2021年3月21日日曜日

怪力乱神を語らず

 高島哲夫『乱神』(幻冬舎、2009年)を読む。この作家、私の末弟の高校の同級生。いつであったか、東京で開かれた高校の同窓会で紹介されて知った。末弟が7年前に亡ったときにも、葬儀に駆け付け、次弟とともに通夜を一晩飲み明かしていたことを憶えている。図書館の書架で見つけて借りてきた。

 面白い素材設定をしている。鎌倉時代の二度の元寇のことは学校でも習った通り、「神風」が吹いて難を逃れたと思ってきて、それ以上どうやって元寇をしのいだのかを考えたことはなかった。考えてみれば、「神風」なんて、まるで神話の話しのようだ。加えて、それがほんとうに信じられていて、冷静に考えてみれば勝ち目のないと分かっていた太平洋戦争への突入に一役買ったのだとしたら、日本文化のもっている内と外との確執の扱い方はまるで合理性を欠いていて、負けを承知でメンツのために勝負に出るという気質の故だったと、思わないではいられない。

 高島哲夫はそこに目をつけ、元寇を改めて西欧合理的なセンスで見つめてみようとしたわけだ。そのためには、「怪力乱神を語らず」という舞台設定をして、元寇と鎌倉時代という武家社会初期の武装集団の気質と、当時の人々の暮らし方、振る舞い方に背景を求めてお話を構成することになった。その視野に収めている人々の在り様も、60年以上も前に私たちが学校で教わった日本史の時代解析と異なり、1980年代以降の新しい歴史観を動員して書きこんでいるのが、好ましい。

 彼のとりあげる西欧合理的なセンスというのが、13世紀のそれというので、十字軍と重ねている。西洋史でも、その宗教性よりは武装強盗集団という特徴を浮き彫りにしてきたが、高島哲夫はそこをぐっと我慢して、「神の軍隊」というタテマエを貫き、そのために、絶対神と八百万の神の対立構図を前に「神の軍隊」の信仰が、西欧近代の国民国家の軍隊的なモチベーションに組み変わるかたちにすることで、凌いでいる。当然のように、それに対する北条執権のタテマエをお家の持続という次元にとどめておくことができない。そこをどう乗り越えるか。ま、ま、活劇物とおもって、お楽しみにお読みくだされ。

 作家というのは、ご苦労さんだ。虚構の物語を仕立てるにも、宗教性の違いや社会習俗の習い、その時代に広まりつつあった風俗習慣の要素を、一つひとつ検証しながら採用しなければならない。つまり、いろいろな学問分野の成果を組みこまないでは、単なる空想も成立しなくなっている。どうして? だって、情報化社会だもの。読者の方が、しっかりと時代背景や世界の動きを周知しているから、そこを誤魔化してはただご笑覧するオハナシになってしまうのだ。

 でも、そうはいっても、読者は今様のモンダイ・イシキでとりかかるから、その辺りが、そこそこ、まあテキトーに設えてあれば、勘弁してもらえるともいえる。作家への誘惑だね。エンタメというのは、三谷幸喜風にうんとテキトーな作りでもして、オワライに仕上げなければお目汚しにしかならないからね。

 怪力乱神を語らずを肝に銘じてとりかかっているのが、面白かった。

 ひとつ、気になったこと。怪力乱神に「かいりょくらんしん」とかなを振っていた。私は「かいりきらんしん」と思っていたから、日本国語大辞典を引いた。「かいりき」の登場は明治22年の文献からの引用だ。他方、「くゎいりょく」は太平記や雑排・柳多留で用いられている。「かいりき」は、新しいのだね。そういうチェックが行き届いているのも、好ましい。

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