2020年11月2日月曜日

どういう角度で「コミュニティ性」を取り上げているか

 10/30の「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」という私の(大学のサークル同窓生のメールマガジンへの)投稿が、思わぬ広がりを見せて、何を話していたのかわからなくなっているように思います。W先輩は「大徳村にいた農民岡村仙右衛門」のお話しは、それはそれとして展開されていて結構ですが、その話の折々に、fujitaの「コミュニティ論」への危惧が差しはさまれていたりすると、なんだか目くらましにあっているような気分になります。

 ま、とは言え、80年近い人生のあいだに身につけた「コミュニティ」という言葉にまつわる感懐が、人ぞれぞれに好悪を取り混ぜてあるでしょうから、学生時代に近接した時代の空気を吸ったという共有感覚だけでは、(その後57年近くもの断絶を越えて)埋め合わせるのも、それなりの手数を必要としますよね。ましてそれに、江戸期からの歴史的な文化的堆積を付け加えてやりとりしようとするのであれば、興味や関心を持続させるだけでも大変な気苦労を払わなければなりません。歳をとると一層、そういうことがめんどくさくなって、途中で投げ出してしまうことが多くなります。

 そういうわけで、「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」と「Wさん、揶揄っちゃ、いやですよ。」の、二つのメールで汲み取っていただきたかったことを、角度を変えてお伝えしたいと思います。


 先ず私は、Mさんの人生相談に乗ろうとしたわけでもありませんし、彼のおかれた松本波田の子細に踏み込む立場もありません。彼が遭遇したご近所トラブルが、場所こそ違え、私たちの社会が遭遇している共同的関係を象徴する事象と思えたので、その局面を取り出して考えてみようとしたわけです。

 ちょっと遠回りになるかもしれませんが、私の体験的モチーフからお話しします。

 2年前から1年間団地管理組合理事会の理事長を務めたときに痛感したのは、私自身がここに住みはじめてからの28年間、全部(管理組合に)お任せでお気楽に過ごしてきたという事実でした。

 建物も新しく、居住者も若かったあいだは、これといった問題もなく、修繕積立金もそこそこ安くて済み、心地よく暮らすことができました。ところが築後30年も経ってみると、大きく二つのモンダイが出来してきました。


建物の維持管理と修繕費用のモンダイ

 今後の修繕も含めて、建物の維持管理だけでもそれなりの費用が掛かります。水漏れや植栽の伐採、ご近所間のトラブルも多くなります。基本的な部分は住宅管理会社と毎年契約をして委託していますが、管理組合理事会が主体として運営しています。大規模修繕の計画立案・業者選定や工事監理を素人集団ができるわけではありません。と言って、全部住宅管理会社にお任せでは費用が高くついてしまいます。

② 居住者の異動と高齢化モンダイ

 30年も経てば、社会的変動も大きい。転勤や異動、親の介護や本人や家族の病気や死亡といった変化も伴い、居住者が変わったり賃借人が住むようになったりして、持ち回りで務めている理事(10戸ほどの階段ごとに選出される役員)も務められなくなります。


 管理組合の設立や運営の基本は「マンション管理法」という法律に基づいて(建設時に業者などが)起動させますから、「自然発生的なコミュニティ」というわけではありません。謂うならば公的に始動された共助システムといえます(こういうところが、いかにも日本的なお役所指導だと思いますが)。「管理規約」などの「法整備」も、基本的なところは国土交通省の用意する「模範法」にのっとって、整えられています。

 ただ、「自然発生的な」様相は、居住者の社会的な関係と規範の移ろいによって生じてきています。「社会的な関係と規範の移ろい」とは、これまた漠然としたものの言いようですが、居住者の積み重ねてきた社会集団の「常識」と「ことば」、感性や感覚が、団地の管理に関してかかわりあって醸し出す「場」の空気です。それを私は「コミュニティ性」と名づけました。少し説明します。

 管理組合を運営するとき、人はそれぞれの体験を通して身につけた感性や感覚、社会観や世界観を背景にした言葉を発して、ことをすすめていきます。そのとき、法的言語にすっかりからめとられて振る舞う人の傍若無人さと、生活言語で右往左往して身を守ろうとする人との、衝突寸前の自体を目撃することも、一再ならずありました。特許権の調整コンサルタントを生業としてきた方は、私有物の給水管給湯管の更新工事を、団地の修繕積立金から一部支出して行うのは「法例」にも反すると判決事例をコピーしてきて理事長に訴えます。それに対して、「あの人はいつもああいうことをいう人ですから(構わないでいいですよ)」と、事情をよく知る人は私にアドバイスしてくれます。国土交通省の提示しているのはモデルであって、基本的には団地の規約で定めていればよいと、主体性が私たち自身にあることを明示してコトを収めました。

 あるいは、建築関係を専門とする仕事をしてきた方が、何年も修繕専門委員として素人理事会をバックアップし、団地の補修や大規模修繕に貢献してきていました。新しい理事会が編成され、前年度を引き継いで業務にあたろうとするときに、専門委員の方々は、新しい理事たちに「勉強していただきたい」と、専門用語を一覧にした用紙を配ったことがあります。私は、それを取りやめてもらいました。修繕専門委員会は、理事会の補佐機関であること、素人の理事たちが「専門用語(中には業界用語)」を理解しないのは当然で、面倒でもいちいち素人の理事たちに分かるように言葉を添えてほしい。理事たちが(もっと関心が薄い)居住者に説明するのですから、噛み砕いて説明できるようでないと理解は得られないと力説しました。

 つまり、「コミュニティ性」は、異質な生活背景をもって集まる人々が場を共有するときに支払わねばならない気遣いと言葉の数々です。団地管理組合は、それでも、理事会という場がありました。だが一般の社会では、その言葉を交わす場はありません。人々は自分の言い分を言いっぱなし、聞きっぱなし。結局同好の士が集まってやりとりを交わすか、街頭デモに出かけて鬱憤を晴らす以外に、なす術がないのです。喧嘩やいがみ合い、ゴミ屋敷やご近所の悶着が、マスメディアの画像に乗るか、事件となってとりあげられるか。あげくに訴訟に持ち込むか我慢して泣き寝入りするか、どちらかの道しか残されていないというのが、実情ではないでしょうか。

 どうして、日本はこうなったのでしょうか、というのが、私の体験的モチーフだったのです。

 お気楽に暮らしてきた間の私には、職場が社会関係の主戦場でした。そこでは「コミュニティ性」を半ば公的なものにするために、職場の週刊紙を発行して、言葉を交わす場としました。個人紙というわけにはいきませんから、職員組合の機関紙という肩書をつかわせてもらい、しかし実態は、私の編集発行するメディアとして、職場の(組合員かどうかを問わず)人たちに執筆してもらって、欠かすことなく刊行してきました。それはそれで、面白がってもらえたし、職場の気風をつくるうえで、なかなか力を発揮してきました。でも日常の団地の暮らしは、ほとんど管理組合理事会にお任せで済ませていたわけです。

 仕事をリタイアして、団地の理事長になってはじめて、どんな人が暮らしてるかに目が留まるようになりました。そうしてみると、いろんな人がいろいろな感懐を抱いて日々を送っている。互いに干渉しないという気風も悪くありませが、「あの人はああいう人」と無視するのも、なんだかなあと思いました。

 だが、干渉しないが、助け合いもしない。むちろん「助けて」といえばそれなりの助力は得られると思いますが、その言葉を発する「場」が社会の領域にはないのです。

 先ごろ首相になった方が「自助・共助・公助」と三分類して社会関係を述べました。自助は家族間の助け合いもふくむとすると、ほとんど親子と夫婦間で、関係は終わっています。遠く離れて暮らす兄弟とか、親類は、もうほとんど冠婚葬祭か年賀状くらいしか、お付き合いをしていない。いまさら、私が苦境に陥ったと言っても、果たしてどれだけ親身になってかかわってくれるか、期待する方がムリってものですよね。せいぜい親兄弟どまり。それ以上の(法的な相続として残っている)家族制度は、実態を持っていません。

 共助はご近所のお付き合いとかを想定しているのでしょうか。それとも首相は、民生委員とか赤十字とか公民館活動とか、あるいは子ども食堂とか、NPOのボランティア団体の活動をイメージしているのでしょうか。後期高齢者ということで、民生委員が年に1,2度、訪ねてきます。カミサンがありがたく応対していますが、自律的に暮らしていけるあいだは、特段、必要とは感じていません。

 公助については、先のメールで述べたので繰り返しません。総合的俯瞰的にみると、あてにできない、と感じるばかりです。要するに日本の今の社会は、自律的に自助せよというのが、基本形なのです。それが裏返ってか、世界諸国の社会調査で、困難者を助けることについて日本人の賛同はあまり得られていないのです。


 MさんやWさんのやりとりに絡ませることはできませんでしたが、私のモチーフは、お話しすることができました。「共同性」という言葉には、手垢がついて忌避感が強く出てきます。「社会的な共同的関係性」とでも謂うべきところを「コミュニティ性」という言葉で代替させてきました。

 つまり、私の置かれている現在の輪郭を描き出そうというのが、私の基本モチーフです。「コミュニティ」を良いこととか悪いことと考えてはいません。その点では、中動態的に構えています。

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