コロナウィルスのせいで、「ささらほうさら」の会合が今年2月以来、6月に1回開かれただけで、ずうっとお休みです。来月も予定しいたのに、コロナラッシュでまた休業。結局来年の3月までお休みすることになっています。
言うまでもありませんが、休業補償はありません。ま、金銭に換算できる損失が有るわけじゃありません。でも、琴線に関わる「損失」を法的言語にして換算するのなら、どうなるか。言葉になりませんが、今の政府に、そういうことに関する補償能力があるとは考えられませんからね。当然申請しません。
さてこの、ブログスペースの提供者から「1年前の記事を読んで感想を書いてください」というメールが送られてきます。去年の今頃何を考えていたかと感慨深く目を通しています。ちょうど去年(2019年)の11月の「ささらほうさら」の講師はmsokさん。この方のエクリチュールに触れたブログ記事(2019/11/28)「茫茫たる藝藝(4)あそびをせんとやうまれけむ」は、お前さんなんでこんなブログを日々更新して書いているの? と自問自答するのに似た、思いを綴っています。
じつは、「ささらほうさら」がお休みになってからも毎月、私は「ささらほうさら・無冠」を作製して関係の方々に送っています。それに対する返信ハガキが、律義に毎回、msokさんから送られてくるのです。ま、お互い、近況報告のようなものですが、それは読み捨てるには惜しいほど「エクリチュールの遊び」に溢れています。コロナウィルス禍がもたらした思わぬ贈り物です。
1年前のブログ記事に紹介したmsokさんの作文術、自称「枡埋め」はこう記しています。
《貧乏性ゆえか、いや実際幼少のころから貧乏でしたが、その所為もあって原稿用紙に余白があると何かひどく勿体なく思え、できることなら折角の四百もの桝目の凡てを埋めてやりたいと思うほどにその性向が勝っているのであります。》
それを象徴するような彼からの葉書は、小さな文字でびっしりと埋められています。葉書裏面だけでなく、表面も住所宛名書きを上の方へググっと押しやって2/3を細かい文字で埋め尽くしています。一番多かったときは、400字詰め原稿用紙に換算すると4枚が収まっていたほどです。
かつて、表面の半分までは埋めてもいいが、それ以上はダメと「通信法」か何かにあるとかないとか耳にしたことがあります。それでも日本郵便が配達してくれるのは、msokさんの娘さんがお仕事でJPに関係していることへの忖度でしょうか。まさかね。
その便りが月一回届きます。それが楽しみで、私もまた、「ささらほうさら・無冠」を毎月書き記し、msokさんに送り届ける生活習慣病にどっぷりと浸っているわけです。もちろん、「ご返事無用」とときどき記すことを忘れていません。親しい中にも遠慮ありって言うではありませんか。msokさんの肺の持病が、このコロナウィルス禍で傷めつけられているのではないかと思いますから、無理はしないようにと気遣っているのです。その程度の分別は、お互いが後期高齢者ですから、身に付いています。暑い夏の最中、彼が熱中症にかかって点滴を受けたことも、この「枡埋め便り」によって知ることとなりました。でも、葉書が来るのを心待ちにしていないわけではありません。「元気だよ」という印です。
ブログ記事も、考えてみれば、ひとつの「便り」です。目を通してくれる方が、あの方とあの方と・・と思い浮かべるのは、ちょっとした気力の持続につながります。よく人間関係論者が「褒めるといい」と関係術を言い立てますが、実は褒めなくてもいいのです。良いとか悪いとかはどちらでもよく、ただ、目を通してくれているという感触があれば、違いなんてどうでもいいのです。
ブログ記事を書くような自問自答というのは、人の思索思考の本質であって、それ自体、褒めてくれなくても、その文章の存在がありましたよ、目を通しましたよと確信できる反応さえあれば、書き手の思いは半ば達成されています。ほかの方がそれに賛意を表明するか、批判をするかは、ほかの方のモンダイ。つまり、言説とか表現というのは、表明されたときに記述者の手を離れ、一人歩きする。その独り歩きがはじまった言説を、記述者も読者として読み取ればいいのです。
自問自答というのは、言葉自体がある種の同義反復であるように、論理も表現もレトリックも、トートロジーです。繰り返しなのですね。ですから、誰かが書いたものを誰かが読むというのは、どう読んだかを問われない絶対性を持っています。言語の絶対性といってもいいほどの孤立性を有しているのです。その「意味の混沌の大海」に身を投げる行為が表現です。
ただ大海へ投げた言葉の瓶詰が拾われて読まれているよということを知るのは、ある種の喜びにつながります。それが、msokさんの葉書なのです。
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