2021年3月31日水曜日

静かな奥山の散歩道――鹿倉山

  今日(3/30)、好天の奥多摩の鹿倉山(ししくらやま)を歩いた。三頭山の西側に位置する。奥多摩町から山梨県の丹波山村への縦走路。下山口に自転車を置き、奥多摩湖の西端の深山橋を渡った登山口の駐車場に車をおいて登り始める。陣屋という蕎麦屋の脇道を入る。サクラとレンギョウが出迎える。すぐに急斜面を登る山道に踏み込む。ここから標高1000mほどの大寺山まで、標高差500mのひたすらな上り。落葉広葉樹の林がつづく。木々の間から奥多摩湖の湖面が朝日を受けてキラキラと輝いている。おお、ミツバツツジが見事な花をつけている。コースタイムは1時間半とあったが、約1時間で登った。山頂には大きな仏舎利塔が建っている。1960年代後半にたてられたというが、まだ新しいもののように真っ白だ。そう言えば、足場が組まれているから、ちょうど化粧直しをしたところかもしれない。

 ここから鹿倉山までは少しばかりのアップダウンの稜線上を辿る。古い道標がこのコースの来歴を表していると思っていたが、「鹿倉山ハイキングコース」と記した金属製の道標は、手書きもあって古いのか新しいのか、よくわからない。ヒノキを育てているという気配が色濃い。よく手入れが施されている。稜線を歩いていると、何処か下の方からチェーンソウの音がする。地理院地図の1178mピークには、道標に「大マトイ山」と手書きしてあった。地元名か。

 その先に落ち葉の降り積もる林道が現れる。その林道の砂利に、コケが生えかかっている。かつて木の伐りだしをしたときにつくられたもののようだ。しばらく進むと林道にネットが書けられ通行止め。その片隅に、左の山道へ上がるよう指示標がおかれ「林業作業道」と手書きされている。山道を行くと左下方からブルドーザーが動くような音が響く。覗くと、下の広場にトラックが止まり、キャタピラ付きの小型重機が走り、ユンボが座っている。その傍らには伐り揃えた丸太が積み上げられていて、運び出すばかりなのか、このまま乾燥させているのかわからないが、たしかに林業作業中であった。その先でまた、林道が現れたが、こちらは、敷いた砂利も白っぽい。その先に「←鹿倉山」の標識が現れ、林道を下にみながら山頂への斜面を上る。

 11時ちょうど、鹿倉山の山頂に着いた。コースタイム3時間15分のところを、2時間15分で来ている。上々。ヒノキに囲まれた小広い山頂。てんでに木に取り付けられた山頂表示が、古い時代のこの山のあしらいであろう。三角点の置かれた1278mという、そこそこの標高だが、関東平野からみると、奥深い。早いがお昼にする。

 少し下ると、先ほどの新しい林道と出会う。山頂をぐるりと巻くようにつくられていて、山道に合流して、林道を辿るようになる。15分ほどさきで「←遊歩道」と小さな標識がある。たぶんこれが、林道をショートカットする登山道なのだろう。だが林道は、地理院地図に記された登山道を辿るようにぐるりと回り込んでいる。それを歩く。予測通りであった。やがて「←大丹波峠」の、壊れかけた道標が現れ、ここで林道とわかれて山道の下山路となる。大きく山体を巻きながら降るルートは、しっかりと踏まれている。やがてこれも、回り込んできた林道と出会って、それを辿り大丹波峠に着く。12時3分。「←丹波山村・小菅村(川久保)→」の峠道だったわけだ。

 ところが丹波山村の方の道には「登山道崩落のためこの先通行禁止」と大きな看板が立てかけてある。ええっ、ここへきてこんな表示では、引き返すわけにもいかないではないか。これも、黒山三滝の登山路同様、行政の「言い訳看板」だろう。進むと緩やかなジグザグの下りとなり、左側の沢に近づいていく。そのうち、何百メートルか沢を歩くようになる。そこが崩れている。一昨年の台風19号のせいだろうか、流されてきた倒木が沢に横たわっている。沢歩きとなるから、踏み跡も怪しげだが、先を見据えて、歩けそうなところを踏んでいくと切り抜けるのに困難はない。

 35分ほどで沢を抜け道に降りる。ここにも「言い訳看板」様のものが置かれている。マリコ川を渡るマリコ橋だ。その先に「サミットの森(小峰山)散策コース」のイラスト看板が掛けられている。スーパーマーケット・サミットの協賛なのであろう。丹波山村が設けたハイキングコースだ。「クラインガルテン」という植栽場や「ジビエ加工場」などが、高いフェンスの上部に電流を通した防止網を施した広い農耕地がある。サル除けなのだろうか。それをふくめて、満開のサクラが目を奪う。

 自転車をおいた下山地点に12時47分着。ほぼ4時間の行動時間。ここから出発点までの10kmが自転車道。最初調べたときは、登山開始地点の標高は520m、下山地点の標高は620m。つまり、100mの標高差を快適に下って戻れると踏んだ。ところが、結構アップダウンがある。8割は下りなのだが、後の2割が上りとなる。車では何でもない上り道が長く続くと、自転車は草臥れる。加えて南東の向かい風は計算外。ときどき押し歩いて40分かかった。

 快適に車で4時には戻っていた。

2021年3月28日日曜日

「かんけい」の気色(2)表象的な跳躍

  書こうと思ったことと書いたことが違ってしまうことはよくある。ついつい書き落とした文章に引きずられて、脇道に逸れてしまう。そちらの方が面白いと思ったり、書こうと思ったことを失念したりする。しかし、それはそれで(当人としては)触りはない。

 今日は、脇道に入る。

 昨日《はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている》と書いたことについて、思い浮かんだこと。

「はじめに言葉ありき」という旧約聖書の言葉を、言葉で伝え遺す(書き記す)には、最初にクリアしなければならないハードルだと考え、「ことばの起源」に関する問いを封じてしまうために書かれたことと思って、長く過ごしてきた。だがちょっと違うのではないか、と昨日、考えていたのだ。「はじめに言葉ありき」というのは、じつは、ヒトが自らの生長を振り返ってみたときの実感ではないか。旧約聖書は、メソポタミア地方で発見されたギルガメッシュ神話の焼き直しではないかと、誰かがどこかで論じていたが、神々の世界から現世を語ろうとするとき、その語り伝える「ことば」というメディアがいつどこでどのように誕生したかに触れないで、創世記をかたりだすことはできない。その壁をクリアするための作法として、「はじめに言葉ありき」と枕を振ったのであろう。つまり昔話の冒頭で「むかし、むかし、あるところにじいさんとばあさんがおったとな」と枕を振るのと同じようなものなのだ。

 だが、わが身に引き寄せてみると、ふと自我が芽生えたとき、やはり「はじめに言葉があった」と前提して、自己認識を、つまり「せかい」認知をすすめていたことに、振り返ってみて気づく。そうか、そういうヒトの実感と深く結びついているから創世記への信仰がはじまるのか、と思った。

 そう考えてみると、エデンの園の物語も、生長実感を対象化してみたとき、腑に落ちる。エデンの園で暮らすというのは、「せかい」のすべてが「われ」であり、「われ」のすべてが「せかい」という、まるごとすべてが一つになって不可分になっている混沌の世界である。つまり、大人に保護され、自他の区別も意識することなく、我が儘に振る舞っている幼い子ども。アダムとイヴのように裸であることに何の不都合も感じていない。それが智恵の木の実を食べて、「裸であることが恥ずかしくなった」というのは、神と「われ」の「分別」が生じたことを意味する。となると、思春期から後の「自我の芽生え」に相当する。神は保護者=親に相当するか。木の実を食べるようにすすめ、「邪悪」とされた蛇は、今で言えば「学校の教師」である。とすると、教師が「神:親」に反して「邪悪」なことを生徒に吹き込む役割を担っているのは、昔から世界的当然であったのに、今はそんなことも忘れてしまっている? 

 エデンの園を追われ、食べ物を自ら手に入れて生きていくという物語りは、成長物語であり、そうした物語に身を浸すことによって、「せかい」の連綿たる繋がりに位置していることを意識して伝えていることになる。なんだ、旧約聖書はオレの物語じゃないか。そう実感するところが信じる起点になる。

 これは「かんけい」の気色である。創世記という神話の世界が、具象的な我が生長記とかさなる。つまりこの見事な、表徴的な跳躍が、ヒトのクセ。良いとか悪いとかすぐに決めずに、神と蛇の位置づけを考えると、ヒトの生長の絶対矛盾的自己同一が表象されていることがわかる。良いとか悪いとか決めるように読み取るのは、神を守ろうとする側の組織防衛の観点が強く入り込むからではないか。つまり、教会組織の自己防衛意識がものごとの善悪を剔抉し、善を了とし悪を排斥する志向に転轍してしまうからだ。善悪二元論的に考えるより、善悪どちらも包含する中動態的に考える(昔日の)思考法に戻れば、ヒトの具象的な一体的とらえ方に通じる道が開かれる。

 ヒトの「かんけい」の気色をみるとき、中動態的であることが大事なのは、ことにデジタル化の現代社会において、「イェス/ノー」という色合いをはっきりさせることが社会的な通常文法となって、優柔不断なヒトを追い込んで生きづらくさせているからである。はたして、AIは、この中動態的なニュアンスと表象的な跳躍とを上手に読み込んでくれるのか。おやまた、脇道へ入ってしまったかな。

2021年3月27日土曜日

「かんけい」の気色

 今月で仕事をリタイアする若い方がいる。長い間ご苦労様でしたとご挨拶をし、一緒に山歩きをしませんかと誘ったら、腰痛があって今は無理だが、実は少しずつ大宮第三公園辺りを歩いていると回復を試みていると話しが転がった。歩いていると、自転車や車で通り過ぎていたことと違った世界が見えてきて、気付かないでやり過ごしている世界があったのだと感じ入っているとつづいた。

 そんな話をしたのちの昨晩、寝床で、一つ思い出したことがあった。

 高校生の国語の授業のとき、教師から「抽象するってどういうことか説明してよ」と質問されたこと。そのときは「こころ」を例示して、何かを言った覚えがあるが、後にその教師からダンテの新曲を読むようにすすめられたことが記憶に残っている。何を言ったのか、それを教師がどう受け止めたのか、まったくわからないが、何か思うところがあったのであろう。

 ではいま、「抽象するってどういうことか説明してよ」と問われたら、どう応えるか。

 二つの方向が思い浮かんだ。

 ひとつ。シロバナタンポポが咲き、その傍らに咲いていた黄色いタンポポの花を裏返して萼片をみたらカントウタンポポだった。ということは、セイヨウタンポポが蔓延って、むしろ主流であることをしっていたからだ。そのとき、それらをひとまとめにしてタンポポと呼ぶのは、「抽象している」のではないか。さらにそれらを「花」と呼んだり「草」と名づけたり、もっとさらに「植物」とまとめたり、「生物」とひとくくりにするというのも、「抽象している」振る舞いではないか、と。

 だが、と逆のベクトルに、二つ目が思い浮かぶ。

 そもそも(子どものころに)世界を認知するのは、タンポポが先だ。いや、生物と無生物が一番先で、ついで植物と動物、草と木、花と葉や茎というふうに、全部が一緒であった混沌の世界が、徐々に分節化して「せかい」として受け止めている。その分節化の過程をもし、「具象化する」と呼ぶとしたら、じつは「抽象化する」過程と「具象化する」過程は、思考過程としては似たようなものではないか。つまり「せかい」が現れて、個体に働きかけてくる。それを「働きかけてくる」と表現できるのは、現れた「せかい」を、個体が享けとめているからである。「せかい」をかたちづくる「もの」そのものが「個体」に起ち現れる瞬間、すでにそれは「かんけい」を具えている。

 モノゴトをヒトがどう認識しているかと考えると、じつは「せかい」は混沌として現れ、それを「せかい」として認知することそのものが、「かんけい」の表現である。そう考えると、具象化は抽象化と同じく「せかい」認識のベクトルが異なる方法であって、いずれも意識的に世界をとらえるのに欠かせない思考過程である。マクロの宇宙論とミクロの素粒子論とが実は同じ「せかい」認識であったくらいの、発見であった。何を発見したのか。絶対矛盾の自己同一の再発見か。「せかい」を認知する座標軸が見えるように感じている。それを私は、「かんけい」の気色と総称している。

 座標軸の原点は、「わたし」である。それは認識の原点ということであり、「せかい」の原点でもある。なんだ、それは観念論の最たるものではないかといわれるかもしれない。だが「せかい」は、それをそれとして認知する主体を欠いては成り立たない。ではもし、その主体が消滅したら「せかい」はどうなるのか。当然、消滅する。「せかい」とは認知されている限りの限定的なものだ。

 では、誰が見てもそれが「それ」であるという、「科学的」「客観的」事象はどう捉えることができるのか。誰がみてもの「誰」が多ければ多いほど「それ」の数は多く、多ければ多いほど「科学的」であったり「客観的」である事象が多いと考えてはどうだろうか。一人や二人が消滅したからと言って、「科学的」「客観的」世界は消え去らない。だが、認識の枠組みが大きく変わることがあったら、天動説が地動説に変わったように、「科学的」も「客観的」もがらりと変わる。つまり、「科学的」「客観的」にも(多数派)というか力関係が働いているのかと言われるかもしれないが、(多数派)というのが、単なる(信じている人の数の多さ)というのではなく、(エビデンスとか限定した場での論理的正当性とか説明の簡潔さという)権威(の多数派)が作用していると言えるのではないか。

 いずれにしても、ヒトのすることだ。人間要素を抜きにして、エイデンスや論理的正当性を云々しても仕方がない。もちろんここでいう人間要素はアインシュタインが言っていた人間定数とは意味あいが違うが、人の世界の内側において、「せかい」をつかもうというのであるから、そもそも無理難題を承知でオハナシしていることであった。

 はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている。ヒトは気づいたときには言葉をしゃべりはじめていたのだから。それからおおよそ数万年、哲学者たちの思考過程を勉強して咀嚼することをショートカットして、生きてきた経験則的実感だけで「せかい」を振り返ってみているわけだから、ちゃらんぽらんで、いい加減であることだけはまちがいない。でも、そうやって自分の輪郭を「せかい」として浮かび上がらせるクセだけは、ちゃんと身につけているのだとみてください。言葉は、人類文化の、善し悪しを定めぬクセである。

2021年3月26日金曜日

開放感の田島ヶ原・秋ヶ瀬公園

 一昨日(3/24)田島ヶ原に車をおいて、北の端ピクニックの森まで往復してきた。田島ヶ原自生地のサクラソウは、見事に花開いている。これから2週間ばかりは見ごろだろう。ノウルシも黄色い頭をもたげて蔓延る。アマナはもう消え入りそうな姿になっている。シロバナタンポポばかりか黄色のカントウタンポポが元気がいい。学生風の若い人が自生地の中にしゃがみこんで、何かを吊り除いている。

「?……、ノウルシを採ってるの?」

「ええ、実験ですから、一部だけ取り払ってます」

 サクラソウにどういう影響を与えるか見ているのだそうだ。ノウルシが蔓延るとサクラソウが負けてしまう。でも、ノウルシを採ってしまうと、ほかの植物も少なくなってしまうこともあるという。ノウルシは絶滅危惧種。サクラソウも絶滅危惧種。だからどちらも上手に育てたいという。農大の学生さんのボランティア実験だと、後で聞いた。

 自生地の案内ボランティアの人たちが二十人近くも集まって、主宰者の話を聴いている。今年のボランティアはじめだそうだ。

 傍らの広い芝地では、子どもたちがボールゲームに興じ、小さな子を連れたママたちが敷物を敷いて、ピクニックを愉しむようだ。帰るときにはテントが7張りもあった。緊急事態宣言の明けた公園の風情だ。

 自生地脇の鴨川は中州が見えないくらい水が溢れている。東京湾が満潮だからだと、これも後で聞いた。ヨシガモが2組、オオバンが何羽か、ぷかりぷかりと浮いている。

 長袖一枚で十分だった。子どもの森の辺りでカメラマンが屯している。脇へ寄って、皆さんが見ている方をみると、小さな水飲み場が設えてある。そこにヒレンジャクが1羽きている。覗いているとシメが来る。それを押しのけるようにもう1羽のシメが来る。3羽が入れ代わり立ち代わり水場を争っている。

 さかさかと北へとすすむ。背の高い木に小鳥が飛び交う。こちらに一人、向こうの草地にも二人、入り込んでカメラを向けている人もいる。カメラの方向へ双眼鏡を向ける。黄色い腹が陽ざしに生える。マヒワだ。3羽だろうか、それとも4羽だろうか。その先には、カワラヒワ2羽、ツグミ1羽が草地に降りて何かを啄ばんでいる。森の木立からカケスの声が聞こえる。茂みからウグイスの警戒音がする。鳥たちもぼちぼちペアリングの季節に入ったのかもしれない。

 いやもう、鳥に関して今日は、大満足。テニスコートを過ぎて流れを遮るための土手を越える。向こうの幸福の森の草地にはなん張りものテントが張られて子ども連れがピクニックを愉しんでいる。竹林にも双眼鏡を覗いて何かをみている人がいるが、それが何かわからない。畑を過ぎ、水路を渡り、浦和レッズの練習場脇を通る。広い野球グラウンドで何人かの大人が空に向けて何かを放ち、その行方を見上げている。近くの通りへ進路を変えて、何をしているのか見つめる。紙飛行機をゴムの発射具を使って上空へ向けて放ち、それがくるりと回ってゆっくりと旋回しながら風下へと飛ぶのを見上げているのだ。だが、白い紙飛行機は放たれるとたちまち青空に溶け込んで姿を消してしまう。滞空時間が1分を超えるのがある。

 ピクニックの森は鳥の声が響く。シジュウカラやメジロ、コゲラはわかる。何とも賑やかなのはガビチョウだろう。森の中路を通って、ぬうっと現れるウォッチャーもいて驚かされる。池は亀が甲羅干しをしているほかは静かだ。森の西側にはカメラマンのひと塊がいた。レンジャクが来るのを待っているらしい。

 そこから秋ヶ瀬公園の一番西側の道を南へ戻る。車道との間に連なる灌木と木立を左に、右手に繁みと木立と目下築工事中の大きな土手をみながら歩いて行く。さながら、秋ヶ瀬公園の傍観者という立ち位置だなと思う。おっ、目の前の茂みに小鳥が止まった。双眼鏡で覗く。おっ、おつ、ホオアカではないか。ほおの赤色が色濃くて、ちょっと茶黒っぽく見える。しばらくお立ち台に立つようにじっとしていた。鳥観は大満足が二乗になった。

 結局、2時間半ほど歩いたことになった。汗もかかない。自粛明けの解放感に浸る秋ヶ瀬公園であった。

2021年3月25日木曜日

文筆家・馬野骨男の便り(1)

 五十年来の私の友人がいます。77歳の喜寿。毎月1回便りのやりとりをしています。この方、かつては「エクリチュールの剰余」と褒め称えられた文筆家(ものかき)。中森明夫が絶賛する市井に身を隠す大隠です。便りはハガキの裏表にびっしりと細かい文字で書きこまれたもの。私が独り占めしていることに忸怩たるものを感じてきました。ほんの一片を、何回かに分けてご紹介しましょう。


 2020年12月21日


「無冠」第53号、拝受しました。いつもながらの切れ味鋭利な思索活動寔に以って崇敬申し上げます、と言いたい所ですが、その褒譽の言はいまは一旦留め置きます。何故なら、今号のほぼ半分は明らかに手抜きと称すべく、SMなるどこの馬の骨ともすぐわかる人物の手になる手紙を羅列させて、慌しない年末を当紙面上でもやりくりしようとする魂胆見え見えのp1~p9でありました故。手紙というのはメールと違って書いた本人には下書きすら残っておらず、大抵は何をどう書いたのか忘れてしまっているものですが、馬の骨Sさんも例外たり得ず、復刻版をみせられて、「えっ、俺そんなこと書いたんだ」「まさか、そんなこと言ってるなんて」ってのが続々でした。そう言えばその一つですが、蜜柑の実は成りましたか。将来未完成? 桃栗3年甘吉年。それはそれとして、私信を本人の許可も得で世に晒すのは御法度だが、殊更に悪心私心を以ってのことではないので、なあに構うものかと穴埋め用に供したのでせうが、馬の骨なる人は自分の恥骨を晒されてどう思っていることでせう。「いかがなものか」とやんわりと原否定したのでせうか。それともCOPDのためただでさえ苦しい胸が更に疼いたのでせうか。御安心召されい。こう見えても馬の骨はそんじょそこらの犬、猫、鶏の骨の如き狭量ではござらぬ。斯様な三密駄文でも貴殿の助き働きのために御役に立ち申したと心得れば何のこれしき(※ここら辺我が「小説」の書き方に相似てきました)、「私信(*1)不私心之信(*2)」(*1手紙、*2朋友に信の信)。通信の自由は保障されています。それでは崇敬の念表明を解禁して、毎度の繰り返しで煩く聞こえるでせうが、月に一度と言いながら己が思索の奇跡を原稿用紙にすれば百枚前後も刻むというのは、幾ら頭脳の構造や回路が左様な仕様にできているとはいえ、ただただ畏敬の念を抱くだけです。来年もまた54号、55号・・・と続けるおつもりですか。老爺心ながら月に一度の生理のためにあたら体を、いや頭を壊さないようにと思っております。ところで、馬の骨の骨にこのところ滅法ガタが来ていて、肺気腫を元凶とするこの短期間での指数関数的なガタぶりは甚だしく、これまでは階段や坂道の息切れでしたが、今は普通に歩くのさえは勿論、家の中で何かするごとにすぐハアハアとなってしまうまでになってしまいました。そろそろ携帯酸素のボンベのお世話になるかもしれません。肺は心臓のペースメーカーのような小型代替物はありません。あるのはコロナで有名になったECMOのようなとんでもない装置だけなのが厳しい所です。ああ、そうそうハガキの表側の件、娘に訊ねたら、機械の読み取りの関係で半分が限度だと譴責されてしまいましたので、今回からそれに遵うことにします。

2021年3月24日水曜日

静かな奥日光の浅い春

 緊急事態宣言が解除となり、今年初めて県境の越境をして奥日光の戦場ヶ原へ行ってきた。昨日(3/23)のこと。

  前日の風の強い曇り空と違って、からりと晴れた。東北道はそこそこ混んでいる。トラックと仕事に出かける人たちのようだ。栃木IC辺りを過ぎると、走りやすくなった。日光道へ入ると、車は少なくなる。いろは坂にかかると工事をしていたが、走る車両も多くないから、さかさかと雪もない道を登って行ける。

 赤沼に着く。これまで車をおくことのできた赤沼茶屋の広い駐車場には、ロープを張り巡らして、車が入れないようにしてある。その奥の赤沼駐車場は「使用できません」と張り紙をして、ロープを掛けて進入を止めている。仕方がないから、赤沼駐車場から広い道路までのアプローチ部分に止めた。3時間半ほど歩いて戻ってくると、私の車の前後に行儀よく車がずらりと止めてあったから、皆さん見習ったわけだ。8時40分。

 戦場ヶ原の入口のところで、3人の男が看板を取り付けている。新しい戦場ヶ原案内図。ルートとコースタイムが書きこんである。今日の予定コースをみると、4時間10分のコースタイム。戦場ヶ原を通り抜ける木道が新しくなっている。これまでのに較べて広い。しかも、二筋に分かれていたのを一つにまとめているから、格段に歩きやすくなった。雪もついていない。乾いて朝日を受けてキラキラと輝いている。環境省が昨年、付け替えたのだそうだ。戦場ヶ原の突き当りで湯川を渡る青木橋を修復するために戦場ヶ原が通行止めになったとばかり思っていた。いや、事実そうなのだが、それだけでなく、木道の張替えまで行っていた。

 歩きながら振り返ると、男体山が陽ざしを受けて頼もしそうだ。大真名子、小真名子から太郎山や山王帽子山、三つ岳がくっきりと姿を並べて見せてくれる。揃い踏みってやつだ。戦場ヶ原の雪は草の中に残る程度。湯川の水が勢いよく流れる。マガモやヒドリガモ、オオバンが流れに浮かんでいる。傍らの大きなズミの木がにぎわっている。声ではない。飛び交う姿が多い。双眼鏡でみると、キレンジャク、13羽。何かを啄ばんでいる。白樺の木との間を行き来しているのもいる。望遠スコープにカメラを取り付けた男が一人やってきて、キレンジャクにカメラを向ける。私はその場を抜ける。

 青木橋がかかっている。どう変わったのかわからない。コゲラがやってきて、向こうの木に止まる。湯川の中にあったバイカモがまったく見えない。冬だから見えないのか、工事の関係でなくなってしまったのか、わからない。橋の上に立っていると風花が舞う。どこからやって来るんだろう。空は青い。外山や白根山の方は真っ白だから、そちらから風に乗ってくるのだろうか。

 その先へ歩を進めると、木道の上に雪が残っている。それがだんだん多くなり、雪の上を歩くようになる。雪は凍っており、下手をするとつるりと滑る。ストックを出して両手に持つ。バランスを取りながら、木道の上に盛り上がった氷雪を踏んで、慎重に進む。雪は、陽の当たり具合と森に囲まれているかどうかで、溶け具合も変わる。凍っているのは、よく踏まれている雪。それがこのところの暖かさで溶けて、ふたたび凍りついている。かつて人の踏んだ後は、凸凹となり、ストックがなければ、歩きにくいことこの上ない。

 泉門池に着く。木道もベンチも昔のまんま。佇まいも、静かなまんま。男体山が静かに見下ろしている。湯川沿いの道は、一昨年の台風で道が崩れ、木道の手入れもされず、通行禁止。代わって、森を抜けて湯滝へ向かうルートがつくられている。一昨年の冬、応急につくられたときは、ミヤオザサの茂みを踏みつけるように、あるいは、刈り払った裸地に雨が落ちて泥んこになっているようなところもあった。それが、落ち葉が降り積もり、しっとりとした道になっている。すすむとそこにも雪が残り、木道の残雪同様に慎重に進まねばならなかった。

 湯滝に行って、二組、4人の人と出会った。一人はカメラマン。あとの3人は、湯滝脇のルートを登って行った。湯滝の水量は、いかにも春が来たぜと自慢するようにほとばしっている。近辺の雪が解けたのを全部湯ノ湖に集め、その出口から一気に放出する。これが、戦場ヶ原の湿気を保っている。

 ふたたび泉門池に戻り、小田代ヶ原に向かう。単独行の十代かと思う青年と、チラリと目を見交わしただけですれ違う。この沈黙が好ましい。

 小田代ヶ原への道に踏み込む。森を通るから、残る雪が多い。歩く人が少ないから、雪が荒れていない。快適に歩く。カケスの声が響く。カラの声と姿がチラリとみえる。いつだったかシジュウカラがいると言ったら、同行していた鳥の達者が、ここにはシジュウカラはいいないと決めつけられたことがあった。でもなあと、思っていたが、その後、何度かこの辺りでシジュウカラを目撃したから、私は私なりに得心していたことがあった。そんなことを思い出しながら、バランスに注意して小田代ヶ原の入口にある鹿除けの門をくぐる。冬場は回転翼を取り払っているから、ただの門にみえる。

 ここの木道も修理されて広くなっている。小田代ヶ原が遮るもののない陽ざしを受けて、草モミジの色合いのまんまに広がり、その向こうに男体山がどっしりと見守るように構えている。貴婦人がちょうどいい位置に立っている。いい構図だなあ。ぐるりと木道を回ってシカ柵の入り口近くに行く。アラサーの二人連れがガスストーブを焚いてこれから食事にしようとしている。11時20分にならないが、ちょうどベンチやテーブルが4脚もある。私も食事にする。

 わずか15分ほどで食事を終えて、挨拶をして赤沼へ向かう。舗装車道からシカ柵の中に入ると雪が俄然多くなる。踏み固められたところが凍って高く残り、その上を歩くのは、やはりストックでバランスを取らなければならない。クイックイッと鳴くのはアカゲラだろうか。でも見つからない。静かなカラマツ林をぼんやりとすすむ。身を置いているだけで、十分春を愉しんでいる感触がする。でも、関東平野の春はすでに桜が咲いてるから、ここの春はまだ浅いか。これもいいなあと思う。

 湯川が近づいてから、やってくる人が多くなった。3組、6人の人とすれ違う。一組は中国語を喋っていたけど、観光客ではなさそうだ。日本に在留の方たちかもしれない。赤沼に着いた。12時15分。スタートしてから3時間35分。街を歩いているより、ずうっと心地よい。何も考えない時間が多くなってるって感じだった。

 その後湯ノ湖の方へ行き、スキー場を覗いてきた。スキー場は開いていた。音楽がかかっていたし、リフトも一機だけだが動いている。スキーヤーは3人だけ。気の毒だね、スキー場が。白根山の方から降りて来て、装備を解いている60年配の男性がいた。

「白根?」

「いや、そのずうっと手前。斜面の雪ががちがちに凍ってて、歯が立たない」

 と傍らの12本詰めアイゼンを指さす。ピッケルも2本持っているから、場合によってはアイスクライミング風に登ろうと考えていたのだろう。

「まあね、冒険するほどでもないから、引き返して来ましたよ」

 と、帰着した無事に感謝しているようだ。宇都宮の人っていう。地元民だ。そうそう、何度でも、そうやってチャレンジすればいいさ。

 さかさかと、空いた高速道を通って帰ってきた。3時着。ご機嫌である。

2021年3月23日火曜日

歩一歩の春

  昨日(3/22)、東京のサクラが満開になったという。早いなあ。平年の開花宣言の期日が、満開宣言になるというのは、それだけ温暖化が進んでいるということか。年を取ると、気温を感知する体感能力が衰える。暖かいのか、寒いのがわからないのか、わからないのだ。

 でも、毎日歩いていると、サクラの開花状況は日ごとに変わっていくのが、手に取るようにわかる。先週の金曜日に一部咲きだった見沼田んぼの見沼用水路東縁のサクラが、その翌日の土曜日には、2分咲きになっていた。気温は必ずしも高くなかったのに。そして日曜日は雨だったので、歩かなかったが今日、見沼用水路西縁を歩くと、もう3分咲きだ。白い花をつけるオオシマザクラは5分咲きと言ってもいいほど。サトザクラというのか、マメザクラというのかよくわからないが、ソメイヨシノではないサクラが、満開に近い花をつけているのがうれしい。ソメイヨシノも、今週の金曜日くらいには満開となると思われる。

 今日は曇り空のせいか、外に出て歩いている大人の数が少ない。代わってというか、卒業式を終えた小学生や中学生だろうか、それとも、放課後の小中学生であろうか、公園や学校のグラウンドや見沼田んぼの空き地でボール遊びをしていたり、追っかけっこをしている子どもたちの姿が多くなった。

 通りすがりの保育園の中から、きゃあやあという幼い子どもたちの声が響いてくる。うるさいというより、にぎやかで、好ましい。そうか、今日から緊急事態宣言が解除になったのを、寿いでいるのか。まさかね。

  今日は天気が良い。緊急事態宣言が解除になった。まだ気を許さないでと言っている埼玉県知事さんには悪いが、奥日光へ行ってくる。今年は正月以来県境の越境を超えないようにしていたので、雪がどうなっているかもわからない。湯元スキー場情報では、昨日は、積雪が30センチ。ザラ雪。もう滑ることはできない。ただ、戦場ヶ原の青木橋が架け替えられて通れるようになって、戦場ヶ原の入域可能となった。3年ぶりだ。少し歩いて来よう。

 ではでは。行ってきます。

2021年3月22日月曜日

民主政体の違いとは何か?

 アラスカで米中の「外交トップ会談」が行われた。「外交トップ」ってなんだ? なぜ外相会談ではないのかという疑問は、TVニュースの画面を見ているとすぐに分かった。中国の外相は沈黙したまま。その脇に座る共産党政治局員が「トップ」として喋り倒している。そうか、もう黒子でいることができず、表舞台に顔出しするようになったか。

 その楊潔篪(ようけっち)共産党政治局員が「中国も民主主義、アメリカとは民主政体が違う」と述べて、「内政に干渉するのをやめて、自国のことに注力すべきだ」と述べているのが、気になった。この政治局員のいう「民主主義」ってなんだ? 

 ふだん日本社会で使われる民主主義というのは、人々の意志を反映するというほどの意味で使われている。選挙というのは、その、政治体制における一つの方法。近頃は形骸化して、何を選んでいるのかわからなくなっている。選ばれた人たちは、その結果付与された権力をつかってわがまま放題をしているからだ。

 それに対して中国共産党政治局員のいう「民主主義」は「民衆の暮らしを中軸に据えた政治理念」というほどの意味だろう。中身に踏み込めば「正しい民意を汲みだしてそれを政治過程に反映する」というであろうが、「正しい民意」というのは、必ずしも民衆が抱いている意思を意味していない。イデオロギーによって目が曇らされている民衆の「正しい民意」は、「真理・真実」を見抜ける知的力をもった共産党によって把握されるとし、「正しい民意を汲んだ政治」の政治過程はことごとく共産党によって「指導」されなければならないと考えている。つまり、そういう論理を用いて独裁政治を正当化しているといえる。共産党の前衛理論である。

 こうしてみると、共産党の前衛理論から紡ぎだされる共産党独裁の正統性は、カント的な近代的理念の延長上にある産物だとわかる。となると、アメリカの考える合理性と中国共産党の考える合理性とは、ほぼ同じ次元でやりとりできる質のものではないか。それが厳しく対立するというのは、ただ単に、現象する利害が相反するからであって、そこで折り合うことができれば、対立は解消するのではないか。

 もしそうなら、とても私の腑に落ちる話ではない。どうしてなのだろうか。

「民衆の意思を反映する」というのと「民意を汲む」というのと、どこが違うか。

 前者は、イデオロギーに曇らされているかどうかを問わず、また、ときどきの選択によって気移りするかどうかも含めて、民衆が選択する「意思(と擬されること)」を尊重する。つまり「真理」とか「真実」があるとは決めてかからず、誤魔化しや流言飛語やフェイクニュースなどに惑わされるもろもろをも十把一絡げにして、結果として選択されたものを「とりあえずの最高策」とみなす。そういうことをすると、状況によって移ろいやすいし、実際に、移ろう。だからそれを安定させるための制度的固着をある程度整える。代議制の不信任や解散もそうだし、両院制というのも、その一つだと考えることができる。科学的知見や公正・公平な理念なども、その一角を占める。

 つまり、移ろうのが民主主義なのだ。時間を掛けて試行錯誤し、最良の方途を探る。そのためには、「意思を選択する」民衆に対して、いま何が起こっており、何が問題であり、どうすることが必要かと問い、その「意思」を選択する土台となる共通の情報を提供するシステムが不可欠である。透明性である。かつては、一億人を超える大人数が寄り集まってそれをやることはできないから、議会がもうけられ、政党が誕生し、無数の意見をある程度集約して選挙も行われるし、議会で質疑が取り交わされる。そうすることによってゆるやかに合意形成というかたちをとる。そう考えられてきた。ところが、情報化社会になって、人々の意志を表明するメディアが広範に用いられるようになった。もし必要とすれば、いろいろなかたちで民意を集約することも可能になっている。つまり、「民衆の意思を反映する」という政治システムを真っ正直に整えようとするなら、台湾が採用している「オープン・ガバメント」へと進んでいくことも可能なのである。

 他方、中国共産党の前衛理論が掲げる「正しい民意」路線は、実際には共産党の独裁に対する批判を封じ込める必要が生じてくる。13億もの人口を抱える8000万人の共産党員が「正しい民意」を代表すると絶対的にいえない事象が、あちらでもこちらでも生じてくる。資本家社会的な市場システムを採用していることもあって、社会に発生する格差の拡大や優勝劣敗のことごとに対して、「正しい審判」を下すことも、難しくなる。当然のように批判は広まり、深まり、独裁体制を危うくする。香港がその象徴であった。「愛国者が統治する」という香港統治のために設けられた法的絶対用件は、共産党の存立を危うくすることを認めないと宣言するものであるから、端から「民衆の意思を反映する」ことは除外されている。いわば「原初的否定性」から出発しているわけであるから、ダメなものはダメという同義反復が繰り返されているだけなのだ。

 これでは、「民主主義」という言葉の折り合いがつくはずもなく、米中のトップ会談は、政治的折り合いの付け所を探ることしかできない。つまり私たち民衆にとっては、「意思を表明する」機会も与えられないまま、為政者の意思に振り回されるばかりなのだ。

 ただ、ひとつ、かすかな「希望」を思わせる言質を、中国共産党政治局員の台詞に見つけた。ウィグルやチベットに対する人権弾圧を非難したアメリカに対して、「上から目線でものを言う資格はない」と非難し返したことだ。つまり、アメリカの「人権擁護」発言を「上から目線」と呼ばわる政治局員は、その一点で、アメリカの理念の方が上位に位置していると認めているのだ。ここが、唯一、第二次大戦後の遺産として「共有できる」としたら、その点に関して、アメリカのみならず、日本もヨーロッパも韓国も、全面的に「人権尊重の政治とはかくなるもの」という実績と実態を展開してみせなければならない。そこに唯一、台湾を含めた、中国共産党の独裁政治に対する突破口があるように思った。

 アメリカにことよせていえば、その政治展開の情報に関する透明性が、根柢的には確保されるかどうかが、長い目で見たときの「希望」になる。アメリカも危ういことは、トランプの登場が明らかにした。バイデンが、旧来の知的枠組みを引きずるだけで「民意を反映しているつもり」になっていたら、4年後にまた、しっぺ返しを食らう。そこに台湾の「オープン・ガバメント」を重ねていけば、若い人たちの力を揮う時代ややってくるように思った。

2021年3月21日日曜日

怪力乱神を語らず

 高島哲夫『乱神』(幻冬舎、2009年)を読む。この作家、私の末弟の高校の同級生。いつであったか、東京で開かれた高校の同窓会で紹介されて知った。末弟が7年前に亡ったときにも、葬儀に駆け付け、次弟とともに通夜を一晩飲み明かしていたことを憶えている。図書館の書架で見つけて借りてきた。

 面白い素材設定をしている。鎌倉時代の二度の元寇のことは学校でも習った通り、「神風」が吹いて難を逃れたと思ってきて、それ以上どうやって元寇をしのいだのかを考えたことはなかった。考えてみれば、「神風」なんて、まるで神話の話しのようだ。加えて、それがほんとうに信じられていて、冷静に考えてみれば勝ち目のないと分かっていた太平洋戦争への突入に一役買ったのだとしたら、日本文化のもっている内と外との確執の扱い方はまるで合理性を欠いていて、負けを承知でメンツのために勝負に出るという気質の故だったと、思わないではいられない。

 高島哲夫はそこに目をつけ、元寇を改めて西欧合理的なセンスで見つめてみようとしたわけだ。そのためには、「怪力乱神を語らず」という舞台設定をして、元寇と鎌倉時代という武家社会初期の武装集団の気質と、当時の人々の暮らし方、振る舞い方に背景を求めてお話を構成することになった。その視野に収めている人々の在り様も、60年以上も前に私たちが学校で教わった日本史の時代解析と異なり、1980年代以降の新しい歴史観を動員して書きこんでいるのが、好ましい。

 彼のとりあげる西欧合理的なセンスというのが、13世紀のそれというので、十字軍と重ねている。西洋史でも、その宗教性よりは武装強盗集団という特徴を浮き彫りにしてきたが、高島哲夫はそこをぐっと我慢して、「神の軍隊」というタテマエを貫き、そのために、絶対神と八百万の神の対立構図を前に「神の軍隊」の信仰が、西欧近代の国民国家の軍隊的なモチベーションに組み変わるかたちにすることで、凌いでいる。当然のように、それに対する北条執権のタテマエをお家の持続という次元にとどめておくことができない。そこをどう乗り越えるか。ま、ま、活劇物とおもって、お楽しみにお読みくだされ。

 作家というのは、ご苦労さんだ。虚構の物語を仕立てるにも、宗教性の違いや社会習俗の習い、その時代に広まりつつあった風俗習慣の要素を、一つひとつ検証しながら採用しなければならない。つまり、いろいろな学問分野の成果を組みこまないでは、単なる空想も成立しなくなっている。どうして? だって、情報化社会だもの。読者の方が、しっかりと時代背景や世界の動きを周知しているから、そこを誤魔化してはただご笑覧するオハナシになってしまうのだ。

 でも、そうはいっても、読者は今様のモンダイ・イシキでとりかかるから、その辺りが、そこそこ、まあテキトーに設えてあれば、勘弁してもらえるともいえる。作家への誘惑だね。エンタメというのは、三谷幸喜風にうんとテキトーな作りでもして、オワライに仕上げなければお目汚しにしかならないからね。

 怪力乱神を語らずを肝に銘じてとりかかっているのが、面白かった。

 ひとつ、気になったこと。怪力乱神に「かいりょくらんしん」とかなを振っていた。私は「かいりきらんしん」と思っていたから、日本国語大辞典を引いた。「かいりき」の登場は明治22年の文献からの引用だ。他方、「くゎいりょく」は太平記や雑排・柳多留で用いられている。「かいりき」は、新しいのだね。そういうチェックが行き届いているのも、好ましい。

2021年3月20日土曜日

連綿と受け継がれる佇まい

 今日はお彼岸の中日、春分の日。暑さ寒さも……と言われるとおり、気配はすっかり春模様になった。

 昨日(3/19)は気温もさほど高くなく、風もない穏やかな日和。カミサンを見沼のトラスト地に送った後、車をそこの近くにある総寺院脇の駐車場において、見沼自然公園の方へ散歩に出た。寺院裏手の植栽の養生畑をすすむと鷲神社にぶつかる。先月来、拝殿に掛けられていた足場が取り払われている。一人大工さんが仕事をしていた。かたちを整えた白木の桟に防腐剤を塗っている。拝殿は屋根と柱だけを残して床も腰板なども取り払われ、床下まで素通しになっている。何年振りかの修繕をしているという。

 シロアリが巣食ってかじり倒すばかりになっている。床板を取り払って剥き出しになった何本かの太い梁も、かじられて痩せ細っている。取り払った床板などを傍らの草地に積み上げているが、ほとんど板や柱のかたちをなさない木屑。太い柱も半分以上がボロボロに欠け落ちている。築後何年ということは聞かなかったが、明治期に修築されたとあったから、百十年以上は経っているのであろう。防腐剤を塗ってとりかえられた縁框が際立つ。

 石を並べた基礎はしっかりしているそうだ。ただ、床下の土は剥き出しのまま。掃除も手入れもしていないからシロアリが巣くうのだという。シロアリはやわらかい所をかじり、硬い所を残す。柱は痩せ細り、床板は表面は何でもないが、裏側はもうボロボロになって崩れる。

 屋根は葺きなおした。陶器の瓦を土で止めていたが、雨と風で急な傾斜を止める力が弱まり、瓦がずれて雨漏りがする。そこで、修理は今様に瓦同士でひっかけて止めるようにしたらしい。古い瓦を一つひとつ洗ってふたたび使う。だが、扱える職人がいないから、茨城から呼んだ。まだ脇の宮の社の屋根をやらなければならず、足場はそちらにうつしている。予算が少ないから瓦の手入れだけ、屋根の四方に流れる降り棟は針金で動かないように一つひとつを縛り付けるようにして済ませている。

 社殿の後ろにある本殿は手つかずのまま。そういえば、伊勢神宮のように千木や鰹木がない。日吉造りとか権現造りとかいうのだったか。

 なにしろ氏子が220軒ほどしかない。全部をやると1千万円ほどかかろうが、その半分くらいしか予算がない。氏子の数は減ってもいないそうだ。市か県の何とか文化財に指定されているそうだが、補助金が出ているわけではない。たいへんだなあ。でも、「見沼の鷲神社」と私でも知っているくらいだから、よく知られているのではないか。そういうと大工さんは、はじめて聞いたような顔をして「へえ、そうかい」と笑顔を見せた。

 そのあと、見沼自然公園の方へ行き、少し下で芝川に合流する流れを渡って、見沼区の片柳に踏み込む。ここを歩くのは初めてだ。ちょうど、芝川を北上するようになる。上尾や大宮公園の脇を流れて来るのをさかのぼってみると、見沼田んぼがここでぐんと広がり、そこだけ昔ながらの佇まいが色濃く残されている。その向こうは、大宮台地となって、関東平野の中央部をなして鴻巣や吹上へと連なる。主要な車道から遠ざかり、大きな森がぽつんぽつんと見え隠れする静かな田園風景ばかりになる。見沼田んぼの南部同様、やはり主として花木の養生畑が広がり、ウメやハナモモ、ハクモクレンやコブシ、レンギョウやユキヤナギが彩を添えて、春を謳歌している気配に満ちる。

 これも連綿と受け継がれてきたものだが、北の大宮台地から住宅地が攻め寄せてきている。所有者が物故すると、遺産相続をふくめて土地を売り払い、姿を変えていくのだ。その端境を歩いているのだと、修理中の神社をふくめて、思った。この佇まいがいつまで続くか。

 そうだね。私自身も、そういう時代の変わり目の端境に、いま、位置している。

2021年3月19日金曜日

年寄りの特権とニーチェ

 軽快に歩いて帰って来た一昨日の山歩きが影響しているのであろうか。昨日は、何かを書き留める気が湧かなく、本を読んだり、図書館へ足を運んだり、5月の長旅の計画をたてたり、蕎麦を打ったり、つまり身の習いになっていることをだらだらと続け、ぼーっとして過ごした。若い頃は、よし、もう一息と気合を入れて書きものをしたりしたものだが、その、もう、一息が湧いてこない。湧いてこないことを、忸怩たるものと感じていないのが、年寄りの特権のように思っているのが、高齢者の見極め。

 ふと思うのは、この「年寄りの特権」というのは、わが身が衰退していく着実な過程を歩いているという認識をベースにしていることだ。若い頃は、つまり健康な身としては、身の衰えという「生きるのが下手な振る舞い」に反照してわが身を励まし、身を立て名をあげと考えていたともいえる。つまり、歳をとるというよりも、身の衰えという悲劇的な出来事に反照して、自らの立ち位置を確認していたといえる。どうしてそれ、つまり「衰え」が、反照ではなく、すんなりと受け入れられるようになったのか。もちろん、わが身が「衰え」の当事者だからであるが、「生きるのが下手な人の在処」を自然なこととして認識するようになったからにほかならない。逆にいうと、健康に生きることのなかに「衰え」が当為的なものとして算入されていなかった。反証するべきものとしてしか認識されていなかったのだ。

 健康という幻想に「衰え」が組みこまれて泳なかった。いわば永遠の命を仮託していたのである。「衰え」は、世の習いであるのに、それを排除した「健康志向」が身の重要事と思い込み「衰え」を悲劇的なコトとみなし、遠ざけようと振る舞っている。その「健康志向という合理性」は、じつは、誰もが、どこでも、いつまでも、健康であることはできないという時系列を組みこんだ認識に支えられている。それにも気づいていない。

 反照が幻想を保持するのには欠かせない、ということを私に最初に教えてくれたのは、宇野経済学であった。資本家社会の姿をとらえるには、資本主義に浸った幻想ではなく、そこから一歩ステップアウトした幻想が必要だと哲学的に位置づけた経済学がそれであった。そのステップアウトした幻想が、例えば社会主義であったのに、資本家社会の幻想は幻想であるのに社会主義のイデオロギーは「真理」であると思い違いをしているのがマルクス主義者だとみてとっていたのである。

  では、それらの「幻想」の真実性は、何処で確証されるのか。いや、そんな確証されることなんかありませんよ。真理がどこかにあるという幻想を作り出したのはソクラテス哲学。それがヘーゲルまでの哲学世界を呪縛してきたと見切ったのがニーチェだったと知ったのは、いま少し後のことであった。

 おや、なんのお話をしてたのでしたっけ。そうそう、「年寄りの特権」でした。三題噺的に結論付ければ、ニーチェの見切りの果てに到達したところに、ゾロアスター/ツァラトーストラがいた。それはニーチェにとっては大地に還るという自然観との出会いであったのだが、考えてみると私たちは子どものころから、その自然観に似た感覚を身に備えて育ってきている。「年寄りの特権」が反照ではなく自然(じねん)だと受け容れるのは容易であった。ただ、ニーチェは、反照という回り道を認識の経由地点として組み込んで「じねん」を抱え込んだが、私たちはショートカットしてしまっている。だから、じつは、そのじねん感覚も、ニーチェを理解したことにはならないと肝に銘じることではあった。

 回り道をするのが良いか悪いか。私たちは学者じゃないから、市井の民の自己認識としては、直観的符節合わせだけで十分である。一知半解と謗られるかもしれないが、ニーチェを理解したいわけじゃないから、勘弁してよ。そういうことを夢うつつで思って目が覚めた。

2021年3月17日水曜日

明るい奥座敷――山中~大持山~ウノタワ周回

 好天に誘われて今日(3/17)奥武蔵の山へ行ってきた。今帰ってきて、こうして山行記録を書いている。まだ、午後3時前だ。足を運んだのは飯能市上名栗の名郷から山間部へ深く入るルート。林道山中線をつめて、その辺りに車を置き、妻坂峠~大持山~横倉山~ウノタワ~山中へぐるりと回ってくるコース。コースタイムは4時間ちょっとだと踏んで、皆さんへ案内した。私にとっては、週1の足慣らし山行。結局、単独行になった。

 そのコースを観た山の会のkwmさんが「妻坂峠入口の林道山中線は、去年の8月付の掲示では橋が崩落し通行止めとなっていた」と知らせてくれた。ネットで調べると、「埼玉県の林道の通行止め情報」というのが見つかり、県内の林道のいくつかが「台風19号のせいで崩落などがあり……」と通行止め箇所を記しているが、林道山中線が入っていない。そのサイトに電話番号を掲出していた「飯能県土整備事務所」に電話をして、様子を聞いた。ところが電話口に出た人は「わが方では管理していませんので、県の農林振興課に問い合わせてください」という。電話番号を聞いたが「わからない」と返答。何だか、責任の押し付け合いのような感触だった。

 ま、いいや。台風19号なら1年半も前。橋が落ちている奈良、その手前まで車で行って、適当に車をおいて、ひと回りして来ればいいだろう。もし沢を渡り切れないなら、引き返せばいいやと考えて、出かけて行った。

 名郷から白石の石灰石採石場方面への道を分ける林道山中線の入口地点に「橋が崩落、通行止め」の表示がある。車が入れないということのようだ。歩き始める。8時48分。行けるところまで行って様子をみようと林道をツメル。500mほど入った二つ目の橋のところに、カラーコーンにバーを渡して、「通行できません」と表示してある。その橋は壊れていない。林道の脇に車をおいて、そこから歩く。片道35分だから、往復で1時間ほど余計に歩けばいいだけだ。

 林道の終点までに5つ橋があるうちの下から4つ目が、すっかり道からはずれて落ちていた。だがその脇に、工事用の橋が掛けられ、歩いて渡る分には、何の不都合もない。そこを渡り、ウノタワからの横川林道と合流する分岐のところまで25分で着いた。その上の林道終点辺りは、広い草付きがあり、車が通れば、そこへ幾台もおける。1台軽自動車が置いてあったが、放置されたもののようであった。「ウノタワ周辺ハイキングコース」と銘打ちコースタイムを書きこんだマップの掲示板があった。「ウノタワ」というのが、この地では売り出しの一つのようだ。なんだろうウノタワって。

 この林道山中線沿いの沢は、大持山の南東部から流れ出し、槻川、都幾川、越辺川などを集めて入間川となり、川越市や川島町辺りで荒川と合流して、南へ流れ下る。荒川の水量の1/4を占める入間川の源流に当たるところを歩くわけだ。

 山道に入る。かつては上名栗村から秩父の横瀬や皆野町へ抜ける峠道だったところだ。峠まで杉林がつづき、道はよく踏まれて、しっかりしている。標高差300mほどを40分で登った。途中で一人下山して来る40年配の登山者に出逢った。聞くと、名郷から天狗岩を経て武川岳に上り、妻坂峠を経て名郷へ戻っている。早いではないか。朝7時に歩き始めたという。なるほど3時間半くらいの、朝の散歩か。妻坂峠は、ひと際明るい。武川岳からのルート、生川へ降るルート、山中林道へ下る道、そしてこれから私が登る大持山への道。その交差点になる稜線の鞍部は広く針葉樹も少なくて陽ざしがいっぱい入っている。8時42分。スタートしてから55分か。

 そこから大持山へは急登だ。去年の6月24日に山の会で生川から武甲山に登り、大持山を経て、個々へ下る道をとったことがあった。そのときは霧が深く、緑も濃くて暗い感じであった。湿っぽかったのと合わせてここの下りが滑りやすく、とんとんと調子よく駆けるように降りた覚えがある。いま記録をみると、45分で下っている。上りのコースタイムは1時間20分。峠にある標識では1時間40分とあった。標高差は約450m。ゆっくり、休まず、歩一歩と上へ向かう。葉が落ちた裸木の合間から武甲山が見える。振り返ると、武川岳が大きな山体を広げている。去年と比べて明るい踏路が心地よい。途中で一人70年配の登山者が下ってくる。浦山口から小持山、大持山を経て武川岳へ向かうそうだ。二子山へ下るとすると、なかなかの力だ。武甲山は、その前に登ったからと、なぜか言い訳をする。武甲山だけがここの山じゃないよねと思う。

 大持山への分岐にある稜線に乗った。10時39分。そこから大持山へはほんの5分。妻坂峠からおおよそ1時間で山頂に着いた。見晴らしは良くない。木の合間から西側の奥多摩の山々がみえ、その稜線の上に、雪をかぶった峰が見える。ええっ、南アルプス? とすると富士山が左にみえるはずだが、それは、ない。武甲山の方から来た30年配の女性が「雲がかかってるから富士山は見えませんね」という。とすると、丹沢の山々が雪をかぶっているのか。4日前の先週土曜日には、平地は大雨であったが、山はひょっとすると大雪だったかもしれない。乗鞍岳の雪崩もあった。

 11時前だがお昼にする。山頂の向こうの隅にはやはり30年配の男性がガスストーブを焚いて食事をしている。先ほどの女性も、別の隅に座り込んでガスストーブに火をつけている。ほほう、若い人たちは、昔風の山歩きを愉しんでいるんだと思った。食事をしていると、50年配の単独行者が登ってきて、武甲山の方へ通り過ぎて行った。

   20分ほどで出発した。すぐに登ってくる30年配とすれ違う。どうぞと道を譲るが、登ってこようとしない。だいぶへばっている。どちらから? と聞くと、伊豆が岳を越えてきたという。武川岳を経て、ここへきている。この後武甲山を経て横瀬に下るとしたら、結構な縦走だ。頑張ってと挨拶をして、脇を抜けた。

 分岐のところまで戻り、鳥首峠の方へ向かう。少しばかり上りがあるが全体としてはゆっくり下る。落ち葉を敷き詰めた広い稜線が、明るく心地よい。鳥首峠の方から60年配の男性二人がやってくる。軽く挨拶を交わして通り過ぎる。結構急な下りもあるが、妻坂峠への下りほどではない。

 30分もかからずにウノタワに着いた。広い稜線の鞍部。「山中を経て名栗に至る」と標柱に書いてある。飯能市のたてた「ウノタワの伝説」という説明看板があった。広いくぼ地が沼であったそうだが、そこにいた鵜を猟師が誤って殺してしまい、それと同時に、沼が干上がってしまったという。「鵜の田」が原義だそうだ。下山路の途中にも、古びた同じ説明看板があったから、こちらのは立て直したもののようだ。道筋はしっかりと案内しているのだが、「名郷バス停→」の標識の下に、吊り下げてあるビニール袋に包んだ地図が気になることを書いてある。「ハイキング道 通行止め情報」と標題した地図なのだが、小さな文字で、「赤区間は全面通行止め(歩行者、自転車、バイク)となります」とある。これから下るルートの、山道が終わって林道にかかるところの入口と、すでに通って来た妻坂峠への登山口の処と、車で入った林道分岐点とに×印がついている。なんだよ、来ちゃったじゃないか、ここまで。それに、すでに通過した地点が×なら、大したことはないんじゃないか。行こ行こと、下山を始めた。

 コースタイムは1時間となっていたが、横倉林道に出逢うまでの下山路は、なかなか面白かった。ルートファインディングの「触り」を感じさせる。落ち葉、ざれ場、沢のごろた石歩きと、面白い。ピンクのテープがしっかりついているから、それを見落とさなければ、道を間違うことはないが、見極めながら下るのは、なかなかのものだ。35分で林道に降り立った。

 なるほど林道は、とても車が通れる状態ではない。土砂が崩れ、山体の岩や土石とともに大木が崩れ落ち道を塞いでいる。だが1年半の人の歩いた跡が、しっかりと残り、用心して歩いて下る分には、不都合はない。落ちた杉の葉が降り積もって、ふかふかとした舗装路も、面白い。20分ほどで、朝見た分岐のところに出た。あとは坦々と舗装路を下って車に着いた。私の車の他に1台、しゃれた軽のトラックがとまっていた。

 今日であったのは8人。明るい、奥武蔵の奥座敷。結構人気の山と思った。

2021年3月16日火曜日

春の秋ヶ瀬公園

 昨日(3/15)は気温が上がった。午前中は風が強かったが、お昼にはやわらいでいた。荒川河川敷の秋ヶ瀬公園の中央部、テニスコートわきの駐車場に車を止め、まずは北の方へ向かう。

 師匠は地面を覗いて廻る。ノジスミレが、しっかり花を開いている。去年筍を採った林は、まだ竹と枯木ばかり。師匠が指さす樹の幹の中ほどには古木をくりぬいて作った巣箱が掛けられている。

「あの木の幹に、アライグマ除けのプラスティックのシールドが巻いてあるでしょ。あれ憶えといて。あそこにフクロウが巣をつくるんだけど、木の葉が茂ると、何処だったかわからなくなるのよ」

 と、何ヶ月か先のことを考えて、言う。なるほど、そういうふうにウォッチャーは観察眼を蓄えていくのか。

 まだ葉をつけずに並ぶメタセコイアと背丈を競っているように居並ぶ柳たちが浅緑の葉を伸ばしてゆらりゆらりと揺れて、春が来たと寿いでいる。

 師匠がベニマシコを見つけた。そっぽを向いて背中を見せている。メスだ。「その、左っ。オスがいる!」と言われ、双眼鏡を動かす。お腹も顔も紅いベニマシコが陽ざしを受けて際立つ。ベニマシコだけでなく、シジュウカラも、エナガもペアリングははじまっているようだ。

「今日はこれで、来た甲斐があった」

 と師匠は、ご満悦だ。カメラや三脚を下げて散歩をしてる人が、あちらにもこちらにもみえる。人通りの少ない浦和レッズの練習場のフェンス沿いに歩く。鳥影は、ない。だがご近所の高校の制服をまとった生徒たちが、三々五々、すれ違う。その向こうのソフトボール場で、球技大会をやっている。そうか、もう卒業式も終わり、3学期の期末試験も終わって、生徒たちは終業式までの期末期間を過ごしている。たぶん今日は、河川敷の公園を借りてハイキングだろうか。バレーボールをしている大人数のグループもあれば、数人でぶらついている男子生徒や女子生徒グループもある。

 一昨日に降った雨の恵みだろう、一週間前に来たときには干上がっていた池が水を満々と湛えている。脇道に踏み込むと、まだぬかるんでいるところもある。森全体がしっとりしているように感じられるのは、そのせいかもしれない。小鳥が飛び交う。お腹の黄色い小鳥が枝にいる。

「ほらっ、そこっ」

 と指して、師匠に告げる。傍らのウォッチャー・カメラマンも、覗きに来る。

「ああ、アオジよ」

 と師匠が教えてくれる。カメラマンが、シャッターを押す、カシャ・カシャ・カシャという音が、(さあ、撮ったぞ)と誇らし気に響く。

 池の端に身を乗り出して、対岸の何かをカメラに収めようとしている二人連れがいる。何をみているのか。歩道から、お目当ての先を探ってみるが、わからない。

 その先の角を曲がると、カメラや双眼鏡や三脚をもった大勢が前方にも右の方にも屯して、皆さん、同じ方向へ関心を傾けている。近づいて、そのカメラの先を除く。3羽のヒレンジャクがいる。ときどき、下の草叢へ降りて何かを啄ばんでいる。ジャノヒゲの実でしょうと師匠。ヒレンジャクが飛び移るごとに、屯するあちらとこちらの人の群れが、わさりわさりと動くのが、おかしい。

 自転車で来た鳥友と師匠は話している。コロナ自粛のせいもあって、久しぶりの出逢いらしい。彼女とはその後、二度、出会うことになり、その都度、師匠は言葉を交わし、ときにしばらく自転車をおいて、師匠が植物案内をするようなことをしている。こういう振る舞いの自在さが、春を思わせて面白い。

 6月頃のエナガの「目白押し」をみるために、エナガの巣をチェックしようと、森や運動広場から離れた秋ヶ瀬公園の西の端の林を南へ歩く。背の高い木立は枯れているが、灌木は賑わっている。シジュウカラやヤマガラが飛び交う。エナガを探すが、見当たらない。アオジがいる。アトリを観た。カワラヒワが何羽も集まっている。イカルがいると聞いていたので探したが、見つからない。

 気が付くと、公園の半ばまで戻ってきている。「幸福の森ってどこだろう」と師匠が訊く。なんでもそこに、トラフズクがいたと師匠の鳥友からメールがあったらしい。「幸福の森(P)→」という標識はあったが、はてどこが、その森だろう。と、傍らの掲示板に、消えかかりそうな文字で「幸福の森」と記してある。あんだ、以前、ドッグランの催しをやっていた場所と、もう一つ奥まった処の草地を総称しているらしい。窪地に水路のように水が溜まっていたので、回り道をして踏み込む。ちょうどお昼に近い。ベンチに腰掛けて弁当を空ける。奥の草地には3人ほど年寄りが石のベンチに座ってお喋りをしている。

 広い駐車場には3台ほどの車が止まっているが人影はない。テニスに向かったか、向こうの芝地に張ったタープやテントで本でも読んでいるか。静かな、暖かい公園の春の気配に誘われた虫のように、どなたも蠢きだしている。

 お昼を済ませ、トラフズクの姿を求めて、幸福の森の周縁の林を覗いて廻る。奥の草地の向こうに、さらに引っ込んだ芝地がある。そちらへ行こうとすると師匠が、

「あら、ヌーディスト!」

 と声を上げる。ん? と奥を見ると、素っ裸の男が顔に新聞紙を被り、横たわっている。先ほど、別の道から回り込んできた人がいたが、そいつのようだ。

「訴えてやろうかと思ったのよ」

 と師匠は言うから、はじめてではなさそうだ。そうか、寒くなくなって虫も這い出してきたか。向きを変えて、草地から東の方へ向かうと、なんと、こちらにも一人、裸の男がいた。なんとまあ、いつからここはエデンの園になったのか。

「いや、文字通り、幸福の森だね、ここは」

 と、私の口をついて言葉が出た。

 午後は、南の方、子どもの森へ向かう。数多くの鳥影が、木の枝と地面を上がったり下りたりしている。双眼鏡を覗く。シメの群れだ。こんなにたくさんのシメが群れているのを見るのは、はじめて。しばらく、飛び交う姿をみていた。いつもならこちらにいるレンジャクが、北の方へ行っているから、ここのヤドリギの方にはカメラマンもバード・ウォッチャーもいない。

 いつもマヒワが水浴びしている処では、ヒヨドリが水浴びをしていた。

 蓬の葉が、まだ初々しく顔をみせている。サクラはまだまだ小さい蕾だ。これが、後2,3日で花をつけるなんて信じられない。ラグビー広場ではムクドリが屯して地面で何かを啄ばんでいる。向こうにはツグミがぽつりぽつりと周りの様子を伺っている。

 アリスイのいたサクラソウの第二自生地では、3人の作業員が地面に座り込んで何かを一つひとつ取り去っている。

「何を採ってらっしゃるんですか?」

「うん? これだよ。カナムグラ」

「外来植物?」

「いや。だけどね、これがはびこるとツルになって周りを弱らせてしまう。でね、ひとつひとつとってんだけどね。向こう(第一自生地)じゃあ、水をやったらどうなるかって、実験もしてるよ。今年は東京農大の学生さんも教授も来て、いろいろとやってみてるけどね」

「ご苦労様」

「ま、ごゆっくり、みていってやってください」

 この作業は、私たちが帰るときもまだ、つづいていた。

 ノウルシが黄色い花をつけて大きくなっている。アマナが最盛期のように咲き誇っている。第二自生地ではサクラソウが2カ所で5,6輪花開いていた。季節の進行が、早い。第一自生地ではシロバナタンポポが花をつけ、ノウルシやアマナと競っている。ヒロハアマナも、独特の筋の入った葉を延べて花を咲かせている。屈みこんでいた師匠が、バアソブの葉を見つけた。言われてみなければわからないが、見事にバアソブらしい小さい葉が寄り集まって所在を主張している。

 川の中州にはヨシガモが群れて羽を休めている。黒い尾羽、ナポレオンハットと言われる緑の頭が陽光に照り輝いて見事であった。サクラソウ自生地のボランティアも、あと10日ほどで始まる。

 帰りながら水路を覗くと、シジュウカラやメジロが、かわるがわるやってきて水浴びをしていた。冬場にみたキクイタダキは、もう姿を見せていない。エナガのペアが、灌木のあいだを飛び交っている。

 こうしてのんびりと、5時間ほどを過ごして春の到来を満喫してきたのでした。15500歩。11・5kmを歩いた。 

2021年3月15日月曜日

進化しない「社会システム学」

 一年前に「進化医学という視点」と記した。コロナ禍がはじまったばかりだったから、今後の成り行きを見守るという気配が現れている。それが一年経ってどうであったかを、考えてみた。

 まずその前に、一年前の記事を再掲しておこう。


                                ***「進化医学という視点」

 「浮かれてていいのかい? ホモ・サピエンス」と新型コロナが声を発していると、昨日記した。

 いま読んでいる本で、「進化医学」という領野があると知った。健康とか病気を、個体の身体の機能的作用からみるのではなく、よりマクロの視点からとらえるアプローチという。出発点は、「そもそも病気とは何か」「なぜ人間は病気になるのか」という問いにあったそうだ。医学が歴史的視点を組み込み、哲学的にすすめられている(広井良典『人口減少社会という希望』朝日新聞出版、2013年)。出発点の問いに対する回答は、「病気とは、環境に対する個体の適応の失敗あるいはその「ズレ」から生まれる」というもの。

 その事例として、狩猟・採集生活や農耕がはじまったばかりの生活時代は、食料が欠乏しがちだったので人間の体には「飢餓に強い血糖維持機構」が備わっているが、〝飽食の時代〟である現在ではこれが逆に糖尿病等の原因になっている、と。あるいはまた、狩猟・採集生活の時代は(野原で獲物を追うなどする中で)よく怪我をしていたので「止血系」が大きく発達しているが、これが現在ではかえって血栓や動脈硬化の要因となっているそうだ。さらにまた、花粉症や各種アレルギーなどは環境の変化に人間の体が追いついていないために生じるものであり、またこれだけ変化のスピードが速くなった時代において、さまざまなストレスが生じるのはごく自然のことである、と。

 冒頭の「回答」にことよせて言うと、人間が自らつくりあげてきた「環境」の変化に身体が適応不全を起こしているのが「病気」だというのである。「地球倫理」を提唱している広井に言わせると、「環境」に加える人間活動を考え直せということにつながるのであろう。だが、ここで思索は二つに分かれる、と思う。


(1)ひとつは、人類としては「不適応」の「病人」を着実に作り出している。その割合が(我慢ならないもの)になるまでは、「適応」したものがその環境に見合って「進化」したものということもできる。つまり、ある程度の「病気」という代償を払って人類は、やはり着々と適応進化している、と考えることもできる。ある程度の犠牲はつきものというわけだ。

(2)もうひとつは、作り出されている「不適応」の「病気」が、じつはもう引き返せない所へ来ているのではないか。とすると、「環境」そのものへ加えている現在の圧力を考え直して、その路線変更を大胆に切り替えなければならないときが来ている。その「路線」を考えるべきではないか。


(1)の犠牲が我慢ならないもにになるかどうかの見極めは、どこに置かれるか。「病気」に対する医療技術や治療薬が開発できることで、行き詰まりを先延ばしにすることができる。それができなくなったときが(2)の段階に入ってことを示す。

 となると、たとえば、新型コロナを巡って懸念されている「医療崩壊」が起こったら、どうか。つまり医療技術や治療薬の開発という科学的側面からではなく、社会システムとして「病気」に対応できないとか、医療保険制度が破綻するというのも、社会的な破たんといえよう。たいていは貧富の差に応じて、医療の恩恵を受けられない人は埒外に置かれて命を落とすことになって、でも社会は知らないふりをして「社会全体としては適応できている」と言い通そうとする。優勝劣敗というわけだ。3秒に一人、飢餓でなくなる人がいるということを、私たちは知らぬふりをして、いまも日々を送っている。

 つまり「個体」が適応できるかどうかではなく、人類が適応できているかどうかを問われている。人類という連帯感までも喪失した私たちにとっては、類的危機は、いつだって対岸の火事。わが身に及ぶまでは、単なる「情報」だ。そういう人たちもいるだろうというデータの断片。そういう国もあるのかという、他人事に過ぎない。

 今回の新型コロナの蔓延は、わが身のこととして降りかかっている。それはしかし、「新型コロナのことばかりではないぞ」と警鐘を鳴らしているように思える。この場だけを凌げば、胸のつかえが降りて、また元の暮らしが戻ってくると考えない方がいいように思えるのだ。AIの研究者がいったシンギュラリティを待たず、私たちがいま歩んでいる道筋を、もう一度吟味し直してみてもいいのではないか。

 進化医学の知見が、そのように教えていると思える。(2020-3-14)

                                          ***

 一年経って今、ワクチンをめぐって「人類の一体性」が問われているが、明らかに力のある国が自らの権益を保つように振る舞っていて、せいぜい、資本家社会的な市場の論理(の一端)が「開かれたシステム」として、共有されている。五輪という、政治とは別物と自己規定したイベントも、現実展開は、市場の論理に振り回され、それを政治的にも社会的にもどう利用できるかという側面で利益団体がかかわりあって動いている。コロナウィルスへの警戒さえ、そのイベントの仕立てから逆算して、左右されて「緊急事態宣言の解除」を見通しているのだから、何をかいわんや、だ。

 ワクチンの全人類的供給というWHOが掲げる看板も、空しくタテマエに過ぎないと感じられるのだから、人類はすっかり、文明以前に逆戻りしたようですらある。「動物化した」といえば、動物は同類間でこそ激しい生き残りをかけた闘争をくり返す。多種との間は、闘争ではない。食うか食われるかという優勝劣敗の生態循環である。それを生き延びるには、一年前の記述の(1)に当たる、ある程度の犠牲はつきものであるから、それに適応するためには、たくさんの子孫を残し、多少の犠牲があろうとも、類的な滅亡に至らないようにする「進化」を遂げてきた。人類はいまもそれと、いささかも変わらない道を歩いている。

 それでも、近代が残したかすかな「類的一体性の痕跡」が、私たちの世代の心裡には刻まれている。「人権」とか「平等」とか「自由」という理念だが、それらが使い古された雑巾のようにあしらわれているのを、私たちは力なく見つめているほかなかった。

 なぜそうなったか。資本家社会的市場の機能性が、唯一の尊重すべき原理として国民国家を主体とする枠組みを強固に残しながら作動し、じつは、近代的理念が掲げる「人間主義」がすべてのヒトを、あたかも同じ能力を持ち得るとみなし、同等のスタート地点にたてると想定して、取り計らわれているからである。経済競争に勝つも負けるも自己責任。自国責任。国をどうつくり、どう経営するかは自由であり、各国の自主を尊重する。その結果についても、主体である各国はそれぞれの優勝劣敗の責任を背負わなければならない。

 第二次大戦から学んだ「人類史的教訓」を、前近代の時代相に戻ることによって弊履の如く捨て去ろうとしているのが、21世紀に入ってからの人類史である。少しも進化していない。

 一年前の記述は、「人類」という共通感覚が生きていることを前提として書かれている。だが一年経って今、その共通感覚がなくなっていることを現実として受け入れて、考えなければならない。なに、前からそうだったよと、内心からの声が聞こえないでもない。とすると、「人類という幻想」が成立するところから、あらためて考え直さなければならないように思える。

 現在は「幻想」どころか、現実に「人類」をすべて覆い尽くすように、ヒト・モノ・カネの動きは出来上がっている。これは人類の一体性ではないのか。とすると、「理念としての人類の一体性」とどう異なるのか。何を媒介項にして、ヒト・モノ・カネの動きと人類の一体性とを考えていけば、「地球倫理」ともいうべき、総合的な思案に至るのであろうか。

 ふつふつと、思いが経めぐるのである。

2021年3月14日日曜日

身の置き処と見極めと

 青山文平『つまをめとらば』(文藝春秋、2015年)を読む。先日(2/27)、同じ著者の『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)を読んで、好感をもった。たまたま、図書館の「今日返却された本」の書架にあったので、借りてきた。

 6本の短編を収録している。いずれも、江戸を舞台にした下級侍と朋輩と妻や女とのかかわりを描きとっている。身分制の時代の、侍という、これまた「雇われ人」のような秩序のきっちりとした世界を生きる男が、町人たちとかかわりをもちながら活計を立てていくときに、あるいは寄り添い、あるいは誘いかけ、あるいは嫌って離れて行こうとする女と、どうかかわり合いをもち、身を処していくか。身分制の持ちかける仕切りが(今の時代となっては、目にみえぬ)結界のように張り巡らされ、それを内面化した侍の潔さが、見極めとなって身の置き処を定める。

 身分制を持ち上げるわけではないが、世界のどこに位置しているかを常に忘れることなくわが身の裡に位置づけている佇まいが、人柄の屹立するかたちとなって描き出されている。それに重ねるかのように、男と女の結界も、きっちりと見極められる。

 見事な気配は、じつは、青野文平の文体に体現されている。余計な心理描写的な装飾を取り払い、出来事の事実を坦々と綴る。その行間に、女の欲望が垣間見え、それとのかかわりを、煩わしくも愛おしく、もち続ける。侍や身分制社会の規範が根を張っているからである。それがいかに、身の置き処の潔さと相反しているかが、見極めれば見極めるほど、鼻につき、目につく。町人の方が、女の方が、下級侍よりも自在に生きているかのような気配も漂う。それを青野文平は、見事な筆さばきで見極めて、落ち着かせてゆく。

 とどのつまり、行きつく先は、余計な気遣いを必要としない自活する男二人の同居へ向かうのだが、やはりそれも、長続きはしない。女という、暮らしの基本形を無視しては、活計は存在しないからである。

 この作家のこの達観が、末期高齢者になった私にとって、なぜこれほど慕わしいものに感じられるのであろうか。

 時代が移り変わって、制度や社会的規範のもっていたさまざまな外的な壁が取り払われるにしたがって、世の中や他者との結界が、わが身の外から内へともちこまれることになった。いまは、一つひとつのコトゴトの「結界」という境目を、自分で判断し、自分で選択するという過程を、あたかも自分の意思で行っているかのように振る舞うことが、求められる。内面化である。それが、個人の自由を標榜する社会の自律的モデルだったから、ヒトはその規範を自ら身につける必要があった。それを推進したのが、学校教育だったというわけだ。その自律性がじつは、社会的な規範の浸透によって、あたかも自己責任で選択したことのようにみえていると見てとったのが、ミシェル・フーコーのパノプティコンであった。

 先ほど「身分制を持ち上げるわけではないが」と断ったのは、身分制社会と近代社会のどちらが良いか悪いかという判断を棚上げしておこうとしたからだ。つまり、その善し悪しをつけずに、前近代と近代の端境を見つめてみると、外的な壁か、自らが選び取った壁かがみえてくる。そのときじつは、すべての人が同じように選択できるかどうかという(人間観の)前提が、目に見えない形でもうけられていることが、浮かび上がる。これはキリスト教で言えば、カトリックとプロテスタントの違いのように、ヒトの実存の根源にかかわる見極めと連動している。

 それを軽々と「移入する」かたちで乗り越えてきた(ようにみえた)のが、日本の現在である。その、異文化を換骨奪胎するかのように組みこんできた地点に、もうひとつキリスト教と仏教や神道文化との差異を挟みこんで考察しなければならない集団性の(ということは個人性の、基底には自然観の差異に関する)論点があるが、ひとまずさておこう。

 いまさら、現実の政治社会形態としてどちらが良いかを論じることではないが、ヒトの誰もが同じように近代的な理知的要素を受け容れられるとは限らないことを、現実として認めるならば、その、個々人の受容における違いを補正する社会的保障装置が必要になることは、論理的に共有できる要点になるのではなかろうか。自由民主主義か社会民主主義か全体主義的な統治かが、いずれも近代の政治社会形態の変種だとしたら、その論点を共有して論じ合えば、社会政策的に何がしかのやりとりはできるのではなかろうか。

 そんなことを夢想してみたくなるような、見極めの清冽さを、この小説に感じたのでした。

2021年3月13日土曜日

「怒り」は、何処から湧くのか?

 知り合いの友人の話し。つまり私は、間接的に耳にしたことですが、そういうことってあるだろうなという、そこはかとない共感と、でもそれって、どこから起こってきているんだろうという疑念とが、ともに浮かび上がってきた。

 その友人は、膝関節の手術をして入院と、少し長いリハビリをすることがあった。ところが、入院が長引くにつれて、自分の内側で「怒り」が湧いてくるのを、恐ろしくも、とどめようがないことのように感じたというのである。その「怒り」は、世話をしてくれる看護師さんとか、療法士さん、部屋の掃除をしてくれる職員さんとか、事務方の方面で顔を合わせる職員さんなど、落ち着いて考えると「怒り」をぶつける相手ではありそうもない人に対して、ものすごく腹が立ち、この人たちが寄ってたかって自分に意地悪をしているように感じられてしまったそうだ。

 そういうことってあるだろうなと、まずは、共感した。

 逼塞するってこともそうだが、怪我をして手術し、療養しているというのは、医療の保護を受けているという冷静な文脈にわが身があるという構図を、身も心も承知しているからである。この、承知しているというのは、じつは「思い」が、ちょっと自分を抜け出してわが身の置かれている立場を俯瞰するような、超越的な視線をもってみている。ところが躰は、思うに任せない。動くと痛む。ムリをすると転んだり、さらに起き上がれなくなったりして、動きが取れなくなる。つまり、ひざを痛め → 施術をし → 術部が落ち着くまでは大きな動きはできず → さらに寝込んでいる何日かの間に筋肉は衰え → 安静に、かつ、ぎりぎりのところまではリハビリのトレーニングをしなければならない。そういう事態におかれていることは、冷静になればわかりはするが、躰は不如意が募り、得手勝手が利かず、介助・補助がなくては思いが達せられないもどかしさに、置かれ続ける。

 そこに「怒り」が発生しているのではないか。

 身と心というと二元論的だが(仮に分けて考えると)、普段、躰と思いとがいつも一緒に歩いているわけではないのだね。どちらかが、どちらかに合わせる。あるいは、無理をさせる。そういうバランスが、日頃絶えず、微調整されて、やりくりをしながら、世間の諸事難局を渡ってきたというわけだ。あるいは、こうも言えようか。躰と思いが、どちらも固定的ってわけではない。どちらも揺れ動き、移ろい変わる。その変わり目のモチーフに、このバランスが顔を出して、少しは無理をしているうちに他方の言い分を聞き入れ、別の方のやり方をひとまず受け容れているうちに馴染んで、移り変わる。そういう「かんけい」の一束が、人柄として外へ滲み出してくるのかもしれない。

 病院での手術・加療という(病む者にとっては)絶対的他者の介入を受け容れはしたが、わが身が思うに任せないことまでは「預けた覚えはない」ってわけだ。つまり身の裡で繰り返されてきた「かんけい」のやりとりに、外部的な(しかも圧倒的な力をもった)作用が加わるから、その重圧というか、ストレスは、何処へもっていったらいいかわからない。冷静に考えれば、八つ当たりとしか思えない「憤り」が噴き出して、とりあえず近場の誰彼にぶつける。

 かくて、バランス感覚は埒外におかれ、ムリをさせんじゃねえよ、えっ、こんなことが無理なのかよ、だらしねえなと、内部でやりとりでもしていればまだいいのだろうが、そんな自問自答が役に立たないのが、「患者」なのかもしれない。かくして外へ噴き出す。

 となると、これは、病院だけの話ではなく、社会的な仕組みや変容がもたらす「適応要請」も、同じ外的な作用として、身に降りかかる。「憤り」「怒り」が湧き起り、何処へぶつけていいかわからない事態にあると、ふと気づくとき、誰彼にぶつける「憤懣」が犯罪となって噴出する。事件となって発生する。高齢者の犯罪が増えているというのも、ひょっとすると、適応できない社会的な変容にたいして、身と心のバランスが「異議申し立て」をしているのかもしれない。

2021年3月12日金曜日

札所巡りの道――丑年の竹寺

 昨日(3/11)、軽い山歩きに行った。前日は風が強かったので、日をずらした。高速をつかえば1時間余のアプローチだからと7時ころに出たのが災いした。世の中は通勤時間帯だ。高速に乗るまでが混む。降りてから、また混む。2時間かかった。当初、小殿のバス停付近に車を止めて歩く予定にしていたが、同行する人がいないとわかり、竹寺に車をおくことにした。そう教えてくれたのは、山の会のkwmさん。先週歩いて、3時間半の道とあった。お茶を頂戴し、団子を食べてきたと、ご亭主と一緒に、育った実家に立ち寄ってきたとメールを頂いていた。地図をみると竹寺は山の中だが、駐車場があるらしい。そこから子の権現まで往復するルートは、要所に巻道もあるから、往還に違った道をとることができる。

 竹寺の駐車場は、naviの案内する一本道のどん詰まりにあった。広い。止まっている車は2台。トイレもある。「竹笹そば」「竹笹そば」の幟がはためいている。歩き始めたのは9時5分。掲示板にはイラストの案内図が貼ってある。傍らに色がはげ落ちた古い境内案内図が肩をすくめている。自然林に踏み込んだのかと思うほど灌木や竹を生かした境内が奥へと続き、おっ、一木造とでもいうのだろうか、一本の木を彫りぬいたトテームポールの下方と中段に仁王や地蔵が彫り込まれている。本坊の左方後ろの山へと広がる通路には竹の鳥居が十本連なって建てられ、その先の石段を上ると大きな茅の輪と牛頭天王本堂が待ち受けている。お寺なのに竹の鳥居か、神仏習合の極みだなと考えるともなく思いながら、上へと登る。そう言えば、駐車場から境内への入口の処にも赤い鳥居が立っていた。

 一番高い所に位置している牛頭天王本堂の脇で、大工仕事にとりかかっている60年配の方がいる。

「何をつくってるの?」

「明後日13日に、ここのご本尊12年ぶりの御開帳の祭礼があるんだよ。そのご奉祀された方々のお名前の掲示場」

 牛頭天王本堂には八王子の像が本尊という。そういえば、naviで「竹寺」と検索すると「竹寺(八王子)」とあり、いや八王子じゃないよ、飯能だよと思ってよく見ると、住所は飯能になっていた。えっ? とすると、八王子って、もとは牛頭天王の八人の王子ってことが謂れなんだと気づく。丑年ごとに御開帳で、12年毎。今年は歳男ならぬ齢寺ってわけだ。竹寺と並べて八王寺とも書いてある。

「(ご奉祀って)檀家の方々?」

「いや、このお寺は檀家がないんだよ。全部、こういうご奉祀でまかなってる」

「そりゃあ、たいへんですね」

「うん、それに、ほらっ、そばとか団子とかってもんもあるだね。まだ早いから人がいねえべ」

「いや、これから子の権現まで行ってくるから、帰りに頂戴しますよ」

「ああ、子の権現は、そこの脇の道。1時間くらいよ」

 と見送ってくれた。

 すぐに「←小殿・子の権現→」の標識が目に入る。よく手入れされた杉林に囲まれた道は、しっかりと踏まれていて往来が多いことがうかがわれる。

 10分くらい先の合流点から巻道を外れ、山頂部を乗っ越すルートをたどる。二等三角点が置かれた標高630mのピーク。ここも杉林に囲まれている。そこから下って巻道と合流するところが豆口峠。「神送り場」の看板がある。「疫病退散を願って、夜中に鉦や太鼓を打ち鳴らしてこの峠を駆け上り、疫病神を追い払う儀式」があったようだ。コロナでもやってるかな、と思う。

 ふたたび上り、降って、歩きやすく踏み固められた道をたどると、伊豆が岳や天目指峠からのルートと合流する。ここにも質素な木の鳥居があり、分岐の標識が置かれている。伊豆が岳への踏み跡は、登山路だ。じつは、子の権現は「32番札所」。竹寺は「33番札所」であるから、いわば巡礼の道。それで踏み固められ、山頂経由ではなく、巻道が設えられているのだ。

 子の権現には参拝に来る人が三々五々見られる。お札をもらっている人もいる。上の本堂付近には金のわらじや下駄の、大きな飾り物が置かれていて、山歩きのご利益を表しているようである。ここは、伊豆が岳からの下山の通過点としてよくとおった。一昨年であったか、山の会でも、飯能アルプスの経路としてここへ降りたこともあった。

 帰りには、ピークを巻く道をとり、後半は小殿からのルートを辿って竹寺へ戻った。大工仕事はほぼ終わっていた。何人かの参拝者もきている。登山者らしい服装の若者がポツンポツンと、見える。12時前だからうどんを食べながらお昼かなと考えていたが、茶店は相変らず留守のようであった。駐車場の車の中でお弁当を食べ、1時過ぎには家へ帰った。

 3・11の十年目。災害準備の一番大事なことは、まず、元気でいること。今日くらいの山散歩なら、毎日続けてもいいと思った。

2021年3月11日木曜日

なにより一番の災害対策

 今日は3・11。ラジオで十年祈念番組を聴きながら山へ向かい、軽く歩き、今帰ってきて、これを書いている。ラジオでは、「どんな災害対策をしていますか」などとやりとりをしている。果て私は何をしているかと思ったとき、まず何をおいても一番大事な災害対策に、これから向かっているのだと思った。体力をつけていること、だ。

 十年前の今日、池袋にいたカミサンから最初の電話が入った。午後3時半ころではなかったか。地震発生と同時にデパートや駅から締め出された人たちが街路に溢れ、ラジオで鉄道が運行しないらしいと知って、どうしようと電話をしてきた。「歩いて帰って来なさい」というのが私の判断。池袋からなら20kmくらいか。悪くても、5時間か6時間で帰宅できると踏んだ。荒川を渡ったところで電話をすれば、車で迎えに行くとも考えていたが、これは、東京へ向かう車、東京から外へ出ようとする車の渋滞で、とても適わないことと分かった。結局帰宅したのは、10時半を過ぎていた。電話をしてからでも、7時間歩いたわけになる。当日のブログに私は、《「避難民」が自力で歩いたという「武勇伝」》と題して、そのことをこう書きつけてある。


《いずれにしても、誰にも頼らずどう帰宅するかと考えたことが一番大きかったとカミサンは振り返る。約20キロ、4時間半の歩き、終わりの方でバスが来て乗ることができ、30分くらい短縮したという。同じ方向へ歩いている人も多く、ガソリンスタンドのトイレは空いていて、コンビニで水は手に入った、気温は低かったが歩いている分には寒くはなく、ほとんど心配なく歩きとおせたと、達成感に満ちた顔をしていた。ふだん山歩きをしているおかげだね、と思った。》


 つまり、一番の災害対策は、まず元気に歩けること。その力を十年保ち続けるのは、後期高齢者から末期高齢者に差し掛かる年齢のものにとっては、たいへんなこと。水だトイレだラジオだのということは、その次に考えることになる。とくに災害でなくても、ひとたび怪我をしたり事故に遭ったりすると、生活必需品の調達やらは、ほぼ「災害」並みにのしかかってくる。そう思うと、まず、体力をつけて自力で生活できるようにしておくことを心掛けなくちゃあってことになる。

 今日は、山の会のkwmさんが教えてくれた竹寺から子の権現へ往復する3時間半のコースへ、散歩気分で行ってきた。12時前には出発点の竹寺に帰着し、そこでお昼を食べて帰ってきた次第。第33番札所から32番札所をめぐって来たことになる。ルートはいかにも巡礼の道らしくよく踏まれており、案内標識もしっかりとつけられていて、静かであった。

 ま、そのことはまた後程記し置きたい。天気に恵まれ、汗をかくほど暑くもなく、振るえるほど寒くはない。快適な春の里山歩きであった。

 オリンピックを「復興フクシマ」と名づけて浮かれている人は、何処にいるだろう。そう口にした元宰相自身も、すっかり忘れてんじゃないか。彼等の軽い口ぶりを耳にするごとに、「復旧も復興も」損なわれていくような気がしたものだ。

 政府主催の「追悼式典」が、まもなく行われる。いやだねえ。地震や津波以上に、原発のもたらした結果を振り返ってみると、残滓が、文字通り積み残されたままだ。汚染水も、汚染土も、そのまんま歴然として「状況」を表している。それに気づかぬふりをして「ことば」だけが躍っている。そちらの方は、毫も傷まなかったみたいだ。

 自助しかないとしたら、♫年寄りよ、躰を鍛えておけ♫

2021年3月10日水曜日

コロナ時代を生きる。助けて。

 緊急事態宣言を再再度延長はしたものの、結局何をどうするかは、各人が考えてくださいと、無策というか、自助努力へ丸投げである。政府も首都圏の知事たちも「掛け声」だけで精いっぱいのようだ。為政者がコロナ禍を回避するために、どう「密」を避けるかを戦略的に打ち出さない限り、この状態は続くと考えるしかない。

 人の流れ(の多いの)がモンダイというのは、その通りだ。だが、都知事にそれを止める思案は期待できない。なぜなら、一極集中を解消したいとは(都知事としては)口が裂けても言えないからだ。首都圏の1都3県も、東京からのいささかの分散を受け容れはするものの、大きな変転は希望していない。政府は、言うまでもなく、中央集権制を崩すつもりはなく、地方分権もタテマエ程度には掲げるが、実行に移すとは毫も考えられない。

 つまり、「密」を戦略的に思案する「部署」は、どこにもないと思われる。自然発生的には、すでに、地方への分散が始まっているようだ。微細だが東京から、周辺都市への人口の社会移動が起こっている。周辺都市への「住みやすい街」という評価が高まってもいる。都心のタワーマンションの売れ行きが鈍っている。

 では、戦略的に「密」を避ける将来計画を誰が考えるのか。結局、民間のシンクタンクか学者しかいない。それがどれほど政策に汲み上げられるかも、学術会議と政府のやりとりをみていると、まことに心もとない。加えて、(議会への提出文書の誤字・脱字、訂正や配布しなおしが増えているという)官僚の力量低下の報道を知ると、政府には全く期待できない。民間のシンクタンクや学者の施策を、地方自治体が汲み上げて、できるところから政府の施策決定をまたずに、どんどん「経済復興計画」として実施していくのがよいと思う。というか、それしか方途はない。

 首都圏や都心から地方に、若い人々を呼び寄せる。あるいは、齢を取ってからの暮らし方を提案し、田舎暮らしとまではいわず、地方都市での余裕あるのんびり暮らしのすゝめを広める。そこには、都会生活で溜まったストレスを解消するだけでなく、会社や行政に依存するのではなく、自分たちで自律的に暮らしを立てる、生き方の違いを盛り込んだ視点が盛り込まれているのが、よい。

 つまり、コロナ禍を避けて暮らすというのは、ワクチン接種がはじまればそれでひと段落して、元の暮らしが戻ってくるというのではない。この先ずうっと、変異株をふくめてコロナ禍とともに長く暮らしていく覚悟が必要なようだ。つまり、これまでの一極集中型の都市生活とは違った生き方が求められていると、現下の行政の無策ぶりをみていると思わざるを得ない。自助努力するのであれば、私たち自らが、生き方の方向転換を図る必要があると、「自粛生活」の中で感じている。

 もちろん、稠密な人の集まりだけではない。食事の仕方も、宴会のやりようも、スポーツ観戦や演劇や映画などのエンターテインメントも、コロナ対応を組みこんで展開する形を考えておかねばならない。

 しかし、そこはかとなく思っているだけでは、事態は動き始めない。もちろん、民間のシンクタンクや学者さんには思案してもらいたいし、どこかがそういう声を拾って集約し、将来設計を展望してくれないと、社会的な動きにはならない。トヨタがスマートシティというのをつくるそうだから、そういうところでも、コロナ時代の街づくりをみせてもらいたい。

 と同時に、私たち個々人が考えたり、動き始めたりすることもあるのではないかと、私の気分の中で「なにか」が蠢き始めている。なんだろう。

 「密」を避ける日頃の振る舞いの仕方。買い物にせよ、人付き合いにせよ、日常的な運動や趣味の「なにか」にせよ、コロナ感染を避けるために「かくかくする」ということを、むしろ、日常の暮らし方としてこの先長く続けていける「かたち」に仕上げていく地点に来ていると思う。一時的な避難生活ではなく、この先、末永く付き合っていく暮らし方として思案し、次の一歩へ踏み出す。

 公共交通機関を最小限にするのも悪くない。できるだけ歩く、自転車で、あるいは車で移動する。人と会うのも、必要最小限にする。同時に、コミュニケーションを欠かさないために手段を講じる。若い人たちはリモートの会議や集まりを容易にもつことができるようだが、年寄りには、ムツカシイ。なぜだろうと考えてみると、機器の操作がわからない。もちろん「トリセツ」を読めば書いてあるとはわかるが、それがめんどくさい。メンドクサガッテハイケマセンというのは、若い人だから言えること。年寄りがメンドクサイと思うのは、ごくごく自然なことなのだ。とすると、ヘルプ機能を持った社会的なサービスを、手近なところに設えてほしい。デジタル的にはいろいろ設けられているだろうが、アナログ的に応答してもらえる社会サービスが適切なのだ。

 というふうに、モデル的なデキル人たちばかりでなく、うまく生きられない人たちもそれなりに適応できるような社会的仕組みを組みこんではくれまいか。できるだけ自助努力はするから、そうやって助けて頂戴。そう思っている。

2021年3月9日火曜日

うまく生きられない人の在処

 重松清『ひこばえ(上)(下)』(朝日新聞出版、2020年)を読んだ。読みながら、一人の古い友人・Kのことを思い出していた。いま彼が生きているのかどうかは、知らない。

 中学・高校の同期生。Kが同学年にいることを知ったのは、中学2年の秋。文化祭で菊池寛の「父帰る」を上演したとき、Kが父親役をやり、私が長男役をやった。落ちぶれて帰って来た父親の、力が抜けたひょうひょうとした雰囲気を醸し出して好演であった。また、3年の時、岡山の声楽の県大会で優秀賞をもらったというので、全校生を運動場に整列させて、Kが校舎の二階の教室から運動場に向かって歌を歌ったのも覚えている。その声量の力強さに感心し、面白いヤツだと思っていた。

 住んでいた瀬戸内海に面した町は、小学区制で高校は一つしかなかったから、高校も一緒であった。たまたま大学も一緒になり、サークルもなぜか同じところに入ったから、卒業するまでいつも視界に入っていた友人であった。

 新聞の編集という硬いサークルであったが、彼はもっぱら会員が集まる場の和ませ役を買って出て、皆さんの気持ちをとらえていた。浅草で仕入れたのであろう一発芸や瞬間芸を交えて披露して喝采を浴び、アドリブの言葉を加えて、なかなかの芸達者ぶりを発揮していた。彼の綴る即興の短いエッセイは、なかなかの味わいがあった。後にテレビにタモリが登場してきたとき、ああ、Kならタモリと伍すことくらいできたかもしれないと思ったものであった。

 卒業後彼はI映画に入り、助監督としての道を歩み始めた。だが、3年と経たないうちに辞めることになってしまったのではなかったか。任された映画製作チームの金をつかいこんでしまったのだ。その始末のためもあり、また仕事を失った後のやりくりもあったのであろうが、サークルの先輩、同輩から借金し、高校の同窓生からも借金し、川越に住んでいた私の処にも借金をしにきて、私はKとは縁を切った。1966年か67年のことであったと思う。半世紀以上も昔のことだ。

  卒業後に、高校や大学の同窓生が集まるごとに、Kはどうしてる? と私は聞かれたものであった。中学・高校から同窓、大学で同窓、の友人とみられていたのであった。聞く限り、誰も知らない。Kはどうしているだろう。

 重松清の『ひこばえ』に登場する主人公は55歳になる父親。グレードの高い老人ホームの所長をしている。この主人公の実父は、幼いころに両親が離婚して以来、会っていない。記憶もほとんど、のこっていない。再婚した養父を「おとうさん」と呼び、それなりに感謝してきた。その養父も他界している。そこへ、実父が亡くなったと廻り回った知らせがあり、縁者として後始末の世話に向かうことになったところから、この話ははじまる。

 重松清は、もっぱら子どもの成長物語を書いてきた。今回は、老親と息子という関係と、元気に老いるということの困難さとを主題にして、世の中の移ろいと年老いてゆく父親と息子の関係に焦点を当てて描きとる。重松らしい、人間関係における視線の柔らかさと取り出される「かんけい」の穏やかさが、失われた社会の何であったかを、行間に問うているように思えた。

 彼のとりだした老親というのが、うまく生きられなかった人だ。ついつい借金をしてしまう。身の回りの始末がきちんとできない。わが身のことに気持ちが執着して、周りの人たちの迷惑が見えない。つまり、他者への心遣いがいつも必要とされる日本社会の、人の関係に馴染めない人たちが、とどのつまり孤立し、世を去っていくとき、いったい何を軸に生きて行けばいいのかを、取り出して見つめようとしている。この、うまく生きられない人という重松の焦点の当て方こそが、世の中を見るときに欠かせない視線だと、まず思う。だが同時に、果たして今のご時世に、重松のとらえているような「うまく生きられない」程度で、妥当なのかと疑念が浮かぶ。もっと現実は、苛烈なのではないか。「うまく生きられない」ことは、もっと激しく弾き出されて身の置き所を失い、おろおろと埒外に放り出されているのではないか。

 だから私は、「失われた社会の何かを、行間に問う」ていると思えたのだ。柔らかで穏やかな在処を切りとりながら、辛うじて「うまく生きられない人」を組みこんでいる社会関係にこそ、「希望」があり、いまこそ、そこ(という己の内側)へ手を差し伸べて考えみようではないかと、重松は静かな声をあげているのではないか。

 重松はいつも希望を取り出して、物語を終える。それは自分たちの時代には辿りつけるかどうかわからないが、でも、孫・子の代にまで点しつづける灯りは(社会の片隅に、いまも)ある。そう、言わないではいられない重松の心もちが残響として私の心裡に響いている。

2021年3月8日月曜日

厄介者の微細な信号

 このところ週1の山歩きと毎日2時間程度の町歩きを続けていることは、ご存知の通りだ。「疲れ」がどのように出て来るかに、気を向けている。「歩くのはしんどいな」と感じれば、ムリをして歩くことはしないつもりでいるが、まだそういう兆候はない。「疲れたな」と思うことも、今のところない。ない、のがいいわけではない。感度が鈍っている。表出の仕方が、変わってきている。

 山へ行った2日後、歩いていて、ふくらはぎの筋が張っていると感じたことがあった。右足の親指の付け根に軽い違和感。尿酸が溜まっている兆候。朝起きたとき、腰が定まらない。たぶんこれらは、「疲労」の証し。

 同じ日の夜中に、少し咳き込んだ。気管支炎を発症し始めていた(のだと思う)。寝ているときだったので、忘れていたのだが、朝、カミサンに言われて思い出した。これは、「疲労」が限界に迫っていることを示している。もちろんムリをするつもりはない。だが、午後になると歩きに出ようという気分になっていたので、どこへ行くともなく出かけ、ぶらぶらと歩いているうちに気分が乗ってきて、2時間半ほどになった。

 歩いているうちに感じるこうした「兆候」は、限界に来つつあるよという「疲労」の信号。若いうちは、これを超えればさらに強くなると考えて、負荷を掛け続けた。だが今は、「疲れ」を感じなくなっているとともに、回復しなくなってもいる。まして、強くなるという望みはない。

 体の調子の一つに、水分摂取の調子も加わる。山歩きはむろんそうだが、町歩きでも、水を持って出ることを忘れない。町は500㎜㍑、山はほぼ2㍑を持参する。歩いているうちに全部飲むわけではないが、夜寝る前までにほぼ全部飲むことを心掛ける。それが適正であったかどうかは、尿の色や排便の硬軟で見極める。毎晩呑むお酒の味わい、進み具合も、具体的な兆候のひとつ。「疲労」しているときは、お酒がうまくない。近頃は、あまり飲みたいと思わなくなった。焼酎半合にお湯500㎜㍑も忘れない。若い頃は、そういう気遣いをしないでも、体が感じて水分を欲し、いつしか摂取していたが、齢を取ると感度が鈍り、意識的にみていてやらねば、リミットを軽く超えて気づかない。

 微細な兆候に留意して、限界を踏み越えないように身をコントロールする。そうして、じわりじわりと衰えていく速度を緩やかにするしか、道は残されていない。そう考えて身を処すことが、目下、最良の選択。「己の欲するところに従いて矩を超えず」というのは、あくまでも欲望と社会的規範とのこと。身の感度と必要度との関係は、むしろ意識的にコントロールしておかねば、バランスを崩してしまうことが多い。それくらい、厄介者になったってことだ。

2021年3月7日日曜日

いたるところに青山あり、か?

 昨夜、友人のy105さんから電話があった。タイに暮らしていた友人のMさんが亡くなったという知らせ。タイのボランティア団体のRさんから電話があり、「すでに火葬にした」と訃報が伝えられた。名前からするとタイの方のよう。日本語が達者であったという。また、タイ人であるMの奥さんも電話に出て、「穏やかに逝った、友人たちによろしく」と話していたという。

 また、日本にいるMの妹さんへの連絡も、Rさんが行うということのようだ。生前にMさんが周到に手配をしていたのであろう。いかにも彼らしい逝き方だと思った。

 すでにこのブログをお借りして、消息を呼び掛けたMさんであった。去年の4月に医師から「異変」を告げられ、「十二指腸の辺りに潰瘍か何かがあるらしい」とメールをしてきたMさん。そのとき、セカンド・オピニオンを求めたら、その医師には「すぐにでも手術をする必要がある」と言われ、どうしようかと迷っていると、書いていた。「5/2に入院して詳しい検査をする」と最後のメールがあって、それ以降、ぷっつりと消息が途絶えた。

 何度かメールを送り、ひょっとして本人は返信もできない状態なのかと思い、奥さんも読めるようにとひらがな書きにしたり、英文にしたりしてみたが、応答がない。とうとうブログで呼びかけたのが、10月であったか。すっかりMさんは亡くなったと思っていた。

 今年になって、古い共通の友人であるy105さんがやりとりしているかもと思って問い合わせた。彼も一度「喧嘩別れ」のようなことをして以来、音信不通であったそうだ。その彼の呼びかけに答えて、Mさんからy105さんへ電話があったという。

 そして1月21日、Mさんから私あてに「国際郵便」が届いた。膵臓癌になったこと、完治しないと言われていること、お会いしたいとあり、お訣れの言葉がつらねてあった。

 y105さんの話では、痛み止めを飲んでいるせいか、妄想が襲い、自分が監禁されているように感じ、救い出してほしいというときもあった。かと思うと、そのすぐ後にメールで、自分の奥さんがわからなくなったりして、(自分が)ヘンだと書いてあったりして、気分が移り変わり、自分自身でも持て余しているようだったそうだ。じつは、奥さまや娘さんに介護され、外出を気遣う家人の振る舞いを「監視され」ているように思いこんでいたと推察できる様子が、LINEの向こうで取り交わされてもいたそうだ。

 メールでのやりとりよりも、手紙の方が自分のペースに合わせて読むことができるからいいだろうと、それ以来、手紙を6通送った。Mさんからは、ノートの切れ端やメモ帳に書き付けた返信が、やはり届けられた。今月初めに届いた手紙には、「郵送も届きません」「正式な住所を教えてください」と書いてあったり、私の手紙を、私のカミサンからの手紙のように錯覚している文面が綴られていたりして、妄想に苦しんでいることがうかがわれた。y105さんに言わせると、痛み止めの薬がきつすぎるとそういう副作用を伴うことがあるというから、痛みと妄想との間を行き来しながら耐えに耐えてきたのかもしれない。

 y105さんへのボランティアの方の言葉では穏やかな顔つきをしていたという。

 Mさんとしては、異郷に死すことも厭わずという覚悟で、タイで暮らして10余年になる。だが、今わの際に去来したのは「ふるさと」だったのではないかと、「令和3年」と日付を記したことや、領事館に連絡をして助け出してくれと妄想するなど、体は「覚悟」を受け付けず、「ふるさと」を希求したと思った。

 人生いたるところ青山あり、とむかしの人は語ったが、頭がそう覚悟することはできても、身は違った声をあげている。そういう意味で、Mさんは無念だったろうと思う。

 彼の死は残念ではあるが、すでに昨秋に亡くなっていると思われた彼と、今年に入って手紙のやり取りがあり、一度は電話で声を聴くこともでき、Mさんらしい始末の付け方に触れることができて、幸いだったかもしれないと感じている。

 46年間、Mさん、ありがとう。合掌。

2021年3月6日土曜日

描き出す人物像の変容

 真保裕一『アンダーカバー/秘密調査』(小学館、2014年)を読む。

 真保裕一のものは、『最愛』新潮社、2007年)を読んで、宮部みゆきと対照させて特徴を拾ったことがある。2013/6/16の「虚構という日常に浸る「おたく」」。今のブログに引っ越す前のものだから、探しても見つからない。次のように書きはじめている。

 《雨のせいではなく、この二日間ずうっと小説を読んでばかりいた。宮部みゆきの『楽園』文藝春秋、2007年)、上下2巻、新聞連載小説。それと、真保裕一『最愛』新潮社、2007年)。いずれも、姉妹と姉弟の間の、不在の十数年を挟んで起こった「事故」を契機に、何があったかに踏みこむ組み立ては似ている。/だが、宮部の小説が、なぜ抵抗なく読み手である私の幻想に絡み、真保の作品がなぜ「作り物」めいていると思われてしまうのか。そういうことを考えながら、どっぷりと作品世界に浸っていた。/ミステリーというのは、読み手というたくさんの日常世界の「日常性」をたどりながら、そこに挿入された亀裂から「非日常世界」に分け入って、そこに生まれるスリルを不可欠としている。「非日常世界」というのは、じつは日常性の裏側に張り付いていて気づかれないまま見過ごされていることが多いと宮部はみてとり、そこを解き明かしてゆく。真保は、自分の日常世界とは異質の非日常世界がかかわりのないところにあるという設定だ。》

 つまり、真保裕一のミステリー物は、単なる謎解きであったり、活劇ものだとみている。これ以外にも、『アマルフィ』(扶桑社、2009年)とか『天使の報酬』講談社、2010年)を読んでいる。

 《つぎつぎと映画化されている外交官黒田康作モノの新しいヤツ。これも、日本の官僚機構の縦割りと連携的な守旧性と既得権益の最高峰という在りようとをベースに、型破りの外交官がミステリーを解き明かして上層の諸悪を明かしていく活劇である。》としるしたこともある。

                                            *

 だが今回の『アンダーカバー/秘密調査』は一味違った。

 才能を発露させて起業し、資金をため、吸収合併をくり返して、ビジネス界の寵児となっていた主人公が、罠に掛けられ異国の地で麻薬所持で逮捕・有罪となり収監されている間に、事業は凋落して、乗っ取られるように破綻してしまう。だが刑期の途中で無罪が判明し釈放される。誰が、なぜ罠を仕掛けたのか。釈放された主人公が「秘密調査」に乗り出すという設定。「外交官黒田康作モノ」同様に、ヨーロッパやトルコ、アメリカを股に掛けた陰謀と犯罪捜査が行われていく、世界情勢を組みこんだミステリーである。

 一味違うというのは、この主人公が、「秘密調査」をすすめる間に、自らの行っていたビジネスがいかに偏った見方に取り付かれたものであったかに気づいていく。謎を解き、人のかかわりを知るにつけ、薄皮を一枚一枚はがすように見えてくるのは、ビジネスの寵児として働いた自分が、ゲームをしてるように限定された側面しか見ておらず、人生の全体像を捉えるというには、まったく偏っていたと気付き、変わっていく姿が、描き出されている。

 むろん、売り出しは、ミステリー。上記の移ろいは行間に埋め込まれるようにして後背に見え隠れするにすぎないが、ワンステップ奥行きを深くしていくかもしれないと、今後の仕立てに期待をもたせる作品になっている。

2021年3月5日金曜日

延長戦の初回

 一昨日(3/3)、「延長戦になった」と書いた、私の不整脈の「追加検査」のこと。検査を受けるつもりでさいたま日赤まで行った。天気がいいので、自転車でぼちぼちと。吹く北風もそれほどでもなく、セーター一枚で寒くない。そう言えば一昨日は桃の節句、今日は啓蟄ときている。40分で着いた。

 診察券でさかさかと受付が済み、診察室前で待つことになった。予約時刻より30ほど早く、本を読んで待機する。すでにたくさんの人が順番待ちをしている。9時の診察開始前からすでに、担当医の部屋には患者が入り、次の番の型の「診察番号」が入口のモニターに表示されている。おおよそ一人5分ほどの診察のようだ。私の番が来たのは、予約した時刻より7分も早い。

 「追加検査」としてCT検査をすることになったと告げる。今日やるのかと聞くと、そうではなかった。月末の3/29、その結果の診察が4/1ということでいいかと訊ね、了解すると、それで診察はお終い。外で待っていると、看護師が来て、所定の用紙に書きこんで署名してもってきてくれと、部屋番号を告げる。アレルギーや既往症の確認であったり、薬液を注入することへの同意書だった。検査当日の注意を受けて、それで今日はすべて終わり。予約時刻から15分ほどで終わったわけだ。診療費は70円。そうだよなあ、何もしなかったようなものだもんね。

                                            *

 自転車をこぐと、歩くときより風景が変わる。すれ違う人の顔つきをみていない。着ているものとか、何を持っていたかなども、文字通り、捨象されている。それほど人出が多いわけではないが、どちらからヒトが来ているかどうかをパッパッとみている。自分の通行に障りになるかどうかをチェックしている。すれ違うスピードが速くなるにつれ、抽象度が高くなる。追い越していく車には、私のような自転車通行者が、目に入っていないかもしれない。自分の利用しているメディアによって、観ている次元が違ってきている。

 時間が、ヒトそれぞれに固有のものであって、皆さんが共有しているわけではないと、何かの本にあった。小さい子どもと、私のような年寄りとでは、時間の通り過ぎ方が違う。同じ一年が、年齢分の一の速度で過ぎていくと私は実感している。それと同様に、空間・風景もまた、ヒトによって抽象度が違って、観ているものが見えない。逆にみていないものが見えているってこともある。

 それらは、ヒトが多様なのではなく、人の見ている時間や空間の次元が違うってこと。だから、何をどうみているかということも、すれ違う。年齢もあれば移動速度もある。それと同様に、時間や空間をみる次元が、ヒトによって異なるから、それを調整しないままで言葉を交わすと、なんだこのやろうってことにもなるし、こいつの言ってることは、わかんねえなってことにもなる。そういう、すれ違いが、いろんなことで気になる。

                                            *

 昨日、山からの帰りに車のラジオで聞いた国会中継が思い浮かんだ。

 社民党の福島瑞穂が丸川珠代男女共同参画当相を問い詰めている。丸川が夫婦別姓に反対と表明していたワケを問いただしている。丸川は「職員の熱意にブレーキを掛けないように私個人の意見は差し控えている」と、躱そうとする。丸川の別姓反対意見の根拠を尋ねているのに、大臣が自分の意見を控えるって、どういうことだと舌鋒は鋭い。「男女共同参画社会の実現」には、不適格じゃないのかと追求され、とうとう、

「氏が別であると家族も結束が弱くなる」

 と、定番の家族主義的な主張を述べた。それに対して福島は、

「あなたの丸川は旧姓でしょ。それは、あなたの家族の結束の障碍になっているのか」

 と、さらに問う。

「丸川は通称です。氏ではありません」

 と応えるも、じゃあ、紙に書かれたことが家族の結束に影響するのかと追求がすすみ、福島の問いに答えたことにはならない。面白い。

 社会的な参画単位を「家族」という集団におくのか、「個人」におくのかという次元で考えることもできる。あるいは、「戸籍届」というかたちにおくのか、「事実婚」を認めるのかで、社会のつくり方は大きく違ってくる。通称と氏という違いを、社会的に認めるというのが、芸能や政治の世界に限られるのか、普通の人の社会生活でも容認されるのか。後者となると、戸籍との違いが動表面化して問題となるのか。そこまで踏み込んでいくと、社会的な常識を変えるのに、どのような法的制度的な手法があるのかと考えることもできる。

 つまり、何をどうみようとしているかという問題になり、あるいは、どこまで哲学的な論題に踏み込んでやりとりするかという問題が浮上する。国会論戦がそういう哲学問題にまで踏み込むようになると、まさしく「民度」が問われる事態であり、定着すると「専門家」と「民衆」の壁が取り払われて、人々の文化的練度も上がってくると思われた。

 もちろん、現実は、そんな次元の違いに気付かぬ顔をして、「政治的に」お仕舞いにしてしまった。つまんねえの。

2021年3月4日木曜日

歩きごたえのある飯能アルプス

 今日(3/3)、飯能アルプスを歩いた。同行者は3人。南風が北風に代わる。その前線が昨日夕方から夜にかけて、関東上空を通過した。夜の雨と風は、音だけしか聞いていないが、凄まじいものであった。朝の空を見上げて、「台風一過」という言葉を想い起した。

 飯能アルプスを歩く。いや、この名前を知ったのは、今日歩いた後であった。ただ、飯能駅から天覧山を経て北へと延びる山稜は、賑わいが煩わしい。天覧山を省略して、多峯主山から北へ向けて歩けば、静かな山歩きが楽しめるだろうと計画をたてた。高麗駅集合8時半。私は車で向かう。

 車を駐車場に置いて駅前広場に近づくと、もう、皆さん、集まっている。集合時刻の電車が来るには、まだ20分余もある。

 えっ? どうして?

 この世代の特徴なのか、時間ギリギリの集まりというのに、先んじるクセがあるようだ。そういうわけで、予定より早くスタートした。高麗駅西側の高台へと続く住宅街を抜ける。西武鉄道がこうして開発した住宅地を売り出し、同時に電車の顧客を確保するという関東一円開発のたまものが、沿線の住宅地化であった。みごとに当たった。だが、たぶん、高齢化が進んでいるに違いない。これからの維持補修と世代交代が、この住宅地にどう響くか、そこがモンダイだなと思いながら、高台の突き当りから、山道に入る。すぐに高台の上に出て、振り返ると、住宅地ばかりか、その向こうに広がる関東平野を見渡すことができる。筑波山が孤高を誇る。そのずうっと左に、三毳山が先端を飾る。足利の山、鹿沼の山並みがそこから北へと連なる。今日は、空気が澄んでいて、スカイツリーも東京のビル群も、くっきりと見える。昨日の雨が幸いしている。

 森の中を抜け、斜面を登って、40分ほどで多峯主山につく。数人の人がいる。富士山が白い頭をのぞかせている。南へ目を転ずると、スカイツリーから東京タワー、ビル群がにぎやかにスカイラインを縁取る。

 と、髭の爺さんが現れ、ほらっ、あの手前の光ってる白い丸い屋根、あれが西武ドーム、所沢よ。その右の向こうに黒っぽいビルが二つ並んでるだろ、あれが国分寺、42㌔向こうだ。そのずうっと先、ビルの向こうに雲が浮かんでるように見えるだろ、あれは房総半島、100㌔先だよ。鋸山とかさ。あの房総半島の足元が何だかよく見えねえだろ、ありゃあね、蜃気楼なんだよ。そ、この季節にしかみえねえ。風が強い。昨日は雨が降った。いい条件がそろったってわけだ。

 周りの山を、全部説明してくれた。姿のいい大山、丹沢山塊や大室山、手前の大岳山や御前山まで、ほんとに一望できた。

 地図をみると、次の久須美坂まで行くのに、舗装車道や住宅群を通らなければならないと思っていた。ところが、舗装車道を横切りはするが、見事に住宅群の脇をすり抜け、ほぼ山道ばかりを通って歩ける。その途次に、木の幹に「テンカク、はんのうアルプス」と、白いペンキで書き付けてあるのに出会った。それで、このコースを、この地の人たちが飯能アルプスと呼んでいることが分かったという次第。標高は200mから500m弱の山稜が十数㌔にわたって連なる。結構歩きでのあるコースであった。

 そうそう、舗装車道を横切ったとき、その車道からコースの山道に入るところに木柱があり、その脇の木に取付けた「竈門山 登山口」と記した手書きの標識があった。おや、と思ったのはその文字のまわりが緑と黒の市松模様。stさんの話によると、流行りのアニメの主人公の名にちなんだ「かまど」に誘われて呼び寄せられたようだ。

 久須美坂には標識の周りに石を積み上げてケルンのようにしてある。スタートしてから2時間、ほぼ想定した時間だ。そこから10分ほどで、木の祠をおいた小ピークに着く。小さく「久須美山標高260m」と書いた板が、脇の木にとりつけてあった。私の参照した地図には、これらの名前はなかった。5分ほど先に「久須(美)坂」と手書きした小さい標識があった。私の想定したコースタイムより15分ほど、多くかかっている。コースタイムを「想定した」というのは、私の参照した昭文社地図には、中間地点のコースタイムが記載されていないからだ。私の想定では5時間20分のコースであった。ところがあとで同行したykyさんが調べてくれたのは6時間55分。なんと、1時間半以上も違っていた。私の参照した昭文社地図は1995年版、ykyさんの地図は同じ昭文社の2012年版。そちらの方には地点名もコースタイムも、こまごまと記載されているそうだ。

 久須美坂と東峠の中間点にある竈門山への分岐点には、新しい標識が建ち、「かまど山(20分)」と記し、標高303mと丁寧な明記までしている。まるで聖地だね。

 暗いヒノキの樹林がつづく。アップダウンがくり返される。だが皆さんの歩行は、疲れをみせない。やけに遠いように感じた東峠に着く。コースタイムでいうと、3時間50分だが、30分早い。再び樹林にヒノキの踏み込むが、黒く焦げた跡が生々しい。火事の後のようだ。足利などの山火事を思い出した。どうしたのだろう。ここまでに4人の人とすれ違った。皆さん単独行。男性ばかり。

 25分ほどで天覚山に着いた。12時に5分前。ベンチがある。二人の60代後半らしい女性がちょうど立ちあがるところであった。どっちからきたんだっけ、どっちへ行くんだっけと話している。多峯主山へ行きたいという。指さすと、斜面が急だと騒いでいる。吾野駅から来たという。大丈夫だろうか。

 ここで、お昼。多峯主山で見えた遠景は、少し霞みはじめている。風が強くて冷たかったのが、少し収まったか。陽ざしを受けて暖かい。30分も過ごした。ヒノキの樹林はつづく。西川材の山地らしい風情なのだろう。南北の稜線を、ところどころで横切る舗装車道も、もとはと言えば木を伐り出すのに用いた林道だったのかもしれない。コースタイムより10分早く大高山493mに着いた。13時37分。歩き始めて5時間30分ほど。当初の歩行時間を過ぎている。今日の最高地点だ。小さいが立派な石の標識が立つ。休みもせず、次へと向かう。

 35分ほどで前坂峠に着く。コースタイム通りだ。ここから結構な急斜面の下りとなる。先頭のmzdさんはストックをつかってさかさかと降る。元気がいい。25分で吾野の墓地の脇に降り立った。等々と流れ出る山の水を、空いたペットボトルに詰めて駅へ向かう。コースタイム通りで駅に到着。

 今日の行動時間は6時間41分。お昼を除くと、6時間11分、コースタイムより44分ほど早く歩いた計算になる。大した足慣らし山行であった。

2021年3月3日水曜日

「どこも悪くありませんね」が、一転・・・

 さいたま日赤病院へ運動機能検査(負荷心電図)の結果を聞きに行った。検査日の2/15も、雨であった。病院へ行くときは今日も雨か。車で向かう。

 9時に受付の機械に診察券を入れ、何番窓口に行くか指示を受ける。みると、「心電図」をとることになっている。えっ、また?

 検査室前の椅子はどれもいっぱい。付き添ってきている人も多いから、皆さんが患者というわけではない。杖をついた人、車椅子の人、静かに待っている。血液検査をする人もいて、つぎつぎと検査室へ呼び出され、入れ代わり立ち代わり座る人は変わっていく。最初の時同様に、本を読んで待つ。心電図も、30分ほどで呼び込まれた。

 検査技師は「少し長くとってくれと言われてますので」と断って、心電図をとる。不整脈という、脈の途切れが、いつ、どのように出て来るかわからないからだろう。

 終わって、指定受付へ行き、診察室の前で待つように言われる。ここの前の椅子も、いっぱいになるほどの人が座っている。20分ほどで診察順番が表示され、部屋に入る。医師は、デジタル画面をみている。画面には私の名を記した、数値いっぱいの検査結果表が映し出されている。

「う~ん、何も問題ありませんね。どこも悪くありません。これまで通り、山へ行ってもいいですし、生活も何かに用心することもありません。」

「T先生にはこちらから手紙を送ります」

 と、ここを紹介してくれた循環器専門医である私のかかりつけ医の名を告げて、以上、終わり! であった。

 礼を言って退室。450円の診察経費を払って帰ってきた。病院の滞在時間は1時間半。ま、不整脈というのがそもそも、自覚症状がない、無症状の、ステルス病だから、それでいいのだが、なぜかちょっとがっかりしている自分に驚く。

 何かあった方がよいと思っていたわけではないが、ひと月半ほどかけて、3回も通った挙句に、「どこも悪くありません」では、通い甲斐がないってことか。病気の方がよかったのかと言えば、むろんそんなことは、ない。ヘンなの。

 雨が落ちてきたのは、帰って来るとき、ぱらぱらと、ちょっとばかり。風が強まっている。11時には帰宅していた。

 午後になって、本格的に雨が落ち始め、夕方に向けて風雨が強まる。家に当たる風の音がまるで台風のようだ。音だけ聞いていると、不安になる。

 だが、明日の山は「快晴」。行かざるべからずと、地図を打ち出す。緊急事態宣言が解除されれば、奥日光の雪の山にも足を運ぶから、たぶん今回が県内自粛山行としては、最後になるだろう。 

                                            *

 とメモした夜の8時半ころ、一本の電話があった。今日診察した医師から。

「心拍数に問題はなかったが、負荷心電図の波形がちょっと気になるので、追加検査をしたい」

 という提案。もちろん了承。わが心臓の不思議は、延長戦へ持ち込まれることになった。

2021年3月2日火曜日

行雲流水のごとき関係

 寺地はるな『水を縫う』(集英社、2020年)を読む。女の感覚からみた実存の心地よい関係を描いている、と思った。そう思うこと自体が、女性差別だ、ジェンダーだと言われるかもしれない。だが、そういう表現しか思い浮かばないのは、私の感覚の裡にどっかと座っている経験的に身に染み付いたセンスがあるからだ。如何ともしがたい。もしそれを対象として突き放してみるなら、標題のような「行雲流水のごとき関係」というほかないかな。

 実存の心地よい関係は、しかし、起点に個体の自律がなくてはならない。言葉を換えていえば、それはたぶん、存在の軸というような確固たる勁さであろう。軸が勁さをもつまでの間に、異質性や孤立をものともせずに世の中を渡りゆく「かんけい」に係留されていなければならない、個の形成の不思議があるのだが、この作品は、それらは前提にされて、話しがはじまっている。つまり、(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台で、さらに実存の心地よい関係を紡ぐ物語が展開している。

 起点にある個体の自律が、社会関係のなかに己を位置づけることができ、生計を保つにあることは、いうまでもない。そこに到達するのが、今のご時世、ずいぶん大変なのだ。水を縫うどころか、わが身が水の一滴となり、地肌の凸凹に翻弄されるがままに奔流となって流れ落ちてゆく。なぜ、どこへ向かっているかもわからないまま、気が付いてみると、すっかり流れのクセに染まり、わが身がなんであるかさえ問うこともできないところに流れ着いている。

 寺地はるなは、しかし、実存の心地よい関係を紡ぎだすのは、己自身を見つめる勁さをもつことからはじめるしかない、と訴えているのかもしれない。個体の自律が、最初から確固たる形をとって実在するわけではない。それを実在させるのは、わが身の持ち来った感性を、まず己自身が受け容れること。それが、その個体の自律を受け容れる関係をかたちづくる核となり、結晶となる。人のため、世のためという言葉は核にもならなければ、軸にもならない。

 では、どこに女性差別だ、ジェンダーだと言われるかもしれない「女の感覚からみた」ことが出ているのか。自律した個体の特異性に対する世の中の「偏見」に基づく攻撃が上手に躱され、物語から遠ざけられている。そして、受け容れられている。その受容のセンスの広まりは、たぶん「女の感覚」だと私の経験則が感知している。女も男もないではないかといえば、まさにそうであるが、焦点の合わせ方が「受容」の方に傾くときに、その周縁の「排除・排撃」に傾く動きを注視しないではいられないのが「男の感覚」と感じているのかもしれない。水の流れが従う地肌の凹凸こそが、水を縫うときの主たる課題になるのではないかと、私の関心は傾く。

 だが、実存の心地よい関係は、ほんの身の回りの些細なことへの心配りからはじまる。個体の自律が起点になる。それは、たしかだ。そういうイメージが静かに広まるのは、市井の身のこなしとしては、大切である。そういうセンスも、捨てがたい。そういっているように響いた。

2021年3月1日月曜日

どこまで行けるか

 2月が終わって、書き落としていたことがあった。平地を歩いてどこまで行ったか。

 1月は、1日平均11km歩き、おおよそ名古屋の手前まで行った。2月は平均10km、280km余。1月と合わせると、620kmほどになる。東浦和から東京を経て西向かうのは、わが身の心の習慣が然らしむるもの。何と、大阪を越え、神戸も越えて、鷹取まで行ったことになる。鷹取ってのは、須磨の海の近くにあるJRの駅。東浦和からの距離も、鉄道の路線距離を採っている。

 山歩きと同じで、毎日コツコツと11km、10kmと歩いていれば、そこまで行けるのだと、あらためて人の歩く力の強さに感心する。それが、ホモ・サピエンスとしては十万年ほどかけて、この列島に住まいはじめてからでも、何千年と掛けてここまでやって来たのだと思うと、わが身に堆積する径庭のすごさに感心してしまう。それを受け継いで、21世紀の2合目の最初年のふた月で620kmやって来た。自粛して埼玉蟄居を決め込んでいても、このくらいの受け継ぎをして歩くことができている。たいしたものではないか。

 昨日、歩きに出ようとしたら、上の階にお住いの方が買い物から戻って来たところに出くわした。杖を突き、もう片方の手で手すりをもって肩で息をしている。この方は、何年か前に大腸がんの手術をしてから、急に体が弱ってきた。奥さまも病弱で、外へ出かけられない。86歳になるか。

「何かお手伝いできることってあります?」と訊ねる。

「じゃあ悪いけど、この肩の荷物、家の前の置台にまでもっていってくれる?」

「ええ、いいですよ」ともっていき戻ってくると、少しばかり世間話をするようになって、20分ほどお喋りをした。

 印象深かったのは、「どうして親に、も少し楽をさせてやらなかったのかって思いますね」と慨嘆したこと。息子が親のことを心配しないという話から、わが身を振り返ってみると、40代、50代のころは仕事やわがコトに夢中であったことに思い当たった。親を気遣うようになったのは、還暦を迎えたころからだったと、おおむね私の辿った径庭と重なる。

 親の世代から良くも悪くもだが、多くのものを受け取り、その受け取ったものを紡いでわが人生をつくって来た。それが、いかに多くのコトの受け渡しをしているか。はたしてそれを、子や孫の世代に手渡したろうかと、思いは跳ぶ。この齢になってはじめて、振り返るってことをする。すると、人類史が、今この身に堆積してきていることが実感できる。ありがたいねえと思うと同時に、しかしそれにしても、ラッキーであったと「無事であったこと」に感謝する心持ちになる。

 こういうのを、保守化するっていうのだろうか。いや、ちょっと違うな。ヒトが作為的につくり成すことって、実はそう多くはない。だが、前々の世代から受け継いできたことが、図らずも人為の結果であったことも、考えてみれば、おのずと腑に落ちる。そうしたことの、総集が、今現在の私であり、お隣さんだと感懐を深くした。

 これから後の毎日も、歩き続けるだろうかと、他人事のように考えている。

 たぶん、3月7日に「緊急事態宣言」は解除される。となると、県外の山も視野に入り、泊りの雪山も計画山域のなかに入ってくる。じつは、山歩きがハードに入ってくると、日々の歩きが少なくなる。身体が草臥れてくるのだ。一緒に歩く山友は少なくなっているから、単独行となる。おのずと慎重になり、山行自体を控えることにもなる。そういう選択が、間近に迫っている。

 そうか、そろそろ啓蟄か。わが身の裡の、肚の虫ももぞもぞと這い出して来そうだ。さて、どこまでいけるか。しばらく、歩行距離の記録をとってみよう。