今日は3・11。ラジオで十年祈念番組を聴きながら山へ向かい、軽く歩き、今帰ってきて、これを書いている。ラジオでは、「どんな災害対策をしていますか」などとやりとりをしている。果て私は何をしているかと思ったとき、まず何をおいても一番大事な災害対策に、これから向かっているのだと思った。体力をつけていること、だ。
十年前の今日、池袋にいたカミサンから最初の電話が入った。午後3時半ころではなかったか。地震発生と同時にデパートや駅から締め出された人たちが街路に溢れ、ラジオで鉄道が運行しないらしいと知って、どうしようと電話をしてきた。「歩いて帰って来なさい」というのが私の判断。池袋からなら20kmくらいか。悪くても、5時間か6時間で帰宅できると踏んだ。荒川を渡ったところで電話をすれば、車で迎えに行くとも考えていたが、これは、東京へ向かう車、東京から外へ出ようとする車の渋滞で、とても適わないことと分かった。結局帰宅したのは、10時半を過ぎていた。電話をしてからでも、7時間歩いたわけになる。当日のブログに私は、《「避難民」が自力で歩いたという「武勇伝」》と題して、そのことをこう書きつけてある。
《いずれにしても、誰にも頼らずどう帰宅するかと考えたことが一番大きかったとカミサンは振り返る。約20キロ、4時間半の歩き、終わりの方でバスが来て乗ることができ、30分くらい短縮したという。同じ方向へ歩いている人も多く、ガソリンスタンドのトイレは空いていて、コンビニで水は手に入った、気温は低かったが歩いている分には寒くはなく、ほとんど心配なく歩きとおせたと、達成感に満ちた顔をしていた。ふだん山歩きをしているおかげだね、と思った。》
つまり、一番の災害対策は、まず元気に歩けること。その力を十年保ち続けるのは、後期高齢者から末期高齢者に差し掛かる年齢のものにとっては、たいへんなこと。水だトイレだラジオだのということは、その次に考えることになる。とくに災害でなくても、ひとたび怪我をしたり事故に遭ったりすると、生活必需品の調達やらは、ほぼ「災害」並みにのしかかってくる。そう思うと、まず、体力をつけて自力で生活できるようにしておくことを心掛けなくちゃあってことになる。
今日は、山の会のkwmさんが教えてくれた竹寺から子の権現へ往復する3時間半のコースへ、散歩気分で行ってきた。12時前には出発点の竹寺に帰着し、そこでお昼を食べて帰ってきた次第。第33番札所から32番札所をめぐって来たことになる。ルートはいかにも巡礼の道らしくよく踏まれており、案内標識もしっかりとつけられていて、静かであった。
ま、そのことはまた後程記し置きたい。天気に恵まれ、汗をかくほど暑くもなく、振るえるほど寒くはない。快適な春の里山歩きであった。
オリンピックを「復興フクシマ」と名づけて浮かれている人は、何処にいるだろう。そう口にした元宰相自身も、すっかり忘れてんじゃないか。彼等の軽い口ぶりを耳にするごとに、「復旧も復興も」損なわれていくような気がしたものだ。
政府主催の「追悼式典」が、まもなく行われる。いやだねえ。地震や津波以上に、原発のもたらした結果を振り返ってみると、残滓が、文字通り積み残されたままだ。汚染水も、汚染土も、そのまんま歴然として「状況」を表している。それに気づかぬふりをして「ことば」だけが躍っている。そちらの方は、毫も傷まなかったみたいだ。
自助しかないとしたら、♫年寄りよ、躰を鍛えておけ♫
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