浅田次郎『マンチュリアン・リポートA MANCHURIAN REPORT』(講談社、2010年)を読む。
1928(昭和3)年の張作霖謀殺事件の「真相」を、当時の天皇の密命を受けた将校が現地に足を運んで関係者から聞き取りをして、探るという筋立てになっている。この事件が浅田次郎の関心を惹き、本書が書かれることになった背景には、1990年に発表され『昭和天皇独白録』があったのではないか。その「独白録」なかで(珍しく)昭和天皇が、関東軍河本大佐の謀略であったと報告を受けて、ときの首相に処罰をし支那に対して遺憾の意を表明する意向を示した。ところが田中首相は、(これを明らかにし如何に意を表明することは日本の国益に反するとの軍部の反対意見に押されて)これをあいまいなままに処理しようとした。それを天皇に譴責され、内閣が総辞職した経緯に触れている。思い返すと、これ以降、軍部の暴走を政府も(天皇も)止めることができなくなった。
東北部の軍閥の雄であった張作霖を謀殺したことによって、日本軍の援護を受けて満州の統治をしていた統治者を失った。タテマエとはいえ、満州国の自治権を保護するという位置を棄て、日本は直接統治(つまり侵略)に乗り出さざるを得なくなtったのである。と同時に、張学良らを反日へと向かわせ蒋介石との国民政府への統一へと追いこんだ発端の事件であった。張作霖が関東軍の意向を無視するようになったからと、高校時代の日本史では教わってきたが、そもそもその「意向」が満州全域を支配下に置くことを意味していたのだとすると、歴史過程としては、むしろ逆の読み取り方をしなくてはならないと、いま振り返って思う。
つまり、張作霖謀殺を叱り、その責任者を処罰して、支那に対して遺憾の意を表明すると考えていたのが統帥権を持つ天皇だとしたら、彼がもし強く指示して事件の全容を明らかにし、関東軍の暴走を抑え、軍の統制を行っていれば、その後の満州事変から、あるいは、太平洋戦争までの無謀な拡大への突入を抑止することさえできたかもしれないとおもうからだ。逆に、こうも言えようか。強く(事態の解明と責任の追及を)指示することができなかったのは、すでに統帥権は名目だけであり、天皇は軍部からみてお飾りに過ぎなかったとも。もっと踏み込むと、そうした軍部と天皇との力関係をやむなしとするような気風が統治者のうちには広まっていたともいえる。つまり天皇の個人的な「意向」がどうであるかということよりも、天皇主権の立憲君主制という統治構造が、日露戦争以来、大きく軍部の発言力を増大させ、文民には抑えようもないほどになっていたという構造的なモンダイが底流していたのであろう。
浅田次郎の筆運びは、密命を受けた将校が内閣の秘書官に身分をやつして、北京から瀋陽までの旅をし、大陸浪人や日本の新聞記者、滅びゆく清朝の役人たちや関東軍の将校たちへの聞き書き、あわせて張作霖の姿を浮かび上がらせることによって、東北部の軍閥が満州族の故地を自ら統治するイメージをかぶせて、関東軍の「意向」がいかに無茶であるかを浮かび上がらせる。さすがみごとなストーリー・テラーである。構造的なモンダイには言い及んでいないが、それとは逆に、河北と東北部の端境の万里の長城との位置関係、満蒙と呼んだ(清朝の故地)東北部の肥沃さなどが、私の思い込みと違った景観をもって起ちあがった。
じつは私は、2016年の11月に大連から瀋陽まで、新幹線で2時間ほどの旅をした。そのときの新幹線から見える大地の印象を、こう記している。
《沿線には大きな町がポツンポツンと出現する。超高層ビルが林立し、煙を吐く火力発電所が際立つ。街を離れるとほぼ平原。持参の高度計で標高をみると高くても50mほどであった。緑もなく、赤茶けた大地が広がる。ところどころに少しばかりの疎林のあるのが、かえって何もない大地を際立たせているように思える。満州へ移り住んで「開拓」に当たった人たちは、この荒涼とした原野をみて「希望」を抱いたのだろうか。もちろん今が「原野」というわけではない。畑らしく耕され、あるいは収穫が終わった後のようにみえ、トラクターが動き、人々が立ち働いていた。水はどうしているのだろうか。雪は積もらないのだろうか。強い季節風は、どうなっているんだろう。目についたのは、ところどころに東奔西走する高圧送電線と立ち並ぶ鉄塔だ。と、前方に林立する超高層ビルがみえはじめる。》
つまり、荒涼とした不毛の大地という印象が予め刷り込まれている。ところが浅田次郎の作品では、河北よりもはるかに肥沃な満州と記している。これがいつの時代を指しているのかはわからないが、荒涼とした人跡未踏の不毛の大地イメージを抱かせ、満州を「開拓する」という思い込みが、日本の満州進出を正当化する一要因になっていたのかもしれない。浅田ようにみると、満蒙開拓団は明らかに侵略であった。
その、満蒙開拓に対する忌避感が私の内側にあったせいか、瀋陽の町に入ってからは、むしろ清朝の故地、女真族の故郷としての瀋陽へと関心を移して、次のように記している。
《瀋陽の街に降り立った時の印象は、大連以上の喧騒の街。遼寧省の省都らしく、ひときわ商業的な賑わいが感じられる。人口は900万人と聞いた。マクドナルドもある、スターバックスもある。バス、タクシーが行き交い、車が多い。タクシーを拾って「北稜」にゆく。後に満州族と呼ばれる女真族を統一したヌルハチが後金を名乗り都をおいたのが、この瀋陽であった。そのヌルハチの墓が「北稜」である。ヌルハチが満州八旗を編成し、明を破りモンゴルを併合し、朝鮮を服属させて、北京にも都をおいて清と名乗りを上げたのが1636年。ちょうど徳川家康が江戸に幕府を開き、権勢を確立したころと重なる。「北稜」はしかし、今はすっかり公園として風景に溶け込み、菊花展をやっていた。子どもを連れた賑わいは、日曜日ということもあって、明るく屈託がない。奥の方の「稜」にまで足を運んでいるのは、私のような観光客。17世紀の建物が(いくらか修復はされてきたのであろうが、満州国崩壊以後)あまり手入れもされずに放置されてきたように見える。一部は崩れ落ちそうになっている。「稜」は円墳。その素っ気なさが、かえってヌルハチの偉大さを表すように感じたのは、私の中の何かと触れ合うものがあったからのように思う。》
《「瀋陽故宮」は満州族の文化的シンボルであったようだ。ヌルハチを継いだ第二代皇帝ホンタイジの創建した居城であったのだが、ホンタイジと最後の皇帝溥儀を軸にかつての「清」の栄光を置きとどめようとしている。満州族の風俗、風習、宗教、文字、生活と部屋を分けて展示し、豆のひき臼やその調理法まで写真付きで解説している。ここの展示を見て回っている人は、漢族なのであろうか満州族なのであろうか。ガイドに尋ねたが、はっきりした答えは聴けなかった。ガイド自身は漢族だと分かったが、「たくさんの民族が一緒に暮らしています」と対立相克がないことに力を入れて説明していたから、あるいは私の疑問を、今様風にとらえて先回りして応えたのかもしれない。広い敷地にはホンタイジのときの満州八旗を象徴する八角形の本殿まで残され、人々は日曜日の公園として訪ねてきていた。》
この、ヌルハチやホンタイジの衣鉢を継ごうとしていたのが張作霖―張学良であったという所にまで、私の想像力は届いていなかった。浅田次郎はそれをベースに、『マンチュリアン・リポート』を書いている。
人と土地が起ちあがる視線の起点が、奈辺にあるかを示したといえよう。
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