2020年11月7日土曜日

出来事を共有するって、どういうこと?

「コミュニティ性」に関するやりとりの不思議について、少し続けます。

 最初、同窓後輩のMさんが、敷地に立つカーブミラーが見づらいので樹木伐採をというご近所さんの申し入れとそれへの対応について書いていました。それを私は、「コミュニティ性」が消失している(社会事象)と読み、そう書き記しました。

 その論理的筋道は、こうです。


(1)カーブミラーは公共的な設置物と利用する方々はみている(にちがいない)。

(2)カーブミラーの設置がMさんの父親の「好意によって設置許可されている」ことは、その利用者にはわかっていない。市役所がそのように広報しているとは思えない。

(3)だからカーブミラーが見づらくなっているから、(Mさん宅の)樹木の伐採をして見えやすくしてほしいと(利用者が)市役所に申し入れるのは、「公共物の管理を行う役所としての仕事をしてほしいという市民としての自然な要請である。

(4)もしそうでなければ、ご近所さんを通じて(あるいは直接)お宅の樹木が邪魔だよ(伐採してよ)と要請することもできますが、定住していない方にそうお願いする機会がなければ、(3)のように市役所に要請するのもありではないか。昨年ご近所に要請して樹木を切ってもらったということがあれば、ひょっとすると市役所がその処置をしたのであろうかと、無断伐採を誰がしたかの推測をした。

(5)「ありがとう」と見下したような挨拶は、上記(1)~(4)と受け止めている「公共物カーブミラー」の利用を妨げている「私物Mさん宅の樹木」の伐採を(ご近所さんの要請に従ってか、市役所の要請を受けてか、誰がやったかわからないが)してくれたことに対して、感謝を述べたのであれば、見下すというよりも「公共性に応じてくれたことへの感謝」として自然な態度でもある。


 おおむねそのような「公共性」と「私物」とそれの恩恵を被っている市民(ご近所さん)の「かんけい」を考えてみると、「公共性:市役所の役割」と「私権:個々人の暮らしの都合/不都合」の間をつなぐ別の回路がない。それを「コミュニティ性の消失」とみたわけです。それは、Mさんの実家がある地方ばかりでなく、都会地でも日常的にみられる景色であり、高度消費社会を実現していま「失われた○十年」の最中にある私たち日本社会の日常的景観ではないか、と指摘したわけでした。

 ところが、同窓先輩のWさんから「金無垢の正論」と揶揄われ、Mさんからも「無断伐採の犯人が誰か」という話に焦点が向かっていました。Mさんはこう続けています。


《Fさんのコミュニティ性論から言うと、断絶を前提にした支所介在や無断伐採ではなく、依頼の挨拶をするのが大人というべきだろうというのが、私の立場です。》


 私は「断絶を前提にした」のではなく、Mさん宅の樹木伐採の経緯は「断絶していることを示している」と指摘したのでした。それは後のメールで、(4)の「定住していない」という私の指摘にからめて、以下のように受け取られていたことがわかります。


《Fさんは、「ふだんから顔見知りのご近所ならば、家を訪ねて依頼することもできましょう。しかし、別荘として使っていたのでは、ご近所さんもそうはできません」とされています。別荘のように使っているのだから、無断伐採を甘受しなければならないという感じに響きました》


 ええっ、と驚きましたね。私はそんなことは、一言も言っていませんし、文脈からしても「無断伐採を甘受しなければならない」という言葉につながる読み取り方をされるとは、思ってもいませんでした。ただ一つ、こういう想像力が働いていなかったとは言えます。それは(5)の文脈で《見下すというよりも「公共性に応じてくれたことへの感謝」として自然な態度でもある》という受け取り方ではなく、じつは、公共物の利用を邪魔しているMさんちの樹木(昨年も伐採をご近所さんにお願いして要請し応じてもらったのに、なんだこの樹木の伸び放題は。また今年も言われなければならないのかと腹が立って、こっちで勝手に切り落してやった)、でも無断伐採は私がやったのではないと示すために、「ありがとう」とにこやかに挨拶を知ったんだと、アリバイ作りをしたかもしれない場合もある。でもそれは、「コミュニティ性」消失と同じことを示していますから、論脈的には不可欠なことではなかったと思います。

 それよりもMさんは、ご近所さんがどうしてそのような振る舞いをしたと考えているのでしょうか。彼の思念が、実家のある地域をひとまず離れて日本社会全般の特徴的なモンダイとして「コミュニティ性」を考えるステージに乗らないのでしょう。そこをプッシュしようとしてメールしたのが、10/30「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」でした。

 昨日も紹介したように、それに対するMさんメールの書き出しが、「立派だった」「なかなかできない驚異的な実践でした」というお褒めの言葉でした。ああこれは、全然すれ違ってるわと、思いましたね。それで、《(まえおき)私は褒めてもらいたかったわけでもないし、自慢話をしたつもりもありません。今の私たちの置かれている時代と社会のことを申し述べただけです。》と前振りをして、11/3「情報量とコミュニケーション」をメールにして送った次第です。

                                            *

 カーブミラーと私邸の樹木伐採という出来事を巡って私は「現代社会」を考えてみようとしました。だがMさんもWさんも、そういう思考回路に乗ってきません。あくまでも暮らしの現場にこだわり、その個別性のままにモノゴトをとらえるというばかりでは、社会や時代を話題にして言葉を交わすことなど、できようはずがありません。もちろん私は、容易に一般化したり、普遍的なコトとみなして、特殊性をないがしろにすることを良しとは思ってもいません。でも、発生した事象を、時代や社会の共有する出来事として認知するためには、ひとまず個別性を保留し、一般性に目を移して、そこに位置づけてこそ、特殊性を特殊性として認知できるのではないか。その、ひとまず棚上げして思索をすすめるのが、「知的」ということではないかと思います。古典と謂われる本を読んでも、何百年とか千数百年前からの手紙を思って受けとめれば、今の時代のことに触れて刺激的であることを感じます。それは、その古典に記載されている出来事を、時代を越えて共有しているからにほかなりません。その第一歩で躓いてしまったのが、この、古い知人とのやりとりだったわけです。

 でもこれって、いま大騒ぎしているアメリカの大統領選と同じ地平を示していると思うのですが、どうでしょうか。

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