2021年3月9日火曜日

うまく生きられない人の在処

 重松清『ひこばえ(上)(下)』(朝日新聞出版、2020年)を読んだ。読みながら、一人の古い友人・Kのことを思い出していた。いま彼が生きているのかどうかは、知らない。

 中学・高校の同期生。Kが同学年にいることを知ったのは、中学2年の秋。文化祭で菊池寛の「父帰る」を上演したとき、Kが父親役をやり、私が長男役をやった。落ちぶれて帰って来た父親の、力が抜けたひょうひょうとした雰囲気を醸し出して好演であった。また、3年の時、岡山の声楽の県大会で優秀賞をもらったというので、全校生を運動場に整列させて、Kが校舎の二階の教室から運動場に向かって歌を歌ったのも覚えている。その声量の力強さに感心し、面白いヤツだと思っていた。

 住んでいた瀬戸内海に面した町は、小学区制で高校は一つしかなかったから、高校も一緒であった。たまたま大学も一緒になり、サークルもなぜか同じところに入ったから、卒業するまでいつも視界に入っていた友人であった。

 新聞の編集という硬いサークルであったが、彼はもっぱら会員が集まる場の和ませ役を買って出て、皆さんの気持ちをとらえていた。浅草で仕入れたのであろう一発芸や瞬間芸を交えて披露して喝采を浴び、アドリブの言葉を加えて、なかなかの芸達者ぶりを発揮していた。彼の綴る即興の短いエッセイは、なかなかの味わいがあった。後にテレビにタモリが登場してきたとき、ああ、Kならタモリと伍すことくらいできたかもしれないと思ったものであった。

 卒業後彼はI映画に入り、助監督としての道を歩み始めた。だが、3年と経たないうちに辞めることになってしまったのではなかったか。任された映画製作チームの金をつかいこんでしまったのだ。その始末のためもあり、また仕事を失った後のやりくりもあったのであろうが、サークルの先輩、同輩から借金し、高校の同窓生からも借金し、川越に住んでいた私の処にも借金をしにきて、私はKとは縁を切った。1966年か67年のことであったと思う。半世紀以上も昔のことだ。

  卒業後に、高校や大学の同窓生が集まるごとに、Kはどうしてる? と私は聞かれたものであった。中学・高校から同窓、大学で同窓、の友人とみられていたのであった。聞く限り、誰も知らない。Kはどうしているだろう。

 重松清の『ひこばえ』に登場する主人公は55歳になる父親。グレードの高い老人ホームの所長をしている。この主人公の実父は、幼いころに両親が離婚して以来、会っていない。記憶もほとんど、のこっていない。再婚した養父を「おとうさん」と呼び、それなりに感謝してきた。その養父も他界している。そこへ、実父が亡くなったと廻り回った知らせがあり、縁者として後始末の世話に向かうことになったところから、この話ははじまる。

 重松清は、もっぱら子どもの成長物語を書いてきた。今回は、老親と息子という関係と、元気に老いるということの困難さとを主題にして、世の中の移ろいと年老いてゆく父親と息子の関係に焦点を当てて描きとる。重松らしい、人間関係における視線の柔らかさと取り出される「かんけい」の穏やかさが、失われた社会の何であったかを、行間に問うているように思えた。

 彼のとりだした老親というのが、うまく生きられなかった人だ。ついつい借金をしてしまう。身の回りの始末がきちんとできない。わが身のことに気持ちが執着して、周りの人たちの迷惑が見えない。つまり、他者への心遣いがいつも必要とされる日本社会の、人の関係に馴染めない人たちが、とどのつまり孤立し、世を去っていくとき、いったい何を軸に生きて行けばいいのかを、取り出して見つめようとしている。この、うまく生きられない人という重松の焦点の当て方こそが、世の中を見るときに欠かせない視線だと、まず思う。だが同時に、果たして今のご時世に、重松のとらえているような「うまく生きられない」程度で、妥当なのかと疑念が浮かぶ。もっと現実は、苛烈なのではないか。「うまく生きられない」ことは、もっと激しく弾き出されて身の置き所を失い、おろおろと埒外に放り出されているのではないか。

 だから私は、「失われた社会の何かを、行間に問う」ていると思えたのだ。柔らかで穏やかな在処を切りとりながら、辛うじて「うまく生きられない人」を組みこんでいる社会関係にこそ、「希望」があり、いまこそ、そこ(という己の内側)へ手を差し伸べて考えみようではないかと、重松は静かな声をあげているのではないか。

 重松はいつも希望を取り出して、物語を終える。それは自分たちの時代には辿りつけるかどうかわからないが、でも、孫・子の代にまで点しつづける灯りは(社会の片隅に、いまも)ある。そう、言わないではいられない重松の心もちが残響として私の心裡に響いている。

0 件のコメント:

コメントを投稿