2020年11月3日火曜日

情報量とコミュニケーション

 昨日の「コミュニティ性」を考えていて、気づいたこと。

 これまでの共同体論の多くは、社会システムをどう構築するかということに焦点があっていました。私もそう考えていたし、社会システムをきちんと構築すれば人々の暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待を持っていました。

 だが考えてみると、そのときのシステム論の背景には「人間に関するモデルイメージ」が(人間工学的にかどうかは別として、アーキテクチャーを考えている先端的な人たちの想定に基づいて)予め埋め込まれています。だからそのシステムを実現してみると、逆に人々は「人間に関するモデルイメージ」に合わせて暮らすようになる。「多様な人間」というモデルイメージによって、多様であろうとするのに身を合わせようと生きてしまうように。ちょうど飼育箱の中の虫や広い檻の中の生きもののように「自由に」。

 「モデルイメージ」というのは、言葉自体が持つ「限定性」によって、イメージがフィックスされます。「多様な人間」というイメージも、「いろいろな考え方や感じ方を持った人々」とフィックスされると、人と人との相互の関わり合いによって変数として移ろう人の性というようなことは、「イメージ」の埒外におかれてしまう。具体的な個人のイメージに固着してしまうんですね。社会システムの構築的堅固さによって枠づけられながらブラウン運動のように右往左往する個体のイメージが浮かび上がるけれども、右往左往する間に変貌を遂げてかたちづくられる「かんけい」は言葉の外に置かれることになる。とうぜんのようにそれは、人々の振る舞いの無意識領野に置かれるようになり、思わぬかたちの感情の噴出になることにもなるというわけです。

 人間工学や都市工学といった学問がそうですが、そうした科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置くというのは、安定した暮らしの基本でもあります。それは身が自ずと求めている環境です。ということは人の性として、モノゴトを固定的にみることの方が精神面では人の自然であるようです。それが、「かんけい」によって(ブラウン運動のように)絶えず変容し、わが身の定位点を探っているという「わたしイメージ」は、なかなか不安定で、頼りなく思われるのかもしれません。そういうわけで、人は偏見や他者に対する固定的な差別観や社会や世界に対する(善悪に分ける)イデオロギー的な偏りに魅かれてしまう癖を持つと考えた方が、いいように思います。実際に日本の社会の人々は、明らかに多様化しています。同時に、ヘイトスピーチの類も頻出するわけです。トランプもアベの「#ミー・ツー」も、その一事象です。

 そこへもってきて、ここ数十年のあいだのデジタル化です。情報量もさることながら、デジタル化のモノゴトの手順(=アルゴリズム)が、YES/NO的な明確な選択回路を通じて、次々と段階を踏んで処理をすすめていくにあります。それに適応しようとする「人間」は、自ずから自らの内心の(つかみどころのない)移ろう不安定さを排除して、つねに明晰に感性や感覚や価値意識を保つことを優れた才能として推奨することになります。ますます、「かんけい」の中で変容し、つかみどころのない存在はデジタル処理の埒外に、つまり社会システムの取り扱えない存在、「バグ:ごみ」になってしまうのです。

 社会システムによって「バグ:ごみ」のように扱われる存在は、とどのつまり自身の内側に憤懣を溜め込んでしまうしか道が残されていません。しかもその憤懣は、誰に向けて、何処へ向けて発散していいのか、当人にも見えないし、わからないのです。わが身のレゾンデートルが、まったく見当もつかない。トランプのように、つねに「敵」を作り出し、外部に向けて憤懣を突き付けることが、わが身の安定に欠かせなくなっているのです。

 たとえばそれが、もう嫌だ、死にたいと思うことにつながっても、不思議ではありません。でも一人で死ぬのはイヤだ、誰かを道連れに、あるいは繁華街で巻き添えにして、あるいは、誰かに殺してもらいたいというふうに暴走しても、それはそれでわかるような気がするのです。

 デジタル化の象徴的な特徴の一つであるYES/NO選択が、モノゴトに対する個々人の判断を求めてきます。そのとき参照するのが、膨大な量の「情報」です。「わたし」は何を望んでいるか、何処へ行きたいか、何をしたいのかがわからずに、心もちが不安定になることは、(若いころの自分を振り返ると)よくわかります。つまり一人一人の選択が迫られ、つねにそれに応えをださなければならないのが、社会参加をしていることなのです。

 多様化と情報社会化の社会の中では、人と人とのかかわりもまた多様になり、その関係を紡ぐには、コミュニケーションが欠かせない用件になります。

 ところが日本の社会のコミュニケーションというのは、思いの丈を言葉にするよりも「かんけい」を慮って振る舞いとして差し出すのを、最良としてきました。言葉にするコミュニケーションは、どちらかというと下品であり、沈黙という祈りが似つかわしい文化を、長年紡いできました。言葉を交わすのは苦手なのです。自分を売り出そうなどというのは、もってのほか。品性を疑われることです。控えめに、自分を抑え、場を壊さず、穏やかにモノゴトを収めるのが、(社会的振舞いとしては)最善です。そういう文化が身に沁みついた社会では、デジタル化の情報化社会を生き抜く知恵が、世の中に行きわたっていないと思えます。

 でも徐々に、そうした事態に適応しないとやっていけないと、感じ始めてもいます。その、まだら模様のように進捗する世の中の、情報量とコミュニケーションとのギャップの齟齬が、ぎすぎすした社会現象として噴き出している「現在」だと、私はみています。

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