大学のサークルの同窓生の先輩や後輩とのメールによるやりとりが噛みあわず、まるで泥田に踏み込んだように、一歩一歩、一言一言が私の意図と食い違い、ズレてしまい、モンダイにしようとしていたことが雲散霧消するように感じられて、困っています。まるで不思議の国のアリスになったみたいに、私の方が、世の中を見損ない、見当違いの判断をして、彷徨っているのかと思うほどです。
不毛だから、やり取りをやめると言ってしまえば、それはそれで簡単なのですが、この57年程の時代的懸隔をおいて、取り交わす言葉(とそれの背景にある感性や感覚、社会観や世界観)のズレには、私自身が経てきた径庭とは違った道を歩いた人たちがいることを、明らかに示しています。ちょうど山頂から転がり落ちる石のように、山頂では同じ位置にいたと思っていたら、裾野の方に来てみると、まるで180度違った方向にいたという具合に、ズレています。言葉が通じないのかと思うほどの断絶を感じています。
後輩のMさんや先輩のWさんが、どんな価値観を持っていて、こう(私と)言葉が通じなくなったかというよりも、私自身の転がって来た57年の、どこにどのような転換点があったかを検証することの方が、関心事になってきました。
まずは、MさんやWさんと取り交わしたところをご覧いただいて、断裂の深さを読み取るところから、感じとっていただきたいと思います。
*
10/30の「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」という私の投稿にはじまるやりとりが、どうも噛みあいません。そう思って、私の体験した「団地コミュニティの社会学的考察」の一端を紹介するメールを打ちました。それが、このブログの11/1「どういう角度で「コミュニティ性」を取り上げているか。」です。
それに対して、11/2に同窓後輩のMさんから以下のようなメールが送られてきました。少し長いのですが、噛みあわなさをみていただくために(改行や段落などは手直しして)全文を掲載します。
***(メール1)2020/11/2 「発端でもあり、横入でもある?」M
Fさんの団地管理組合も、団地が新しい間は修繕問題も少なく、入居している人たちも比較的均質な背景なので、あまり大きな問題はなく、理事会・理事長の仕事もしやすかったでしょう。年月が経つにつれ、入居者の転勤やら、極端には死亡もあり、自分は住まないからと賃貸する人も出てくる。均質だった入居者(オーナー)が、それぞれの事情を持ち、多様化します。建物が古くなると、それだけ合意形成が困難になる反面、お金のかかる修繕が増える。両面での環境変化で、運営に苦労が増えるのだと思います。
「給水管・給湯管の更新工事に積立金を使うのは法令違反」と主張した人物への対処や、理事会を自分たちのフィールドに引き込もうとした修繕専門委員会への対処は、立派だったと思います。職場では、職員組合の機関紙として職場の週刊紙を発行したなんて、新聞会OBGの面目躍如。週刊で発行したなんて、なかなかできない驚異的な実践でした。すごいと思います。
自助・共助については、「親兄弟」だって、むずかしいと思います。サラ金で借金を作った息子を、親が助けることはできません。いやむしろ、そういう親がいたら、代わりに弁済なんかするな、そんな法的義務はないと、私なら助言します。親子の立場が逆でも、もちろん同様ですね。
私の少年時代、部落に唖者の夫婦がいました。私と同年の女性の他に、兄と弟がいました。その家族は、同姓(同姓だったが、兄弟かどうかは知らない)の方の立派な家の横に少し離れて、仕切りのまったくない=土間と居室1つだけの小屋に住んでいました。まあ、その建物だけは、兄弟か親戚のよしみで提供してもらっていたわけでしょうか。私が生活保護という言葉を初めて聞いたのは、私の父親が、あそこは生活保護を受けていると話すのを聞いた時でした。まあ、兄弟ないし親戚では、今も60年前もそれくらいが限度でしょう。今は土地がなければ、それも無理。今は、60年前よりも、人々の生活からゆとりがなくなっている感じがする。共助を押し付けられたら、押し付けられた側が破綻します。
ところで、10月30日11時07分のメールで、Fさんは、「ふだんから顔見知りのご近所ならば、家を訪ねて依頼することもできましょう。しかし、別荘として使っていたのでは、ご近所さんもそうはできません」とされています。別荘のように使っているのだから、無断伐採を甘受しなければならないという感じに響きました。いやしかし、私は波田に住民票を置いてはいないけど、既存コミュニティに参加し、作ろうとさえしています。無断伐採の前には、2か月以上連続滞在しています。
まあ、この問題については、私は結論を出しています。それは、私が市役所支所に出した文書に明らかです。10月30日20時28分のメールの末尾にも書きました。その結論は、「(公権力からでない、個人からの)依頼があったら自分で伐採する」「無断伐採があったら、市役所にカーブミラーを撤去させる」です。当たり前の対処だと、私は思っています。発端であるような、横入りであるような、私。
***
言葉が足りなかったのかなと思いました。そこでこのブログ11/3「情報量とコミュニケーション」の文面に、
《(まえおき)私は褒めてもらいたかったわけでもないし、自慢話をしたつもりもありません。今の私たちの置かれている時代と社会のことを申し述べただけです。》
と前振りをして(噛みあっていませんねと申し添えたつもりで)、メールを送信し、テントをもって山へ出かけました。帰宅してメールを開いてみると、以下の4通のメールが来ていました。アメリカ大統領選の開票が行われて、いずれとも決していないときです。これまた長々とつづきますが、「断裂」と私が呼ぶような事態であることを理解していただくために、おおむね原文のまま掲載します(やはり改行、段落、固有名詞は手直ししました)。
***(メール2)2020/11/5 「改めて読みました」M
>(まえおき)私は褒めてもらいたかったわけでもないし、自慢話をしたつもりもありません。今の私たちの置かれている時代と社会のことを申し述べただけです。
(まえおき)私は無闇に褒めようとしたわけではなく、あれは率直な感想でした。また、私からすると末尾で、「別荘使用だから、無断伐採されてもやむをえない」「水沢が人生相談している」に対しやんわりと苦情を申し上げました。
スマホで読むと、文字がひどく小さくなるので、当初はじっくりとは読みませんでした。改めて読むと、「社会集団の常識と言葉、感性や感覚が、団地の管理にかかわりあって醸し出す場の空気をコミュニティ性と(Fさんが)名づけた」のですね。私が「コミュニティ性」という言葉を、すっとは理解できなかったはずです。
ただ、改めてFさんの10月30日11時07分のメールを読むと、私の生活実感とは違うなと感じました。典型的には、
「個々住民の関係構築をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティを形造ってきたツケがまわってきているのではないか」
「公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっています」
の部分です。
むしろ、どんな生活をしたら、こんな実感を持つようになるのだろうかと、驚きました。私は、東京でも松本でも、機会があれば積極的にご近所と話をします。相手は限られますが、まれには私も妻も、家の前で咲かせている花をきっかけに通りすがりの方とも話します。
松本波田の方が、近所では話し相手がいません。西隣は旧知だけど話したがらなく、長かった前回滞在でも私から話しかけて2回ほど少し話しただけでした。東隣は工場で社長とまれには話す。裏のスイカ畑の耕作者とは、会えば必ずといってよいほど話すけど、耕作時期にしかいない。北隣(道路向かい)は、いつも忙しそうで、挨拶もしない。その100mほど先には義姉がいますが、これは兄が入院することになったのは私のせいだと逆怨みしているのか、ちょうど2年も、近くでありながら音信不通(今年正月には、年賀状代わりに送った『M新聞』を郵便受けに突き返されました)。散歩に出ると、よく働いている人に挨拶したりします。一過性の出会いです が、話がはずむこともあります。波田では、2つの任意組織に参加しています。中学校同級会(クラスのみ)を私が主に動いてやっていますが、残念ながら年に1回集まるだけ。そう言えば、3年前には、1杯20円の喫茶営業の看板を幾日も出しました。人間関係構築の意図もありました。しかし、招いて現れた中学校同級の女性2人1組しか客がいませんでした。
ただし、私は、
「これまでの共同体論の多くは、社会システムをどう構築するかということに焦点」
という議論はその分野に関心なかったので、まったく知りません。
「社会システムをきちんと構築すれば人々の 暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」 も持ちません。
「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」
ことは、超現実的存在=Good(ママ)にしかできないことで、現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇です。「これまでの共同体論」に、本当にこんな議論があるのでしょうか。私には、信じられない議論です。
また、「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置くというのは、安定した暮らしの基本」なんて、他人に自分の暮らし方をまかせるなんていう恐ろしいことは、私はできません。そんな完璧な「社会システム」は、あり得ないからでもあります。
人間を、「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」なんて、そんな社会は勘弁してくださいと、誰しもが思うでしょう。まず人間ありきではなく、社会システムありきなんでしょうか。まず「人間ありき」であるべきです。
「多様化と情報社会化の社会の中では、人と人とのかかわりもまた多様になり、その関係を紡ぐには、コミュニケーションが欠かせない要件になります」
は、ごもっともな意見するです。
でも続いて、
「ところが日本の社会のコミュニケーションというのは、思いの丈を言葉にするよりも「かんけい」を慮って振る舞いとして差し出すのを、最良としてきました。言葉にするコミュニケーションは、どちらかというと下品であり、沈黙という祈りが似つかわしい文化を、長年紡いできました。言葉を交わすのは苦手なのです。自分を売り出そうなどというのは、もってのほか。品性を疑われることです。控えめに、自分を抑え、場を壊さず、穏やかにモノゴトを収めるのが、(社会的振舞いとしては)最善です。そういう文化が身に沁みついた社会」
が、現代日本なのですか。そんなに極端な社会ではないと私は思います。
***(メール3)2020/11/5 「小さな訂正と補足」M
>そう言えば、3年前には、1杯20円の喫茶営業の看板を幾日も出しました。人間関係構築の意図もありました。しかし、招いて現れた中学校同級の女性2人1組しか客がいませんでした。
喫茶営業は、1杯10円でした。あの頃、前澤さんに突っつかれて、「それじゃ、原価が1杯20円じゃないか」と言われました(書かれました)。
>人間を、「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」なんて、そんな社会は勘弁してくださいと、誰しもが思うでしょう。まず人間ありきではなく、社会システムありきなんでしょうか。まず「人間ありき」であるべきです。
「社会システムを固定化して、それに合わない人間をバグ・ごみにしてしまう」
は、既視感があるぞと感じました。そうです。今の中国です。中国の社会システムに合わない「香港の民主波」や「チベット系」をバグ・ごみとして扱っています。
***(メール4)2020/11/5 「RE:小さな訂正と補足」W
皆様 Wです。社会システムばかりでなく人間は他人をゴミ扱いしています。私も自らの中にそういう意識があります。私にとってトランプや菅はゴミです。内ゲバも互いをゴミと見なして排除していたのでしょう。理想社会の行く手に転がる邪魔なゴミは掃いて捨てるのです。そんなことはやめようと宗教が出現しますが、異教の神を信仰するやからはまたゴミになります。社会主義社会もずいぶんゴミを出し、かつゴミ捨て場に捨てましたね。
***(メール5)2020/11/5 「トランプはゴミか」M
> 私にとってトランプや菅はゴミです。
いやいや、まだゴミ扱いはできません。ウィスコンシンとミシガンをバイデンが制して、大勢が決したでしょうか。その後の様子を知りません。でも、あと2か月は、USA大統領です。権限は強いです。まさか、イラン進攻を指示したりしないでしょうね。
***
さてこうして末尾の方をみると、私の用いた「バグ:ゴミ」というのが、まったく違う意味合いで使われていることがわかります。東浩紀の言じゃありませんが、「郵便的誤配」なんてものじゃありませんね。こんなやりとりは「不毛」だと感じたわけです。言ってしまえば、そもそも70歳を超えた人たちに理解してもらおうというのが、野暮な試みです。
でも、私がかかわっていた団地管理組合の理事会では、皆さん高齢者であるけれども、はじめぎくしゃくしていた言葉のやりとりが半年ほどたつと、いくらかスムーズに流れるようになりました。あるいは、高校卒業以来53年ぶりに再会して執り行っている同窓生のSeminarでは、すれ違いや勘違いやわけがわからないという声がありながら、でも何を話しているかは(ある程度)共有できる場面が、ここ7年間ほどつづいてきました。
つまり、長い隔絶の期間があっても、同じ時代の空気を吸ってきているという気分は共有しているつもりでした。それが「断裂」するというのは、どうしてなのか。まずは、上記のメールに感じる違和感を取り出して、一つひとつ吟味していくほかないと、心新たにしているところです。
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