知り合いの友人の話し。つまり私は、間接的に耳にしたことですが、そういうことってあるだろうなという、そこはかとない共感と、でもそれって、どこから起こってきているんだろうという疑念とが、ともに浮かび上がってきた。
その友人は、膝関節の手術をして入院と、少し長いリハビリをすることがあった。ところが、入院が長引くにつれて、自分の内側で「怒り」が湧いてくるのを、恐ろしくも、とどめようがないことのように感じたというのである。その「怒り」は、世話をしてくれる看護師さんとか、療法士さん、部屋の掃除をしてくれる職員さんとか、事務方の方面で顔を合わせる職員さんなど、落ち着いて考えると「怒り」をぶつける相手ではありそうもない人に対して、ものすごく腹が立ち、この人たちが寄ってたかって自分に意地悪をしているように感じられてしまったそうだ。
そういうことってあるだろうなと、まずは、共感した。
逼塞するってこともそうだが、怪我をして手術し、療養しているというのは、医療の保護を受けているという冷静な文脈にわが身があるという構図を、身も心も承知しているからである。この、承知しているというのは、じつは「思い」が、ちょっと自分を抜け出してわが身の置かれている立場を俯瞰するような、超越的な視線をもってみている。ところが躰は、思うに任せない。動くと痛む。ムリをすると転んだり、さらに起き上がれなくなったりして、動きが取れなくなる。つまり、ひざを痛め → 施術をし → 術部が落ち着くまでは大きな動きはできず → さらに寝込んでいる何日かの間に筋肉は衰え → 安静に、かつ、ぎりぎりのところまではリハビリのトレーニングをしなければならない。そういう事態におかれていることは、冷静になればわかりはするが、躰は不如意が募り、得手勝手が利かず、介助・補助がなくては思いが達せられないもどかしさに、置かれ続ける。
そこに「怒り」が発生しているのではないか。
身と心というと二元論的だが(仮に分けて考えると)、普段、躰と思いとがいつも一緒に歩いているわけではないのだね。どちらかが、どちらかに合わせる。あるいは、無理をさせる。そういうバランスが、日頃絶えず、微調整されて、やりくりをしながら、世間の諸事難局を渡ってきたというわけだ。あるいは、こうも言えようか。躰と思いが、どちらも固定的ってわけではない。どちらも揺れ動き、移ろい変わる。その変わり目のモチーフに、このバランスが顔を出して、少しは無理をしているうちに他方の言い分を聞き入れ、別の方のやり方をひとまず受け容れているうちに馴染んで、移り変わる。そういう「かんけい」の一束が、人柄として外へ滲み出してくるのかもしれない。
病院での手術・加療という(病む者にとっては)絶対的他者の介入を受け容れはしたが、わが身が思うに任せないことまでは「預けた覚えはない」ってわけだ。つまり身の裡で繰り返されてきた「かんけい」のやりとりに、外部的な(しかも圧倒的な力をもった)作用が加わるから、その重圧というか、ストレスは、何処へもっていったらいいかわからない。冷静に考えれば、八つ当たりとしか思えない「憤り」が噴き出して、とりあえず近場の誰彼にぶつける。
かくて、バランス感覚は埒外におかれ、ムリをさせんじゃねえよ、えっ、こんなことが無理なのかよ、だらしねえなと、内部でやりとりでもしていればまだいいのだろうが、そんな自問自答が役に立たないのが、「患者」なのかもしれない。かくして外へ噴き出す。
となると、これは、病院だけの話ではなく、社会的な仕組みや変容がもたらす「適応要請」も、同じ外的な作用として、身に降りかかる。「憤り」「怒り」が湧き起り、何処へぶつけていいかわからない事態にあると、ふと気づくとき、誰彼にぶつける「憤懣」が犯罪となって噴出する。事件となって発生する。高齢者の犯罪が増えているというのも、ひょっとすると、適応できない社会的な変容にたいして、身と心のバランスが「異議申し立て」をしているのかもしれない。
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