先月末から、大学のサークル同窓生とのやりとりが続き、埋めようのない「断裂」を感じてきたことは、すでに記しました。こうしてまた私は「断裂」に直面して、二人の知人と縁を切ることになりそうです。わずか十日間のやりとりですのに、「わたし」はどこで訣れてしまったのだろうと、考えるともなくわが道程を振り返っていました。
ところが、思わぬところから「コミュニティ性」に関する答えが降りてきました。一昨日(11/11)、山へ出かけ登山口にたどり着けずに帰ってきた日、録画していた昔の映画を観ました。
マイケル・ムーア監督「ボーリング・フォー・コロンバイン」(原題: Bowling for Columbine、2002年)。コロンバイン高校で二人の生徒が銃を乱射して同級生を多数殺害して自殺した事件がなぜ起こったのかを追って、インタビューで構成したドキュメンタリー映画です。
子細は省きますが、そのなかの一つのプロットでムーアは、デトロイトの対岸にあるカナダの街を取材し、どの家も鍵をかけていないことを知ります。インタビューを受けた人たちは「えっ、どうして?」と鍵の必要性を考えたこともない気配を漂わせて、銃をもたないではいられないアメリカとの対比をして、どちらが良い社会でしょうかと(言外に)ムーアは問うています。それをみて先ず思い出したのは、コロナウィルスが広がるアメリカから逃れて、カナダへ移住する人が多くなったという10月のニュースです。第1回の大統領候補の討論会が、罵声を浴びせるトランプの振る舞いに驚かされたころだったと思います。アメリカ人にとってカナダってそういうふうに見えているんだと、新発見をしたような気分でした。
そう言えば半世紀も昔、日本人は空気も水も安全もただだと思っているとイスラエルを引き合いに出して日本文化を揶揄する本が流行したことがありました。そのあたりから、気分的にはわが心に鍵をかけるようになったのでしょうか。
カナダの人たちが鍵を掛けないということは、社会に対する信頼を表しています。インタビューは貧困層の男性にも行われていました。彼は「そりゃあ失業しても、社会保険制度がきちんとしているから、(暮らしの)心配はしていないね」と応じていました。つまり社会的格差に対する心配りが、カナダという社会を落ち着いたものにしているようです。社会秩序というのは、軍隊で護るべきものではなく、人が安心して暮らすことのできる空間、つまり「かんけい」をつくることなのですね。
カナダ人の社会に対する信頼と昔日の日本のそれとが同じとは言いませんが、でも、性善説とか性悪説とか、自助・共助・公助という分別を無用にする「社会に対する信頼」が慥かにあったと私は感じています。それが雲散霧消してしまった。
いつ、なぜ、どのようにして? と疑問は次々に湧き起ります。たぶんそのあたりに、「コミュニティ性」を取り戻す「鍵」があるように思うのですが…。でもいま、ここまで来てしまった日本の社会が、果たして、社会的信頼を取り戻すことって、できるのでしょうか。コロナウィルス禍の下で、密にならず、社会的距離をとって、しかもある程度生活物資を地元で調達して地元で消費することのできる社会関係が望まれているのですから、今こそコミュニティ性を見据えた社会をつくるチャンスだと思うのです。たしか京都大学の広井良典さんが、『人口減少社会のイメージ』という本で書いていたことが、ちょうどwith-コロナ時代の、社会イメージに近いのではないかと思い当たります。
誰か、どこかで考えてくれているのでしょうか。
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