2020年11月24日火曜日

何処から「違い」が出てくるのか

 先日(11/21)の「底辺をみる慧眼」で記したブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)を読んでいて、気になったことのひとつ。

 著者自身が驚いて書いていることだが、イギリスの保育基準では3歳児4人につき保育士1人という基準に対して、日本では3歳児20人に対して保育士1人になっているということ。そして、日本の保育園は静かに園庭で子どもたちが過ごしているのに対して、イギリスの子どもたちは走り回り、あちこちで諍いをし、声をあげて騒ぎ、保育士たちは駆けずり回って世話をしているという。

 保育園の敷地の広さや遊び道具の種類とか設け方にも違いがあるから、一概には言えないが、日本では、子どもたちはおとなしくしていることが基本となり、イギリスでは騒ぎまわることを基本と考えていると思える。こうも言えようか。日本では先生のいうことをきいて、周りに迷惑をかけないように過ごすことを躾け、イギリスでは、子ども同士の争いごとや子どもと先生とのもめごとを通じて、子どもが自身で学んでいくことを躾けと考えている。

 そこには、大人社会の規範の反映があり、社会集団と個体との布置関係が現れている。つまり、大人自身が、社会集団と向き合うとき、(皆さんに)迷惑を掛けずに自らを持して位置することを心掛けていれば、日本の保育園のような様子が生まれる。他方、迷惑をかけるかどうかは二の次で、まず自身が何をどうしたいかを表現・表出させることを求め、しかる後に(それが社会と引き起こすコンフリクトを経て)社会と個体との在り様の文法をかたちづくっていくことが子どもを育てることだと考えているとイギリス風になる。どちらがより、現代社会にふさわしいかも、時代の変遷と見合って変わっていくのであろう。

 日本に関していうと、(皆さんに迷惑をかけない)ことから、まず自己(の欲求)の表現・表出を行う方向へ、時代は動いてきた。その前者と後者がちょうど見合うところに、「自立/自律」が位置し、「自己責任」で世の中を渡れという処世訓が人々の隅々にまで行きわたってきた。病気や災害や不運によって不遇に見舞われ、暮らしが行き詰った人たちに対しても、厳しい視線が向けられる。そういう厳しい社会になってしまった。

 少子化対策として、新政権が一番に放った施策が不妊治療であったのは、笑止千万であった。むろん私は、不妊治療を無用とは思っていない。それはそれで推奨して推し進めればいいのだが、それが少子化対策というのは、日々どれほどの堕胎が行われているかに目を止めれば、お笑いだと思うのである。子どもを産むことが暮らしを行き詰らせることになる社会的要因を取り除くことこそが、つまり安心して子どもを産める社会保障制度を整えることが、少子化対策の第一の施策であることは、考えるまでもない。だがそれがなぜ等閑視されるのか。子どもを産むかどうかは、個人責任で考える範囲のモンダイであって、それを社会的ケアの範疇とは考えていないからだ。社会的ケアと考えるのは、すなわち(妊娠するかどうか、子を産むかどうかという)個人のモンダイが世の中に迷惑をかけていることであるから、我関せず焉と、知らぬ顔をするのが、ご正道だと為政者たちは考えているからである。だったら、少子化対策なんて政治の課題に載せるなよって思うが、不妊治療は(個人の選択できるモンダイではなく)科学医療のモンダイであるから、推奨しようというのであろうか。

 ブレイディみかこの本書を読んだ末尾に、次のように記した。

《そうした現場を歩いてきた著者の眼力は、なかなか見事なものがある。彼女自身が「アナキーに」感性を解き放っていくのが読み取れて、のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる。底辺をみてこそ、その社会の最上辺に至るモンダイが見てとれるという指摘は、なかなかの慧眼と言える》

 だが、逆なのかもしれない。ブレイディみかこが20年ほどイギリスで暮らすうちにイギリス流の保育技術を身につけ、底辺託児所に携わるうちに「下流ブリティッシュ」を含む移民ら、下層の人々の規範や振る舞いの流儀を身に沁みこませ、それが「アナキーな」感性に実を結んできたのかもしれない。「のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる」のは、お前さんそれで、自分の意思で生きているのかいっていう、自問自答だ。

 あたり構わず我が儘に振る舞うトランプがアメリカ選挙民の半数に迫る支持を得るのも、そういう自己主張をしてやっと手に入れてきた日々の暮らしが、誰がどこでそうしているのか目に見えない社会システムによって窮迫するところに追い込まれているのを打開するには、クールな解析よりも、熱狂的なぶつかり合いを通じて道を開くという気構えがあるからかもしれない。日本では到底受け入れられないトランプ支持者の振る舞いも、案外、人類が生き延びてきた活力の原基を示しているのかもしれない。

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