保守党政権へと移り変わる時局の変遷と重ねて書き記した、一つのドキュメントである。

 バブル崩壊以降の日本経済の「失われた**十年」によって中流層が崩壊し、上下へと格差が拡大して分裂していく様が若い人たちの間に生まれているのを「階級社会になっていく」と思っていた私にとって、イギリスの「階級社会」の在り様は、やはり衝撃的であった。なにより、話す言葉によってすぐにこの人は労働者階級かミドルクラスかわかるという。それと同様に、肌の色、髪の毛の様子、飾り物や被り物の形によって、その人がどのような人であるかが判別されるというのは、多様な人の在り様やそれぞれの人に対する見極めの仕方などが、幼いころからの、いわば体に刻まれて無意識に沈むように、その人の感性や感覚をかたちづくる。その発動が「階級」であるというのは、日本で感じている格差や差別とは別種の、衝迫力を持つと思われる。逆にだから、イギリスの労働者階級の人達は、自らのそれに誇りを持っているとも言われる。問題は、労働者階級とミドルクラスの格差と対立ではなく、労働者階級にすら含まれない「下層ブリティッシュ」と、おおよそ社会の18%を占める移民たちの在り様であった。

「ブロークン・ブリテン」というときのブロークンとは、「壊れた」であろうか。「はちゃめちゃな」であろうか。それとも「打ちひしがれた」か(どこへ向かうか)「怪しげな」であろうか。著者がみていた21世紀00年代のイギリスは、日本人である自分を受け容れて保育士の免許を取ることを支援してくれる、移民にも暮らしやすい老大国イギリスであったようだ。それが2010年代には「ブロークン」していたという、現在との対比が込められている。たぶん、人々も、社会システムも、あるいは社会政策も、すべてが含まれて、くじけていく混沌の様子を表している。

 イギリスは長く、良くも悪くも、資本家社会の発展モデルであった。追随した他の国々は、イギリスモデルと対比して、自国の経済がどの程度の段階にあるかを勘案し、経済分析を行ってきた。そのイギリスが、最先端を牽引していた時代は、もう百年も前に終わり、代わってドイツやアメリカが隆盛を誇るようになった。それでもイギリスは、資源をもたない海洋国日本にとっては、相変わらずお手本であった。だがイギリスの廃れていく姿を、日本はみていない。階級社会という言葉にしてから、日本で考えるのは、単なる格差であるが、イギリスでは身に沁みついた文化であり、一度として融和したことのない隔絶した差異をもち、必ずしも優劣で語れない違いを、誇っている。そのイギリスが、EUに片足加わり、人の流動化によって多様な文化が流れ込み、移民が増えるにしたがって、ワーキング暮らすとミドルクラスの階級的差異を示す文化も、多方面からの綱引きによって拡散し、下層ブリティッシュと呼ばれる最下位層の都市住民を生み出し、言葉から装いから振る舞いからして、明らかにそれと分かる「文化」を身につけてしまった。それが、移民たちの顰蹙をも買い、いっそう差別的に敬遠され、かつて誇りとしていたイギリス社会のソリダリティ(連帯感)さえも消失してしまう自他を招いている。ここでも、日本社会の先を行っているようにみえる。

 ブレディ・みかこは、21世紀00年代後半に自分が身を置いたり手伝いをした託児所を「底辺託児所」と呼ぶ。対して、2010年代にふたたびイギリスに戻って身を置いた託児所を緊縮託児所と名づける。後者は保守党政権になってから、緊縮財政の下で締め付けられて出来上がった託児所の姿を現す。


「昔も底辺託児所は貧しかったし、緊縮託児所よりもカオスな場所だった。それは、モラルも何も崩壊してアナキーな国になった「ブロークン・ブリテン」を体現していた。だが、そこには、現在のような分裂はなかったのである。」と前置きして、こう記す。


《レイシスト的なことを口にする白人の下層階級も、スーパーリベラルな思想を持つインテリ・ヒッピーたちも、移民の保育士や親子も、同じ場所でなんとなく共生していた。違う信条やバックグラウンドを持つ人々は、みんなが仲良しだったわけでもなく、話しが合ったわけでもないが、互いが互いを不必要なまでに憎悪し合うようなことはなかったのである。そこには、「右」も「左」も関係がない。「下層の者たち」のコミュニティが確かに存在したのだと思う。》


《英国のEU離脱選択や米国のトランプ大統領誕生で、世界中のメディアで識者たちは「エスタブリッシュメントと民衆の乖離」を指摘するようになった。同様に、排外主義的な右派が世界で勢力を増しているのも、「左派と民衆の乖離」があるからだと言われている。》


 イギリスの労働党と保守党の違いがどのようなものであるか感じとることはできないが、ブレディ・みかこの記す限りでは、いずれも「緊縮財政」の波にのまれて、「下層ブリティッシュ」の心に灯をともすことを忘れて、金銭的な収支計算、コストパフォーマンスに向かってしまったと読み取れる。たぶんそこには、デジタル化の波もかぶさっていて、とどめようがなかったのであろう。

 そうして「下層ブリティッシュ」の人々は、やってくる(向上心のある)移民との居場所の奪い合いに出くわしてしまったのであろう。

 祖国から逃げ出すように移動してきた移民は、イギリスという新天地で落ち着いた暮らしを手に入れようと意欲に満ちている(逆に、新天地と思ってきたのに、なんだこれは。これじゃあ、わが祖国の方が幸せに暮らせたのではないかと落胆した人たちも少なからずいたと記している)。それに較べて下層のブリティッシュは、生活保護を受けてやっていけるならそれに乗っかってらくちんに暮らしていこうとだらしがない。麻薬やアルコール、暴力にまみれてまるで向上心を持たない。だから移民からも冷たい視線で見られ、バカにされる。それが目に付くから、下層ブリティッシュは、移民が自分たちの居場所を奪ったように思い、反撥する。

「エスタブリッシュメントと民衆の乖離」とか「左派と民衆の乖離」とは、人々が自律して前向きに暮らすという意欲は、金銭だけでは支えられないことをみていないことを意味している。暮らしに必要なお金だけを与えて、あとは自立しなさいというのでは、人間はやっていけないのだ。「希望」が必要だ。それが底辺託児所時代には、託児所の人と人とのかかわりの中にあった「コミュニティ性」が、かろうじて人々の間を(いい加減なかたちで)結びつけていた。ところが緊縮時代になって、保育行政は、コスパ計算しかしない。生活保護も金銭的にしか見ていない。緩めれば、お金をもらって遊び暮らす人たちが多数出来する。と言って引き締めれば、住むところも失って、とどのつまり、まず一番弱いところ、子どもに対するネグレクトや虐待として噴き出してしまう。更に保育行政は、金銭計算だけに基づいて託児所の削減にも乗り出すから、閉鎖される託児所が頻出し、それはさらに子どもを預けるところを失って、仕事に出ることもできないシングル・マザーやシングル・ファーザーを増やしてしまう。

 そうした現場を歩いてきた著者の眼力は、なかなか見事なものがある。彼女自身が「アナキーに」感性を解き放っていくのが読み取れて、のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる。底辺をみてこそ、その社会の最上辺に至るモンダイが見てとれるという指摘は、なか中の慧眼と言える。

2020年11月20日金曜日

調子がいいが・・・ホントかな?

 一昨日(11/18)に山へ行った。帰ってきたのは6時前。暑い頃なら、まずひと風呂浴びてってことになるが、今節、汗ばむこともなかったから、大相撲の最後の取り組みを観て、すぐ夕食にかかる。口を開けた日本酒の四合瓶が冷蔵庫にあった。いつもなら備前焼のお猪口をつかうのだが、ふと手に持ったのは、口の大きく開いたハーフグラス。それにとことこと注いで、くいっと口に含む。じんわりと味蕾に行きわたり、やわらかい刺激がしみ込み、その行き止まりのところで喉越しとなって、食道へとやや残る冷たさが通ってゆく。うまい。これは調子がいい。山歩きした後の、喉の渇きも幾分影響しているかもしれないが、いつもの倍くらい飲んだ。

 以前にも書いたが、お酒が飲めるかどうかが、いつしか体調のバロメータになった。呑みたいと思わないときが、ときどきある。そういうときは口にしなくなった。なんだか習慣性の飲酒というのが、つまらなくなったのだ。でも、口に含んで、うまいなあと思えるときは、飲む。三杯目になって、うまさが変わってくるようになると、止める。その制動が、いとも簡単に利くようになった。何だ、気の持ちようではないか。山へ行く前の二日間は、そういうわけで晩酌をしなかった。それもあったかもしれないが、美味しかった。

 そして昨日、太ももに筋肉痛が現れた。珍しい。以前は、二日三日後になって筋肉痛になっていたのに、古稀を過ぎてからは、それも現れなくなった。どんよりとした疲れが残り、歯が痛んだり、気管支炎になって咳き込んだりしたものだ。その回復期に出るという筋肉痛が出てきた。今朝起きるとき、さらにそれが露わになり、嬉しくなった。

 でも半信半疑ではある。歳をとると着実に力が落ちてくる。日ごろ鍛えるということをしない。山の鍛錬は、山を歩くしかないとかたくなに思い込んでいるから、週1の山行をできるだけ行くようにしてきた。今は山へ同行してくれる友人が数人いるから、その人たちと相談して、山は私が選び、彼らが実施日を策定して、おおむね愁1のペースで足を運んでいる。私より若い彼らは、しかし、ここ10年ほどの間に山へ向かうようになった。だから今、面白くなりかけていて、身体もだんだん力がついてきている。それに比して私は、ゆっくりと力が低落している。そのバランスが、目下は、うまく取れているというわけだ。

 だから、調子がよくなったわけはない、と思う。お酒のバロメータが調子いいからと言って、容易に信じたりはしない。どこかでホントかな? と訝りながら、結論的な判断は、つねに保留している。

2020年11月19日木曜日

リミット挑戦に最適の毛無山

 このところ雨が降らない。加えて、秋の深まりが一休みしている。昨日(11/18)に、また富士山を観に行った。本栖湖と田貫湖の間、天子山塊の毛無山1948m。2年前の8月に私は上っている。そのとき、毛無山からの下山ルートに地蔵峠から沢に沿って麓登山口へ下る道をとった。これが崩れていたり、沢の徒渉を何度か繰り返すところがあり、加えて当日の高気温にやられてすっかり消耗したことがある。先週、栃木県の氷室山へ向かって登山口にまでたどり着けなかったこともあって、果たして地蔵峠からの下山路がどうなっているか心配ではあった。もし崩れていたら、ザイルを使って上るところも出てくるかと思案していた。もちろんコースタイムも、往路を下るよりは1時間半ほど余計にかかる。同行するkwrさんは往路をとりましょうと簡単に返信が来た。

 予定の登山口に8時半前に合流。駐車料金を支払い箱に入れて、出発する。高速道を河口湖ICへ向かう途中で、富士山が見えた。下の方は雲の中だったが、8合目から上は真っ白な雪をかぶり、その上の青空に映えてみごとであった。だが富士山西側の登山口からは雲が視界を遮り姿は見えない。入口には「※地蔵峠は通れません。※クマ出没」とワラ半紙に手書きして、貼ってある。

 神社を過ぎて登山路に入ると、朝陽を照り返して紅葉の林が明るく輝く。だが沢を渡ると秋は姿をひそめ、冬枯れになる。この後はしかし、景観を気にする暇もないほど岩を乗り越えていく急登になる。ロープを張ったところが何カ所も続く。「1合目」から「9合目」までの表示が、最後の稜線にたどり着くまでつけられていて、それが励みになる。今日の標高差は1100m。急登のはじまる地蔵峠分岐から稜線に出る南アルプス展望台までの直線距離は、およそ2km。その間に1000mを上ると考えると、斜度は30度。きついわけだ。地蔵峠分岐にあった、泥で汚れた古いイラスト付き案内看板には、地蔵峠分岐から山頂まで上り140分、下り100分とあったが、昔の山人は力があったのかもしれない。

 不動の滝見晴らし台に9時7分。コースタイムより10分余計にかかっている。kw夫妻は、先週も大山詣でをして来たそうだ。山行計画をつくるとき、kwrさんは「毎週ではなく、月に一週は休みを設けたい」と骨休み提案をしていた。私もそうだなあと思っていたのだが、実際の休みの週になると、身がうずうずして、どこかへ登りたくなる。先週私は、下見のつもりで栃木県の氷室山へ向かったのだが、昨年の台風19号で登山口への林道が崩れ、その修復中であったために通行止めを食らって、やむなく引き返している。つまりkw夫妻も、骨休みをと思いながらも、どこかへ登りたいという気持ちを抑えきれないほどに、山歩きが習慣化しているとみてよさそうだ。「いや、けっこう足に来ましたよ」と男坂の石段に閉口したようなことを言う。「ロープウェイで降りなかったの?」というと、kwmさんが(何、バカなことを言っていんのよ)という顔をした。大山詣では、今日の為の足慣らしだったというわけだ。

 中間点の少し手前に「レスキュウ・ポイント」と書かれた看板があった。「ヘリコプターで救出できる場所と説明も加えられ、事故があったときには119番に電話をして、この場所を利用して救助を求めなさいというのであろう。でも、ここに着陸できるかしらと、周りの枯れた木立をみながらkwmさんが呟く。ザイルで降りてくるんじゃないのとkwrさんが応じている。ほぼ中間点にあたる標高1600mの「六合目」が、その先にあった。見上げると枯木のあいだに青空が広がり、すっかり雲がとれているようにみえた。

 岩を乗っ越す上りはつづき、大きな岩が立ちはだかるところに「富士山展望台」があった。

「おっ、見えるよ」とkwrさんが声を上げる。振り返ると、木立に邪魔されながらも七合目辺りから上の雲が取れ、山頂部がはっきりと姿を現している。なるほど「展望台」だわいと思った。こちらの富士山には雪がない。南西向きの斜面であるから、高速道からみた北向きの冠雪の山頂とはまったく趣が違う。静岡県の富士山だなと思った。

 そこから10分余で稜線上に出る。「南アルプス展望台」と名づけられた地点は、傍らのごつごつした岩を上らなければならない。kwrさんが先に立ち、狭いよと告げる。彼の背に立つようにして西側をのぞき込む。あれが北岳かとみえる地点は、手前の山並みに大きな山体の大半を隠されて、頭だけを出している。2週間前に、南アルプスの真っ白に雪をかぶった山頂部は、ほぼ黒々と見える。前回王岳に登ったときは、前日に雨が降った。しかしここ十日ほど雨が降らない。少し北西には八ヶ岳であろう。これも黒っぽい。

 11時53分、毛無山の山頂についた。すでに3人の若い人たちが食事をしている。三重から来たのだとは、私たちを追い越すとき最後にやってきた人が話していた。ずいぶん遠方から来たように思ったが、三重からすると、この静岡県は隣の隣。つまり私たちからすると茨城県へ行っているようなものかもしれない。新幹線を使うとすぐだねとkwrさんは口にしていた。途中で私たちを追い越していった単独行の男二人は、姿が見えない。このピークの、もう一つ向こうへ行ったのだろうか。それともさらに向こうの、雨ヶ岳を越えて本栖湖の方へ縦走したのだろうか。お昼にする。食べていると、単独行の方がぽつぽつと二人やって来た。結構御人気の山なのだ。そう言えば、麓の駐車場には、私が着いたときにはすでに4台ほどが止まっていた。その人たちは、何処へどう行ったのだろう。

 kwmさんが胃の調子が悪いという。彼女は力を遣い尽くすタイプ。腹の底から力を振り絞るのが胃に来るのだろうか。昼を食べていた人たちが立ち去った後、「あっ、見えた、見えた」と単独行の男性が声を上げた。富士山の八合目より上の雲が取れ、青空に背を伸ばしている。

「あんなに高いところにあるんだ」とkwrさんが言うから気づいたのだが、ここよりさらに1800m以上高いから、見上げるようだ。そのとき撮った写真をみると水平が狂っているようにみえるが、あれは富士山の南側が剣ヶ峰で少し高いから、山頂部分だけを観ると傾いているように感じる。

 と、北の方から男が一人やってくる。聞くと、向こうの最高点11946mまで行ってきたという。地理院地図には、そちらの方を毛無山と書いているが、実際にはその手前の1946mに、「毛無山」の標識をおいてある。それも二つも。一つは「山梨百名山」とあるが、もう一つは、「毛無山1946m」とある。2年前に上ったとき、「この山を山梨県に上げるから、富士山を静岡県に頂戴」と女の方がしゃべっていて、オモシロイと思った。県境なのだ。でも、置いてある位置が、逆じゃないかと、今回も思った。と、がやがやとにぎやかにしゃべりながら、3人のパーティが現れる。この方たちも、最高点に行ってきたようだ。麓の駐車場に先についたkwmさんは「奥さんが車で送ってきた人が、戻ってこないから、雨ヶ岳に行ったのだろうか」という。そうか、奥さんが車を下山口に廻して待っていれば、縦走もできるねと話す。山頂の掲示板を見ると、毛無山の山頂から割石峠までは5時間の行程。併せて「クマザサが深いためベテランを必ず同行してください」と付け加えている。上級者のルートだというのである。天気が良いから頂上で45分も時間をとった。

 12時半に下山を開始。kwmさんの様子を気遣って、mwrさんは少しペースを落とした。でも、登るときの急傾斜を下るのだから、気を抜くわけにはいかない。私は標高と時間とをチェックしながら、ストックを使って足を運ぶ。kwrさんのペースが私の体力にちょうど良い。持続力に配慮した運びになる。「よくこんなところを上ったねえ」とkwrさんは感嘆しながら下っていく。ペースが崩れず、標高の1/3を45分で降る。2/3を1時間半。見事にコースタイム男だ。このペースで下ると2時間15分で駐車場に着くと思っていたら、駐車場着、14時50分。5分しか狂っていない。車には、「駐車料受領」の印が押してあった。律儀なことだ。

 そこで、kw夫妻とは別れ、私は車を走らせて家路を急いだ。だが、4時半になると自動点灯の車の明かりが点きっぱなしになった。5時を過ぎると真っ暗である。夜の運転には注意してくださいと言われている私にとって、この時間の運転は鬼門である。ずいぶん気を張ってハンドルを握り、渋滞の外環を走り5時45分に帰着した。翌日、kwrさんから電話があった。彼も日が暮れる速さに驚いたようだ。冬場の山は、行動時間を身近くするか、もっと早く登り始めるかしなくちゃねえと、登山計画の変更にまで言い及ぶことになった。

 体力的にも、運転能力的にも、リミットの山であったなあと振り返っている。

2020年11月17日火曜日

人と土地を起ちあがらせる視線の起点

  浅田次郎『マンチュリアン・リポートA MANCHURIAN REPORT』(講談社、2010年)を読む。

 1928(昭和3)年の張作霖謀殺事件の「真相」を、当時の天皇の密命を受けた将校が現地に足を運んで関係者から聞き取りをして、探るという筋立てになっている。この事件が浅田次郎の関心を惹き、本書が書かれることになった背景には、1990年に発表され『昭和天皇独白録』があったのではないか。その「独白録」なかで(珍しく)昭和天皇が、関東軍河本大佐の謀略であったと報告を受けて、ときの首相に処罰をし支那に対して遺憾の意を表明する意向を示した。ところが田中首相は、(これを明らかにし如何に意を表明することは日本の国益に反するとの軍部の反対意見に押されて)これをあいまいなままに処理しようとした。それを天皇に譴責され、内閣が総辞職した経緯に触れている。思い返すと、これ以降、軍部の暴走を政府も(天皇も)止めることができなくなった。

 東北部の軍閥の雄であった張作霖を謀殺したことによって、日本軍の援護を受けて満州の統治をしていた統治者を失った。タテマエとはいえ、満州国の自治権を保護するという位置を棄て、日本は直接統治(つまり侵略)に乗り出さざるを得なくなtったのである。と同時に、張学良らを反日へと向かわせ蒋介石との国民政府への統一へと追いこんだ発端の事件であった。張作霖が関東軍の意向を無視するようになったからと、高校時代の日本史では教わってきたが、そもそもその「意向」が満州全域を支配下に置くことを意味していたのだとすると、歴史過程としては、むしろ逆の読み取り方をしなくてはならないと、いま振り返って思う。

 つまり、張作霖謀殺を叱り、その責任者を処罰して、支那に対して遺憾の意を表明すると考えていたのが統帥権を持つ天皇だとしたら、彼がもし強く指示して事件の全容を明らかにし、関東軍の暴走を抑え、軍の統制を行っていれば、その後の満州事変から、あるいは、太平洋戦争までの無謀な拡大への突入を抑止することさえできたかもしれないとおもうからだ。逆に、こうも言えようか。強く(事態の解明と責任の追及を)指示することができなかったのは、すでに統帥権は名目だけであり、天皇は軍部からみてお飾りに過ぎなかったとも。もっと踏み込むと、そうした軍部と天皇との力関係をやむなしとするような気風が統治者のうちには広まっていたともいえる。つまり天皇の個人的な「意向」がどうであるかということよりも、天皇主権の立憲君主制という統治構造が、日露戦争以来、大きく軍部の発言力を増大させ、文民には抑えようもないほどになっていたという構造的なモンダイが底流していたのであろう。

 浅田次郎の筆運びは、密命を受けた将校が内閣の秘書官に身分をやつして、北京から瀋陽までの旅をし、大陸浪人や日本の新聞記者、滅びゆく清朝の役人たちや関東軍の将校たちへの聞き書き、あわせて張作霖の姿を浮かび上がらせることによって、東北部の軍閥が満州族の故地を自ら統治するイメージをかぶせて、関東軍の「意向」がいかに無茶であるかを浮かび上がらせる。さすがみごとなストーリー・テラーである。構造的なモンダイには言い及んでいないが、それとは逆に、河北と東北部の端境の万里の長城との位置関係、満蒙と呼んだ(清朝の故地)東北部の肥沃さなどが、私の思い込みと違った景観をもって起ちあがった。

 じつは私は、2016年の11月に大連から瀋陽まで、新幹線で2時間ほどの旅をした。そのときの新幹線から見える大地の印象を、こう記している。


《沿線には大きな町がポツンポツンと出現する。超高層ビルが林立し、煙を吐く火力発電所が際立つ。街を離れるとほぼ平原。持参の高度計で標高をみると高くても50mほどであった。緑もなく、赤茶けた大地が広がる。ところどころに少しばかりの疎林のあるのが、かえって何もない大地を際立たせているように思える。満州へ移り住んで「開拓」に当たった人たちは、この荒涼とした原野をみて「希望」を抱いたのだろうか。もちろん今が「原野」というわけではない。畑らしく耕され、あるいは収穫が終わった後のようにみえ、トラクターが動き、人々が立ち働いていた。水はどうしているのだろうか。雪は積もらないのだろうか。強い季節風は、どうなっているんだろう。目についたのは、ところどころに東奔西走する高圧送電線と立ち並ぶ鉄塔だ。と、前方に林立する超高層ビルがみえはじめる。》


 つまり、荒涼とした不毛の大地という印象が予め刷り込まれている。ところが浅田次郎の作品では、河北よりもはるかに肥沃な満州と記している。これがいつの時代を指しているのかはわからないが、荒涼とした人跡未踏の不毛の大地イメージを抱かせ、満州を「開拓する」という思い込みが、日本の満州進出を正当化する一要因になっていたのかもしれない。浅田ようにみると、満蒙開拓団は明らかに侵略であった。

 その、満蒙開拓に対する忌避感が私の内側にあったせいか、瀋陽の町に入ってからは、むしろ清朝の故地、女真族の故郷としての瀋陽へと関心を移して、次のように記している。


《瀋陽の街に降り立った時の印象は、大連以上の喧騒の街。遼寧省の省都らしく、ひときわ商業的な賑わいが感じられる。人口は900万人と聞いた。マクドナルドもある、スターバックスもある。バス、タクシーが行き交い、車が多い。タクシーを拾って「北稜」にゆく。後に満州族と呼ばれる女真族を統一したヌルハチが後金を名乗り都をおいたのが、この瀋陽であった。そのヌルハチの墓が「北稜」である。ヌルハチが満州八旗を編成し、明を破りモンゴルを併合し、朝鮮を服属させて、北京にも都をおいて清と名乗りを上げたのが1636年。ちょうど徳川家康が江戸に幕府を開き、権勢を確立したころと重なる。「北稜」はしかし、今はすっかり公園として風景に溶け込み、菊花展をやっていた。子どもを連れた賑わいは、日曜日ということもあって、明るく屈託がない。奥の方の「稜」にまで足を運んでいるのは、私のような観光客。17世紀の建物が(いくらか修復はされてきたのであろうが、満州国崩壊以後)あまり手入れもされずに放置されてきたように見える。一部は崩れ落ちそうになっている。「稜」は円墳。その素っ気なさが、かえってヌルハチの偉大さを表すように感じたのは、私の中の何かと触れ合うものがあったからのように思う。》

《「瀋陽故宮」は満州族の文化的シンボルであったようだ。ヌルハチを継いだ第二代皇帝ホンタイジの創建した居城であったのだが、ホンタイジと最後の皇帝溥儀を軸にかつての「清」の栄光を置きとどめようとしている。満州族の風俗、風習、宗教、文字、生活と部屋を分けて展示し、豆のひき臼やその調理法まで写真付きで解説している。ここの展示を見て回っている人は、漢族なのであろうか満州族なのであろうか。ガイドに尋ねたが、はっきりした答えは聴けなかった。ガイド自身は漢族だと分かったが、「たくさんの民族が一緒に暮らしています」と対立相克がないことに力を入れて説明していたから、あるいは私の疑問を、今様風にとらえて先回りして応えたのかもしれない。広い敷地にはホンタイジのときの満州八旗を象徴する八角形の本殿まで残され、人々は日曜日の公園として訪ねてきていた。》


 この、ヌルハチやホンタイジの衣鉢を継ごうとしていたのが張作霖―張学良であったという所にまで、私の想像力は届いていなかった。浅田次郎はそれをベースに、『マンチュリアン・リポート』を書いている。

 人と土地が起ちあがる視線の起点が、奈辺にあるかを示したといえよう。

2020年11月16日月曜日

ポナンザと棋士たちと「わたし」

 将棋の面白さは、その指し手にその人の人生が現れるところにあると言われる。どういうことであろうか。大局観のことだろうか。守りを重視する人、攻めに傾きがちな人、そのバランスのうまい人ということか。それとも、攻守の局面局面に現れる棋士のクセのような重心の置き方やそのときの心もちのことをっているのであろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、中学生からプロ棋士になった藤井聡太の活躍をみながら、ああやっぱり、このあたりに壁があったかと思ったりしている。

 先日(2020/11/12)、NHKの「アナザーストーリー」という番組で、将棋AIとプロ棋士との対戦をとりあげていて、興味深く観た。

 チェスAIはずいぶん前に人との勝負に決着をつけたが、将棋AIはなかなか容易ではなかった。その違いが、手に入れた駒を攻撃に仕えるか使えないかということと簡単に紹介する。その違いが、攻守に関する展開の局面を飛躍的に増やすから、電算処理のAIにとっては手間暇かかることになるらしい。AI棋士のプログラマーの話を、なるほどと聞きながら、へえ、と思ったのは、このプロぐらなーはほとんど将棋を知らないということであった。

 このポナンザというAIソフトが出現するまでは、将棋に詳しい人がソフトを組み、実力の向上を図ってきたという。ところがポナンザは、これまで蓄積されてきた何万という優れた対局の棋譜を覚えさせ、さらにポナンザ同士で対局させて「経験」を積み、その学習をもとにして強くなってきたという。

 では、ポナンザが蓄積してきた「経験」とは、何か。手筋を憶えるだけというなら、プログラマー山本一成氏のプログラミングの力は、何処に発揮されているのであろうか。ポナンザの記憶力と、局面に臨んだときの演算処理の速さというだけなら、なぜ将棋AIの力量向上に、ここまで時間が必要だったのだろう。番組をみていながら、コンピュータの基本的なことを知らない私には、ふつふつと疑問がわいてくる。

 つまり、棋譜の指し手のもう一段深いところにある「判断」が「経験」なのではないか。駒の、どのような局面で、何に、どのような重きをおいているのか。それは、相手の駒との関係の、何に重点を置いて、どう評価しているのか。それを数値化して「経験」として蓄積するのが、開発者プログラマーの役割だったのであろうか。

                                            *

 面白かったのは、ポナンザが佐藤天彦名人と対戦したAIポナンザの第1局の初手。3二金と飛車の横に金を動かした。佐藤は頭を抱えて考え込む。

 それを解説していた加藤一二三が「こんな手を打つと、ふつう、お前、出直してこいと叱られる。」と言う。素人も素人、まったく将棋を知らない人が打つ無意味な手だとみなされる。

 ところがその第1局はポナンザの勝利となる。

 もう一つ注目する一手があった。

 終わりに近い中盤で、7六歩をポナンザが打つ。

 えっ? なに、これ、と佐藤は驚く。取られてしまえばそれだけの無駄打ちと見える。熟考の末、佐藤はその歩をとる。ところがあと後で気が付くのだが、それをとったために、自らの飛車の動きを封じることになった。深謀遠慮というよりも、思いもよらない打ち方をAIは学習してきていると思う。ポナンザが一切ミスをせず、坦々と勝つ鉄板勝負ばかりでは、AIとの将棋は飽きられてしまう。AIが学習した「経験値?」に組み込まれている手筋に、人はふつう思いつかない意外性が備わっている。将棋ソフトで腕を磨いた藤井聡太が快進撃を続けたというのも、この意外性の幅が先輩棋士たちよりも広かったことに拠っているのかもしれない。

                                            *

 もう一つ興味深かったのは、最初にプロ棋士とAIソフトが対決した2013年の「第二回電王戦」で、ポナンザが佐藤慎一四段に勝利したときのこと。佐藤慎一四段に対する口汚い非難が相次いだという。ところが、2017年のポナンザと佐藤天彦名人との対局で、名人が敗れたときには、よくやってという称賛の声が名人に寄せられたという。

 この違いは、なんなのだろうか。

 むろん、将棋に関心の深い人たちがこの対局を観ながら、自分ならこう打つなとか、あの一手はミスだったんじゃないかと見極めているから、佐藤慎一四段が負けたときに(自分が味わう悔しさもあって倍加して)「非難」として噴き出したのかもしれない。あるいは佐藤天彦名人のときには、やはりベストの対応手を打っていたと思っていたから、よくやったと、これも自分をほめるような気持で称賛となったのではないだろうか。

 その背景には、プロ棋士四段と名人という(将棋に関心の深い人たちにも達している)「権威」の違いが横たわっていると思う。素人の私には、(四段も名人も)同じように見えるが、佐藤慎一四段の指し手に(ミスだったんじゃないか、とか、あれで良かったろうかと、自分の指し手と較べて)疑念を持つような将棋に関心の深い人が、「非難」をするとは思えない。

 ただ、自分が負けたように感じて、その悔しさを「非難」としてぶつけるということは、わからぬでもない。そこには、四段だから(もっと良い手が指せたのではないか)と、選択の余地が指しはさまれる。名人のときには(あれ以上の手があったとは思えない)と、素直に求められる。そこには、「人間」の力量の(現在の)最高点として「名人」という権威が座っている。

 人間の抱く「権威」というのは、そのような自分自身の人生の写し絵のように内心に埋め込まれて、外へ向けて発露される。私自身の抱いている「権威」は、どうなっているんだろうと、興味は外へ広がる。

「アナザーストーリー」は、一つの出来事を三つの視点から検証するという構成をとっている。その視点の移動によって、TV画面をみている視聴者も、観る目を移していく。そのとき「わたし」を見つめる私の視線が複数となり、自分を外(あるいは超越的)から観る視点になっているかどうか。そんなふうに、考えさせられた。

2020年11月15日日曜日

こりゃまた、失礼いたしました――「断裂」の行方

 大学時代のサークルの先輩後輩とのやりとりで「断裂」を感じて、訣かれを決断して、最後の「断裂」を感じた所以を記したメールを送りました。あまりの長文なので、冒頭の前説を本文にし、あとをpdfにして添付ファイルにつけて。

 ところが、その添付ファイルが開けない。「添付ファイルがついてないよ」というのもあれば、「開けない」というのもあります。私もやってみたが、写真くらいしか受け付けていないのであろうか。連絡網管理者の(やはりサークル後輩の)Mzさんに、開き方を教えてくださいと依頼しました。

 さっそく、開き方が送られてきました。パスワードを使って、さらに奥のURLにアクセスする必要があった。若い人たちは、このあたりの手順を身につけているんですね。さらに、添付ファイルがついていない(と見える)わけも、説明してあった。この「連絡網」は今回はじまったわけではなく、すでに何年も前からあったものだが、そこへ付けた添付ファイルを開けると、一緒に何やらウィルスが忍び込むことがあって抗議を受け、新規に出直しをしたらしい。ただそのときの警戒注意のままにしてある方のところでは、開けないということのようです。まいわば、私は新米の飛び込みで、言葉が通じないのも、無理のないことかもしれないと感じています。

 

 それとは別に、後輩のMさんはメールにこう書きこんでいました。

 《「断裂」がありますか。私は、明朝早起きしたいので、今夜は早めに就寝します。先に書きましたが、スマホでは文章をじっくりとは読みづらいし、16日には帰京するので、帰京後にじっくり読もうかな。反応には、しばらく時間をくださいね。》


 先輩のWさんは、(添付ファイルを)読むまでもないとみているようです。さすが、言葉を専門とする学者のようです。

《F様 Wです。ざっと調べたところ、やはり添付ファイルはないようです。しかし、絶対ではありません。今はその添付ファイルがなくても議論は可能なようなので、改めて探す必要もないと思います。「断裂」はアキレス腱を連想する言葉ですね。私はこのような言葉を自分に対して使われたことがありません。最初から「断裂」などと言われたら、もう議論はいいよ、という意味のように感じます。》 


 そうなんです。「議論はもういいよ」というより、「議論になっていませんね」というのが、私が指摘した「断裂」の意味だったわけです。

 そこへ北海道に在住のSさんが近況報告を送ってきました。彼は、私とサークル同期であっただけでなく、学部学科専攻も同じだったので、そちらの同窓生にも同じ内容の近況報告を送ってたのです。PCなら「添付ファイル」が開けるだろうと、「お目通し下さるとありがたい」と書き添えて、pdfを送りました。

 Sさんは、次のように書いていました。

《添付pdfの件、試してみました。普通にダブルクリックしたら開かず。ただ、ワンクリックしたら、(普段使っているgoogle chromeではなく)新たにMicrosoft edgeが起動し開けました。何故か分かりませんが。/「断裂」の方は、私には残念ながら難しくて今のところ内容が理解できません。》


 お二人は「断裂」があるとは思っていないようですし、Sさんは「難しくて」と取り合ってくれません。そうか、そうなんだと、わが胸中に浮かぶ思いを反芻しています。なんだか独り相撲だったようです。

 MさんもWさんも、私との言葉のキャッチボールを軽快にやりとりしていたつもりなのに、なぜかFは直球勝負していたつもりらしいと、いまさらに気づいたのかもしれません。Sさんが「難しくて」とやんわりと敬遠したことで、そのあたりの事情が浮かんできたわけです。

 2,3年に一度しかあっていなかった者同士が、半世紀以上もの間をおいてやりとりした言葉を、直球勝負のように投げたり受けたりするもんじゃないよ、何考えてんだおまえさんはって、言われたようなものですね。


 こりゃまた、失礼いたしました。

 植木等じゃないが、そう言って退席した方が賢明です。いろんな感懐が、湧き起ってきます。私自身の人生が、こういう軽く快ちよく触れるか触れないかでやりとりするキャッチボールを経験していない。ひとつひとつの出来事や出くわす言葉を、わが輪郭とみてとらえ変えし、わが身に引き寄せて意味を問い直すという、なんともメンドクサイ回路を築いて、そこに入ってこないことを組み込む作法を知らない。そんなことで、「他者」と向き合って、はて、何処までコミュニケーションを成立させることができるのか。よくぞ、その歳まで、身近にいた人たちがつきあってくれたものだと、嗤われてしまいそうです。

  いやはや。

2020年11月13日金曜日

心に鍵を掛けない暮らし

 先月末から、大学のサークル同窓生とのやりとりが続き、埋めようのない「断裂」を感じてきたことは、すでに記しました。こうしてまた私は「断裂」に直面して、二人の知人と縁を切ることになりそうです。わずか十日間のやりとりですのに、「わたし」はどこで訣れてしまったのだろうと、考えるともなくわが道程を振り返っていました。

 ところが、思わぬところから「コミュニティ性」に関する答えが降りてきました。一昨日(11/11)、山へ出かけ登山口にたどり着けずに帰ってきた日、録画していた昔の映画を観ました。

 マイケル・ムーア監督「ボーリング・フォー・コロンバイン」(原題: Bowling for Columbine、2002年)。コロンバイン高校で二人の生徒が銃を乱射して同級生を多数殺害して自殺した事件がなぜ起こったのかを追って、インタビューで構成したドキュメンタリー映画です。

 子細は省きますが、そのなかの一つのプロットでムーアは、デトロイトの対岸にあるカナダの街を取材し、どの家も鍵をかけていないことを知ります。インタビューを受けた人たちは「えっ、どうして?」と鍵の必要性を考えたこともない気配を漂わせて、銃をもたないではいられないアメリカとの対比をして、どちらが良い社会でしょうかと(言外に)ムーアは問うています。それをみて先ず思い出したのは、コロナウィルスが広がるアメリカから逃れて、カナダへ移住する人が多くなったという10月のニュースです。第1回の大統領候補の討論会が、罵声を浴びせるトランプの振る舞いに驚かされたころだったと思います。アメリカ人にとってカナダってそういうふうに見えているんだと、新発見をしたような気分でした。

 そう言えば半世紀も昔、日本人は空気も水も安全もただだと思っているとイスラエルを引き合いに出して日本文化を揶揄する本が流行したことがありました。そのあたりから、気分的にはわが心に鍵をかけるようになったのでしょうか。

 カナダの人たちが鍵を掛けないということは、社会に対する信頼を表しています。インタビューは貧困層の男性にも行われていました。彼は「そりゃあ失業しても、社会保険制度がきちんとしているから、(暮らしの)心配はしていないね」と応じていました。つまり社会的格差に対する心配りが、カナダという社会を落ち着いたものにしているようです。社会秩序というのは、軍隊で護るべきものではなく、人が安心して暮らすことのできる空間、つまり「かんけい」をつくることなのですね。

 カナダ人の社会に対する信頼と昔日の日本のそれとが同じとは言いませんが、でも、性善説とか性悪説とか、自助・共助・公助という分別を無用にする「社会に対する信頼」が慥かにあったと私は感じています。それが雲散霧消してしまった。

 いつ、なぜ、どのようにして? と疑問は次々に湧き起ります。たぶんそのあたりに、「コミュニティ性」を取り戻す「鍵」があるように思うのですが…。でもいま、ここまで来てしまった日本の社会が、果たして、社会的信頼を取り戻すことって、できるのでしょうか。コロナウィルス禍の下で、密にならず、社会的距離をとって、しかもある程度生活物資を地元で調達して地元で消費することのできる社会関係が望まれているのですから、今こそコミュニティ性を見据えた社会をつくるチャンスだと思うのです。たしか京都大学の広井良典さんが、『人口減少社会のイメージ』という本で書いていたことが、ちょうどwith-コロナ時代の、社会イメージに近いのではないかと思い当たります。

 誰か、どこかで考えてくれているのでしょうか。

2020年11月12日木曜日

頑張らにゃあ、バイデン・メトロノーム

 ますます勢いを増しているコロナウィルス。第三波の到来と東京都医師会長が言明した。全国のあちらこちらで、感染者数の新記録を更新している。

 にもかかわらず、そろそろ自粛という「閉門蟄居」に我慢ならなくなった高校同窓の後期高齢者が、いい加減、覚悟してやりましょうよと、延期しているSeminarの実施を要望してきた。ではと、11月末のSeminar開催案内をおくった。

 すると、欠席連絡があったのは2名、判断に迷っているのは2名、あとは十数名が出席の返事をしてきた。皆さん、東京、埼玉、神奈川の在住者ばかりだから、どの県も、感染者数は、高い水準を維持している。いつも使っていた会場は、医療関係の大学とあって、さすがに5人以上の会合禁止で借りることができなかったが、新橋の繁華街にある「鳥取・岡山アンテナショップ」が会議室を貸してくれることになった。会食するなら借用料は無料と4時間の使用が認められた。

 シャーロックならぬ、ステイ・ホームズの大冒険と呼んで、開催が決まった。

 でも、この皆さんの気分は、なんだろう。自粛を「我慢できない」ってこと? コロナウィルスと共存していくしかないのなら、それぞれが自衛策を講じて、それでもだめなら(人生を)諦めるしかないとカンネンしたということか。いずれにしても、なんとなく共通する感覚が流れているように思える。

 顔を合わせることもなく、日頃ばらばらに暮らしている私たちが、TVや新聞やラジオを通じて接している「世界」の動向が、わが身の裡に何がしかの同調する波長を引き起こし、心裡に似たような感覚を呼び覚ましているということではないのか。つまり私たちは、ふだんから、顔を合わせ、振る舞いをみているうちに、なぜか同調する気分を内側に醸しだしているのである。

 そう気づいたのは、みるともなくみていた昨日(11/11)のTV「ためしてガッテン」。コロナウィルスのせいで、リモート会議が盛んだが、なんとなくリモートだと会議が盛り上がらない。参加している人たちもアイデアが浮かばない。なんとなく、仕方なくその場に顔を出しているような気配が漂っている。それを、身ぶり手ぶりを入れ、うなずく人がいると、俄然発言も、リモート会議参加の皆さんの顔つきも違ってくる。

 それにかこつけて、「お題」を与えられた「天才ラッパー」の、ふだんの韻を踏む「スウィング」の回数を、まず数える。その後に腕を胸の前に組み動きを封じて「お題」を与えて、同じようにやってもらうと、なんと半減する。つまり発言者、あるいはラッパー自身も、体の動きが言葉を繰り出していく技に連動しているということがわかる。

 つまり語り手も、同席する人たちも、身ぶり手ぶりを交えて話したり、それをうなずいて聞いたりする聴衆がいることで、俄然、話の内容も弾み方も、大いに変わってくるということだ。

 いつであったか、東大の心理学研究でメトロノーム百台を同じ台の上に乗せて、それぞれを勝手がってに動かしたところ、ほんの数分で、百台のメトロノームが同じリズムを刻むようになっていたという実験を思い出した。私たちは情報メディアを通じて、日本社会とか、世界という同じ「台」の上の載って、勝手がってに動いているメトロノームなのだ。いつ知らず、なぜともわからず、身のリズムが同調する。コロナウィルスの蔓延と自粛、しかもその動きが日本ばかりか世界を一つにしている。つまり世界が一つに感じられていることが、いっそう同調性を誘ったのかもしれない。

 そう考えると、トランプの登場とヘイトスピーチの蔓延や人種差別的な、あるいは難民排斥的な動きなども、ある種のメトロノームの同調とみてもいいかもしれない。ずいぶん大雑把なみてとり方だが、ヒトの暮らす世界って、案外、そういう単純な共鳴装置を携えて、この時代まで生き延びてきたのかもしれない。ホモ・サピエンスとして。

 さあ、どうなるかはわからないが、11月末のSeminarをやってみて、あとで考えてみようと思っていたら、傍らからカミサンが「あなたも頑張らなくちゃあね」と声を掛けた。

 うん、どうして? 

「バイデンって、1942年生まれ。あなたと一緒よ」

 そうか、Seminarの面々は、1942年生まれと1943年の早生まれ学齢の同窓生だ。そうか、アメリカと学制は違うから一緒にはできないが、でも、私たちと同じ学年だ。それで、これからの四年間アメリカの大統領を務める。トランプとそれを支持する7000万人余の軍勢を相手に、世界最強の国家の首長として大立ち回りをやろうという気概をみよってわけだ。

 そうか、年寄り面して、のほほんと過ごすわけにはいかないのか。、それもいいか。同年齢の頑張りをみていると、こちらも少しは、元気が出るかもしれない。

2020年11月11日水曜日

登山口にたどり着けず――氷室山・十二山

  今朝6時半、車で家を出て山に向かった。お今週は、山の会の山行がお休みの週。いつも一緒に付き合ってくれる相方夫妻が、月に一回くらいは休みを入れたいというのでお休みにしている。だが、このお天気の良さ。私の身はうずうずしている。そこで、日帰りの山としていくつかピックアップしていた山のうち、栃木県の氷室山と十二山へ下見に行ってくることにした。標高は1100mちょっと。かつて山の会で上った根本山とか熊倉山の北にある。

 登山口は、佐野市葛生町に流れ下る秋山川に沿って走る林道・大荷場木浦沢線を上り詰め鹿沼市と佐野市が境を分けるあたり、標高940mほどのところにある。葛生の町からひたすら20km余、山間の谷を走る。バス停があるところをみると、一日に何本か往き来はあるようだ。15キロほど走ったあたりに工事の人たちが十人ほど集まっている。朝8時前。これから川に沿う道路の改修工事に取り掛かるのであろう。

 ところがそこから1・5kmほど入ったあたりで舗装は途絶える。いよいよ砂利道の林道にかかったところで、沢を渡るコンクリートの橋が架設途上であり、その先の道が閉鎖されている。

「これより先、車だけでなく、登山や釣りの歩行による通行もできません。 佐野市」

 と看板が置いてある。ご丁寧に短いガードレールでふさいでいる。傍らの高台には茫茫としたお寺があるが、無住の寺のようだ。登山口まではまだ4キロほどあるのではなかろうか。引き返すしかない。新設橋工事用の鉄板の上を踏んで車を回し、下りにかかる。

 先ほどの工事関係者はまだ屯している。車を止め、「どなたか話を聞かせてくれませんか」と声をかけると、一番手近にいたアラフォーの方が寄ってきてくれた。行き止まりになっているわけを尋ねた。おおむね以下のようなことをきかせてくれた。


 去年の台風で林道が崩れ、補修がつづいている。今年はこの先の橋の付け替え地点まで予算がついているので、それを春までに仕上げる。でも、その先の工事は来年度で予算がついても、沢の流量が多い6月から10月までは工事はできないから、早くても再来年の春、しかも全部に予算措置ができるかどうかわからないから、いつになるかわからない。 


 じつは登山口には、鹿沼市側から入る道もある。そちらはどうなっているかわかるかと尋ねた。わからないが、たぶんそちらも、どこかから先は通行禁止になっていると思うと、話してくれた。昨年10月の台風19号の被害は、ほんとうに山にダメージを与えているようだ。

 だめだこりゃあ。今日ダメというだけではない。この先何年か修復は適わないだろう。

 そういうわけで、引き返してきた。どこか別の山に向かっても良かったのだが、こういうときに地図ももたず踏み込むと不運に見舞われると、私の経験的警報装置がアラームを鳴らす。そうだね、今日は、家に帰って本でも読みなさいと天の声が響く。

 行った道をそのまま引き返して、10時には帰着。お昼は弁当がある。テルモスにお湯もある。お茶もスポーツドリンクもある。ボーっと過ごす条件がすべて整っている。大掛かりな散歩をしてきたようなものだね。

2020年11月10日火曜日

過ごしやすい季節――全焦点的拡散

 いつもの年より暖かいのだろうか。朝、窓を開けると流れ込む外気が寒くもない。もちろん暖かくもない。涼しいというのは暑さを感じているからだから、これも似つかわしくない。さわやかというのが感じる気配だ。でも、気温の表現に何かが加わっているようで、身を包むまるごとの気配という感触の心地よさを表している。

 外を歩くのが気持ちいい。でも(目的もなく)何時間も歩くというのが、街なかだとどこか似つかわしくない。山を歩くのだと、何処へ向かうか目的地がはっきりしている。しかも、凸凹の足元に気持ちを集中し、バランスをとるのに身が反応するから、ほんの少し歩くだけで瞑想の境地に入ることができる。ほかのことが考えられず、意識が澄明になる。

 ところが街なかだと、足元にはほんの少し、ときどき気を向けるだけで、たいてい障碍なく歩ける。と、あれやこれや胸中を去来することが雑多に混沌としてくる。気持ちは澄明にならない。誰であったか教育学者が、散歩が一番の贅沢と言っていた。目的もなくぶらりぶらりとさまよう境地をそう呼んだのだったが、こんなに猥雑な思いが行き来するようでは、とても贅沢とは思えない。ゴミ一つ落ちていない道路、穴を塞いで補修された路面、傍らの貸農園で大きくなったネギを収穫し、一束ずつ新聞紙にくるんでいる夫婦、たわわに実る柿の実を長枝ばさみで獲っている年寄り、幼い子が補助輪付きの自転車をおっかなびっくりで漕いでいる背に、手を当てるか当てないで一緒に歩いているお父さん。今日は平日なのに、ひょっとすると休日出勤のサービス業なのだろうか。目の配りどころと胸中に去来する思いとが、山歩きとは全く違って、でもまあ、これも一つことに意識を集中させない点では、澄明と言えなくもないか。

 ちょうど探鳥の達人たちが鳥を見つけるときの目の焦点の話を思い出す。どこかを見つめていたら、鳥は見つからない。ことにさえずりの季節を終えて、子育てになったときには、鳥は鳴かない。意識を平らにして目をみるともなくぼんやりと全体を視界に収める。そうしていると、隅の方の小さな動きも目に留まるようになる。その話を聞いたとき、私は、物見の話を思い出していた。物見というのは、戦場における斥候のこと。部隊に先駆けて、フロントの様子を探りに行く。ヨーロッパ戦線では、広い平野の何処に敵兵が潜み、戦線を張っているか見落とさないために、高い地に身をひそめて、平野部を視界に収め、一晩過ごすこともある。そのとき斥候は、目を皿のようにして始終ぐるりを見回すのではなく、ぼんやりと何も考え全体を視界に収めてみるともなく見る。そうすると、遠方の片隅でちょろりと動く影をとらえることができる。つまり、集中するとみえないものが、焦点を絞らないとみてとれるという逆説的な身体と意識の不思議だ。

 瞑想は、したがって意識の焦点的集中ととらえるよりも、全焦点的拡散とみた方が良い。何も考えてはいない。だが意識は澄明である、と。ひょっとすると目的をもたない散歩も、あれやこれやに目移りがして、歩くいているときに、おや、何処へ行くんだったっけとわが身を振り返るような心持になっている瞬間が、一番の贅沢と言っていたのかもしれない。

 目的をもたないと自分がどこにいて何をしているかわからなくなって不安になる。と言って、一つことにばかり集中しているのも、身が細くなるようで我慢ならない。斥候も実は、何を見つけるのか、しかとは分かっていない。だが状況の変化をいち早くとらえて、それがなんであるかを見極め、あるいは見極められないがナニカアルと感じとって読み解こうとする。

 そういえば昔、誰の作品であったか『ものみよ夜はなお長きや』という小説があったなあ。あれも、時代の先を読むことを象徴した作家の作品だったかなと、焦点を合わせない目配りの仕方に重ねて記憶をたどっている。

 案外、全焦点的拡散、ちゃらんぽらんが世相や時代を良く読み取るのかもしれないと、我田引水してほくそ笑んでいる。

2020年11月9日月曜日

断裂の裂け目

 昨日の話につづけます。MさんやWさんとのやりとりで大きな「断裂」を感じたのは、以下のような点でした。11/6ブログ「この断裂の深さ」に掲載したおおむね本文のままの(メール)からピックアップします。


(1)《私からすると末尾で、「別荘使用だから、無断伐採されてもやむをえない」「Mが人生相談している」に対しやんわりと苦情を申し上げました。》(メール2)

「無断伐採・・・」については昨日記しました。「人生相談・・・」云々は、「コミュニティ性」に関する私のモンダイ提起がMさんの個別具体的な事例にどう対応するかという提起ではなく、(一般的に社会に共通する)社会学的な考察だと述べる過程で(「人生相談に応じているわけではありません」と)記した表現です。それを「Mが人生相談している」と読み取るなんて、ひどく防御的ですよね。ひょっとするとMさんは、ふだん周りの人たちからいじめられているのかなと思ったほどです。


(2)《改めて読むと、「社会集団の常識と言葉、感性や感覚が、団地の管理にかかわりあって醸し出す場の空気をコミュニティ性と(Fさんが)名づけた」のですね。私が「コミュニティ性」という言葉を、すっとは理解できなかったはずです。》(メール2)

 Mさんが「理解できなかったはず」というのが、何を指しているのかわかりませんが、推察するに、「コミュニティ性」に関する「定義」のようなことを期待していたのかもしれません。人に言葉を伝えるために、よく「自分の言葉で言え」ということを言います。上記引用文中の私の言葉は、文脈(あるいは論脈)に応じて意を通じようと用いた表現です。「コミュニティ性」という言葉自体、私が持ち出したものです。どこかに「定義」があるのかどうか知りませんし、もしあったとしてもそれがどれほどの「権威」をもつのかは、用いる人それぞれが自分の思いを込めてその場で自己規定するものだと思います。ひょっとするとMさんは、言葉の「定義」はアカデミックな世界で規定されて、それを庶民は用いていると思っているのでしょうか。これはこれで、場を改めて考えなければならない、面白いテーマだとは思いますが。


(3)《私の生活実感とは違うなと感じました。典型的には、「個々住民の関係構築をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティを形造ってきたツケがまわってきているのではないか」「公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっています」の部分です。…むしろ、どんな生活をしたら、こんな実感を持つようになるのだろうかと、驚きました。私は、東京でも松本でも、機会があれば積極的にご近所と話をします。相手は限られますが、まれには私も妻も、家の前で咲かせている花をきっかけに通りすがりの方とも話します。》(メール2)

 ご近所付き合いを「コミュニティ性」と受け取っているように思います。出会えば挨拶をするとか、混雑する街で知らない人とすれ違うときも、はい、ごめんなさいと言葉をかけるというのも、たしかに「コミュニティ性」です。ただ、ヨーロッパなどを旅すると、「エクスキュズミー」とか「パルドン」という言葉を街中でよく耳にします。言葉を掛け合って(知らない者同士が)敵意がないことを示していると私は思ってきました。日本では、混む電車の中でも乗り降りのときにそのような言葉を掛け合っている声を耳にしません。山を歩くと日本でも「こんにちは」と挨拶を交わすのは、敵意がないことを示すというのではなく、同好の士が山(自然)を共有している共感の思いを表現しているのだと感じています。つまり、日本の場合、知り合いのあいだでは挨拶もし、声も掛け合うけれども、見知らぬ者同士がそのような「かんけい」をもたない。そこがかつての村落共同体の「コミュニティ性」と都会地の「コミュニティ性」の違いなのではないかと思います。

 このコミュニティ性の違いが、社会設計や公権力の発動に関しても、大きな差異を産んでいるのではないかと私は想定していますが、それについては、次の項で触れましょう。


(4)《私は、「これまでの共同体論の多くは、社会システムをどう構築するかということに焦点」という議論はその分野に関心なかったので、まったく知りません。「社会システムをきちんと構築すれば人々の 暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」も持ちません。「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」ことは、超現実的存在=Good(ママ)にしかできないことで、現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇です。「これまでの共同体論」に、本当にこんな議論があるのでしょうか。私には、信じられない議論です。》(メール2)

 これにはちょっと遠回りの説明回路が必要です。上記(3)の、「コミュニティ性」に関するヨーロッパと日本との違いが大きく影響していると思うからです。

 日本人は(とすぐに海に囲まれた日本特殊のように表現しますが、じつは、それ以外のアジアとかを知らないのです)、ヨーロッパ的な見知らぬ人たちとのかかわりを経験しないままに近代の市民社会へ突入したように思います。ここで市民社会というのは、互いに見知らぬ人同士が社会の場を共にし、市場などを通じて交換関係をかたちづくっている「かんけい」を指します。

 いやそうじゃないよ、という声が聞こえてきそうです。たとえば「日本人」という概念自体が、じつは「見知らぬ者同士がお互いを“同胞”として認知している」ことを指しています。でもその根底には、同じ言葉を話すとか、同じ食べ物とか調味料とか文化を体験してきているとか、同じ島国で生まれ育っているという共通の自然体感が“同胞”意識を生み出しているのだと思います。そして近年これが、大きく変わり始めていることで、人びとのあいだの共有感覚が変化しはじめ、齟齬をきたしているように思えます。

 ヨーロッパの人びとは、外国の侵略につねにさらされている緊張感の中に暮らしています。また、見知らぬ国の人々が数多往き来するという市民社会です。たとえば「移民が多くなって困る」という右翼民族主義的な動きが発生しているフランスなども、海外からの移民の割合は2割近いパーセンテージに迫っています。彼らは、「他者」との向き合い方に鍛えられ、かつ、他者と向き合って暮らす暮らし方に知恵を傾けて、長年かけて身につけてきました。

 日本の、近頃多くなったと言われる外国人の割合はその10分の1以下です。つまり日本人は、ヨーロッパ人のような「他者」と(庶民は)出遭っていません。私の生育歴中の実感では、もっと小さな「くに/郷里」が保護膜のようになって暮らしていた時期から、一挙に近代の市民社会を迎え、自律的な個人として振る舞えることに、あるいは喜びを感じ、片や戸惑いを感じながら、社会的な作法を作り出してきたのです。貧困も差別的な抑圧も、社会的な解決は行政的な仕組みによって作り出されることを、イメージしてきました。しかも高度消費社会と一億総中流という社会を経たことによって、資本家社会的市場が個々人をむつびつけて社会関係を取り仕切り、それ以外のことは行政が整えるという感覚を「公共性」としてもつようになったと、私は考えています。お金さえあれば対等に遇してくれる資本家社会的市場経済にすっかりなじんで、自由な個人は羽根を伸ばしてきました。

 社会システムの構築「という分野に関心がなかった」と過ごしてきたのも、伝統的な自然感覚がそのまま保持されているからではないでしょうか。

 庶民がそうであることと逆に、為政者(官僚や行政の首長や政治家たち)は、どのような社会構成をしていけばいいのかと考え続けてきたと思います。どう考えたか。庶民が自然に身につけた「保護膜」である共同関係の団体(これは「くに/郷里」であったり「家族・家庭」であったり「学校」であったり「会社」だったりした)が、自生的にかたちづくって来たものが、社会の変容によって揺れ動くのをどう補正し、どの方向へもっていくかと思案してきたといえます。ま、「お上」に任せてのほほんと暮らす最大のインフラが「官僚的行政組織」だったわけですね。

「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」、それがエリートといわれる「お上」のつねに考えているテーマでした。「社会システムをきちんと構築すれば人々の暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」をもっていたのは、下々の方です。しかも高度消費社会の実現ということもあって、バブルが弾けるまではリアリティを持っていました。いまだって、夢よ再びとアベノミクスに期待してきた人たちが多かったではありませんか。

 それを、「超現実的存在=Godにしかできないこと」というのは、社会設計とその実現過程とを混同した言い方です。日本の官僚組織がエリートとして評価されてきたのは、まさに神がかり的な(国民への)奉仕の精神が備わっていたことへの尊崇の思いでした。モリカケ問題で(隠蔽工作に携わらされて)自裁した末端官僚の思い(国民全体への奉仕者ではないのか)が、この原点を照らしていることは言うまでもありません。しかし、すっかり社会政策の展開場面を資本家社会的な関係の舞台に限定してしまったために、尊崇の念は剥落してしまいましたね。今となってはまさに、「現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇」になってしまいました。でもこのことは「信じる/信じられない」という議論のモンダイではありませんよ。1960年頃からの日本の行政過程を考察してみれば、いくつでも見ることのできる事実です。もちろん政治家の思惑や不埒な官僚の振る舞いをあげつらえば、いくつでも疑念をもつことはできますが、全体としてそれなりに機能してきたことは「理念的な公務員の位置づけ」が生きていることを示していると私は、思うのですがね。


(5)《また、「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置くというのは、安定した暮らしの基本」なんて、他人に自分の暮らし方をまかせるなんていう恐ろしいことは、私はできません。そんな完璧な「社会システム」は、あり得ないからでもあります。》(メール2)

「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置く」というのは、行政的な社会政策は「科学的知見に基づいて構築される」ことを良しとしてきた、戦後社会の一般的な傾きを表現したものです。ことに1990年代、IT社会に入ってからの社会政策の構築は、アーキテクチャと呼ばれて設計的に運ばれました。監視カメラがそうです。道路設計もそうです。昨日のこのブログで触れた1960年代のサイバネティクスやフィードバックの、「議論」であったことがITの助力を得て、全社会的に作動し始めたといえます。それと同時に(単純化して言えば)、従来の「規律訓練型の学校教育」は無用とみなされ、市民一人一人の要望に応えることのできる社会構築へと「制度改革」が検討されています。

 私からみると、それ自体が矛盾を孕んでいて、それに適応する人間が自らを変貌させていってしまう問題を生み出すと思えます。

「そんな完璧な「社会システム」は、あり得ない」というのは、その通りです。でも、だからと言って、そのような社会システムを志向することはあり得ないのでしょうか。こういう文言を吐くMさんは、じつはモノゴトを実体的にとらえていて、関係的にみていないのではないか。人も社会も、かかわりながら変貌していくことを承知していれば、GODだの完璧な社会システムだのを想定すること自体が、あり得ないことなのです。


(6-1)《…人間を、「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」なんて、そんな社会は勘弁してくださいと、誰しもが思うでしょう。まず人間ありきではなく、社会システムありきなんでしょうか。まず「人間ありき」であるべきです。》(メール2)

(6-2)《「社会システムを固定化して、それに合わない人間をバグ・ごみにしてしまう」は、既視感があるぞと感じました。そうです。今の中国です。中国の社会システムに合わない「香港の民主波」や「チベット系」をバグ・ごみとして扱っています。》(メール3)

(6-3)《社会システムばかりでなく人間は他人をゴミ扱いしています。私も自らの中にそういう意識があります。私にとってトランプや菅はゴミです》(メール4)

 どういう文脈で、この言葉「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」が出て来たのかをみないと、何を言ってるのかわからないと思います。人を「バグ:ごみ」にするというのは、デジタル社会のアルゴリズムに乗れない人の本性のことを指摘したものです。YES/NO的な選択で次へ次へと展開していく回路では、迷ったり、戸惑ったり、選択を棚上げにしたりすることは、処理回路から外れるということです。例えば電車のチケットを買うときに、何処へいくのか決められないで行き先ボタンが押せなかったら、機械処理はそこでストップしてしまいます。つまり人間的なありようが許容されず、つねにYES/NO的に選択を明確にすることへ、人が適応するようになっている。そのデジタル社会のシステムでは、私たちアナログ育ちは「バグ:ごみ」ですよと自虐的に笑いを取ったつもりでした。それは「勘弁してください」というので済む話ではありません。ましてそこへ、「まず人間ありきであるべき」というのは、デジタル社会の在り様をとりあげるに足らないモンダイと、みているように響きます。

 まして(6-2)のように、中国や香港やチベット系の処遇をめぐる問題に限定した話でもないのです。(6-3)のように「トランプや菅はゴミ」などとなると、もう最初の「バグ:ごみ」の提起は、なんの話だったか雲散霧消してしまっています。


 長々と断裂の裂け目に焦点を当ててきました。なんだ、おまえさん、おちょくられているんだよと言えば、それですべて片づきます。でも、なんでこんなに言葉が通じないのだろう。アメリカの大統領選を観ていても、あの熱狂的な共和党のトランプ支持者、(それがあるからかもしれないが)対するバイデン支持者のやはり熱意溢れる街頭行動、しかもそれがコロナウィルス禍の下で激しく行われているという事実。そこでも言葉が通じていないのだろうか。それとも、「民主党でも共和党でもない。わたしはアメリカの大統領だ」というバイデン次期大統領の勝利演説は、トランプを支持した人々の心にどのように届くのだろうか。ずいぶん次元の違う話のように思えもするが、重なり合って私の胸中の木霊しているのです。

2020年11月8日日曜日

「コミュニティ」への価値意識

 はじめに目くらましにあっているみたいと感じた、同窓先輩Wさんの「かつて大徳村にいた農民岡村仙右衛門(現在の茨城県龍ケ崎市大徳町辺り)」の「無頼漢」の話とは、争いが絶えず、訴訟合戦になったものを幕府権力が利害調整するという「江戸期末の農村コミュニティーの姿」を紹介したものです。でもそれを、現代社会のコミュニティ論に持ち出して、どう読み取ろうとしているのか、わかりませんでした。


 Wさんは、

《そのようにコミュニティーには限界もありますが、知識でしか過ぎなかった村落共同体つまりコミュニティーの存在と活動を私は古文書を通して具体的に知りました》

 と続けます。つまり、「コミュニティ」を村落共同体と同様のものとみているばかりか、現在自分が身を置いている社会集団のこととは、別のものと認識しています。

 これでは、私の「コミュニティの社会学的考察」と噛みあわないわけです。

 さらに続けて、

《そういう(団地建物の維持管理の)必要から生じた、自然発生的なコミュニティは大いに重要だと思っています》

 と、私の「社会学的考察」もありだと肯定したうえで、

《しかし、此の頃のコミュニティー強調論は、どうも手抜きをするためのコミュニティーのような気がします。老人や病者の介護をコミュニティーでやるべしというのは、権力が税金をデタラメに恣意的に、使い放題に使って、そのツケをコミュニティ論を美化し、煽り、持ち上げてやらせようとしているように思われるのです。利用しようとしているのですね》

 と、公権力の意図的な操作とみて非難しています。


 まず、私の団地管理組合における取り組みは「自然発生的」なものではありません。10/31の「どういう角度で「コミュニティ性」を取り上げているか。」でも述べましたが、国土交通省の「模範法」に拠る指導に基づいて(マンション建設業者の起動によって)設立されています。「自然発生的」ではなく、公権力の「指導」という古典的な「お上」による民草への、共助の方向性を(建設業者を媒介にして法的に)授けたものです。むろんそこには「利用しようとしている」要素もないわけではないでしょうが、集合住宅の区分所有というこれまでになかった「所有関係」をめぐる争いを事前に(居住者が)自前管理できるように制度設計をして、調整している姿でもあります。

 そして気づくのですが、「此の頃のコミュニティー強調論は、どうも手抜きをするためのコミュニティーのような気がします」という見立ては、本来そういう(調整は)公的な行政機関が直に乗り出して行うべきものであって、それを管理組合の自前管理に任せようというのは、行政機関が「手抜きをするための」便法だとみなしていることです。そうでしょうか。


 この区分所有法が最初につくられたのは1962年。ちょうど新築の「高島平団地」が都市の新しい住まいとして紹介され、テレビに(当時の)皇太子夫妻が訪れてキッチンやダイニングルームに風呂、トイレも組み込まれた「3DK」とか「2LDK」ともてはやされたころです。今から振り返ると、これが高度経済成長に向けての人口移動政策であり、逆にみると、農村の最終的な解体でもあったわけです。私などもその社会的な流れに(それとは気づかぬまま)乗って、東京に出てきた口でした。

 じつは1963年頃に私の所属する大学のサークルでもやりとりされていた「話題」に「サイバネティクス」とか「フィードバック」という言葉がありました。当時農学部の学生であったサークル・メンバーのひとりが「これからは、これだよ」と盛んに口にしていて、「理科学系の試行錯誤の知的蓄積」の方法論かと思っていました。のちに、このあたりから人間の振る舞いを工学的にとらえて社会設計に組み込む時代に入ったんだと思ったものです。別様にいうと、国家権力が民衆をただ単に搾取して利用しようという時代から、フーコーのいう「生-政治」の時代に入っていたんだと(遅ればせながら)気が付いたわけです。

 ところがWさんは「……権力が税金をデタラメに恣意的に、使い放題に使って、そのツケをコミュニティ論を美化し、煽り、持ち上げてやらせようとしているように思われる」と、国家権力による操作として「コミュニティ論」をみていることがわかります。逆に私は、そういう時代はもうとっくに終わっていると感じていることに気づかされたわけです。

 なるほど国家権力による陰謀論的な操作によって「コミュニティ論」が提出されているんだとなると、私の「コミュニティ性」の提起が「金無垢の正論」と揶揄いたくなるのも、わからないでもありません。(Fは)踊らされているとは思いもよらず、団地管理組合の理事長を務めた勢いで、片棒を担いでいるわいと思ったのでしょうね。

 私の立論の起点を抑えながら、振り返ってみます。


 まず、団地管理組合が建物の維持管理の意思決定を自前で行うのは、当然のことだと考えています。

 近頃の高層マンションは管理人のことをコンシェルジュとフランス語で呼んで、新しいシステムのように見せていますが、要は、管理会社に全面的に委託しているにすぎません。いわば商取引です。もちろんそれを拒否するのがいいと、ひと口にはいいませんが、自前でできるだけやって行こうというのが、(さして金持ちでもない私たちの)矜持のように思っています。

 たまたま集合住宅であったがために、戸建て住宅の持ち主が(わがままに)自己決断することを、管理組合の理事会や総会でやりとりしなければなりません。でも少し子細に考えてみると、戸建て住宅の場合は、家族で言葉が交わされることになります。それがスムーズに運んでいるかというと、たぶんそうではないことがいっぱいあると思います。夫婦の間にだって齟齬があります。親子の間となると、もっと大きなズレが生じているかもしれません。単なる住宅の補修管理と財源という問題なのに、ほかのコトゴトが絡み合って、日ごろの不平不満が噴出して収集がつかなくなるってことは、他人でないだけに余計めんどくさくこんがらがってしまうかもしれません。つまりそれが「コミュニティ性」なのです。

 こうも言えましょうか。私たちは暮らしていくうえで、いろいろな他者と出逢い、言葉を交わし、いわば、齟齬と利害の調整を行わなければなりません。それを市民社会では、問題の局面ごとに限定して取り交わします。行政が取り仕切るのだけが公共性ではなく、それぞれの社会団体がその限定された局面において調整機能を発揮し、「かんけい」の縺れをほぐしていくのが、「コミュニティ性」だと思います。しかし、いうまでもなく、他者と向き合うわけですから、いいことばかりではありません。意に反する(つまり自分の意思が組み込まれない)調整が行われることも少なくありません。そこに、自分と他者と調整機能を果たす(他の他者がとりしきったり、長年の慣習でそうなっている)団体のルールや規範も、かかわってきます。それは(総合的俯瞰的にみると)あたかも、人類史が総集されたような「混沌」の展覧会のように見えるかもしれません。

「コミュニティ性」というあいまいな言葉が必要なのは、言い当てようとすることがらがこれこれと名指しできる実体をもった集団とは言えないからです。そこに集まる人々がもちよる身に付いた振る舞いや言葉、「情報」や知見の繰り出し方、対立や合意を形成する手順や重点の置き方、権威や習わしの傾き、異なる意見を組み込む度量などなど、ありとあらゆる「人類史的遺産の堆積」が交錯するからにほかなりません。

 ちょっと横道にそれますが、今回のアメリカの大統領選挙は、この様相をよく表しています。ああ、これが民主主義なのだと私は、感心してみています。「#ミー・ファースト」のトランプが、4年間を通じて全米に沁みわたり、半ばの人々の(憤懣の)心をとらえていることも、よく見て取れます。それを毛嫌いする(民主党を支持する)人々の(憤懣の)勢いも、敵を見つけた喜びにあふれて噴き出しているようです。

 古代ギリシャの民主主義時代に(おおよそ一万人の市民を相手に)弁論術が流行ったというのも、この選挙のやりとりをみていると、むべなるかなと思います。と同時に、ソフィストたちのむなしい言葉のやりとりに辟易して、ソクラテスという人が違った次元を切り拓く振る舞いをして、後世に残る哲学的なメルクマールを画したのも、その時代の溢れる言葉の空虚さが限界に達してもたらした時代的な精華であったようにみえます。

 いまの民主主義も、そのような転機を迎える限界領域に来ているのかもしれませんね。


 話を元に戻します。

 日頃私たちは「コミュニティ性」に包まれて暮らしています。それをそれと意識しないでいることを「コミュニティ性の消失」と私が名付けたことが、いけなかったのかもしれません。

 意識しないで、どうやって過ごしているか。誰かに預けてのほほんとしている。ボーっと生きていると言ってもいいかもしれません。誰に預けているのだろうか。それを意識しようではないかと、問題提起したつもりであったのです。

 だから「コミュニティ性」という言葉に善し悪しの価値は埋め込んでいません。「コミュニティっていいことばかりではない」とWさんはいいますが、そんなことは言われなくても当然のことです。人類史的な遺産が、いいことばかりといえないのと同じです。むしろ、言葉の原初に立ち返って「中動態的に」言葉を吟味することを、私も提唱したいほどです。いいも悪いも、まるごと組み込んで考えていきたいと思っています。

 でもそれには、もう一つ大きな、越えなければならない壁があったことが、同窓後輩Mさんの言葉からうかがえます。それはまた、後ほどに。

2020年11月7日土曜日

出来事を共有するって、どういうこと?

「コミュニティ性」に関するやりとりの不思議について、少し続けます。

 最初、同窓後輩のMさんが、敷地に立つカーブミラーが見づらいので樹木伐採をというご近所さんの申し入れとそれへの対応について書いていました。それを私は、「コミュニティ性」が消失している(社会事象)と読み、そう書き記しました。

 その論理的筋道は、こうです。


(1)カーブミラーは公共的な設置物と利用する方々はみている(にちがいない)。

(2)カーブミラーの設置がMさんの父親の「好意によって設置許可されている」ことは、その利用者にはわかっていない。市役所がそのように広報しているとは思えない。

(3)だからカーブミラーが見づらくなっているから、(Mさん宅の)樹木の伐採をして見えやすくしてほしいと(利用者が)市役所に申し入れるのは、「公共物の管理を行う役所としての仕事をしてほしいという市民としての自然な要請である。

(4)もしそうでなければ、ご近所さんを通じて(あるいは直接)お宅の樹木が邪魔だよ(伐採してよ)と要請することもできますが、定住していない方にそうお願いする機会がなければ、(3)のように市役所に要請するのもありではないか。昨年ご近所に要請して樹木を切ってもらったということがあれば、ひょっとすると市役所がその処置をしたのであろうかと、無断伐採を誰がしたかの推測をした。

(5)「ありがとう」と見下したような挨拶は、上記(1)~(4)と受け止めている「公共物カーブミラー」の利用を妨げている「私物Mさん宅の樹木」の伐採を(ご近所さんの要請に従ってか、市役所の要請を受けてか、誰がやったかわからないが)してくれたことに対して、感謝を述べたのであれば、見下すというよりも「公共性に応じてくれたことへの感謝」として自然な態度でもある。


 おおむねそのような「公共性」と「私物」とそれの恩恵を被っている市民(ご近所さん)の「かんけい」を考えてみると、「公共性:市役所の役割」と「私権:個々人の暮らしの都合/不都合」の間をつなぐ別の回路がない。それを「コミュニティ性の消失」とみたわけです。それは、Mさんの実家がある地方ばかりでなく、都会地でも日常的にみられる景色であり、高度消費社会を実現していま「失われた○十年」の最中にある私たち日本社会の日常的景観ではないか、と指摘したわけでした。

 ところが、同窓先輩のWさんから「金無垢の正論」と揶揄われ、Mさんからも「無断伐採の犯人が誰か」という話に焦点が向かっていました。Mさんはこう続けています。


《Fさんのコミュニティ性論から言うと、断絶を前提にした支所介在や無断伐採ではなく、依頼の挨拶をするのが大人というべきだろうというのが、私の立場です。》


 私は「断絶を前提にした」のではなく、Mさん宅の樹木伐採の経緯は「断絶していることを示している」と指摘したのでした。それは後のメールで、(4)の「定住していない」という私の指摘にからめて、以下のように受け取られていたことがわかります。


《Fさんは、「ふだんから顔見知りのご近所ならば、家を訪ねて依頼することもできましょう。しかし、別荘として使っていたのでは、ご近所さんもそうはできません」とされています。別荘のように使っているのだから、無断伐採を甘受しなければならないという感じに響きました》


 ええっ、と驚きましたね。私はそんなことは、一言も言っていませんし、文脈からしても「無断伐採を甘受しなければならない」という言葉につながる読み取り方をされるとは、思ってもいませんでした。ただ一つ、こういう想像力が働いていなかったとは言えます。それは(5)の文脈で《見下すというよりも「公共性に応じてくれたことへの感謝」として自然な態度でもある》という受け取り方ではなく、じつは、公共物の利用を邪魔しているMさんちの樹木(昨年も伐採をご近所さんにお願いして要請し応じてもらったのに、なんだこの樹木の伸び放題は。また今年も言われなければならないのかと腹が立って、こっちで勝手に切り落してやった)、でも無断伐採は私がやったのではないと示すために、「ありがとう」とにこやかに挨拶を知ったんだと、アリバイ作りをしたかもしれない場合もある。でもそれは、「コミュニティ性」消失と同じことを示していますから、論脈的には不可欠なことではなかったと思います。

 それよりもMさんは、ご近所さんがどうしてそのような振る舞いをしたと考えているのでしょうか。彼の思念が、実家のある地域をひとまず離れて日本社会全般の特徴的なモンダイとして「コミュニティ性」を考えるステージに乗らないのでしょう。そこをプッシュしようとしてメールしたのが、10/30「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」でした。

 昨日も紹介したように、それに対するMさんメールの書き出しが、「立派だった」「なかなかできない驚異的な実践でした」というお褒めの言葉でした。ああこれは、全然すれ違ってるわと、思いましたね。それで、《(まえおき)私は褒めてもらいたかったわけでもないし、自慢話をしたつもりもありません。今の私たちの置かれている時代と社会のことを申し述べただけです。》と前振りをして、11/3「情報量とコミュニケーション」をメールにして送った次第です。

                                            *

 カーブミラーと私邸の樹木伐採という出来事を巡って私は「現代社会」を考えてみようとしました。だがMさんもWさんも、そういう思考回路に乗ってきません。あくまでも暮らしの現場にこだわり、その個別性のままにモノゴトをとらえるというばかりでは、社会や時代を話題にして言葉を交わすことなど、できようはずがありません。もちろん私は、容易に一般化したり、普遍的なコトとみなして、特殊性をないがしろにすることを良しとは思ってもいません。でも、発生した事象を、時代や社会の共有する出来事として認知するためには、ひとまず個別性を保留し、一般性に目を移して、そこに位置づけてこそ、特殊性を特殊性として認知できるのではないか。その、ひとまず棚上げして思索をすすめるのが、「知的」ということではないかと思います。古典と謂われる本を読んでも、何百年とか千数百年前からの手紙を思って受けとめれば、今の時代のことに触れて刺激的であることを感じます。それは、その古典に記載されている出来事を、時代を越えて共有しているからにほかなりません。その第一歩で躓いてしまったのが、この、古い知人とのやりとりだったわけです。

 でもこれって、いま大騒ぎしているアメリカの大統領選と同じ地平を示していると思うのですが、どうでしょうか。

2020年11月6日金曜日

この断裂の深さ――「コミュニティ性」に関するやりとりの不毛

  大学のサークルの同窓生の先輩や後輩とのメールによるやりとりが噛みあわず、まるで泥田に踏み込んだように、一歩一歩、一言一言が私の意図と食い違い、ズレてしまい、モンダイにしようとしていたことが雲散霧消するように感じられて、困っています。まるで不思議の国のアリスになったみたいに、私の方が、世の中を見損ない、見当違いの判断をして、彷徨っているのかと思うほどです。

 不毛だから、やり取りをやめると言ってしまえば、それはそれで簡単なのですが、この57年程の時代的懸隔をおいて、取り交わす言葉(とそれの背景にある感性や感覚、社会観や世界観)のズレには、私自身が経てきた径庭とは違った道を歩いた人たちがいることを、明らかに示しています。ちょうど山頂から転がり落ちる石のように、山頂では同じ位置にいたと思っていたら、裾野の方に来てみると、まるで180度違った方向にいたという具合に、ズレています。言葉が通じないのかと思うほどの断絶を感じています。

 後輩のMさんや先輩のWさんが、どんな価値観を持っていて、こう(私と)言葉が通じなくなったかというよりも、私自身の転がって来た57年の、どこにどのような転換点があったかを検証することの方が、関心事になってきました。

 まずは、MさんやWさんと取り交わしたところをご覧いただいて、断裂の深さを読み取るところから、感じとっていただきたいと思います。

                                            *

 10/30の「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」という私の投稿にはじまるやりとりが、どうも噛みあいません。そう思って、私の体験した「団地コミュニティの社会学的考察」の一端を紹介するメールを打ちました。それが、このブログの11/1「どういう角度で「コミュニティ性」を取り上げているか。」です。

 それに対して、11/2に同窓後輩のMさんから以下のようなメールが送られてきました。少し長いのですが、噛みあわなさをみていただくために(改行や段落などは手直しして)全文を掲載します。


***(メール1)2020/11/2 「発端でもあり、横入でもある?」M

 Fさんの団地管理組合も、団地が新しい間は修繕問題も少なく、入居している人たちも比較的均質な背景なので、あまり大きな問題はなく、理事会・理事長の仕事もしやすかったでしょう。年月が経つにつれ、入居者の転勤やら、極端には死亡もあり、自分は住まないからと賃貸する人も出てくる。均質だった入居者(オーナー)が、それぞれの事情を持ち、多様化します。建物が古くなると、それだけ合意形成が困難になる反面、お金のかかる修繕が増える。両面での環境変化で、運営に苦労が増えるのだと思います。 

 「給水管・給湯管の更新工事に積立金を使うのは法令違反」と主張した人物への対処や、理事会を自分たちのフィールドに引き込もうとした修繕専門委員会への対処は、立派だったと思います。職場では、職員組合の機関紙として職場の週刊紙を発行したなんて、新聞会OBGの面目躍如。週刊で発行したなんて、なかなかできない驚異的な実践でした。すごいと思います。 

 自助・共助については、「親兄弟」だって、むずかしいと思います。サラ金で借金を作った息子を、親が助けることはできません。いやむしろ、そういう親がいたら、代わりに弁済なんかするな、そんな法的義務はないと、私なら助言します。親子の立場が逆でも、もちろん同様ですね。

 私の少年時代、部落に唖者の夫婦がいました。私と同年の女性の他に、兄と弟がいました。その家族は、同姓(同姓だったが、兄弟かどうかは知らない)の方の立派な家の横に少し離れて、仕切りのまったくない=土間と居室1つだけの小屋に住んでいました。まあ、その建物だけは、兄弟か親戚のよしみで提供してもらっていたわけでしょうか。私が生活保護という言葉を初めて聞いたのは、私の父親が、あそこは生活保護を受けていると話すのを聞いた時でした。まあ、兄弟ないし親戚では、今も60年前もそれくらいが限度でしょう。今は土地がなければ、それも無理。今は、60年前よりも、人々の生活からゆとりがなくなっている感じがする。共助を押し付けられたら、押し付けられた側が破綻します。

 ところで、10月30日11時07分のメールで、Fさんは、「ふだんから顔見知りのご近所ならば、家を訪ねて依頼することもできましょう。しかし、別荘として使っていたのでは、ご近所さんもそうはできません」とされています。別荘のように使っているのだから、無断伐採を甘受しなければならないという感じに響きました。いやしかし、私は波田に住民票を置いてはいないけど、既存コミュニティに参加し、作ろうとさえしています。無断伐採の前には、2か月以上連続滞在しています。 

 まあ、この問題については、私は結論を出しています。それは、私が市役所支所に出した文書に明らかです。10月30日20時28分のメールの末尾にも書きました。その結論は、「(公権力からでない、個人からの)依頼があったら自分で伐採する」「無断伐採があったら、市役所にカーブミラーを撤去させる」です。当たり前の対処だと、私は思っています。発端であるような、横入りであるような、私。

***


 言葉が足りなかったのかなと思いました。そこでこのブログ11/3「情報量とコミュニケーション」の文面に、


《(まえおき)私は褒めてもらいたかったわけでもないし、自慢話をしたつもりもありません。今の私たちの置かれている時代と社会のことを申し述べただけです。》


 と前振りをして(噛みあっていませんねと申し添えたつもりで)、メールを送信し、テントをもって山へ出かけました。帰宅してメールを開いてみると、以下の4通のメールが来ていました。アメリカ大統領選の開票が行われて、いずれとも決していないときです。これまた長々とつづきますが、「断裂」と私が呼ぶような事態であることを理解していただくために、おおむね原文のまま掲載します(やはり改行、段落、固有名詞は手直ししました)。


***(メール2)2020/11/5 「改めて読みました」M


>(まえおき)私は褒めてもらいたかったわけでもないし、自慢話をしたつもりもありません。今の私たちの置かれている時代と社会のことを申し述べただけです。 


(まえおき)私は無闇に褒めようとしたわけではなく、あれは率直な感想でした。また、私からすると末尾で、「別荘使用だから、無断伐採されてもやむをえない」「水沢が人生相談している」に対しやんわりと苦情を申し上げました。 

 スマホで読むと、文字がひどく小さくなるので、当初はじっくりとは読みませんでした。改めて読むと、「社会集団の常識と言葉、感性や感覚が、団地の管理にかかわりあって醸し出す場の空気をコミュニティ性と(Fさんが)名づけた」のですね。私が「コミュニティ性」という言葉を、すっとは理解できなかったはずです。 

 ただ、改めてFさんの10月30日11時07分のメールを読むと、私の生活実感とは違うなと感じました。典型的には、

「個々住民の関係構築をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティを形造ってきたツケがまわってきているのではないか」

「公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっています」

 の部分です。 

 むしろ、どんな生活をしたら、こんな実感を持つようになるのだろうかと、驚きました。私は、東京でも松本でも、機会があれば積極的にご近所と話をします。相手は限られますが、まれには私も妻も、家の前で咲かせている花をきっかけに通りすがりの方とも話します。 

 松本波田の方が、近所では話し相手がいません。西隣は旧知だけど話したがらなく、長かった前回滞在でも私から話しかけて2回ほど少し話しただけでした。東隣は工場で社長とまれには話す。裏のスイカ畑の耕作者とは、会えば必ずといってよいほど話すけど、耕作時期にしかいない。北隣(道路向かい)は、いつも忙しそうで、挨拶もしない。その100mほど先には義姉がいますが、これは兄が入院することになったのは私のせいだと逆怨みしているのか、ちょうど2年も、近くでありながら音信不通(今年正月には、年賀状代わりに送った『M新聞』を郵便受けに突き返されました)。散歩に出ると、よく働いている人に挨拶したりします。一過性の出会いです が、話がはずむこともあります。波田では、2つの任意組織に参加しています。中学校同級会(クラスのみ)を私が主に動いてやっていますが、残念ながら年に1回集まるだけ。そう言えば、3年前には、1杯20円の喫茶営業の看板を幾日も出しました。人間関係構築の意図もありました。しかし、招いて現れた中学校同級の女性2人1組しか客がいませんでした。 

 ただし、私は、 

「これまでの共同体論の多くは、社会システムをどう構築するかということに焦点」

 という議論はその分野に関心なかったので、まったく知りません。 

「社会システムをきちんと構築すれば人々の 暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」 も持ちません。

「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」

 ことは、超現実的存在=Good(ママ)にしかできないことで、現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇です。「これまでの共同体論」に、本当にこんな議論があるのでしょうか。私には、信じられない議論です。

 また、「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置くというのは、安定した暮らしの基本」なんて、他人に自分の暮らし方をまかせるなんていう恐ろしいことは、私はできません。そんな完璧な「社会システム」は、あり得ないからでもあります。

 人間を、「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」なんて、そんな社会は勘弁してくださいと、誰しもが思うでしょう。まず人間ありきではなく、社会システムありきなんでしょうか。まず「人間ありき」であるべきです。

「多様化と情報社会化の社会の中では、人と人とのかかわりもまた多様になり、その関係を紡ぐには、コミュニケーションが欠かせない要件になります」

 は、ごもっともな意見するです。

 でも続いて、

「ところが日本の社会のコミュニケーションというのは、思いの丈を言葉にするよりも「かんけい」を慮って振る舞いとして差し出すのを、最良としてきました。言葉にするコミュニケーションは、どちらかというと下品であり、沈黙という祈りが似つかわしい文化を、長年紡いできました。言葉を交わすのは苦手なのです。自分を売り出そうなどというのは、もってのほか。品性を疑われることです。控えめに、自分を抑え、場を壊さず、穏やかにモノゴトを収めるのが、(社会的振舞いとしては)最善です。そういう文化が身に沁みついた社会」

 が、現代日本なのですか。そんなに極端な社会ではないと私は思います。 


***(メール3)2020/11/5 「小さな訂正と補足」M


>そう言えば、3年前には、1杯20円の喫茶営業の看板を幾日も出しました。人間関係構築の意図もありました。しかし、招いて現れた中学校同級の女性2人1組しか客がいませんでした。 


 喫茶営業は、1杯10円でした。あの頃、前澤さんに突っつかれて、「それじゃ、原価が1杯20円じゃないか」と言われました(書かれました)。 


>人間を、「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」なんて、そんな社会は勘弁してくださいと、誰しもが思うでしょう。まず人間ありきではなく、社会システムありきなんでしょうか。まず「人間ありき」であるべきです。 


「社会システムを固定化して、それに合わない人間をバグ・ごみにしてしまう」

 は、既視感があるぞと感じました。そうです。今の中国です。中国の社会システムに合わない「香港の民主波」や「チベット系」をバグ・ごみとして扱っています。


***(メール4)2020/11/5  「RE:小さな訂正と補足」W


 皆様 Wです。社会システムばかりでなく人間は他人をゴミ扱いしています。私も自らの中にそういう意識があります。私にとってトランプや菅はゴミです。内ゲバも互いをゴミと見なして排除していたのでしょう。理想社会の行く手に転がる邪魔なゴミは掃いて捨てるのです。そんなことはやめようと宗教が出現しますが、異教の神を信仰するやからはまたゴミになります。社会主義社会もずいぶんゴミを出し、かつゴミ捨て場に捨てましたね。 


***(メール5)2020/11/5 「トランプはゴミか」M


> 私にとってトランプや菅はゴミです。 


 いやいや、まだゴミ扱いはできません。ウィスコンシンとミシガンをバイデンが制して、大勢が決したでしょうか。その後の様子を知りません。でも、あと2か月は、USA大統領です。権限は強いです。まさか、イラン進攻を指示したりしないでしょうね。

***


 さてこうして末尾の方をみると、私の用いた「バグ:ゴミ」というのが、まったく違う意味合いで使われていることがわかります。東浩紀の言じゃありませんが、「郵便的誤配」なんてものじゃありませんね。こんなやりとりは「不毛」だと感じたわけです。言ってしまえば、そもそも70歳を超えた人たちに理解してもらおうというのが、野暮な試みです。

 でも、私がかかわっていた団地管理組合の理事会では、皆さん高齢者であるけれども、はじめぎくしゃくしていた言葉のやりとりが半年ほどたつと、いくらかスムーズに流れるようになりました。あるいは、高校卒業以来53年ぶりに再会して執り行っている同窓生のSeminarでは、すれ違いや勘違いやわけがわからないという声がありながら、でも何を話しているかは(ある程度)共有できる場面が、ここ7年間ほどつづいてきました。

 つまり、長い隔絶の期間があっても、同じ時代の空気を吸ってきているという気分は共有しているつもりでした。それが「断裂」するというのは、どうしてなのか。まずは、上記のメールに感じる違和感を取り出して、一つひとつ吟味していくほかないと、心新たにしているところです。

2020年11月5日木曜日

冬に入った山――王岳

 一昨日(11/3)からテントをもって、御坂山塊の王岳へ富士山を観に行った。キャンプ場は西湖西キャンプ場テント村。根場集落の入口にある。西湖を周回する主要道からわずか百メートルほど奥まっただけなのに、静かでひっそりしている。北側を閉ざすようにそびえる御坂の山肌を明るく陽ざしが照らし、山すそまで紅葉が迫ってきて、秋深しの思いを醸し出している。西湖を隔てて、富士山が傾く陽光を浴び、今朝ほどまで降った雪を八合目ほどにかぶって輝く。

 富士山をみたkwrさんは、「いいねえ」と感に堪えない声を出す。湖畔の空き地や駐車場にはカメラを構えた観光客がずらりと並んで紅葉と湖と富士山を収めている。

 樹林の中のテント村は、私たちのほかは、バイクツーリストのソロテント一つ。50メートルも離れた片隅に陣取って、焚火をしていた。電話を受けてやって来た管理人のオジサンは、夜は事務所に泊まっていたようだから、それなりに責任を果たしていたのであろう。トイレの壁に「今シーズンをもって当キャンプ場を閉鎖します。長い間のご愛顧有難うございました。」と張り紙をしてあった。コロナでキャンプが評判になっているとはいえ、近場に旅館やホテル・民宿がたくさんあっては、思うように利用者が増えないのであろう。「シャワートイレなんて、せっかく設備投資したのに回収できたのかね」とkwrさんは心配している。

 テントを張り、例によってプチ宴会をはじめる。私とkwmさんは五一の今年産の白ワイン、kwrさんは日本酒を聞し召す。kwrさんがつけた焚火が暖かく、標高900mの冷え込みにありがたい。厚揚げとひき肉のそぼろ和えをおつまみにして、おしゃべりに興じる。家のカミサンは、山なのか宴会なのか、どちらが楽しみなのと嗤っているが、う~ん、どっちもという気分か。

 陽の落ちるのが早い。焚火の薪が炭に変わるころ、湯を沸かし、夕食の準備にかかる。5時には夕食となり、5時半には、もう周りは夜の闇。6時ころには就寝態勢に入る。

 夜中に風が強く吹いた。私のテントのフライシート代わりにしたブルーシートが、吹き飛ばされるのを感じたが、雨が落ちるはずもないし、ペグで止めてあるからどこかへ飛んでいくわけでもなかろう。9時半頃に起きたとき手直ししたが、また飛ばされたようだった。翌日家に帰ってみると、東京に木枯らし1号が吹いたとニュースになっていたから、たぶんそれと同じ北風が御坂山塊から吹き下ろしてきたのだろう。降り積もる枯葉に雨の落ちるような音がする。テントにはその音がない。朝になって分かるが、風に吹かれてクヌギのどんぐりが落ちていたのだった。

 冷えた。日付が変わったころ、ちょっと震えて目が覚めた。羽毛服を着こんでまた寝袋に潜り込んだ。4時ころ外が明るい。もう起きる時間かと思って目を覚ました。外へ出てみると、19日の月が煌々と輝いている。見上げるとオリオンが中天に光を放っている。このまま起きていようかと思ったが、ま、急ぐわけではない。もう一度寝袋に入る。ルルルと小さく低い目覚ましの音がどこかからする。5時だ。

 山登りの服装に着替え、防寒をしてテントの外へ出る。外気温は、0・6℃。kwrさんはもう、焚火の準備を始めている。ガスのコンロでは、この寒さで火力が弱い。焚火の火でお湯を沸かし、レトルトのおかゆを温め、沸いたお湯で豚汁をつくる。手早く簡単にできるテントの朝食を考えるのも、結構楽しいものだと思いはじめている自分に、ちょっと驚く。これは、ここ4カ月ほどの間に、kw夫妻と何回もテント泊を重ねてきた効果である。山登りは止めても、キャンプを楽しむという人生もあるなと、面白さの領域が広がってきたとも言える。

 朝日の陽ざしが、今日歩く予定のテント場北側の山嶺を赤く染める。よし行こうぜという気分が湧き起る。


(二日目11/4) 

 当初の予定を変えて、下山口から逆のコースをとるようにした。その方が、車を下山口においてくるよりも早く歩き始めることができる。登山口近くの精進湖畔に車を置いて出発した。6時50分。一週間前に三方分山を経めぐったときにも歩いたルートを辿る。一週間でトリカブトの花がすっかりしぼんでいる。当初天気の良くなかった先週に比べ、今週は天気が良いから、出発が3時間も早いのに、先週と同じような明るさに恵まれている。空は青い。すぐにアラカンの男二人連れに道を譲る。彼らは私たちが先週歩いたコースをパノラマ台まで辿るという。私たちは王岳ですよと応じると、「王岳の最後の上りはきついですよね」と返ってきた。地元の方のようだ。

 50分で女坂峠に着く。右へ「五湖山3km→」と表示がある。「五湖山まで40分だけど、3キロのあっちゃあ、ちょっと(コースタイムの)時間が短いんじゃないか」とkwrさん。そのあたりの時間は、二つ三つポイントを合わせると大体うまく合ってるというのが、このところの行程管理をしていて感じること。ま、ま、その程度でみていましょうと言いながら、次を目指す。

 棘のある灌木が邪魔をして、歩きにくい。10分ほどで見晴らしの良い地点に出る。雲一つない青空に聳える富士山の左側に朝陽がまぶしい。精進湖が箱庭の中にあるように眼下にみえる。

 その先は岩を越える下り道。背の低い木々の枝をくぐり、手で払いのけてすすむ。小刻みなアップダウンをくり返しながら高度を上げていく。急な傾斜を上りながら一息ついてときどき振り返ってみると、南西の方面の稜線の向こうに、真っ白な峰が見えてくる。あれは? とkwrさんが訊く。北岳じゃないかな、手前は鳳凰三山だよと黒々とした山塊に言葉を添える。じゃあ、あの街並みは甲府かな、ずいぶんと大きい町だねとkwrさん。そうだね、甲府盆地が広がってるんだね。見事に名山に囲まれた町ってわけだ、山梨の中心部は。高度を上げると、樹木のあいだから見えた南アルプスは、徐々に広がり、間ノ岳、農鳥岳から、塩見岳、荒川岳や荒石岳、聖岳といった南アルプスの3000メートル峰がたっぷりと雪をかぶって白い峰を屹立させている。「ここからなら撮れるよ」とkwrさんは立ち止まってkwmさんに写真を撮ってくれと催促している。木が邪魔をして私のカメラでは、遠方に焦点が合わない。

 キクの仲間が花をつけている。リンドウも、まだ咲いてる。これってセンブリですかとkwmさんが訊く。先週みたのは白い花。葉っぱの形を問われても、私にはわからないが、楚々とした小ささだけは印象に残っている。木々はもう冬枯れの気配。葉は、もうすっかり落ちて、足元に散り敷く。五湖山着、8時28分。46分、コースタイムより6分多いが、大した違いじゃない。次の横沢の頭までが1時間5分とあるから、それと合わせてどれくらい時間を食ってるかで、歩行速度をみた方が良いと話す。右手の遠方には、葉の落ちた木々の間に必ず富士山が照り輝いている。ルートはよく踏まれていて明るい。ただ、灌木の枝がかぶさるように歩行を妨げる。前方に甲のようにとんがった王岳が見える。あそこまではまだ2時間近くかかる。

 時間がすすむにつれ富士山の見え方が変わる。陽が高く上がると南東側の稜線沿いに雪煙の上がっているのが見える。風が強いのだ。そう言えば、稜線沿いに登ってからは北風を受ける。それが冷たい。私は羽毛服を着ていたのだが、脱ぐと寒い。来ていると汗ばむ。前を空けて冷たい風を受ける。手袋の片手を車においてきてしまったか。手が冷たい。ちょうどカメラを持つ方の手だから、いつも手袋なんかしたことがないが、今日はあったほうがいいと思う。鳥の声にみあげるとマユミがピンクの実をたわわにつけている。

 横沢の頭は9時37分。五湖山から1時間7分。ほぼコースタイム。山名表示がホントに小さいビニールテープにマジックペンで書きつけられて、木に巻かれている。えっ、こんなところという驚きがある。YAMAPなどの地図ではしっかりと山名とそこまでのコースタイムが記入されているのに、山は粗末な扱いだ。kwrさんも疲れた気配をみせない。やはり天気だ、と思う。ここからのルートには、ササが多い。背の高さが2メートル超えて、ルートに倒れ掛かっている。かき分けながらすすむ。朝出逢った登山者が言っていたように、王岳の上りは急傾斜だ。外形をみたらその通りだが、まさか直登するのではあるまいと、思っていた。だがほぼ直登に近い上り。しかもササに覆われて滑りやすい。kwrさんは「ここはササをつかんでね」と後に続くkwmさんに声を掛けながら登っている。大きな岩を乗っ越そうとしている。私は、下の斜面を這いのぼる。空が見えた。もうすぐだ。

 10時25分、王岳山頂到着。出発してから3時間35分。富士山が目の前に大きな姿を見せている。陽ざしは真上から降り注ぐ。雪煙は変わらず消えていない。すでに一人休んでいる。ここでお昼にする。私たちの行く手から単独行者が二人、更に後から一人来る。私たちのあとを追うように、また一人と単独行者が上ってくる。結構人気の山なのだ。25分も長居をした。

 王岳からの下りもなかなかのものと思っていたが、すぐに緩やかになり、快適に歩く。やがて西湖が見えてくる。眼下の根場地区が大きな町になっているのが一望できる。西湖の間に足和田山と樹海をおいて広がる富士のすそ野は、いかにも広大。富士吉田町の広がりも見え、その向こうに山中湖の湖面が小さく見える。葉が落ちず、白く輝いている木があった。名前はわからないが、葉が寒さのために丸く閉じるようになって裏側の白さが日に輝いて見えるのだ。まるでウラジロノキのようだが、違う種類の木のようだ。そうだよね、葉っぱだって寒いよねと枯れ落ちない葉に同情する。

 次のポイントの「鍵掛山1589m」も、山名表示はトタン板の切れ端に書き付けたマジックペンが消えかかっていた。枯木の間にひと際色づいたリョウブの木があった。濃い赤茶色から陽を受けた黄色い茶色までグラデーションを取り混ぜて、ほら、まだ秋ですよと呼びかけているようであった。

 鍵掛峠に着く。11時55分。リンドウが小さくきれいな花を開いている。サルトリイバラの実がたくさんついた枝をkwmさんがもっている。アッ咲いていると思って手に取ってみたら、折れた枝だった。でも、何処に木があるんだろうと探している。まさか鳥が加えて持ってきて、食べ飽きたから放り出したなんてことは、ないか。行く手から声が聞こえる。そちらが、西湖根場集落への分岐だ。行くと高齢の二人連れ。鬼ガ岳へ行って、これから王岳へ行ってくるようだ。私たちに、えっ、もう下山? という顔をするから、精進湖から縦走してきたと告げる。

 ここからのルートは、9月に十二ガ岳に登った時の下山につかった。傾斜は急だが、ルートはジグザグに切ってあって歩きやすい。降りはじめる。12時。標高が低くなると、つぎつぎと紅葉が現れ、落ち葉は降り積もり、だんだん色鮮やかになる。kwrさんは快調に下る。kwmさんも負けずについていく。先ず根場につづく支稜線の西の谷側に降り立つように下るから、陽ざしが差し込み明るい。枯れた沢の上部に着くと、沢に沿って山体をトラバースする。徐々に水音が聞こえてくる。下の方に水の流れが目に入るようになると、砂防堤が現れ、向こうの稜線の山体が日陰をつくって暗いルートに入る。樹林が深くなる気配とともに導水管が現れて里に近づいた気配が漂う。わずか44分で林道に出た。ここからは小石のばらつく歩きにくい道がしばらく続き、10分ほどで根場の古民家群に出遭う。ススキの穂の向こうに松の木を従えた富士山が雲をたなびかせて、まるで絵のようだ。

 今日は、富士山のいろいろな姿を、時と所を変えて見つめ続けてきた。こういう至福の山歩きができたのは、やはり元気だから。

 根場の集落には、たくさんの観光客がやってきていた。この人たちも、紅葉と富士山を湖とともに堪能したに違いない。車を置いたテント場に着いたのは13時10分、行動時間は6時間20分。お昼を差し引くと、5時間55分。当初予定コースタイムの6時間半からしても、上々の歩き方であった。

 この後精進湖の車のところまで送ってもらい、そこで別れて私は直帰したのだが、鳴沢氷穴の先で道路工事が行われていて車線着せに規制にぶつかり、なんと30分以上も足止めを食らった。もう一度西湖へ戻ったkwmさんたちの方が(たぶん)先に帰着したのではないかと思う。いつもいつも、単純な計算ではいかないんですね。でも、4時少し過ぎに帰着。心地よい達成感に満たされて、あまり疲れを感じていませんが、疲れていないということではないのだと、いま自分に言い聞かせているところです。

2020年11月3日火曜日

情報量とコミュニケーション

 昨日の「コミュニティ性」を考えていて、気づいたこと。

 これまでの共同体論の多くは、社会システムをどう構築するかということに焦点があっていました。私もそう考えていたし、社会システムをきちんと構築すれば人々の暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待を持っていました。

 だが考えてみると、そのときのシステム論の背景には「人間に関するモデルイメージ」が(人間工学的にかどうかは別として、アーキテクチャーを考えている先端的な人たちの想定に基づいて)予め埋め込まれています。だからそのシステムを実現してみると、逆に人々は「人間に関するモデルイメージ」に合わせて暮らすようになる。「多様な人間」というモデルイメージによって、多様であろうとするのに身を合わせようと生きてしまうように。ちょうど飼育箱の中の虫や広い檻の中の生きもののように「自由に」。

 「モデルイメージ」というのは、言葉自体が持つ「限定性」によって、イメージがフィックスされます。「多様な人間」というイメージも、「いろいろな考え方や感じ方を持った人々」とフィックスされると、人と人との相互の関わり合いによって変数として移ろう人の性というようなことは、「イメージ」の埒外におかれてしまう。具体的な個人のイメージに固着してしまうんですね。社会システムの構築的堅固さによって枠づけられながらブラウン運動のように右往左往する個体のイメージが浮かび上がるけれども、右往左往する間に変貌を遂げてかたちづくられる「かんけい」は言葉の外に置かれることになる。とうぜんのようにそれは、人々の振る舞いの無意識領野に置かれるようになり、思わぬかたちの感情の噴出になることにもなるというわけです。

 人間工学や都市工学といった学問がそうですが、そうした科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置くというのは、安定した暮らしの基本でもあります。それは身が自ずと求めている環境です。ということは人の性として、モノゴトを固定的にみることの方が精神面では人の自然であるようです。それが、「かんけい」によって(ブラウン運動のように)絶えず変容し、わが身の定位点を探っているという「わたしイメージ」は、なかなか不安定で、頼りなく思われるのかもしれません。そういうわけで、人は偏見や他者に対する固定的な差別観や社会や世界に対する(善悪に分ける)イデオロギー的な偏りに魅かれてしまう癖を持つと考えた方が、いいように思います。実際に日本の社会の人々は、明らかに多様化しています。同時に、ヘイトスピーチの類も頻出するわけです。トランプもアベの「#ミー・ツー」も、その一事象です。

 そこへもってきて、ここ数十年のあいだのデジタル化です。情報量もさることながら、デジタル化のモノゴトの手順(=アルゴリズム)が、YES/NO的な明確な選択回路を通じて、次々と段階を踏んで処理をすすめていくにあります。それに適応しようとする「人間」は、自ずから自らの内心の(つかみどころのない)移ろう不安定さを排除して、つねに明晰に感性や感覚や価値意識を保つことを優れた才能として推奨することになります。ますます、「かんけい」の中で変容し、つかみどころのない存在はデジタル処理の埒外に、つまり社会システムの取り扱えない存在、「バグ:ごみ」になってしまうのです。

 社会システムによって「バグ:ごみ」のように扱われる存在は、とどのつまり自身の内側に憤懣を溜め込んでしまうしか道が残されていません。しかもその憤懣は、誰に向けて、何処へ向けて発散していいのか、当人にも見えないし、わからないのです。わが身のレゾンデートルが、まったく見当もつかない。トランプのように、つねに「敵」を作り出し、外部に向けて憤懣を突き付けることが、わが身の安定に欠かせなくなっているのです。

 たとえばそれが、もう嫌だ、死にたいと思うことにつながっても、不思議ではありません。でも一人で死ぬのはイヤだ、誰かを道連れに、あるいは繁華街で巻き添えにして、あるいは、誰かに殺してもらいたいというふうに暴走しても、それはそれでわかるような気がするのです。

 デジタル化の象徴的な特徴の一つであるYES/NO選択が、モノゴトに対する個々人の判断を求めてきます。そのとき参照するのが、膨大な量の「情報」です。「わたし」は何を望んでいるか、何処へ行きたいか、何をしたいのかがわからずに、心もちが不安定になることは、(若いころの自分を振り返ると)よくわかります。つまり一人一人の選択が迫られ、つねにそれに応えをださなければならないのが、社会参加をしていることなのです。

 多様化と情報社会化の社会の中では、人と人とのかかわりもまた多様になり、その関係を紡ぐには、コミュニケーションが欠かせない用件になります。

 ところが日本の社会のコミュニケーションというのは、思いの丈を言葉にするよりも「かんけい」を慮って振る舞いとして差し出すのを、最良としてきました。言葉にするコミュニケーションは、どちらかというと下品であり、沈黙という祈りが似つかわしい文化を、長年紡いできました。言葉を交わすのは苦手なのです。自分を売り出そうなどというのは、もってのほか。品性を疑われることです。控えめに、自分を抑え、場を壊さず、穏やかにモノゴトを収めるのが、(社会的振舞いとしては)最善です。そういう文化が身に沁みついた社会では、デジタル化の情報化社会を生き抜く知恵が、世の中に行きわたっていないと思えます。

 でも徐々に、そうした事態に適応しないとやっていけないと、感じ始めてもいます。その、まだら模様のように進捗する世の中の、情報量とコミュニケーションとのギャップの齟齬が、ぎすぎすした社会現象として噴き出している「現在」だと、私はみています。

2020年11月2日月曜日

どういう角度で「コミュニティ性」を取り上げているか

 10/30の「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」という私の(大学のサークル同窓生のメールマガジンへの)投稿が、思わぬ広がりを見せて、何を話していたのかわからなくなっているように思います。W先輩は「大徳村にいた農民岡村仙右衛門」のお話しは、それはそれとして展開されていて結構ですが、その話の折々に、fujitaの「コミュニティ論」への危惧が差しはさまれていたりすると、なんだか目くらましにあっているような気分になります。

 ま、とは言え、80年近い人生のあいだに身につけた「コミュニティ」という言葉にまつわる感懐が、人ぞれぞれに好悪を取り混ぜてあるでしょうから、学生時代に近接した時代の空気を吸ったという共有感覚だけでは、(その後57年近くもの断絶を越えて)埋め合わせるのも、それなりの手数を必要としますよね。ましてそれに、江戸期からの歴史的な文化的堆積を付け加えてやりとりしようとするのであれば、興味や関心を持続させるだけでも大変な気苦労を払わなければなりません。歳をとると一層、そういうことがめんどくさくなって、途中で投げ出してしまうことが多くなります。

 そういうわけで、「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」と「Wさん、揶揄っちゃ、いやですよ。」の、二つのメールで汲み取っていただきたかったことを、角度を変えてお伝えしたいと思います。


 先ず私は、Mさんの人生相談に乗ろうとしたわけでもありませんし、彼のおかれた松本波田の子細に踏み込む立場もありません。彼が遭遇したご近所トラブルが、場所こそ違え、私たちの社会が遭遇している共同的関係を象徴する事象と思えたので、その局面を取り出して考えてみようとしたわけです。

 ちょっと遠回りになるかもしれませんが、私の体験的モチーフからお話しします。

 2年前から1年間団地管理組合理事会の理事長を務めたときに痛感したのは、私自身がここに住みはじめてからの28年間、全部(管理組合に)お任せでお気楽に過ごしてきたという事実でした。

 建物も新しく、居住者も若かったあいだは、これといった問題もなく、修繕積立金もそこそこ安くて済み、心地よく暮らすことができました。ところが築後30年も経ってみると、大きく二つのモンダイが出来してきました。


建物の維持管理と修繕費用のモンダイ

 今後の修繕も含めて、建物の維持管理だけでもそれなりの費用が掛かります。水漏れや植栽の伐採、ご近所間のトラブルも多くなります。基本的な部分は住宅管理会社と毎年契約をして委託していますが、管理組合理事会が主体として運営しています。大規模修繕の計画立案・業者選定や工事監理を素人集団ができるわけではありません。と言って、全部住宅管理会社にお任せでは費用が高くついてしまいます。

② 居住者の異動と高齢化モンダイ

 30年も経てば、社会的変動も大きい。転勤や異動、親の介護や本人や家族の病気や死亡といった変化も伴い、居住者が変わったり賃借人が住むようになったりして、持ち回りで務めている理事(10戸ほどの階段ごとに選出される役員)も務められなくなります。


 管理組合の設立や運営の基本は「マンション管理法」という法律に基づいて(建設時に業者などが)起動させますから、「自然発生的なコミュニティ」というわけではありません。謂うならば公的に始動された共助システムといえます(こういうところが、いかにも日本的なお役所指導だと思いますが)。「管理規約」などの「法整備」も、基本的なところは国土交通省の用意する「模範法」にのっとって、整えられています。

 ただ、「自然発生的な」様相は、居住者の社会的な関係と規範の移ろいによって生じてきています。「社会的な関係と規範の移ろい」とは、これまた漠然としたものの言いようですが、居住者の積み重ねてきた社会集団の「常識」と「ことば」、感性や感覚が、団地の管理に関してかかわりあって醸し出す「場」の空気です。それを私は「コミュニティ性」と名づけました。少し説明します。

 管理組合を運営するとき、人はそれぞれの体験を通して身につけた感性や感覚、社会観や世界観を背景にした言葉を発して、ことをすすめていきます。そのとき、法的言語にすっかりからめとられて振る舞う人の傍若無人さと、生活言語で右往左往して身を守ろうとする人との、衝突寸前の自体を目撃することも、一再ならずありました。特許権の調整コンサルタントを生業としてきた方は、私有物の給水管給湯管の更新工事を、団地の修繕積立金から一部支出して行うのは「法例」にも反すると判決事例をコピーしてきて理事長に訴えます。それに対して、「あの人はいつもああいうことをいう人ですから(構わないでいいですよ)」と、事情をよく知る人は私にアドバイスしてくれます。国土交通省の提示しているのはモデルであって、基本的には団地の規約で定めていればよいと、主体性が私たち自身にあることを明示してコトを収めました。

 あるいは、建築関係を専門とする仕事をしてきた方が、何年も修繕専門委員として素人理事会をバックアップし、団地の補修や大規模修繕に貢献してきていました。新しい理事会が編成され、前年度を引き継いで業務にあたろうとするときに、専門委員の方々は、新しい理事たちに「勉強していただきたい」と、専門用語を一覧にした用紙を配ったことがあります。私は、それを取りやめてもらいました。修繕専門委員会は、理事会の補佐機関であること、素人の理事たちが「専門用語(中には業界用語)」を理解しないのは当然で、面倒でもいちいち素人の理事たちに分かるように言葉を添えてほしい。理事たちが(もっと関心が薄い)居住者に説明するのですから、噛み砕いて説明できるようでないと理解は得られないと力説しました。

 つまり、「コミュニティ性」は、異質な生活背景をもって集まる人々が場を共有するときに支払わねばならない気遣いと言葉の数々です。団地管理組合は、それでも、理事会という場がありました。だが一般の社会では、その言葉を交わす場はありません。人々は自分の言い分を言いっぱなし、聞きっぱなし。結局同好の士が集まってやりとりを交わすか、街頭デモに出かけて鬱憤を晴らす以外に、なす術がないのです。喧嘩やいがみ合い、ゴミ屋敷やご近所の悶着が、マスメディアの画像に乗るか、事件となってとりあげられるか。あげくに訴訟に持ち込むか我慢して泣き寝入りするか、どちらかの道しか残されていないというのが、実情ではないでしょうか。

 どうして、日本はこうなったのでしょうか、というのが、私の体験的モチーフだったのです。

 お気楽に暮らしてきた間の私には、職場が社会関係の主戦場でした。そこでは「コミュニティ性」を半ば公的なものにするために、職場の週刊紙を発行して、言葉を交わす場としました。個人紙というわけにはいきませんから、職員組合の機関紙という肩書をつかわせてもらい、しかし実態は、私の編集発行するメディアとして、職場の(組合員かどうかを問わず)人たちに執筆してもらって、欠かすことなく刊行してきました。それはそれで、面白がってもらえたし、職場の気風をつくるうえで、なかなか力を発揮してきました。でも日常の団地の暮らしは、ほとんど管理組合理事会にお任せで済ませていたわけです。

 仕事をリタイアして、団地の理事長になってはじめて、どんな人が暮らしてるかに目が留まるようになりました。そうしてみると、いろんな人がいろいろな感懐を抱いて日々を送っている。互いに干渉しないという気風も悪くありませが、「あの人はああいう人」と無視するのも、なんだかなあと思いました。

 だが、干渉しないが、助け合いもしない。むちろん「助けて」といえばそれなりの助力は得られると思いますが、その言葉を発する「場」が社会の領域にはないのです。

 先ごろ首相になった方が「自助・共助・公助」と三分類して社会関係を述べました。自助は家族間の助け合いもふくむとすると、ほとんど親子と夫婦間で、関係は終わっています。遠く離れて暮らす兄弟とか、親類は、もうほとんど冠婚葬祭か年賀状くらいしか、お付き合いをしていない。いまさら、私が苦境に陥ったと言っても、果たしてどれだけ親身になってかかわってくれるか、期待する方がムリってものですよね。せいぜい親兄弟どまり。それ以上の(法的な相続として残っている)家族制度は、実態を持っていません。

 共助はご近所のお付き合いとかを想定しているのでしょうか。それとも首相は、民生委員とか赤十字とか公民館活動とか、あるいは子ども食堂とか、NPOのボランティア団体の活動をイメージしているのでしょうか。後期高齢者ということで、民生委員が年に1,2度、訪ねてきます。カミサンがありがたく応対していますが、自律的に暮らしていけるあいだは、特段、必要とは感じていません。

 公助については、先のメールで述べたので繰り返しません。総合的俯瞰的にみると、あてにできない、と感じるばかりです。要するに日本の今の社会は、自律的に自助せよというのが、基本形なのです。それが裏返ってか、世界諸国の社会調査で、困難者を助けることについて日本人の賛同はあまり得られていないのです。


 MさんやWさんのやりとりに絡ませることはできませんでしたが、私のモチーフは、お話しすることができました。「共同性」という言葉には、手垢がついて忌避感が強く出てきます。「社会的な共同的関係性」とでも謂うべきところを「コミュニティ性」という言葉で代替させてきました。

 つまり、私の置かれている現在の輪郭を描き出そうというのが、私の基本モチーフです。「コミュニティ」を良いこととか悪いことと考えてはいません。その点では、中動態的に構えています。

2020年11月1日日曜日

大学で何を学ぶか

 伊坂幸太郎『砂漠』(実業之日本社、2008年)を読む。ストーリーというより、登場する人たちの間に醸し出される空気を描き出すのが、この小説のねらいであったように読んだ。

  場は仙台。国立大学の新入生が卒業するまでの間に出くわす出来事のエピソードを描く。プロットは四つ。季節も四つ。学年も四つという韻を踏む。つまり軽快に移ろう気分と関係と場の気配を掬い取って、描き留めた軽いお話。

 その行間に、私とはひと世代違うこの作家の、大学とか学生という人生の時機が人にもたらすことを見つめる視線が浮かび上がり、出来事の事象は大きな時代的違いをもっているけれども、それが人に与える「かんけい」はいつになっても変わらないと思わせる。言葉を換えていうと、大学で人は何を学んでいるか、ということを思いながら読みすすめた。

 「学ぶ」ということは、「変わる」ということ。学問をして人は変われるのかという大きな問題が横たわる。もちろん変わることはできる。知的世界の広まりと深まりは、モノを考える次元が変わることを意味する。ただ学生という人生の時機は、自分が何者であるかということを定位させることにずいぶんと時間を割く。それは、世界と自分との関係を位置づけることでもある。あくまでも自分の外部にそびえる世界を、まずは自分と疎遠なものとして受け止め、その末端に自分を位置づける。つまり自分を世界にマッピングするのである。

 それは同時に、(外部の世界とは別の)自分の「せかい」を身の裡の感覚としてかたちづくりはじめることでもある。「学んで思わざればすなわち罔し、思いて学ばざればすなわち殆う」というあわいを生きる時機。すなわち、自分の輪郭が初めて意識されはじめる。なぜ自分は、かくかくの感性を持っているのか。しかじかのことを良しとか悪しと感じているのか。何を根拠に自分は、モノゴトの価値判断をしているのか。それらの知識は、なにゆえに正しい/不正と思ってきたのかと、いつ知らず身につけた言葉や感性や感覚や価値観を、一つひとつ吟味して自らに問い直すことが、身の回りに移ろう出来事に接するごとに欠かせぬ重要な作業となる。学生時代というのは、そういう厄介な人生の時機であったと、いま振り返って思う。

 その「学び」の過程で、じつは教授たちから教わる学問自体は(私の場合)、それほどの衝迫力をもたなかった。むしろ周りに日々屯している上級生や同級生、サークルの先輩や同輩、何ものともわからない活力を秘めた自治会の活動家や奇態で不思議な寮の人たちの、底知れぬ振る舞いに、心底衝撃を受け、まずわが身の世間知らずを思い知らされることから、学生生活が始まった。いわば、文化的な衝撃を受けたのであった。たぶん、確固とした世界をかたちづくっている教授たちよりは、不安定な己を確かめつつ右往左往している朋輩たちの方が(「じぶん」の輪郭を定位させていく文法を学び取るうえで)意味大きいからであろう。

 幸か不幸かわからないが、私にとって大学とは、いろんな学生たちを目撃し、文化の違いに衝撃を受け、とどのつまり、自らの輪郭を描き出すために自問自答する回路を開いた場であった。

 その私の学生体験と文化的にはまったく違う世界ではあるが、伊坂幸太郎がこの作品で描く学生たちの醸し出す気配は、相変わらずの世界のようにみえて、好ましく感じた。

 コロナウィルス禍の下、オンライン授業をもっぱらとする大学が多いらしい。だが、私や伊坂幸太郎がイメージする大学は、オンラインではまるで身に付かないことばかりである。そこには「学ぶ」ことなんて、何もないと思われるほど、つまらないと思われる。授業には欠かさず真面目に出席していた主人公が、授業で学んだことには一言も触れていないのが、伊坂幸太郎のメッセージでもあると、私は受け止めた。

 文科省もそうだが、大学がもっぱら果たしている意味を、もっと人間を介在させて構想してもらった方がいいと「総合的俯瞰的に」思うのだが、学術会議にしても、出身大学とか年齢構成をイメージして云々している政府の現状では、とうてい百年の計を思い起こさせることなどできないかと思う。