学術会議の任命をめぐって、相変わらず説明しない/できない状態が続いている。「総合的俯瞰的に考えて」というのが、じつは政府の意向を忖度することを要請していることだと、安倍時代からのやり口をみていると推し測れる。つまり、気に食わない学者を排除するのだが、そうは口にできないから「総合的俯瞰的に考えて」「個々の人事案件には言及しない」と逃げようとしている。
いや逃げているんじゃない。任命されなかったのは日本共産党の系列に属する人たちだから(排除したいの)だという、内調によるレッド・パージ復活のようなきな臭い流言も出回っている。陰謀論のような政治世界が好きな方々は(賛否どちらにせよ)、そういう言葉を弄んでいれば(自説を堅持しつづけることができて)結構なのだろう。だがふつうの庶民からすると、自分の頭の上のハエを追うことに夢中になっているとしか思えない。
他方で、軍事研究に協力しないことへの批判じゃないかと、学問と政策との連携を図ろうとするモンダイとして、を正面から論じようとすることまで、蓋をしてしまうのかと思う。その善し悪しはとりあえず脇において、政府がそう考えているのなら、それを正面から論題として掲げて学術会議と論戦を交えることを避けて通らないでもらいたい、と思う。
学術会議が、軍事研究への協力はしないと決議するのは、単にイデオロギー的な差異があるからではなく、歴史的な経緯がある。根底にある経験は、「政治への不信」だ。猪瀬直樹「昭和16年の敗戦」で明らかにされたように、太平洋戦争が不可避かどうかが論じられていた昭和16年に、当時の政府の、産業、軍事、学術など関連諸機関の俊才を集めて「日米もし戦わば」という机上の模擬戦を政府首脳も立ち会って行ったという。その結論は「敗戦」であった。にもかかわらず、無謀な戦争に突入したという「経験」は、学術と政治とを切り離して考えるという「教訓」を産んだ。その「教訓」は、原子力科学者が核開発に携わることとなり原爆や水爆を生み出して実戦に使用する結果を産んだ。そこにおける科学者の「敗北」を経験化したことも「教訓」に組み込まれている。
もう一つある。戦後日本が、(アメリカの押し付けられたものであっても)新憲法の下で、平和主義を採用してきたのであるから、「政治への不信」は、戦前と戦後で別物と切り離して考えてもいいはずであった。だが戦後政治の過程は、GHQの変節も含めて、「政治への不信」を払拭することにならなかった。せめて、科学と政治の独立性を担保することを通じて、戦前と戦後の「政治への不信」を「教訓」として堅持してきたのが、学術会議の姿勢であった。
それを転換しようというのであるなら、文字通り政治的な裏工作やタテマエ的な手続き論で片づけず、正面から切り込んで、「科学と国策の連携」を論題として、やり取りするべきである。そうした問題を脇において、「総合的俯瞰的に考えて」といっても、真意を隠して政治の意思を通そうとしているとしか映らない。「総合的俯瞰的に考え」ることの子細に立ち入って、政府が説明することを避けてきたために、現在の齟齬が生じ、相変わらず「政治への不信」が拭い去れないでいる。
それと関連指摘になるのは、学問や芸術に対する国策の姿勢である。
教育と並んで学問や芸術に対する政府の姿勢は「国家百年の大計」と呼ばれてきた。目先の効果や効率に左右されず、長い目で見て民生を豊かにしていくのは、国民に「希望をもたらす」意味でも、重要である。そこに育まれる「希望」には、誇らしさと自律する気高さが育まれるからだ。それは、目下の貧窮にも耐える力にもなるし、何より次の世代の「希望」につながって、国家社会存続の原動力になる。大雑把な見方でいうならば、いろいろなモンダイはあったが、明治維新から日露戦争までの日本の歩みは、その誇らしさに支えられていたと、司馬遼太郎が描いていたではないか。
「総合的俯瞰的な考え」というのは、須らく「国家百年の大計」でなくてはならない。
ところが(バブル崩壊以降)21世紀に作用されている国策は、学問研究に対して「大学の独立行政法人化」を押し付け、競争原理を持ち出してコストパフォーマンスを問うようになり、なんの役に立つか、いくら儲かるかを学問研究に強いるという愚行を横行させてきている。これでは、「国家百年の大計」どころか、誇らしき研究の屋台骨もやせ細り、先の成果しか見えなくなってしまう。バブル時代に育って学問研究に打ち込んできた何千人という博士たちが、ポスドクと呼ばれる失業状態におかれ、ついには研究活動を断念するしかない状況に置かれている。
「総合的俯瞰的な考え」というのは、鷹揚であることを意味している。天空を舞う鷹のように、些事些末にこだわらず、ゆったりと百年の大計を与える如くに総合的俯瞰的に世の中を見つめる。民生を鳥瞰する。それが「希望」となっているか、誇らしさや気高さを体現しているかを確かめながら、寄り添って立ち尽くすことこそ、政治の信頼を取り戻し、ならばこそ、多少とも軍事に貢献する研究も必要であろうと国民が思うようになる。それを、長期的にみ通すのが、まさに「総合的俯瞰的な考え」なのだ。
防衛論議の貧しさは、目先の損得と相手との力比べしか目に入らないやりとりにある。日本国憲法の前文が誇らしく掲げている「平和主義」の精神(「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」)を、今一度想い起して、その上に立って考えてもらいたいと思う。
《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。》
その誇らしさを、果たして戦後日本は築くことが出来たろうか。そのためには、アメリカとの関係もまた国民に隠さず、己に厳しく政府は取り仕切って行ってもらいたいものである。
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