伊坂幸太郎『砂漠』(実業之日本社、2008年)を読む。ストーリーというより、登場する人たちの間に醸し出される空気を描き出すのが、この小説のねらいであったように読んだ。
場は仙台。国立大学の新入生が卒業するまでの間に出くわす出来事のエピソードを描く。プロットは四つ。季節も四つ。学年も四つという韻を踏む。つまり軽快に移ろう気分と関係と場の気配を掬い取って、描き留めた軽いお話。
その行間に、私とはひと世代違うこの作家の、大学とか学生という人生の時機が人にもたらすことを見つめる視線が浮かび上がり、出来事の事象は大きな時代的違いをもっているけれども、それが人に与える「かんけい」はいつになっても変わらないと思わせる。言葉を換えていうと、大学で人は何を学んでいるか、ということを思いながら読みすすめた。
「学ぶ」ということは、「変わる」ということ。学問をして人は変われるのかという大きな問題が横たわる。もちろん変わることはできる。知的世界の広まりと深まりは、モノを考える次元が変わることを意味する。ただ学生という人生の時機は、自分が何者であるかということを定位させることにずいぶんと時間を割く。それは、世界と自分との関係を位置づけることでもある。あくまでも自分の外部にそびえる世界を、まずは自分と疎遠なものとして受け止め、その末端に自分を位置づける。つまり自分を世界にマッピングするのである。
それは同時に、(外部の世界とは別の)自分の「せかい」を身の裡の感覚としてかたちづくりはじめることでもある。「学んで思わざればすなわち罔し、思いて学ばざればすなわち殆う」というあわいを生きる時機。すなわち、自分の輪郭が初めて意識されはじめる。なぜ自分は、かくかくの感性を持っているのか。しかじかのことを良しとか悪しと感じているのか。何を根拠に自分は、モノゴトの価値判断をしているのか。それらの知識は、なにゆえに正しい/不正と思ってきたのかと、いつ知らず身につけた言葉や感性や感覚や価値観を、一つひとつ吟味して自らに問い直すことが、身の回りに移ろう出来事に接するごとに欠かせぬ重要な作業となる。学生時代というのは、そういう厄介な人生の時機であったと、いま振り返って思う。
その「学び」の過程で、じつは教授たちから教わる学問自体は(私の場合)、それほどの衝迫力をもたなかった。むしろ周りに日々屯している上級生や同級生、サークルの先輩や同輩、何ものともわからない活力を秘めた自治会の活動家や奇態で不思議な寮の人たちの、底知れぬ振る舞いに、心底衝撃を受け、まずわが身の世間知らずを思い知らされることから、学生生活が始まった。いわば、文化的な衝撃を受けたのであった。たぶん、確固とした世界をかたちづくっている教授たちよりは、不安定な己を確かめつつ右往左往している朋輩たちの方が(「じぶん」の輪郭を定位させていく文法を学び取るうえで)意味大きいからであろう。
幸か不幸かわからないが、私にとって大学とは、いろんな学生たちを目撃し、文化の違いに衝撃を受け、とどのつまり、自らの輪郭を描き出すために自問自答する回路を開いた場であった。
その私の学生体験と文化的にはまったく違う世界ではあるが、伊坂幸太郎がこの作品で描く学生たちの醸し出す気配は、相変わらずの世界のようにみえて、好ましく感じた。
コロナウィルス禍の下、オンライン授業をもっぱらとする大学が多いらしい。だが、私や伊坂幸太郎がイメージする大学は、オンラインではまるで身に付かないことばかりである。そこには「学ぶ」ことなんて、何もないと思われるほど、つまらないと思われる。授業には欠かさず真面目に出席していた主人公が、授業で学んだことには一言も触れていないのが、伊坂幸太郎のメッセージでもあると、私は受け止めた。
文科省もそうだが、大学がもっぱら果たしている意味を、もっと人間を介在させて構想してもらった方がいいと「総合的俯瞰的に」思うのだが、学術会議にしても、出身大学とか年齢構成をイメージして云々している政府の現状では、とうてい百年の計を思い起こさせることなどできないかと思う。
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