2021年3月8日月曜日

厄介者の微細な信号

 このところ週1の山歩きと毎日2時間程度の町歩きを続けていることは、ご存知の通りだ。「疲れ」がどのように出て来るかに、気を向けている。「歩くのはしんどいな」と感じれば、ムリをして歩くことはしないつもりでいるが、まだそういう兆候はない。「疲れたな」と思うことも、今のところない。ない、のがいいわけではない。感度が鈍っている。表出の仕方が、変わってきている。

 山へ行った2日後、歩いていて、ふくらはぎの筋が張っていると感じたことがあった。右足の親指の付け根に軽い違和感。尿酸が溜まっている兆候。朝起きたとき、腰が定まらない。たぶんこれらは、「疲労」の証し。

 同じ日の夜中に、少し咳き込んだ。気管支炎を発症し始めていた(のだと思う)。寝ているときだったので、忘れていたのだが、朝、カミサンに言われて思い出した。これは、「疲労」が限界に迫っていることを示している。もちろんムリをするつもりはない。だが、午後になると歩きに出ようという気分になっていたので、どこへ行くともなく出かけ、ぶらぶらと歩いているうちに気分が乗ってきて、2時間半ほどになった。

 歩いているうちに感じるこうした「兆候」は、限界に来つつあるよという「疲労」の信号。若いうちは、これを超えればさらに強くなると考えて、負荷を掛け続けた。だが今は、「疲れ」を感じなくなっているとともに、回復しなくなってもいる。まして、強くなるという望みはない。

 体の調子の一つに、水分摂取の調子も加わる。山歩きはむろんそうだが、町歩きでも、水を持って出ることを忘れない。町は500㎜㍑、山はほぼ2㍑を持参する。歩いているうちに全部飲むわけではないが、夜寝る前までにほぼ全部飲むことを心掛ける。それが適正であったかどうかは、尿の色や排便の硬軟で見極める。毎晩呑むお酒の味わい、進み具合も、具体的な兆候のひとつ。「疲労」しているときは、お酒がうまくない。近頃は、あまり飲みたいと思わなくなった。焼酎半合にお湯500㎜㍑も忘れない。若い頃は、そういう気遣いをしないでも、体が感じて水分を欲し、いつしか摂取していたが、齢を取ると感度が鈍り、意識的にみていてやらねば、リミットを軽く超えて気づかない。

 微細な兆候に留意して、限界を踏み越えないように身をコントロールする。そうして、じわりじわりと衰えていく速度を緩やかにするしか、道は残されていない。そう考えて身を処すことが、目下、最良の選択。「己の欲するところに従いて矩を超えず」というのは、あくまでも欲望と社会的規範とのこと。身の感度と必要度との関係は、むしろ意識的にコントロールしておかねば、バランスを崩してしまうことが多い。それくらい、厄介者になったってことだ。

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