2021年3月28日日曜日

「かんけい」の気色(2)表象的な跳躍

  書こうと思ったことと書いたことが違ってしまうことはよくある。ついつい書き落とした文章に引きずられて、脇道に逸れてしまう。そちらの方が面白いと思ったり、書こうと思ったことを失念したりする。しかし、それはそれで(当人としては)触りはない。

 今日は、脇道に入る。

 昨日《はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている》と書いたことについて、思い浮かんだこと。

「はじめに言葉ありき」という旧約聖書の言葉を、言葉で伝え遺す(書き記す)には、最初にクリアしなければならないハードルだと考え、「ことばの起源」に関する問いを封じてしまうために書かれたことと思って、長く過ごしてきた。だがちょっと違うのではないか、と昨日、考えていたのだ。「はじめに言葉ありき」というのは、じつは、ヒトが自らの生長を振り返ってみたときの実感ではないか。旧約聖書は、メソポタミア地方で発見されたギルガメッシュ神話の焼き直しではないかと、誰かがどこかで論じていたが、神々の世界から現世を語ろうとするとき、その語り伝える「ことば」というメディアがいつどこでどのように誕生したかに触れないで、創世記をかたりだすことはできない。その壁をクリアするための作法として、「はじめに言葉ありき」と枕を振ったのであろう。つまり昔話の冒頭で「むかし、むかし、あるところにじいさんとばあさんがおったとな」と枕を振るのと同じようなものなのだ。

 だが、わが身に引き寄せてみると、ふと自我が芽生えたとき、やはり「はじめに言葉があった」と前提して、自己認識を、つまり「せかい」認知をすすめていたことに、振り返ってみて気づく。そうか、そういうヒトの実感と深く結びついているから創世記への信仰がはじまるのか、と思った。

 そう考えてみると、エデンの園の物語も、生長実感を対象化してみたとき、腑に落ちる。エデンの園で暮らすというのは、「せかい」のすべてが「われ」であり、「われ」のすべてが「せかい」という、まるごとすべてが一つになって不可分になっている混沌の世界である。つまり、大人に保護され、自他の区別も意識することなく、我が儘に振る舞っている幼い子ども。アダムとイヴのように裸であることに何の不都合も感じていない。それが智恵の木の実を食べて、「裸であることが恥ずかしくなった」というのは、神と「われ」の「分別」が生じたことを意味する。となると、思春期から後の「自我の芽生え」に相当する。神は保護者=親に相当するか。木の実を食べるようにすすめ、「邪悪」とされた蛇は、今で言えば「学校の教師」である。とすると、教師が「神:親」に反して「邪悪」なことを生徒に吹き込む役割を担っているのは、昔から世界的当然であったのに、今はそんなことも忘れてしまっている? 

 エデンの園を追われ、食べ物を自ら手に入れて生きていくという物語りは、成長物語であり、そうした物語に身を浸すことによって、「せかい」の連綿たる繋がりに位置していることを意識して伝えていることになる。なんだ、旧約聖書はオレの物語じゃないか。そう実感するところが信じる起点になる。

 これは「かんけい」の気色である。創世記という神話の世界が、具象的な我が生長記とかさなる。つまりこの見事な、表徴的な跳躍が、ヒトのクセ。良いとか悪いとかすぐに決めずに、神と蛇の位置づけを考えると、ヒトの生長の絶対矛盾的自己同一が表象されていることがわかる。良いとか悪いとか決めるように読み取るのは、神を守ろうとする側の組織防衛の観点が強く入り込むからではないか。つまり、教会組織の自己防衛意識がものごとの善悪を剔抉し、善を了とし悪を排斥する志向に転轍してしまうからだ。善悪二元論的に考えるより、善悪どちらも包含する中動態的に考える(昔日の)思考法に戻れば、ヒトの具象的な一体的とらえ方に通じる道が開かれる。

 ヒトの「かんけい」の気色をみるとき、中動態的であることが大事なのは、ことにデジタル化の現代社会において、「イェス/ノー」という色合いをはっきりさせることが社会的な通常文法となって、優柔不断なヒトを追い込んで生きづらくさせているからである。はたして、AIは、この中動態的なニュアンスと表象的な跳躍とを上手に読み込んでくれるのか。おやまた、脇道へ入ってしまったかな。

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