五十年来の私の友人がいます。77歳の喜寿。毎月1回便りのやりとりをしています。この方、かつては「エクリチュールの剰余」と褒め称えられた文筆家(ものかき)。中森明夫が絶賛する市井に身を隠す大隠です。便りはハガキの裏表にびっしりと細かい文字で書きこまれたもの。私が独り占めしていることに忸怩たるものを感じてきました。ほんの一片を、何回かに分けてご紹介しましょう。
2020年12月21日
「無冠」第53号、拝受しました。いつもながらの切れ味鋭利な思索活動寔に以って崇敬申し上げます、と言いたい所ですが、その褒譽の言はいまは一旦留め置きます。何故なら、今号のほぼ半分は明らかに手抜きと称すべく、SMなるどこの馬の骨ともすぐわかる人物の手になる手紙を羅列させて、慌しない年末を当紙面上でもやりくりしようとする魂胆見え見えのp1~p9でありました故。手紙というのはメールと違って書いた本人には下書きすら残っておらず、大抵は何をどう書いたのか忘れてしまっているものですが、馬の骨Sさんも例外たり得ず、復刻版をみせられて、「えっ、俺そんなこと書いたんだ」「まさか、そんなこと言ってるなんて」ってのが続々でした。そう言えばその一つですが、蜜柑の実は成りましたか。将来未完成? 桃栗3年甘吉年。それはそれとして、私信を本人の許可も得で世に晒すのは御法度だが、殊更に悪心私心を以ってのことではないので、なあに構うものかと穴埋め用に供したのでせうが、馬の骨なる人は自分の恥骨を晒されてどう思っていることでせう。「いかがなものか」とやんわりと原否定したのでせうか。それともCOPDのためただでさえ苦しい胸が更に疼いたのでせうか。御安心召されい。こう見えても馬の骨はそんじょそこらの犬、猫、鶏の骨の如き狭量ではござらぬ。斯様な三密駄文でも貴殿の助き働きのために御役に立ち申したと心得れば何のこれしき(※ここら辺我が「小説」の書き方に相似てきました)、「私信(*1)不私心之信(*2)」(*1手紙、*2朋友に信の信)。通信の自由は保障されています。それでは崇敬の念表明を解禁して、毎度の繰り返しで煩く聞こえるでせうが、月に一度と言いながら己が思索の奇跡を原稿用紙にすれば百枚前後も刻むというのは、幾ら頭脳の構造や回路が左様な仕様にできているとはいえ、ただただ畏敬の念を抱くだけです。来年もまた54号、55号・・・と続けるおつもりですか。老爺心ながら月に一度の生理のためにあたら体を、いや頭を壊さないようにと思っております。ところで、馬の骨の骨にこのところ滅法ガタが来ていて、肺気腫を元凶とするこの短期間での指数関数的なガタぶりは甚だしく、これまでは階段や坂道の息切れでしたが、今は普通に歩くのさえは勿論、家の中で何かするごとにすぐハアハアとなってしまうまでになってしまいました。そろそろ携帯酸素のボンベのお世話になるかもしれません。肺は心臓のペースメーカーのような小型代替物はありません。あるのはコロナで有名になったECMOのようなとんでもない装置だけなのが厳しい所です。ああ、そうそうハガキの表側の件、娘に訊ねたら、機械の読み取りの関係で半分が限度だと譴責されてしまいましたので、今回からそれに遵うことにします。
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