2020年11月9日月曜日

断裂の裂け目

 昨日の話につづけます。MさんやWさんとのやりとりで大きな「断裂」を感じたのは、以下のような点でした。11/6ブログ「この断裂の深さ」に掲載したおおむね本文のままの(メール)からピックアップします。


(1)《私からすると末尾で、「別荘使用だから、無断伐採されてもやむをえない」「Mが人生相談している」に対しやんわりと苦情を申し上げました。》(メール2)

「無断伐採・・・」については昨日記しました。「人生相談・・・」云々は、「コミュニティ性」に関する私のモンダイ提起がMさんの個別具体的な事例にどう対応するかという提起ではなく、(一般的に社会に共通する)社会学的な考察だと述べる過程で(「人生相談に応じているわけではありません」と)記した表現です。それを「Mが人生相談している」と読み取るなんて、ひどく防御的ですよね。ひょっとするとMさんは、ふだん周りの人たちからいじめられているのかなと思ったほどです。


(2)《改めて読むと、「社会集団の常識と言葉、感性や感覚が、団地の管理にかかわりあって醸し出す場の空気をコミュニティ性と(Fさんが)名づけた」のですね。私が「コミュニティ性」という言葉を、すっとは理解できなかったはずです。》(メール2)

 Mさんが「理解できなかったはず」というのが、何を指しているのかわかりませんが、推察するに、「コミュニティ性」に関する「定義」のようなことを期待していたのかもしれません。人に言葉を伝えるために、よく「自分の言葉で言え」ということを言います。上記引用文中の私の言葉は、文脈(あるいは論脈)に応じて意を通じようと用いた表現です。「コミュニティ性」という言葉自体、私が持ち出したものです。どこかに「定義」があるのかどうか知りませんし、もしあったとしてもそれがどれほどの「権威」をもつのかは、用いる人それぞれが自分の思いを込めてその場で自己規定するものだと思います。ひょっとするとMさんは、言葉の「定義」はアカデミックな世界で規定されて、それを庶民は用いていると思っているのでしょうか。これはこれで、場を改めて考えなければならない、面白いテーマだとは思いますが。


(3)《私の生活実感とは違うなと感じました。典型的には、「個々住民の関係構築をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティを形造ってきたツケがまわってきているのではないか」「公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっています」の部分です。…むしろ、どんな生活をしたら、こんな実感を持つようになるのだろうかと、驚きました。私は、東京でも松本でも、機会があれば積極的にご近所と話をします。相手は限られますが、まれには私も妻も、家の前で咲かせている花をきっかけに通りすがりの方とも話します。》(メール2)

 ご近所付き合いを「コミュニティ性」と受け取っているように思います。出会えば挨拶をするとか、混雑する街で知らない人とすれ違うときも、はい、ごめんなさいと言葉をかけるというのも、たしかに「コミュニティ性」です。ただ、ヨーロッパなどを旅すると、「エクスキュズミー」とか「パルドン」という言葉を街中でよく耳にします。言葉を掛け合って(知らない者同士が)敵意がないことを示していると私は思ってきました。日本では、混む電車の中でも乗り降りのときにそのような言葉を掛け合っている声を耳にしません。山を歩くと日本でも「こんにちは」と挨拶を交わすのは、敵意がないことを示すというのではなく、同好の士が山(自然)を共有している共感の思いを表現しているのだと感じています。つまり、日本の場合、知り合いのあいだでは挨拶もし、声も掛け合うけれども、見知らぬ者同士がそのような「かんけい」をもたない。そこがかつての村落共同体の「コミュニティ性」と都会地の「コミュニティ性」の違いなのではないかと思います。

 このコミュニティ性の違いが、社会設計や公権力の発動に関しても、大きな差異を産んでいるのではないかと私は想定していますが、それについては、次の項で触れましょう。


(4)《私は、「これまでの共同体論の多くは、社会システムをどう構築するかということに焦点」という議論はその分野に関心なかったので、まったく知りません。「社会システムをきちんと構築すれば人々の 暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」も持ちません。「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」ことは、超現実的存在=Good(ママ)にしかできないことで、現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇です。「これまでの共同体論」に、本当にこんな議論があるのでしょうか。私には、信じられない議論です。》(メール2)

 これにはちょっと遠回りの説明回路が必要です。上記(3)の、「コミュニティ性」に関するヨーロッパと日本との違いが大きく影響していると思うからです。

 日本人は(とすぐに海に囲まれた日本特殊のように表現しますが、じつは、それ以外のアジアとかを知らないのです)、ヨーロッパ的な見知らぬ人たちとのかかわりを経験しないままに近代の市民社会へ突入したように思います。ここで市民社会というのは、互いに見知らぬ人同士が社会の場を共にし、市場などを通じて交換関係をかたちづくっている「かんけい」を指します。

 いやそうじゃないよ、という声が聞こえてきそうです。たとえば「日本人」という概念自体が、じつは「見知らぬ者同士がお互いを“同胞”として認知している」ことを指しています。でもその根底には、同じ言葉を話すとか、同じ食べ物とか調味料とか文化を体験してきているとか、同じ島国で生まれ育っているという共通の自然体感が“同胞”意識を生み出しているのだと思います。そして近年これが、大きく変わり始めていることで、人びとのあいだの共有感覚が変化しはじめ、齟齬をきたしているように思えます。

 ヨーロッパの人びとは、外国の侵略につねにさらされている緊張感の中に暮らしています。また、見知らぬ国の人々が数多往き来するという市民社会です。たとえば「移民が多くなって困る」という右翼民族主義的な動きが発生しているフランスなども、海外からの移民の割合は2割近いパーセンテージに迫っています。彼らは、「他者」との向き合い方に鍛えられ、かつ、他者と向き合って暮らす暮らし方に知恵を傾けて、長年かけて身につけてきました。

 日本の、近頃多くなったと言われる外国人の割合はその10分の1以下です。つまり日本人は、ヨーロッパ人のような「他者」と(庶民は)出遭っていません。私の生育歴中の実感では、もっと小さな「くに/郷里」が保護膜のようになって暮らしていた時期から、一挙に近代の市民社会を迎え、自律的な個人として振る舞えることに、あるいは喜びを感じ、片や戸惑いを感じながら、社会的な作法を作り出してきたのです。貧困も差別的な抑圧も、社会的な解決は行政的な仕組みによって作り出されることを、イメージしてきました。しかも高度消費社会と一億総中流という社会を経たことによって、資本家社会的市場が個々人をむつびつけて社会関係を取り仕切り、それ以外のことは行政が整えるという感覚を「公共性」としてもつようになったと、私は考えています。お金さえあれば対等に遇してくれる資本家社会的市場経済にすっかりなじんで、自由な個人は羽根を伸ばしてきました。

 社会システムの構築「という分野に関心がなかった」と過ごしてきたのも、伝統的な自然感覚がそのまま保持されているからではないでしょうか。

 庶民がそうであることと逆に、為政者(官僚や行政の首長や政治家たち)は、どのような社会構成をしていけばいいのかと考え続けてきたと思います。どう考えたか。庶民が自然に身につけた「保護膜」である共同関係の団体(これは「くに/郷里」であったり「家族・家庭」であったり「学校」であったり「会社」だったりした)が、自生的にかたちづくって来たものが、社会の変容によって揺れ動くのをどう補正し、どの方向へもっていくかと思案してきたといえます。ま、「お上」に任せてのほほんと暮らす最大のインフラが「官僚的行政組織」だったわけですね。

「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」、それがエリートといわれる「お上」のつねに考えているテーマでした。「社会システムをきちんと構築すれば人々の暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」をもっていたのは、下々の方です。しかも高度消費社会の実現ということもあって、バブルが弾けるまではリアリティを持っていました。いまだって、夢よ再びとアベノミクスに期待してきた人たちが多かったではありませんか。

 それを、「超現実的存在=Godにしかできないこと」というのは、社会設計とその実現過程とを混同した言い方です。日本の官僚組織がエリートとして評価されてきたのは、まさに神がかり的な(国民への)奉仕の精神が備わっていたことへの尊崇の思いでした。モリカケ問題で(隠蔽工作に携わらされて)自裁した末端官僚の思い(国民全体への奉仕者ではないのか)が、この原点を照らしていることは言うまでもありません。しかし、すっかり社会政策の展開場面を資本家社会的な関係の舞台に限定してしまったために、尊崇の念は剥落してしまいましたね。今となってはまさに、「現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇」になってしまいました。でもこのことは「信じる/信じられない」という議論のモンダイではありませんよ。1960年頃からの日本の行政過程を考察してみれば、いくつでも見ることのできる事実です。もちろん政治家の思惑や不埒な官僚の振る舞いをあげつらえば、いくつでも疑念をもつことはできますが、全体としてそれなりに機能してきたことは「理念的な公務員の位置づけ」が生きていることを示していると私は、思うのですがね。


(5)《また、「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置くというのは、安定した暮らしの基本」なんて、他人に自分の暮らし方をまかせるなんていう恐ろしいことは、私はできません。そんな完璧な「社会システム」は、あり得ないからでもあります。》(メール2)

「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置く」というのは、行政的な社会政策は「科学的知見に基づいて構築される」ことを良しとしてきた、戦後社会の一般的な傾きを表現したものです。ことに1990年代、IT社会に入ってからの社会政策の構築は、アーキテクチャと呼ばれて設計的に運ばれました。監視カメラがそうです。道路設計もそうです。昨日のこのブログで触れた1960年代のサイバネティクスやフィードバックの、「議論」であったことがITの助力を得て、全社会的に作動し始めたといえます。それと同時に(単純化して言えば)、従来の「規律訓練型の学校教育」は無用とみなされ、市民一人一人の要望に応えることのできる社会構築へと「制度改革」が検討されています。

 私からみると、それ自体が矛盾を孕んでいて、それに適応する人間が自らを変貌させていってしまう問題を生み出すと思えます。

「そんな完璧な「社会システム」は、あり得ない」というのは、その通りです。でも、だからと言って、そのような社会システムを志向することはあり得ないのでしょうか。こういう文言を吐くMさんは、じつはモノゴトを実体的にとらえていて、関係的にみていないのではないか。人も社会も、かかわりながら変貌していくことを承知していれば、GODだの完璧な社会システムだのを想定すること自体が、あり得ないことなのです。


(6-1)《…人間を、「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」なんて、そんな社会は勘弁してくださいと、誰しもが思うでしょう。まず人間ありきではなく、社会システムありきなんでしょうか。まず「人間ありき」であるべきです。》(メール2)

(6-2)《「社会システムを固定化して、それに合わない人間をバグ・ごみにしてしまう」は、既視感があるぞと感じました。そうです。今の中国です。中国の社会システムに合わない「香港の民主波」や「チベット系」をバグ・ごみとして扱っています。》(メール3)

(6-3)《社会システムばかりでなく人間は他人をゴミ扱いしています。私も自らの中にそういう意識があります。私にとってトランプや菅はゴミです》(メール4)

 どういう文脈で、この言葉「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」が出て来たのかをみないと、何を言ってるのかわからないと思います。人を「バグ:ごみ」にするというのは、デジタル社会のアルゴリズムに乗れない人の本性のことを指摘したものです。YES/NO的な選択で次へ次へと展開していく回路では、迷ったり、戸惑ったり、選択を棚上げにしたりすることは、処理回路から外れるということです。例えば電車のチケットを買うときに、何処へいくのか決められないで行き先ボタンが押せなかったら、機械処理はそこでストップしてしまいます。つまり人間的なありようが許容されず、つねにYES/NO的に選択を明確にすることへ、人が適応するようになっている。そのデジタル社会のシステムでは、私たちアナログ育ちは「バグ:ごみ」ですよと自虐的に笑いを取ったつもりでした。それは「勘弁してください」というので済む話ではありません。ましてそこへ、「まず人間ありきであるべき」というのは、デジタル社会の在り様をとりあげるに足らないモンダイと、みているように響きます。

 まして(6-2)のように、中国や香港やチベット系の処遇をめぐる問題に限定した話でもないのです。(6-3)のように「トランプや菅はゴミ」などとなると、もう最初の「バグ:ごみ」の提起は、なんの話だったか雲散霧消してしまっています。


 長々と断裂の裂け目に焦点を当ててきました。なんだ、おまえさん、おちょくられているんだよと言えば、それですべて片づきます。でも、なんでこんなに言葉が通じないのだろう。アメリカの大統領選を観ていても、あの熱狂的な共和党のトランプ支持者、(それがあるからかもしれないが)対するバイデン支持者のやはり熱意溢れる街頭行動、しかもそれがコロナウィルス禍の下で激しく行われているという事実。そこでも言葉が通じていないのだろうか。それとも、「民主党でも共和党でもない。わたしはアメリカの大統領だ」というバイデン次期大統領の勝利演説は、トランプを支持した人々の心にどのように届くのだろうか。ずいぶん次元の違う話のように思えもするが、重なり合って私の胸中の木霊しているのです。

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