ブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)を読む。この著者がどんな方だか、本書の文体に表れたことしかわからないが、したたかで確かな視線をもった方とみた。女性の視線が、これほど勁く遠くまで届いているのを感じたことは、あまりない。オモシロイ。
本書は、2000年代の後半から15年程のあいだイギリスに暮らし、保育士の仕事をしながら目にすることになった託児所の変貌を、労働党政権から保守党政権へと移り変わる時局の変遷と重ねて書き記した、一つのドキュメントである。
バブル崩壊以降の日本経済の「失われた**十年」によって中流層が崩壊し、上下へと格差が拡大して分裂していく様が若い人たちの間に生まれているのを「階級社会になっていく」と思っていた私にとって、イギリスの「階級社会」の在り様は、やはり衝撃的であった。なにより、話す言葉によってすぐにこの人は労働者階級かミドルクラスかわかるという。それと同様に、肌の色、髪の毛の様子、飾り物や被り物の形によって、その人がどのような人であるかが判別されるというのは、多様な人の在り様やそれぞれの人に対する見極めの仕方などが、幼いころからの、いわば体に刻まれて無意識に沈むように、その人の感性や感覚をかたちづくる。その発動が「階級」であるというのは、日本で感じている格差や差別とは別種の、衝迫力を持つと思われる。逆にだから、イギリスの労働者階級の人達は、自らのそれに誇りを持っているとも言われる。問題は、労働者階級とミドルクラスの格差と対立ではなく、労働者階級にすら含まれない「下層ブリティッシュ」と、おおよそ社会の18%を占める移民たちの在り様であった。
「ブロークン・ブリテン」というときのブロークンとは、「壊れた」であろうか。「はちゃめちゃな」であろうか。それとも「打ちひしがれた」か(どこへ向かうか)「怪しげな」であろうか。著者がみていた21世紀00年代のイギリスは、日本人である自分を受け容れて保育士の免許を取ることを支援してくれる、移民にも暮らしやすい老大国イギリスであったようだ。それが2010年代には「ブロークン」していたという、現在との対比が込められている。たぶん、人々も、社会システムも、あるいは社会政策も、すべてが含まれて、くじけていく混沌の様子を表している。
イギリスは長く、良くも悪くも、資本家社会の発展モデルであった。追随した他の国々は、イギリスモデルと対比して、自国の経済がどの程度の段階にあるかを勘案し、経済分析を行ってきた。そのイギリスが、最先端を牽引していた時代は、もう百年も前に終わり、代わってドイツやアメリカが隆盛を誇るようになった。それでもイギリスは、資源をもたない海洋国日本にとっては、相変わらずお手本であった。だがイギリスの廃れていく姿を、日本はみていない。階級社会という言葉にしてから、日本で考えるのは、単なる格差であるが、イギリスでは身に沁みついた文化であり、一度として融和したことのない隔絶した差異をもち、必ずしも優劣で語れない違いを、誇っている。そのイギリスが、EUに片足加わり、人の流動化によって多様な文化が流れ込み、移民が増えるにしたがって、ワーキング暮らすとミドルクラスの階級的差異を示す文化も、多方面からの綱引きによって拡散し、下層ブリティッシュと呼ばれる最下位層の都市住民を生み出し、言葉から装いから振る舞いからして、明らかにそれと分かる「文化」を身につけてしまった。それが、移民たちの顰蹙をも買い、いっそう差別的に敬遠され、かつて誇りとしていたイギリス社会のソリダリティ(連帯感)さえも消失してしまう自他を招いている。ここでも、日本社会の先を行っているようにみえる。
ブレディ・みかこは、21世紀00年代後半に自分が身を置いたり手伝いをした託児所を「底辺託児所」と呼ぶ。対して、2010年代にふたたびイギリスに戻って身を置いた託児所を緊縮託児所と名づける。後者は保守党政権になってから、緊縮財政の下で締め付けられて出来上がった託児所の姿を現す。
「昔も底辺託児所は貧しかったし、緊縮託児所よりもカオスな場所だった。それは、モラルも何も崩壊してアナキーな国になった「ブロークン・ブリテン」を体現していた。だが、そこには、現在のような分裂はなかったのである。」と前置きして、こう記す。
《レイシスト的なことを口にする白人の下層階級も、スーパーリベラルな思想を持つインテリ・ヒッピーたちも、移民の保育士や親子も、同じ場所でなんとなく共生していた。違う信条やバックグラウンドを持つ人々は、みんなが仲良しだったわけでもなく、話しが合ったわけでもないが、互いが互いを不必要なまでに憎悪し合うようなことはなかったのである。そこには、「右」も「左」も関係がない。「下層の者たち」のコミュニティが確かに存在したのだと思う。》
《英国のEU離脱選択や米国のトランプ大統領誕生で、世界中のメディアで識者たちは「エスタブリッシュメントと民衆の乖離」を指摘するようになった。同様に、排外主義的な右派が世界で勢力を増しているのも、「左派と民衆の乖離」があるからだと言われている。》
イギリスの労働党と保守党の違いがどのようなものであるか感じとることはできないが、ブレディ・みかこの記す限りでは、いずれも「緊縮財政」の波にのまれて、「下層ブリティッシュ」の心に灯をともすことを忘れて、金銭的な収支計算、コストパフォーマンスに向かってしまったと読み取れる。たぶんそこには、デジタル化の波もかぶさっていて、とどめようがなかったのであろう。
そうして「下層ブリティッシュ」の人々は、やってくる(向上心のある)移民との居場所の奪い合いに出くわしてしまったのであろう。
祖国から逃げ出すように移動してきた移民は、イギリスという新天地で落ち着いた暮らしを手に入れようと意欲に満ちている(逆に、新天地と思ってきたのに、なんだこれは。これじゃあ、わが祖国の方が幸せに暮らせたのではないかと落胆した人たちも少なからずいたと記している)。それに較べて下層のブリティッシュは、生活保護を受けてやっていけるならそれに乗っかってらくちんに暮らしていこうとだらしがない。麻薬やアルコール、暴力にまみれてまるで向上心を持たない。だから移民からも冷たい視線で見られ、バカにされる。それが目に付くから、下層ブリティッシュは、移民が自分たちの居場所を奪ったように思い、反撥する。
「エスタブリッシュメントと民衆の乖離」とか「左派と民衆の乖離」とは、人々が自律して前向きに暮らすという意欲は、金銭だけでは支えられないことをみていないことを意味している。暮らしに必要なお金だけを与えて、あとは自立しなさいというのでは、人間はやっていけないのだ。「希望」が必要だ。それが底辺託児所時代には、託児所の人と人とのかかわりの中にあった「コミュニティ性」が、かろうじて人々の間を(いい加減なかたちで)結びつけていた。ところが緊縮時代になって、保育行政は、コスパ計算しかしない。生活保護も金銭的にしか見ていない。緩めれば、お金をもらって遊び暮らす人たちが多数出来する。と言って引き締めれば、住むところも失って、とどのつまり、まず一番弱いところ、子どもに対するネグレクトや虐待として噴き出してしまう。更に保育行政は、金銭計算だけに基づいて託児所の削減にも乗り出すから、閉鎖される託児所が頻出し、それはさらに子どもを預けるところを失って、仕事に出ることもできないシングル・マザーやシングル・ファーザーを増やしてしまう。
そうした現場を歩いてきた著者の眼力は、なかなか見事なものがある。彼女自身が「アナキーに」感性を解き放っていくのが読み取れて、のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる。底辺をみてこそ、その社会の最上辺に至るモンダイが見てとれるという指摘は、なか中の慧眼と言える。
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