いつもの年より暖かいのだろうか。朝、窓を開けると流れ込む外気が寒くもない。もちろん暖かくもない。涼しいというのは暑さを感じているからだから、これも似つかわしくない。さわやかというのが感じる気配だ。でも、気温の表現に何かが加わっているようで、身を包むまるごとの気配という感触の心地よさを表している。
外を歩くのが気持ちいい。でも(目的もなく)何時間も歩くというのが、街なかだとどこか似つかわしくない。山を歩くのだと、何処へ向かうか目的地がはっきりしている。しかも、凸凹の足元に気持ちを集中し、バランスをとるのに身が反応するから、ほんの少し歩くだけで瞑想の境地に入ることができる。ほかのことが考えられず、意識が澄明になる。
ところが街なかだと、足元にはほんの少し、ときどき気を向けるだけで、たいてい障碍なく歩ける。と、あれやこれや胸中を去来することが雑多に混沌としてくる。気持ちは澄明にならない。誰であったか教育学者が、散歩が一番の贅沢と言っていた。目的もなくぶらりぶらりとさまよう境地をそう呼んだのだったが、こんなに猥雑な思いが行き来するようでは、とても贅沢とは思えない。ゴミ一つ落ちていない道路、穴を塞いで補修された路面、傍らの貸農園で大きくなったネギを収穫し、一束ずつ新聞紙にくるんでいる夫婦、たわわに実る柿の実を長枝ばさみで獲っている年寄り、幼い子が補助輪付きの自転車をおっかなびっくりで漕いでいる背に、手を当てるか当てないで一緒に歩いているお父さん。今日は平日なのに、ひょっとすると休日出勤のサービス業なのだろうか。目の配りどころと胸中に去来する思いとが、山歩きとは全く違って、でもまあ、これも一つことに意識を集中させない点では、澄明と言えなくもないか。
ちょうど探鳥の達人たちが鳥を見つけるときの目の焦点の話を思い出す。どこかを見つめていたら、鳥は見つからない。ことにさえずりの季節を終えて、子育てになったときには、鳥は鳴かない。意識を平らにして目をみるともなくぼんやりと全体を視界に収める。そうしていると、隅の方の小さな動きも目に留まるようになる。その話を聞いたとき、私は、物見の話を思い出していた。物見というのは、戦場における斥候のこと。部隊に先駆けて、フロントの様子を探りに行く。ヨーロッパ戦線では、広い平野の何処に敵兵が潜み、戦線を張っているか見落とさないために、高い地に身をひそめて、平野部を視界に収め、一晩過ごすこともある。そのとき斥候は、目を皿のようにして始終ぐるりを見回すのではなく、ぼんやりと何も考え全体を視界に収めてみるともなく見る。そうすると、遠方の片隅でちょろりと動く影をとらえることができる。つまり、集中するとみえないものが、焦点を絞らないとみてとれるという逆説的な身体と意識の不思議だ。
瞑想は、したがって意識の焦点的集中ととらえるよりも、全焦点的拡散とみた方が良い。何も考えてはいない。だが意識は澄明である、と。ひょっとすると目的をもたない散歩も、あれやこれやに目移りがして、歩くいているときに、おや、何処へ行くんだったっけとわが身を振り返るような心持になっている瞬間が、一番の贅沢と言っていたのかもしれない。
目的をもたないと自分がどこにいて何をしているかわからなくなって不安になる。と言って、一つことにばかり集中しているのも、身が細くなるようで我慢ならない。斥候も実は、何を見つけるのか、しかとは分かっていない。だが状況の変化をいち早くとらえて、それがなんであるかを見極め、あるいは見極められないがナニカアルと感じとって読み解こうとする。
そういえば昔、誰の作品であったか『ものみよ夜はなお長きや』という小説があったなあ。あれも、時代の先を読むことを象徴した作家の作品だったかなと、焦点を合わせない目配りの仕方に重ねて記憶をたどっている。
案外、全焦点的拡散、ちゃらんぽらんが世相や時代を良く読み取るのかもしれないと、我田引水してほくそ笑んでいる。
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